夏休みに入って、侍戦士の放送では綾瀬先輩演じる悪鬼幻月が登場した。
弄ぶようにリュウノスケを追い詰め、圧倒的なチカラの差を見せつける。ボロボロになって、それでも立ち上がるリュウノスケだったけど、このままだと幻月を倒せない。
そんな展開に、樹は毎週ハラハラしていた。
初登場のときなんて、幻月のあまりの迫力にテレビの前から逃げ出してしまった。今もテレビを見ながら、柚にしがみついてる。
「樹、そんなに怖いの?」
「うん……ぼくゲンゲツやだ」
「リュウノスケくんがやっつけてくれるから怖くないよ。ね、お姉ちゃん」
「う、うん。そうだね」
柚にはそう答えたけど、正直私も怖い。
幻月じゃなくて、綾瀬先輩が。
『これは忠告だ』
テレビから流れてくる幻月の声に、綾瀬先輩の言葉が重なる。
芸能人と一般人が付き合ったっていいことない。どっちもツラくなるだけ。
「おねえちゃん?」
いつの間にか、樹が傍に来ていた。
「おねえちゃんもリュウノスケまけちゃってかなしい?」
「えっ、リュウノスケくん負けちゃったの!?」
いつの間にか番組は終わっていて、次回予告が流れていた。
倒れて意識のないリュウノスケに叫ぶテンマの声。高笑いしてトドメを刺そうとする幻月。
言葉が出ない私に代わって、柚が励ましてくれる。
「大丈夫だよ、樹。リュウノスケくんはヒーローなんだから負けないって」
「そ、そうだよ。リュウノスケくんは強いんだから絶対大丈夫」
でも樹は俯いたままだった。
私まで落ち込んじゃってたから、樹も余計に不安になってるんだ。朝からこんなどよんとした空気……なんとかしなきゃ。
あ、そうだ!
大事なものを入れておくタンスの引き出しから、咲弥くんに貰ったチケットを取り出した。
「樹、柚。今度一緒に侍戦士のイベントを見に行こう。みんなでリュウノスケくんを応援しようね」
「ほんとに!? やったやったー!」
樹がワーワー言いながらリビングを駆け回った。よかった、元気になったみたい。
柚は、私の顔とチケットを交互に見てる。
「これ、咲弥くんに貰ったの?」
「そう。みんなで一緒に来てね、って」
「お姉ちゃんだけじゃなくていいの? だって、咲弥くんとデートしたいでしょ?」
ゆ、柚ってば、またそんなこと言って……!
「イベントの日は咲弥くんだって忙しいんだから、直接会ったりできないよ」
「そうなんだ。残念だね」
「わ、私のことはいいの! 今日は柚、学校のプールないでしょ。私ちょっと当番に行ってくるから、樹のことよろしくね。すぐ帰ってくるから」
「また当番? この間も行ってたのに」
「中学生は忙しいの」
樹を柚に任せて、出掛ける準備をした。
クラスのみんなから引き受けた当番は、7月下旬から8月上旬に固まってて、最近毎日のように学校に行ってる。
でも、私が引き受けたことなんだもん。責任持って頑張らなくちゃ。
そんな毎日を過ごして、今日は8月10日。当番最後の日だ。
今日の当番は校庭にある体育小屋の掃除。結構大変らしくて、私以外にも3人の子と一緒にやる予定。
……のはずなんだけど、体育小屋の前に行くと誰もいない。
遅れてるのかな。それとも、忘れちゃってる?
まあいいや。とりあえず私だけで初めていよう。
小屋の中は教室くらいの広さがあって、カラーコーンやライン引き、平均台やハードルなどいろんなものが詰め込まれてる。床は砂がすごくて、棚は埃だらけ。
これは掃除し甲斐がありそう。
まずは雑巾で埃を拭いて行く。モノが多くて、ひとつひとつ拭いていくのは時間が掛かる。
雑巾はすぐに真っ黒になって、バケツの水で洗っても水があっという間に汚れちゃう。水道まで往復して水を汲んで、また拭き掃除。
ちょっと面倒だけど、少しでも水に触れられるのは嬉しい。窓は開けてるけど、体育小屋の中は熱がこもって熱かった。太陽の光が直接当たらないだけマシだけど。
汗がダラダラ出て、ポタポタ手元に垂れてくる。タオルは持ってきたけど、拭いても拭いてもキリがない。
ええい、気合で乗り越えよう!
目の前のことをコツコツやってれば、必ず終わりは見えてくる。最後の平均台を拭き終えて、終了!
次は掃き掃除だけど、1回休憩してこようかな。のどカラカラだよ。お水飲んでこよう。
外に出ると、太陽は真上を向いててまさに灼熱。今日は今年最高気温になるって天気予報で言ってたっ……
グラッと目の前が回転した。
あれ? と思うヒマもなく、よろけて地面に倒れ込んだ。手と顔が砂利に当たって痛い。こんな転び方するなんて恥ずかしい。誰も見てないといいけど。早く起き上がって……
起き上がれない。手にも足にも力が入らなくて動けなかった。
え……私、どうしちゃったの……?
目の前が徐々に暗くなっていく。遠くから誰かの呼ぶ声が、聞こえた気がした。
頭がひんやりする。それに、なんだか涼しい。夏なのに。
ぼんやり目を開けると、白い天井が見えた。うちじゃない。ここ、どこ?
「結來! 大丈夫か?」
私を覗き込んだのは、心配そうな顔をした咲弥くんだった。
私、ベッドに寝ているみたい。
「……咲弥、くん? あれ、どうして……?」
「すっげえ驚いたよ。学校来たら結來が倒れてんだもん」
学校?
辺りを見回すと、隣にもベッドがあった。薬の入った白い戸棚と保健のポスターが見える。
頭に乗ってる冷たいのは、絞ったタオルだった。
「保健室?」
「そうだよ、急いで運んできた。保健の先生が言うには、熱中症だろうって。結來、水分も塩分も取らなかっただろ」
忘れてた。まさかあんなに熱いなんて思わなかったから。
「咲弥くんは、なんで学校に……」
「俺も当番だったんだよ。教室掃除」
「そうだったんだ……」
まだ頭がまわらなくて、ぼんやり答えることしかできなかった。
咲弥くんは「先生呼んでくる」と保健室を出て行った。
ああ、まだ掃除終わってなかったのに。それに私、どのくらい寝てたんだろう。柚と樹が留守番してくれてるから、早く帰らなきゃなのに。
咲弥くん、ずっと私についててくれたのかな。この後きっとお仕事だよね。時間大丈夫かな……。
咲弥くんが保健の先生と白井先生を連れて戻ってきた。
保健の先生が持ってきてくれた経口補水液を飲む。
「これ飲んで、もう少し休んでね。おうちの人に迎えに来てもらうように連絡するから」
「自分で帰れるので大丈夫です。今、家に妹と弟しかいないので」
「1人で帰るの? でも途中で倒れたりしたら……」
「俺が送ってきます」
きっぱりと咲弥くんが言った。
「でも、咲弥くんお仕事は……?」
「今日は夜までオフ。こんな状態で歩かせられないから、タクシー呼ぶよ」
タ、タクシー!? そんな高級なもの乗れないよ!
咲弥くん、心配してくれるのは嬉しいけど大げさすぎるって。
と言おうとしたら、咲弥くんが眉間にしわを寄せてるのに気づいた。
「体育小屋掃除、1人でやってたのか? 他のやつらは?」
「誰も来てないよ。忘れちゃってるのかもしれない」
「サボりかよ……。先生、今日の当番誰だったんですか?」
咲弥くんが聞くと、白井先生が「ええと」と腕を組んだ。
「当番表を見ないと思い出せないが……でも体育小屋掃除は男子が担当じゃなかったか?」
「はい、荒川くんの当番を代わったんです」
「はあ?」
咲弥くんが顔をしかめる。
「今日、結來の当番じゃなかったのか?」
「うん、私何人かの当番代わってるから」
「そういえば、藤崎は毎日のように学校に来てたな。みんな忙しいから代わってくれてたのか。偉いぞ、さすがは特待生……」
「偉い?」
ジロリ、と咲弥くんが先生を見上げた。というより、睨み上げた。
「当番は自分でやるべきですよね。できない日は事前にNGを出してたじゃないですか。それなのに結來に全部押し付けて先生までそれを許すなんて、なんの為の当番なんですか。おかしくないですか?」
「お、おお。そうだな……」
咲弥くんに睨まれて、先生がたじたじと身を引いた。
どうしよう。先生にそんなこと言って、咲弥くんの内申点とかに響いたりしたら。
「咲弥くん、私はだいじょう――」
「おかしいに決まっています!」
私の声は、保険の先生に遮られた。
「綾瀬くんの言う通りです。1人の生徒に倒れるまで無茶をさせるなんて、先生の監督不行き届きですよ。熱中症は、命に関わることもあるんですからね!」
「す、すみません……」
保険の先生にお説教されながら、白井先生は職員室に戻って行った。
「はあ……」
2人きりになると、咲弥くんがベッドサイドの椅子に座りこんだ。
まさか、咲弥くんまで具合悪くなっちゃった!?
「結來って、ホントに自分1人で抱え込むよな」
「え……」
「当番も、なんでそんなに代わってやってんだよ。どうせムリヤリ頼まれたんだろうけど、嫌なら嫌だって言わないとダメだろ」
「私、本当に嫌なわけじゃないの。誰かの役に立てるなら嬉しいし、困ってる人がいたら放っておけないから」
「それで限界きて倒れたら意味ないだろ」
「そう、だよね……ごめんなさい」
それで結局、こうやって咲弥くんにも迷惑掛けちゃったんだもん。私ってホントにダメだな。
「俺だって同じだよ」
咲弥くんがぽつりと呟く。
「俺だって結來の役に立ちたいし、困ってたら助けたいんだよ」
「咲弥くん……」
「だからこれからは、俺に何でも言えよ。ワガママ言ってもいいし、困ったら『助けて』って言えばいい。俺は絶対に、結來を助けるから」
咲弥くんは優しく言ってくれたけど、私は素直にうなずくことができなかった。
だって今まで、そんなの考えたこともなかったから。
ワガママなんて言っちゃダメ、人にあまえず自分で頑張る。
家のことも勉強も、ずっとそう思ってやってきた。だから、どうしていいのかわからない。
しばらく休んだ後、咲弥くんは本当にタクシーで家まで送ってくれた。
歩いて帰れるって言ったけど、「俺もこのまま仕事行くから」って。お仕事、夜からって言ってたのに。
家の前に着いて、タクシーを降りる。
「咲弥くん、今日は本当にごめんなさい。迷惑掛けて」
「違うだろ」
そう言って、咲弥くんもタクシーを降りた。
私の頭に、咲弥くんがポンと手を乗せる。
「俺は結來に謝ってほしいわけじゃないから」
謝る以外に、咲弥くんに伝えること。
それは……
「……助けてくれて、ありがとう」
咲弥くんが弾けるような笑顔で笑う。
「おう! 何かあったら、いつでも俺を呼べよな! 結來のためなら、どこへだって飛んでくから!」
咲弥くんはタクシーに乗り込んで、走り出してもずっと手を振っててくれた。私も、タクシーが見えなくなるまで手を振る。
ごめんなさいじゃなくて、ありがとう。
罪悪感に押し潰されそうだった心が、ふわっとあたたかくなった気がした。
でもずっと、咲弥くんと一緒にはいられない。
胸の奥がズキッと傷んだ。