勝利の余韻よいんを味わう間もなく、彼らは決断をせまられていた。

　目の前には全身を赤い鱗うろこに覆われた大型の爬虫類の亡骸なきがら――ドレイクのそれが二体、そして、背中に矢を受けて倒れ、気を失った仲間が一人いる。

　そして戦闘領域のすぐそばに、毛深く獣の顔をした魔物、コボルド――それも尋常ではない数の大群、しかもその背後にはハイオークの影までもが控えていた。

　一瞬で下されなければいけない決断だが、そこにはたくさんの難題が抱えこまれていた。

　まずは、味方は全員消耗し、物資が残り少なく、倒れはしなくとも体力は限界だということ。

　そして傷ついた仲間を連れて、俊敏しゅんびんなコボルドたちを相手どり、《オリオの門》最深部から地上に戻ることはほぼ不可能だということ……。

　取れる手段は二つだった。

　仲間を見捨てて逃げ戻るか、それとも。

「火の精霊よ！！」

　ルビノは両の拳こぶしを打ちあわせた。

　赤銅色をした手甲が火花を散らし、拳が炎をまとう。

　熱と光に照らし出された若者の横顔は、既に何がしかの結論をつかんでいた。

　気迫と共に拳を地面に突き立てる。

　精霊の加護は祝福となって地面を砕き、激しい震動を生みながら大地を伝わって敵の最前列を衝撃波と燃え上がる炎とで薙なぎはらった。

　わずかの隙に、ルビノは意識の無い仲間を抱え上げて走り出した。

「走れっ！！」

　いつもは穏やかな青年の怒鳴り声が、呆然と立ちすくんでいた仲間達に正気を取り戻させる。

「どうするんだ、ルビノ！？」

　魔法や矢で追撃をふりはらっても、死体を乗り越えて奴らは攻めてくる。

　途中の別れ道で、ルビノは唐突に立ち止まった。

　応戦するつもりかと、隣で戦士が剣を抜いて振り返る。

　しかし、ルビノは立ち止ったままニヤリと笑っていた。

「すまないっすね、ここから先は別行動……ってことで！」

「おい……！？」

　もう一度、拳に魔法の炎を灯す。

　衝撃波が今度は縦方向に走り、頭上で焔を噴いた。

　天井にへばりついていた大岩が轟音を立てて崩れ、通路を分断する。

「ルビノ！　ルビノーッ！！」

　仲間が名前を呼ぶ声がこだましている。

　ルビノは短く別れを告げただけで、別の道を再び走り出した。

　この先はいくつもの細い支洞に分かれる迷路のような場所だ。

　若者は急角度で落ちて行く崖のような道なき道を、迷うことなく駆け抜けていった。

　＊

　ある光景を思い出していた。

　メルは地面にいくつかの図形を書いてみせた。

　十代の少年に成長したルビノはそばにしゃがんで、それをじっと見つめている。

　複数の線と図形で構成されたそれは、冒険者たちがよく使う符丁ふちょうだった。

　救援を求める合図だったり、負傷者がいることを示していたり、危険な地帯を教えたり、森の中で正しい方向を示すために使われたり……ひとつひとつに意味がある。

「これを全部覚えられるまでは、ひとりで仕事に出るのはまだまだ早い」

「メルメル師匠……でもさ」

「文句は言わない。それから、そのあだ名で呼ぶのはやめるんだ」

　ルビノは唇をとがらせ、不満そうに小石を蹴けった。

　メルがいろいろと理由を用意して冒険者としての仕事をさせないようにしようとしていることはいくら子供にだって伝わるというものだ。

　だったらなぜ、孤児に冒険者の仕事を教えたのだろう……。

　メルは自分でもそう考えて、その矛盾むじゅんに長いこと悩まされた。

　だから、いつかルビノが食堂を構えたとき、メルはほっと胸をなでおろして喜んだ。

　そんなメルにとって、ルビノがドレイク討伐にこだわったことも、傷ついた仲間のために門の最下層に残ったことも、どちらも晴天の霹靂であった。

　メルはすぐに救援依頼を受けて、精鋭の仲間たちとともにオリオの門に飛びこんだ。

　魔物たちはほかの仲間に任せ、食料も持たない最軽装の斥候だけが最下層まで、ほとんど交戦せずに降りていく。

　これはオリヴィニスでは一般的な、冒険者が迷宮で行方不明になったときの捜索任務のやり方だった。

　報告の通り、コボルドたちは、本来ならいるはずもない最下層のほうにあふれ返っていた。

「これ以上近づくのは危険だ……」

　メルとともに斥候役に名乗りをあげた冒険者、シグンが囁ささやく。

　コボルドたちは嗅覚にすぐれ、俊敏で、気がつかれればたちまち仲間を呼びよせる。

　あきらめて引き返そう、という提案をしたつもりだった。

「ルビノは無事だよ、シグン」

　メルは答えた。

　隣で、シグンは複雑な表情を浮かべていた。

　仲間の無事を信じたい気持ちは誰にでも理解できる。

　《助かる見こみの無い仲間をあきらめること》ほど難しいことはない。

　もしかすると、メルはこの先の探索を強行するかもしれない、という不安が脳裏によぎる。

　しかし二人が一人になれば、道を戻るのも難しくなってしまう。

「気持ちはわかるが……」

　説得しようとしたシグンは、メルが一心に何かを見つめていることに気がついた。

　それは、岩肌に刻みこまれた記号だった。

　冒険者が救助を求めるときの合図によく似ているが、シグンの知らないマークだった。

「あれはなんだ……？」

　問いかけると、メルは微笑んで答えた。

「《回り道》《この先通行禁止》……だよ」

　望遠鏡をしまい、メルとシグンは他の仲間と合流するため、足音を殺して元来た道を進みはじめた。

　＊

　メルとルビノが、ちょっとした暇つぶしにふたりで秘密の暗号を考えたのはいつだったか。

　思い出は遠く、蘇よみがえった記憶は懐かしくにじんでいた。

　ルビノと、もうひとりの冒険者は生きて戻って来た。

　それも、セハの門からだ。

　オリオの門の最下部の支洞しどうのいくつかは、実はセハの門に通じている。

　ルビノは負傷した仲間を連れてオリオの支洞に入り、わざと落盤を起こして入口を塞ふさいだ。

　小型の魔物ならやっとのことで抜けられる程度の通路で、ルビノは自分の拳でトンネルを掘りながら戻ってくるはめになったのだが、運よくセハに通じる洞にたどりつき、そこを別の冒険者のパーティに保護されたのだった。

　治療の順番を待ちながら、のんきに仲間たちと再会を喜びあうルビノを遠目に、メルはいつ怒りの鉄槌てっついを下すかについて考えていた。

　ルビノがしたことは、危険なことだ。

　何かが違っていたら、いまごろ岩盤の下敷きになって潰れていたかもしれないし、酸欠で死ぬ、というのはかなりあり得る可能性だった。

「ま～だ子離れできとらんのかね」

　……といった声が聞こえ、振り向くと、そこには隻眼の老騎士が立っていた。

　隣にはギルドの報酬受付係、エカイユも控えている。

「僕の子供じゃありません、マジョア……ギルド長……」

「そうかね。では彼が週末冒険者に甘んじているのは心配性の君のためではなかったのだな？　てっきりそうだと思っておったが」

　大げさに残りひとつの瞳を見開いてみせる。

　意地の悪い人だと、メルは溜息を吐いた。マジョアは長くギルド長をつとめ、ルビノの幼い頃も知っている。

「自由の翼を与えておきながら、《飛ぶな》とはあまりにも酷こくだと思うがな」

「……いったい何の用ですか」

「メル、君はいい仕事をした、と言ったのだよ。父親としてはどうか知らんが、少なくとも師匠としては十分すぎるほどだ」

　マジョアにうながされ、エカイユが鮮やかな緋色の板が下がった金の鎖を見せた。

「コボルド軍団の発生は想定外でしたが、同行者の証言により、ドレイク二体の単独討伐を確認しました。ので、これまでの白金から格上げになります。《緋》はルビノさんだけの称号ですよ」

「優秀な若者だな。頃合いを見はからって《師匠連》に推薦してもいいと思っておる」

　メルは眉間みけんに刻んだシワの数を一本増やした。

「仲間を助けるためとはいえ、取った行動が妥当だとうとは思えないよ。耄碌もうろくしたんじゃないだろうね、マジョア」

「しかし私が買っているのは、前衛戦士としての、ま、端的に言えば腕力。火力じゃからな～」

「すばらしい力量です。拳ひとつで地下の岩盤をぶち抜いたと聞いてびっくりしましたよ」

　エカイユまでもが、めずらしく褒めている。

　メルが何を言っても、ギルドの方針は変わらないのだろう。

　結局のところ、最後にはルビノが考えて決めることになる。

　マジョアは小さな緋色の板をメルに押しつけた。

「君から渡してやりなさい」

　ようやく師匠に気がついた若者が、まだ血まみれの拳を振り上げる。

　褒められることを信じて疑わない子犬のような表情で。

　約束した通り、帰って来たっすよ。

　……そうとでも言いたげだ。

　何と声をかけたらいいだろう。

　メルは困った顔で、ふさわしい言葉を探していた。