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第14話 追懐


 キュイスの好みは喧嘩けんか煙草たばこだった。


 まばゆい金髪と緑の、愛嬌のある笑顔でオリヴィニスの酒場のどこにでも入りこんでは楽しく話をし、冗談を言いあい煙草を吸った。


 ただ手が早いところだけがこの男の欠点で、場が盛り上がってくると大抵キュイスが原因で揉めごとが起き、酒宴は殴りあいで終わるのが常だった。

 相手を選ぶということもしないので、気を失って路地に放り出されるのも二度や三度の話ではなかった。


 ただ、こう言うと意外なようだが、キュイスは自分の腕力を過信かしんするような男ではなかった。


 彼なりにただの無法者とは一線を引いていて、落ちついているときは静かに遠い国の情勢や文学について語った。

 知性的な男なのだ。

 だからこそ朝になると血まみれで裏路地に転がっているような、対照的すぎる態度は気味が悪く、次第に街で見かけても誰も近よらなくなった。


 キュイスはもともと流れ者だった。

 オリヴィニスではないどこかで冒険者の仕事を学んだようだ。

 どこから来たのかは誰も知らず、貴族の子弟だと噂する者までいた。


 ありとあらゆる人種、職業、性別の冒険者に喧嘩を売って回ったキュイスだったが、たったひとり、殴らなかった冒険者がいる。


 子供かと見まごうような小さな姿で大きな荷物を背負い、あちこちを歩き回っていたかと思えば、街角でぼーっとしていることもある変わり者、メルだ。


 キュイスはメルと同席したときだけは、暴力を忘れていた。

 酒場で二人、話をするでもなく並んでいるの見つけた冒険者たちは、それぞれ不思議そうに首をひねったものだった。



 *



「どうして格上ってわかっていて喧嘩を売ったんだい?」


 メルは一度だけ、そう訊ねたことがあった。


「断りもなくでかい顔をしてやがるあいつらが悪いのさ」


 キュイス・ギャレイは笑いながらそう言っていつもの紙煙草かみたばこに火をつけた。

 薄暗い酒場に、ぼうっとオレンジ色の燐寸マッチの火が灯り、消えていく。

 そんな様子まで、不思議と仔細に思い出せる。


「俺たちが道標みちしるべを残してやらなけりゃ、オリオの門から下にも降りれないって半端者のくせにな」


 オリオの門は迷宮洞窟でも難関として知られている。


 魔物が強いせいもあるが、入ってすぐの縦穴を、細い鎖を頼りに降りていかなければならず、それが冒険者たちの悩みの種になっていた。

 キュイスは魔法も剣の腕も平凡だが、この縦穴を下りるのが得意で、いつも高位のパーティの荷物を肩代わりして登り降りしてやっていた。

 加えて山や森にも詳しく、未開の地で取り残されても、彼がいれば生き残れるだろうとみんな考えていた。


 酒場での悪癖あくへきさえなければ、誰からも重宝がられるような冒険者なのだ。


 もちろんオリオの門の縦穴に鎖が取りつけられたのは、キュイスがオリヴィニスにやって来るより何十年も前の話だが、メルはとくに否定もしなかった。


「やっぱり、ひとりで行くよ」


 最後の会話を覚えている。

 彼は、白金渓谷にまだ誰も踏破とうはしたことのない経路ルートがあるという話を楽しそうに話した後だった。

 キュイスの手が、素早くコンパスと、詳細な地形図を片づけた。

 そのときの張りつめた表情は、数秒前とは打って変わって暗く、寂しげであった。


「メル、あんたと俺はよく似ているよ。だけど、俺たちみたいなのは、最後はひとりで行かなくちゃいけないものだ。なあ、そうだろ?」


 彼の言葉は常に、自分自身に言い聞かせるようでもあった。

 もしかしたら、それが突然暴力をふるう理由だったのかもしれない。


 メルは息を吐いた。


 疲労の混じった吐息と濃霧とが複雑に混ざりあい、消えていく。

 視界は白く染まっていて、手元以外は何も見えない。

 メルはじっと動かなかった。

 ただ集中しながら息をしていた。


 メルもキュイスと同じく、ひとりの冒険が好きだ。


 大概の冒険者たちは、仲間達と組む。

 そのほうが助け合えるし、稼ぎもいい。

 しかし組んで動いているとき、メルには役割がある。弓を持てば矢を射て、剣を持てば鞘から抜かなければならない。


 だが、ひとりきりでいるメルは、なんでもできる。

 望めば息をしないでいることだってできるのだ。


 なあ、そうだろ?


 ――事あるごとに訊いてきたキュイス。


 陽気で寂しい冒険家だった。


 自分のことについて、どこからやってきて、何を見て、何をきいて、何をしてきたのか。

 なぜ、気さくに仲間を求めたかと思えば、手のひらを返したかのように暴力に走るのか、わざと孤独にふるまうのか……言葉にして語ることはなかった。


「見なよ、メル。いい景色だ」


 不意に、苦み走ったキュイスの声が聞こえてきた気がした。


 じきに霧が晴れてくるのがわかった。


 切り立った断崖絶壁に取り付いたまま霧に囲まれ、長い時間が過ぎた気がする。

 メルは慎重に体を下ろし、もう少し確かな足場を確保して腕の疲れを休めた。


 それから両手に力をこめ、背後を振り返る。


 足元はるか彼方には、絹の河とよばれる水量豊かな大河の、その滔々とした流れが、深い森の緑が、白金渓谷の名を取った峰々の荒涼とした風景が広がっていた。


 メルはその風景の中であまりにも小さな命だった。

 自分の命を保障してくれるものは、ここには何もない。

 命綱のロープでさえも、あまりにも頼りない。

 誰にも頼れず、ただ自分だけが存在していた。


 天からも地からも遠すぎて、手を伸ばしても届かない。

 誰も自分には触れられない。

 たまらなく寂しいのに、心は感動とも、恐れとも、喜びとも違う感情で不思議と満たされていた。



 誰もみたことのない、誰もしらない風景。



 冒険者たちの一部は、それを探し求めてひとりぼっちで旅に出る。

 ただ自分の持つ技術だけを頼りに、このあまりにも偉大過ぎる自然に挑むのは、楽しみであると同時にとても恐ろしい。

 キュイスはいつもその恐ろしさと戦っていたんじゃないだろうか。


 これで旅を終わりにしよう。

 危険なことはもうやめよう。


 そう告げる本能の声を無理矢理押しこめて、なけなしの勇気をかき集めて、それでもここに来たのだ。

 名誉のためでも、金のためでもなく、ただ、ほんの少しの自由のために。


 俺はこの風景を見に来ただけだよ。ただそれだけなんだ……。


 彼がもしもここにいたら、そう言ったはずだ。


 キュイスが命札をギルドに預け、帰還予定を過ぎても帰らなかったのはもう、ひと月は前の話になる。

 捜索隊は《竜の角》と呼ばれる断崖に挑み、滑落かつらくしたキュイスを見つけた。

 だが、本物の竜を前にしても狼狽うろたえない荒くれ者どもでも、天を突くかのようなその場所に手も足も出ずに引き返してきた。


 洞窟や遺跡で魔物を狩るだけの冒険者には、あまりにも荷が重すぎた。


 メルはギルドの再度の依頼を受け、ここを訪れた。


 あの不器用な冒険家を連れ帰ってやりたいと思ったのはメルだけではなかった。

 オリヴィニスでは、キュイスに喧嘩を売られた連中が金を出しあって、それを捜索費用にてたのだった。


 途中、やぶにまみれた道の木の幹には、後から来る者を導くように、白く、ナイフの傷痕がつけられていた。


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