目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第54話 秘境


 ルビノが師匠について唯一……いや、ふたつかみっつめに理解のできない趣味を上げるとするなら、登山だ。


 メルメル師匠はときおり、なんの依頼もないときでも目についた山にふらっと分け入ってしまう習慣みたいなものがあった。

 前人未踏ぜんじんみとう、とかいう触れこみがついているならなおさら危険が高まる。

 目先の楽しさに流されやすい性格のメルなのに、わざわざ好きこのんで困難な道に踏みこむところは長年の謎でもあった。


「誰も見たことのない景色、吸ったことのない空気、名声を追ってどこまでも……どうしてこの浪漫ろまんがわからないのかなあ? 僕の弟子なのに。キュイスはよかったな、そのへんの話が通じて」


 ふうう、とメルは切なげな溜息を吐いた。


「僕も高いところが好きなけむりってわけじゃないけど、山や森に身をおくだけで、自然は大事なことを教えてくれるんだよ。君も大自然の神秘を満喫まんきつし、神の偉大さを感じるといい」

「とかいって、ときどきヤブにハマって動けなくなったりしてるじゃないっすか」


 痛いところを的確に突いたらしい。

 メルは「うっ」とうなって黙りこんだ。

 体が小さいことが有利に働くこともある。だが、その逆もある。

 ぴいひょろろ、と名も知らぬ鳥の鳴き声が、沈黙の間抜けさをよりかき立てるようだった。


「……それはそれ、これはこれ」

「何がどれで、どれがそれなんすか」


 メルは口の減らない、図体ずうたいも態度もでかい弟子の口に昼食の保存食を押しこんだ。


「人里離れたムニェカ山の山頂付近は幻獣たちの稀少な生息地だ。もし見かけたら手懐てなずけ方をおしえてあげるから、黙ってついておいで」

「はあ……」


 ルビノは気の無い返事をして、師匠が差し示す方向にそびえた、道とはとても言えなさそうな断崖絶壁だんがいぜっぺきを見上げた。なんだか散々な未来が見えるようで、ぞわぞわした悪寒が背筋を這い上がっていく……。



 *



 艱難辛苦かんなんしんくの末、メルとルビノは山頂にたどり着いた。

 快晴の空の下、絶景を堪能たんのうできるのは筆舌に尽くし難い苦難を乗り越えた者だけの特権だ。


「いやあ、景色がきれいだなあ。こんな風景が見られるなら、ここまでの苦労も忘れちゃうよね。地図を読み間違えたのが誰か、とか……」

「メルメル師匠……」

「とっておきのご褒美ほうびだよね。ねえ、ルビノ」


 足下の風景一面を覆い尽くす雲海を前に、メルは知らないふりをした。

 確かに風景は見事なものだった。

 宝石のように輝く夕陽が空と雲の境界線に沈んでいく。

 その刹那せつな、ひときわ強まる紅色が雲海の表面を輝かせ、白くたなびく煙を波打つ大海原へと変えていく。


「……仕方ないっすね、まったく」


 自らの足を動かし、苦労しなければこんな景色は見られなかった。

 それに、とルビノは思う。

 仏頂面ぶっちょうづらで絶景を眺めているメルが、何か別の考えごとをしているのは一目瞭然だった。

 その心のうちに何があるかは、人伝ひとづてに少しだけ聞いていた。

 もしも望めば、メルは誰にも何も告げずに、消えるようにいなくなることもできたはずだ。だが、そうはせずに、見た目だけはいつも通りに振る舞っているのだ。

 なら、水に流すべきなのかもしれない。

 中身は大人のくせに大人げない師匠のかわりに弟子が大人になったそのとき……。


「あれえ、兄さんら、どっから来たの」


 腰の曲がった野良着のらぎ姿の老人が、ふたりに声をかけた。

 何故、こんなところに人が? ふたりは仲良く首をかしげる。


「寒いのに大変だねえ、うちで茶でも飲んで行きなさいよ」


 指で示した方角には、畑と、つつましいながらも民家があった。

 煙突から煙が立ちのぼり、生活の営みが感じられる。


「おじいさん……まさか、こんな辺鄙へんぴなところで暮らしてるの?」

「そうだねえ、少し不便だけど、なんとかなってるよ。最近じゃ、麓から荷物を運んでくれる人もいるんだよ。ヒッポグリフ便、とかいって」


 誰が思いついた商売か、飼いならした幻獣たちが荷物や人を山頂まで、人の足で歩くよりよほど少ない労力と時間で運び上げてくれるのだという。


「……秘境、大自然の神秘……」


 ルビノはそうつぶやいて、がっくりと肩を落とした。

 メルも、これまでの苦労が水の泡になったようで、渋面になる。


「……でも、ヒッポグリフ便、ちょっと興味あるな……」


 帰りはヒッポグリフ便に下ろしてもらいますか、とルビノが訊ねると、メルは苦渋に満ちたような、好奇心でわくわくしているような顔をまぜこぜにして深く悩み始めた。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?