「あぁあ~……」
入っているはずのものが、ない。
一旦、袋の口を閉めて、いいやこんな失敗をするはずないと思い返し、また開けるが、やっぱりどこにもない。ないものはない。
しばらく打ちひしがれていたメルだが、そのとき「そこの方、お困りですか」と、心配顔の男に声をかけられ、顔を上げた。
年は四十そこそこといった頃だろう。腰に剣を帯びていたが、穏やかな物腰の好感がもてる人物だったので警戒を解く。
それに、離れたところに連れらしい若い女性が
女連れで無体は働かないだろう。
連れの女はマントで顔を隠しているが、
「護衛かい? 女性を連れて峠越えは大変だね」
「……えっ、いやあ、まあ。それより」
男はあいまいに言葉を
履いている靴の、片方の靴紐が痛んで切れてしまっていた。
いつもは替えの靴紐を鞄に入れておくのだが、それは現在、宿にある。
ルビノに口を酸っぱくして「出かける前に持ち物がそろっているかどうかを確認しろ」と言っている側の自分がみごとに忘れ物をしてしまったのだった。
「まいったよ。靴がこれだと、山道は足を痛める」
「やはりそうでしたか。よかったらこれを使ってほしいと彼女が言っていましてね……こいつじゃ代わりになりませんか」
男が差し出したものを見て、メルは微妙な表情を浮かべた。
「……なると思う」
「よかった、ぜひ使ってください」
物を置いて去って行こうとする男を、メルは呼び止める。
「お礼をしたい。君たち、峠の宿で一泊するんだろう?」
「いや――我々は、このまま峠を越えます」
「それだと夜になる。危ないよ」
男は何やら言いづらそうにしている。
事情がある旅なのだと察し、メルは荷物に手を突っ込んで、古めかしい金色のコインを取り出した。
「これを持って行くといいよ。売るとそれなりになるけれど、手放すなら目的地にたどりついた後にするといい。旅のお守りだからね」
「……頂いてもよろしいのですか?」
「どうぞ」
男は何度も礼を言い、去って行った。
*
峠の宿場町には十軒ほどの宿が立ち並び、なかなかの
軒先で、ずらりと並んだ商人たちが峠越えをしようとする旅人たちを呼びこんでいる。
手頃な宿を探していたメルは、意外な人物と顔をあわせることになった。
「おいおい、メルメル師匠じゃないか。
気さくそうに片手を上げてみせた赤毛の男は、オリヴィニスの冒険者、暁の星団のアトゥだった。
交通の
だが、タイミングはよくない。
「宿を探してるんだろう。それなら俺たちの泊まっているところにしろよ。ベッドが清潔で、看板娘が優しくて美人、おまけにな、近くの食堂の飯が絶品だ。……ところで、その靴はどうした?」
アトゥはニヤニヤしながら、メルの靴に目をやった。
お気に入りの革靴の片方は愛らしいリボンが靴紐の代役を務めていた。
明るい黄緑色の地に花の刺繍が細やかに施された絹のリボンは、かつて女性の……それも若い娘の髪を結っていただろうということは、アトゥでなくとも容易に想像できる。
「まあ、あとでゆっくり話でもしよう」
ふて腐れるメルを連れ、ふたりは宿に向かった。
広い食堂で夕食を摂りながら、シビルたちにひとしきりリボンのことをからかわれた。
メルは黙りこくったまま、ときどき食堂の中を見渡してみた。
いっぱいの客の中に、同業者らしき姿がちらほら見える。
だが、来る途中で出会った二人はいない。街の中でも見かけなかった。
すれ違ったのかもしれないし、本当に峠越えの最中なのかもしれない。
しばらくすると、
威圧的な黒い衣装に身を包んだ、見てくれだけは強そうな用心棒たちだ。
「食事中にすまないな。この二人を見なかったか?」
彼らはアトゥたちに似顔絵を見せてきた。
メルは似顔絵の片方に見覚えがあった。
靴紐を忘れたメルに声をかけてくれたあの男だった。
もう片方は……思った通り若い娘が描かれている。
「なんだい、
「駆け落ちだ」
用心棒ふうの男が答えると、シビルは楽しげに口笛を吹いた。
「いいじゃない。恋の逃避行なんてステキだわ。このおじさんもやるわね」
「笑い事じゃない!」
用心棒らしき男は怒りに顔を真っ赤にしている。
どうも、似顔絵に描かれた彼が手に手を取って逃げていた女性は、大きな商家のひとり娘だったらしい。
駆け落ちの相手は長年、家に仕えていた
親子ほども年の離れたふたりだった。
父親は怒りのあまり、娘を連れ帰らなければ護衛たちをみんなクビにすると
つまり、クビになるのは似顔絵を持ってやってきた目の前の連中というわけだ。
アトゥは追っ手の男たちを片手で追い払おうとする。
「残念だが、他を当たるんだな。他人の色恋沙汰に余計な口出しをするほど、俺たちは落ちぶれてないんでね」
まともな冒険者ならいくら金を積まれても、こういう手合いは相手にしない。
冒険者だってその日暮らしで、世間から外れた連中だが、どこかで線引きはしているものだ。
メルはこっそりと屈んで靴のリボンを外し、床に置いて靴底の泥を
それから、仲間に
彼らは三者三様に驚いていた。
「それは、お嬢様のものだ。こいつをどこで!?」
「ここから道沿いに一日半下って、沢に降りたところに引っかかっていたよ。足場が悪いから気をつけてね」
メルがそう言うと、男たちは矢も
「おいおい、なんで教えちまったんだよ、メルメル師匠……」
「まさか……。二人は反対の方向に行ったよ。運悪く、沢に落ちたんだと思ってくれたらいいんだけど」
アトゥは、それを聞いて上機嫌に戻った。
「よし、これも何かの縁だ。追いかけてって護衛でもしてやるか」
「大丈夫だと思うよ。ふたりにはこれを渡してある」
メルは片手でコインを弾き、受け止めた。
時折、遺跡から見つかる珍しいコインだ。
オリヴィニスでは魔物避けのアイテムとして親しまれているが、本来は敵の追跡から姿を隠すためのものだ。
今頃、ふたりは月あかりを頼りに手に手をとって……。
幸せな物語の結末に向かって走り去るふたりを思い浮かべながら、アトゥとメルは互いの杯を打ち合わせた。