突然こんな手紙を書いてごめんなさい。
一度きり会っただけの貴方に筆を取ること、とても迷いました。
でも頼める人はほかにいないと思いました。
なぜかしら、勘だとしか言えません。
この世界のすべてのひとがわたしの夢を馬鹿馬鹿しいと思ったとしても、あなただけは優しく
どうか一晩だけ、わたしの夢を守ってくださいませんか。
この知らせが、手遅れにならないうちにあなたに届くことを切に願います。
ソワル
手紙は人づてに運ばれ、オリヴィニスに届いた。
常宿であるかもめ亭に迷いこむまで、紙切れはひと月かふた月は大陸をさ迷っていた計算になる。
メルはすぐに荷物をまとめ、冒険者ギルドにも行く先を告げずに街を出た。
そこは人里離れた湿原だった。
吸いこむ空気までしっとりと濡れているような、そんな場所だ。
ぬかるんだ道は、やがて木道に変わる。木道の下は人工の
その先に目的の人物が待っていた。
白銀の髪を結い、若草色のドレスをまとい、長靴を履いて
髪の間から覗く長い耳は右側の先端が少し欠けていた。
メルはその立ち姿をしばらく眺めていた。
彼女は胸のあたりに置いた手のひらを、勇気を
ソワルはカンテラの明かりをこちらに向けた。
「……誰!?」
そして暗がりに立っている冒険者の姿をみつけ、ゆっくりと緊張を解いていった。
強張った女性の顔が、本来の、どこか少女らしい無邪気さを秘めたそれへと変わっていく。
「メル、来てくれたの?」
メルはうなずいた。
*
ソワルが《種》を握りしめ、故郷を離れたのは十七歳のときだった。
以来ずっと、土に触れて種を植えながら暮らしてきた。
彼女が
故郷ではその実が不老不死の霊薬になると噂になり、同じ重さの金で取引されるほどだった。
「噂は噂、この花の実にそんな力はないの。里では数えきれないほど咲いていたのよ。たぶん、条件があえばたくさん咲くんだわ」
ソワルはメルのカップに暖かいお茶を注いだ。
茶葉に花の香りを移した花茶は、蜂蜜なしでも甘い香りがする。
「あるとき、お隣の領主様が、奥様の産後の肥立ちが悪いと言って実を求めて来られたの。少しだけ分けてあげたのだけど、病は治らなかったわ」
ほどなくして領主の妻は死に、この世を去った。
激高した領主は湖沼に汚泥を運ばせ、更地に変えてしまった。
時が経ち、両者が和解しても、枯れた花が再び根づくことはなかった。
ソワルは再び花が咲く姿を見るために、遠い土地で日々土を改良し、清浄な水を引きこんで、花が根を張るのを助けている。
メルと会ったのは、ソワルが食料や資材を調達するために村まで出向いたときのことだった。
そのときはまだ花は根づいてもいなかったが、今、木道の周囲は高く真っすぐ伸びる茎と丸い葉で覆われていた。
それも、メルの背丈の二倍はある。
「ようやくつぼみがついたのよ。きっと、今夜開くわ」
ふたりの頭上に、ひと抱えはありそうな桃色の蕾がある。
たっぷりと月の光を全身に浴びている。
じっと待ち、明け方近くになってようやく花弁が開いていった。
まるで傘のように、大きな花が咲きほこる。
涼しい風に揺れる花弁は、染まる乙女の頬と同じ桃色だった。
「木道をもう少し高いところにつくれば、花の形がはっきり見えるんだけどね」
メルは首を横に振った。
「この花がたくさん咲いているその下を、散歩してみたいな……」
この花の季節は短い。
一夜で花が落ち、実をつけるので
ふたりで花を見上げていると、ぱしゃり、と水のはねる音がした。
「……今すぐ、ここを離れるんだ」
メルが緊張した声で言うと、ソワルはうなずき、バスケットを持って走りだした。
湖沼を渡る風に乗って、人の気配が届く。
どれだけ姿を隠していても、かすかな吐息と足音までは隠せない。
メルはすらりと短剣を抜いた。
ソワルの必死な声が、背後から投げかけられる。
「流血はだめよ、花はものすごく繊細なの。実がつかなくなる!」
その台詞が終わるか終わらないかのうちに、メルに向かって矢が放たれた。
まだそこかしこに残った薄闇と、無数に茂った蓮の茎のせいで、敵の姿は見えないはずだった。
しかし、まだ子供にしか見えない少年は軽々と矢を避けてみせた。
というより、矢が放たれる前に動きだしていた。
木道の上を走ってきた剣士が大きく武器を振りかぶり、メルに叩きつける。
その刃を、短剣で受け止める。
メルは片手でマントを脱いで、振り回す。
鈍い音がして、死角から襲おうとしたべつの男がのけ反った。
石が仕込まれている音だ。
男が怯んだそのとき、追い打ちとばかりに、メルのブーツが顔面にめりこまれた。
敵に囲まれても、メルは落ち着いていた。
背後から襲われても、びくりともしない。
屈んで攻撃を避けると、背中を向けたまま肘をうしろに突き出した。
肘はしたたかに腹を打ち、うめき声が聞こえてくる。
地面に手を突き、両足を持ち上げて胸と腹を突き上げる。
さらに足で相手の首を両側から挟み、しっかりと絡ませる。
くるりと体をひねれば、大人の体が簡単に木道の上に叩きつけられた。
そのまま締め上げられて、敵は気を失う。
あっという間の出来事だった。
あとは、最初に矢をはなってきた射手ひとり。
「メル!!」
ソワルの悲鳴が響いた。
燃え盛る魔法の炎の球が、まっすぐに咲いた一夜花に向かっていった。
かばうように炎の球を受け止めたメルの半身は煙を上げた。
服や鎧が焦げて穴があき、直接炎で
*
冷たい水でしぼった布を当てられ、メルは歯を食いしばり、痛みにじっと耐えている。
「ひどい傷よ……」
あの射手は魔法使いでもあったらしい。
今は、メルが投げた棒状の武器がみごと後頭部に当たり、昏倒して仲間たちといっしょに倒れている。
「大丈夫。街にもどったら、治してもらうから。……それより、もう行くんだろう? かれらのことは僕に任せて、人に見られないうちに出たほうがいい」
ソワルとメルのことを、心配そうに見つめている視線があった。
年配のエルフと、子供がふたりと、若い女性。
荷車に荷物……土や肥料を積んでソワルを待っている仲間たちだ。
一夜花の実は高価すぎた。
どこかでその花が咲いているという噂が広まれば、すぐに先程のような、種を奪おうとする
それで、彼女はひとつ所に留まらず、正しい栽培方法がわかるまで旅を続けているのだった。
「力を貸してくれて、どうもありがとう」
薄い金色に輝く実を一粒、小さな袋に入れ、革紐で結んでメルの首にかけた。
ひとつの花からたった六粒だけ取れた実のひとつだった。
「これは受け取れないよ」
「いいの。わたしの夢をあなたの行く先に連れて行って」
「……君の夢は?」
ソワルは遠い目をしていた。
「あのね、どうしてこんな危険な目にあってまで、って思うでしょう? でもね、弟のことを考えると、ふしぎな力が湧いて来るの。この実を砂糖漬けにしたお菓子が大好きだったのよ。幼くして、病で亡くなってしまったけれど……」
メルはじっと考え、微笑んだ。
ソワルは残りの種子を大事そうに抱いて屈むと、メルの
彼女たちここから北に、湿原を余らせている土地があるという噂を頼りに、そこに向かうという。
メルは遠くなる一行と、何度も振り返るソワルの姿が見えなくなるまで街道に立ち、見送った。