冬の空気の底、都心の夜景が寒々しく煌めく。
そのマンションの屋上からの眺めは、見る人が見れば感動するのだろう。彼は高層ビル街の足元に繁華街のネオンが広がるその景色を、シャンパンタワーの様だと思った。ただ本物のシャンパンタワーなど見た事はない。最近聞いた忌々しいワードを、つい連想してしまっただけだ。
(アイツが通ってたホストクラブなら見れるんだろうな……)
溢れたシャンパンの金や銀の
「クソッ…見てろっ……」
彼がそう憎々しげに吐き捨てて、ゆっくりと前に一歩踏み出した時──
「あ、ちょっといいですかあ?」
不意に背後から掛けられた声に、鉄柵を掴もうとしていた彼は一瞬ビクリと背筋を伸ばし、慌てて振り向く。
そこに女が─いや、中学生くらいの少女が立っていた。彼にスマホを向けている。
「な…」驚き過ぎると声は咄嗟には出ないものだ。彼が固まっている隙に、少女はカシャッと写真を撮った。
「何だよ君っ…失礼だろっ…!」
彼が情けなく掠れた声で怒鳴ると、少女はニカッと笑った。
少し赤みがかったショートカットで整った顔立ちをしている。黒いハイネックのニットとピンクのミニスカート、黒いダッフルコートを羽織って、スラッとした素足に黒いショートブーツ…細身だがプロポーションもいい。可愛いと言えばかなり可愛いけれど、笑った顔は悪戯小僧の様だし、この状況ではどんなに可愛くても彼と同じく腹を立てるだろう。
「勝手に撮ってっ…」
「画像送ってもいいですかあ?イヤならこのまま見せるけど〜」
人の話を聞いていないのか、少女はニコニコと続ける。彼が言葉が続かなくなって口をパクパクさせていると、スルスルと目の前に寄ってきた。そして右手に持ったピンクのスマホを、彼の顔の前に突き出して画面を見せる。
「えっ…?」
それは、ザラザラとした白黒の写真だった。
スーツ姿の男とワンピースを着た女が写っている。
二人は真っ暗闇の中にポツンと浮かぶ、細いロープの上に向かい合って立っている。男は両手で女の首を絞めていて、女は男に右手と右足を突き出しロープから墜とそうとしている。ポニーテールの女は後ろ姿で顔は見えないが、男は─彼だった。
「えっとぉ、おじさんの〈死の未来〉です。
二十四時間以内にこうなるんで、何とかして?」
少女は小首を傾げて左手を頬に当てる。少し困った様に眉の根を寄せて笑う様子は、『お願い』をしているつもりなのか…。
「…何を…言ってんだ君……?」
彼は絞り出す様にそう言うのが精一杯だった。シノミライ…?頭の中で意味のある漢字に変換する事すらままならない。
「あっ、ゴメンなさいっ…
少女は舌を出すが、そこじゃない。確かに彼はまだ二十六歳、今着ているビジネススーツほどにはくたびれていないつもりだが…いや、頭も体もくたびれきっているか…でも、そこじゃない。
「し…死の未来?オレがこんな風に死ぬっての?何だよこれ、未来の写真とでも言うのかっ?」
「わあっ、お兄さん飲み込み早いっ!」
「飲み込んでねーよっ!」
パチンと指を鳴らした少女に彼が高速でツッコむ。「え〜」と不満そうな少女。どうにも人を食った様子の少女に、彼も脱力して投げ遣りに訊き返す。
「何なの君…何か変なアプリでも使ったの?オレの顔がコラされてっけど……」
「アプリじゃないよ〜」ケラケラと笑う少女。
「未来予知と念写のコラボ。
ママがね、未来って自分の力で変えられるから、死にそうな人は写真撮ってあげて、教えてあげなさいって…ママも昔はそうやって教えてあげてたんだよ。その頃はスマホもデジカメも無くて、ポラロイドとか使って大変だったって〜」
「あ、え?え?」スラスラと言い募る少女に彼は付いていけない。
「お兄さん見かけた時何かヤなカンジがして、後付いてきたんだ。そしたらこんな高級マンション入っちゃうんだもん、玄関のオートロックすぐ閉まっちゃうから焦ったよ〜っ」
彼は少女がこのマンションの住人だと思っていたのだが、違ったようだ。では自分と同じく、住人が玄関ホールのエントランスキーを操作して自動ドアが開いている隙に入り込んだのか…。
「とにかく伝えたよ?〈死の未来〉って強力で、ちょっと辻褄が合わなくても望む方向に持っていこうとするから。どうすれば未来が変わるかは知んないけど、頑張ってね!」
「は、はあっ?ちょっ、待てよっ…!」
笑顔で踵を返した少女の適当な言い草に、彼は思わず大声を上げてしまう。予知だの念写だのを信じる気は毛頭ないが、忠告しようとしているのならあまりにもいい加減に過ぎる。これでは『これから不幸になるけど頑張って』と不安だけ煽って去っていく、通りすがりの占いマニアである。その彼の非難がましい口調に、少女は振り返ってまた舌を出す。
「あ、ゴメンなさい。ちゃんとしないとまたママに怒られちゃう…とにかく伝えましたので、頑張ってくださいね」
そこじゃない。タメ口を咎めたのではない。
「…でもこれ、お兄さんが死ぬか、相手の女の人を殺すかってカンジですね。どっちもどっちだなあ……」
最後に不穏な事を言い置いて、今度こそ少女は問答無用で去っていった。
「死ぬか殺すか……?」
彼は呆然と呟く。
その時ふと、少女がバタンと閉めた屋上のドアが今夜開いていたのは何故だろうと初めて気になった。それが開いていたからこそ、彼自身今ここにいるのだ。この屋上は都心のマンションとしては売りの一つなのだろう、バーベキュー等も出来るスカイデッキになっている。しかしセキュリティ上、普段ドアは施錠してあるはずだ。ましてこんな日付も変わろうかという遅い時間に、管理人の許可も無しに立ち入れるとは思えない。鍵の閉め忘れ…?
『辻褄が合わなくても望む方向に』──少女の言葉が彼の脳裡で
「別にいいか……」
少女が去ったドアの方角を向いていた彼は、振り返って再び鉄柵に取り付く。上部を両手で掴むと、軽くジャンプして上体を乗り出し、右足を柵に掛けて乗り越えた。両足を揃えて、柵の向こうのスペースに降り立つ。
目の前に、シャンパンタワーが広がった。
「…死の未来の予知…?凄えな……」
彼は一瞬足元を見て、泣きそうな顔でニヤリとする。
「大当たりだよ、お嬢ちゃん………」
彼はそのまま目を閉じて、ゆっくりと前に倒れていく。
そして、全身に強い衝撃が走った──
全身に強い衝撃が走った。
彼女は目を閉じたまま眉をひそめる。
まだ意識がある事に違和感を抱いた。検索して調べたら、首を吊ると一瞬で意識が遠のくと書いてあった。脳が酸欠になるそうだ。よく首吊り死体は見た目が酷い事になるとも聞いていたが、それもケース・バイ・ケースだという。舌がベローンと垂れるのは歯に引っ掛かれば大丈夫らしいし、頭に行く血液がすぐに遮断されるから顔もほとんど鬱血しないそうだ。失禁してしまう事は多いらしいが、そのくらいは飛び降りて潰れるより、まあマシだろう。何せここは最上階の十三階なのだ、地上に叩きつけられたらどんな悲惨な結果になるか…。
ベランダの壁に取り付けられた物干し竿の受け金具をいっぱいに伸ばすと、鉄柵の外側まで突き出せる。そこからロープを垂らして首を吊れば、自分の体は鉄柵の外にぶら下がる訳だ。
そして今まさに彼女は鉄柵の上に立ち、ロープに首を掛けてヒョイッと飛び降りた。これなら明日の朝、下を歩く通行人からも見えるはずだ。死後何日も経ってしまうと目玉が飛び出てしまうらしいから、なるべく早く発見されたい。せっかく見た目がマシそうな死に方を選んだのに、勤め先のキャバクラの女の子達に『死んでもブスとかウケる〜』などと
(バカみたい……)
彼女はこの期に及んで人目を気にしてしまう自分に、呆れたように笑った。それはとても惨めで寂しげな笑みだった──
「あ、あの……」
不意にすぐ近くで誰かの声がして、彼女はハッと目を開けた。
見下ろすと、何だか必死な形相をして見上げている男がいる。
「………」
やはり驚き過ぎると声は出ず、彼女は驚愕の表情で息を呑む。
(何?誰?何でっ…?)
5W1Hのうちの2・5Wくらいが彼女の脳裡でグルグル回る。
「あの……どうしましょうか……?」
男は苦しそうな、情けない顔で訊いてくるが、何をどうしろと言うのか?彼女は首を捻ろうとして、頭が動かせないのに気が付いた。
視線を左右に走らせれば、首回りには輪っかになったロープがある。首吊りをしようとしていたのだから当然と言えば当然だが、そのくせ首は絞まっていない。顎の下に何か硬い感触があり、下目遣いで見れば、目の前の男の両手がロープの輪っかを掴んで下に引っ張っていた。そのせいで彼女の首が絞まらないのだ。
(えっ、何?あたしを助けようとしてる…?)
彼女がその瞬間感じたのは安堵や感謝ではなく、怒りだった。
「何すんのよっ?何であたしが死ぬの邪魔すんのっ…余計な事しないでっ!」
彼女は激怒して右手を伸ばして男を押そうとする。
足でも蹴ろうとするが、ふと左足が動かない事に気付いた。
見れば男はベランダの鉄柵に室内側を向いて腰掛ける形で上体を反り、両腕を伸ばしてロープの輪っかを掴んでいる。彼女の左足はその男の腹に膝を折った状態で乗っていて、右足は男の左脇から夜空にダランと落ちていた。つまり彼女はその男の上に片膝蹴りをしたかの様に乗っかっているのだ。彼女の首が絞まらないのは輪っかを引っ張られていたからだけでなく、この男の体が
「すみませんっ…屋上から飛び降りた時、足元の出っ張りに引っ掛かってバランス崩して…夢中で手に触った物を掴んだらっ……」
それは、ついさっきこのマンションの屋上から飛び降りた彼だった。
飛び降り自殺をした彼と首吊り自殺をした彼女は、今や組体操のパートナーのごとき絶妙なコンビネーションで、地上十三階のベランダの外で体を支え合っていた。
「………」
……ヒュウウゥ……
「………」
冬の夜風が、沈黙する二人の間を吹き抜けていく。
怒っていた彼女もあまりの事に毒気を抜かれてしまった。つい相手の顔をまじまじと見ていたが、目が合って慌てて視線を逸らす。その時、彼の右のこめかみから血が流れているのに初めて気が付いた。
「あ、これ、どこかにぶつけて……」
彼女が自分の傷を見ている事に気付いた彼は律儀に説明した。彼女が背にしている窓は開いていて、その向こうはソファのあるリビングなのだが、オレンジ色の小さい電気─常夜灯が点いている。お陰で彼女は、平凡だが何だか疲れきった彼の顔とその傷を確認出来た。
一方、彼にも彼女の姿が見える。茶色に染めた長髪をポニーテールにして、白いワンピースを着ている。痩せ気味で肌が青白く、不健康そうに見える。少し濃い目に化粧をしたその顔は美人と言えなくもないが、いかんせん睡眠不足なのか、隈を拵えた暗い目をしていた。その目付きとささくれた表情のせいで見た目年齢は二十代後半だが、実際には彼女は二十三歳である。
「くっ…」悠長に観察している場合ではない。鉄柵に腰掛けた形なので全体重ではないものの、自分と彼女の体重を無理な体勢で支えている彼の両手は、どんどん疲れが溜まってきていた。
「とにかく、ベランダの中に少しずつ入りましょう…それで何とかその輪っかから首を抜いてください。そしたらせーのでベランダに降りれば、助かるっ……」
「…嫌よ」
「へ?」彼女の感情の無い声に、彼は目を丸くする。
「あたしは死ぬんだもん。どいてよ」
「えっ、いやっ…」
「あんただって飛び降りたんでしょ?何で助かろうとすんのよ。何でっ?」
彼女の声がだんだん大きくなる。
見開いたその目は、彼のこめかみから流れる血に釘付けになっている。
(何だこの女…血を見ると興奮するとかっ?)
彼の方はぶつけた所がズキズキと痛み、両手もプルプルし始めている。痛みは生きている実感を否応無しに突き付けてくるものだ。勇気を振り絞って屋上から飛び降りたが、現状出鼻を挫かれ過ぎて死ぬ気が著しく失せている。彼女の方もこんな奇妙な状況では、今夜は中止にするとばかり思ったのだが──
「どいてっ…どいてっ!」
「うわっ……」
彼女が彼の体に乗っている左膝をグイグイと押し付けてくる。彼は輪っかを掴んだ両腕を限界まで伸ばす格好になった。ぶら下がり健康器具の数倍背中が伸びる。肩が外れそうで不健康だ。
「や、やめろっ…やめろって!」
死ぬ気が失せてしまった彼には恐怖でしかない。殺人者に崖から突き落とされそうになっているのと同じだ。地上から吹き上げる寒風がうなじを撫でる。彼は背中に感じる虚空に戦慄しながら考えた。今両手を離しても鉄柵に上手く両足が引っ掛かれば、逆さ吊り状態にはなるが墜ちずに済むかも──
『死ぬか殺すかってカンジですね』
彼の脳裡にあの少女の声が響いた。
(死ぬか…殺すか…?)
今両手を離せば、自分は助かるかもしれない。だが、彼女は瞬時に首を吊られて死ぬだろう。それは果たして自殺なのか…?
─オレが、この女を殺す…?
あの写真に写っていた通り、暗闇に浮かぶロープが二人の命運を握っている。
そのロープの上で彼が首を絞めていたのは、確かにワンピースを着たポニーテールの女だった。
「いやあああ━━っ!」
彼女がヒステリックに叫んで、左膝に力を込める。
彼も思わず絶叫した。
「やめろお━っ!二人とも墜ちるぞ━━っ!」
その瞬間、彼女の動きが止まった。
左膝の力も抜ける。
不意に荷重が減って、彼は即座に両腕を曲げてロープを握り込む。人間の筋肉は縮む時こそ力が入るのだ。背筋も使って体を何とか安定させ、ゼェゼェ言いながら彼が見上げると、彼女は憑き物が落ちた様に呆然としていた。やがてその顔を歪めて震え出す。
「飛び降りはダメ…グチャグチャになっちゃう…笑われちゃう……」
(そんな理由かよ……)
震える彼女を見ながら、彼は泣き出したい様な笑い出したい様な、それこそグチャグチャな気分になっていた。
「お願い…首吊りさせて、死なせてよお……」
彼女はシクシクと泣き出す。
(泣きたいのはこっちだよ…)
彼はとりあえず彼女を落ち着かせようと、優しく話しかけた。
「あ、あのね、一体何があったの?オレで良かったら話聞くからさ。ね…?」
「うえっ…ヒック……」
彼女は泣きじゃくるばかりである。
「何があったか知らないけどさ、まだ若いんだし、死ぬなんてもったいなくね?人間死ぬ気になればやり直せるって、よく言うじゃん?」
彼の言葉にはオリジナリティの
案の定彼女には全く響いていないらしく、泣き止む気配が無い。彼が途方に暮れていると、また冷たい風が吹いた。ブルッと震えた彼は次の瞬間──
「ハァクショッ!」
「キャッ…」
彼がクシャミをした瞬間、二人の体がビクンと跳ねた。彼女も身を竦めてつい地上を見る。
マンションの真下の道路は街灯もあるがネオン街の様な明るさは無く、夜に吸い込まれそうな不安感が湧く。彼女が泣き止み、その顔に恐怖の色を浮かべたのを見て取った彼は、チャンスとばかりに言い募る。
「そうだよ、今オレ達は奇跡的なバランスで止まってるだけなんだから。いつ墜ちるか分かんないよ?ロープが切れても墜ちるよ?だからっ…」
「…分かった…あたしも墜ちるのヤダ…」
彼女は動かない顎をほんの僅かに引いて頷く。彼がホッとしていると、彼女は静かに言った。
「あんた、ゆっくり中に足伸ばしなよ。それで手離せば、滑り台みたいにベランダに降りれるよ。あたし、ジッとしてるから」
「え?いや、それじゃ君が…」
今は彼の体が、首吊りをしている彼女の
「いいじゃん、それであたしもあんたも望み通りだもん」
「い、いや…だからそんな事してるうちにロープが切れたらっ…」
「大丈夫、このロープはナイロンレンジャーロープって言ってね、消防署のレンジャー隊が救助とかで使うスッゴい丈夫なヤツだから。あたし調べたんだ。これ、2トンの物とか吊り上げられるんだって!スゴくない?」
初めて彼女が少し笑った。
(いや、そこでいい買い物したみたいに喜ばれても…)
彼がそう呆れながら更なる反論を模索する。
「けど、その支えてる金具?それがバキッていくかも…」
「それも今日の昼間、業者の人に頑丈なヤツに取り替えてもらった。重たい敷布団、いっぺんに干したいからって言って…だから、大丈夫!」
彼は(大丈夫じゃねえよ…)と嘆息する。
彼女が落ち着いても状況は全く変わっていなかった。これではやっぱり、彼が助かる為に彼女を
若干
「何だよ君、そんなに死にたいの?だったらオレが助かって帰ってから、改めて死んでよ。勝手に死んでっ……」
彼はそう言いながら、彼女がみるみる青褪めていくのに気が付いた。彼女はまた彼のこめかみの血を見つめている。
「…何よ…あんたまでそんな事言うの…?
どうせあたしはバカでブスよ…ムネだって無いわよっ。お店でもお客なんかつかないわよっ。
だからって、
「うわっ…」
途中から完全に彼じゃない誰かに怒って興奮した彼女が、また上で暴れ出す。
遂に耐えていた彼の左手がズルリと輪っかから外れた。
「ひ、ひいっ…!」
バランスが崩れて、彼女の首がロープの輪から抜けそうになる。
「えっ、嫌よっ、墜ちるのはイヤああっ!」
彼女は悲鳴を上げて、それまで死ぬ気満々でダラリと下げていた両手で慌てて輪っかを掴む。
一方彼の外れた左手も咄嗟に鉄柵を掴めたが、輪っかを掴む右腕は完全に伸び切って、上体は地上と水平になるほどに倒れ、彼女の左膝が彼の
「ぐ、ぐえっ……」
彼の両足も室内側にピーンと伸ばされ、その姿は鉄柵に乗った腰を支点にしたやじろべえ、或いは夜空に伸びた高飛び込みの踏み板の様だ。その上で輪の中に首を戻した彼女が、ニードロップを決めている。
「こ、腰っ…腰がっ……」
「い、痛いのっ?どうしようっ…墜ちるっ?」
「ジッとしてくれっ…とにかく、ジッとっ………」
……シンとした地上十三階の虚空に、彼の吐息がゼェゼェと情けなく白く溢れ落ちる。
彼女はようやく黙って、なるべく彼の鳩尾をニーで抉らないように体を反らす。
また違う組体操のプログラムに移行してしまった二人の体勢は、確実に悪化していた。
彼は懸命に考える。どうすれば助かる──?
さっきまでは両方助かる、或いは彼が助かって彼女だけが首吊り、というシナリオもあった。
しかし現状最も現実味のあるシナリオは、『彼が力尽きて墜ちて彼女も死ぬ』だ。
彼女は両手で輪っかを握っているが、踏み台の彼がいなくなれば女性の腕力でいつまでもぶら下がってはいられないだろう。結局首を吊るか、彼の後を追って墜ちるか…もう事故か自殺か殺人か分からないが、とにかく死ぬ時はいっぺんに死ぬ。
「くそっ…くそおっ……」
彼は脂汗を流しながら、必死に輪っかと鉄柵を掴む。学生時代にバドミントン部に入っていたが、特に腕力を鍛えた訳ではない。万年補欠だったし…。
─どうしたらいい?
どうしたらっ…!
右手で掴む輪っかの中の彼女は、そんな彼をジッと見つめていた。
「…何よあんた、そんなに死にたくないの…?」
「死にたく…ないね……いや、死にたくなくなったっ…!」
彼は歯を食いしばる。
何だか無性に腹が立っていた。
このくだらない状況にも、くだらない状況を招いた自分にも、くだらない死に方に持っていこうとしている〈未来〉とやらにも──
死にたくないし、殺したくもない。
─くそおおっ……!
彼女はそんな何だか表情が力強くなった彼を見下ろしながら、自分の心が揺れているのを感じていた。
死にたい気持ちは変わらない。しかし彼を死なせるのは無性に後ろめたくなってきた。彼が言った様に彼が生きて帰った後、自分が独りで死ねばいい。さっきは彼の傷を見た上にあんな事を言われたから、つい嫌な記憶を思い出して取り乱してしまったのだ。
「…あたし、ゆっくり下がるからさ、あんたもう少し我慢できる?」
「えっ?」
不意に落ち着いた口調でそう言った彼女の顔を、乳酸が溜まりまくっている腕と乏しい背筋で頑張っていた彼は思わず見つめる。
見つめられてちょっとはにかむ彼女。
ついドキッとしてしまった彼だが、ときめいている場合ではない。そもそも『助けてあげる』みたいに言われているが、ついさっき殺されかけている。しかしとにかく、協力的になってくれたのなら…。
「た、頼むっ…ゆっくり下がりながら輪っかから首抜いてくれ。そのまま君がベランダの中に降りられればっ…!」
彼の言葉に彼女はコクンと頷き、首周りの輪っかを掴む両手に力を入れた。
そして後ろに首を引き抜く為に、彼の鳩尾の上の左膝に乗っていた自分の体重を爪先の方にズラす──
ちょうど、彼の股間に乗っていた爪先に。
「んぐああっ!」
「えっ、キャッ!」
股間をトゥで抉られた彼が瞬時に身を捩ってしまったのは、全くもって仕方が無い。
輪っかを持つ右手を離さなかっただけでも、超ファインプレーと言ってあげたい。
しかし左手は鉄柵を離してしまった。それで彼の体が傾いた為に彼女もバランスを崩して両手が輪っかから離れ、上に乗っていた左足が滑り、右足と共に彼の左脇の宙空に放り出される。このままでは輪っかに首だけ掛かった状態で両足が宙に浮いてしまう。首吊りが完成してしまう。
彼が彼女を
「死ぬなあ━っ!」
彼は必死に左腕で彼女の両足を受け止め、そのまま胸に抱え込む。
全体重が落ちてきたなら受け止めきれなかったかもしれない。しかし彼女も咄嗟に輪っかを両手で握り直していた。お陰で自分に掛かる荷重が減って、彼は輪っかを握る右手と鉄柵に乗った腰で何とか耐える事が出来た。
「…助かっ…た……?」
彼女がか細い声を上げる。
しかし二人の体勢は、絶望的な状態となっていた。
輪っかを握る彼の右腕が生まれたての子鹿並みに震える。この手が力尽きてロープの輪っかから外れれば、彼が掴まる事が出来るのは左腕で抱え込んでいる彼女の両足しかない。だが彼が彼女の足を引っ張ってしまったら、二人分の体重が彼女に掛かるのだ。そうなったらいくら彼女が輪っかを両手で握っていても、その首は絞まってしまうだろう。彼が彼女を助けるには、彼女の足から手を離して真っ逆さまに墜ちていくしかない。
(これは…もう駄目かもしれない……)
あの不思議な少女が見せてくれた〈死の未来〉が脳裡に浮かぶ。
死ぬか、殺すか…こうなったら仕方がない。
「そのまま…両手で輪っか握ってなよ…。
そうすりゃオレが墜ちても、君の首はすぐには絞まらない…オレさえいなくなりゃ軽くなるからさ…何とか体を揺さぶって…後ろに飛ぶんだ……」
彼は脂汗を流しながら、彼女に向かって小さく微笑んだ。
彼女は目を丸くして彼の顔を見つめる。
─あたしを助ける為に自分から墜ちる気……?
身も震える様な感情が胸の奥から溢れてきた。
彼の姿はまさにアクション映画でよく見かける、我が身を犠牲にしてヒロインを助けようとしているヒーローそのものだった。その笑顔の向こうにCGではない星空とネオンが輝く。
彼の背景に、ホストクラブにあった巨大なシャンパンタワーが視えた気がした。
彼女の心臓がドクン、ドクンと大きく鼓動を打ち始める。
「…何で…」
「え…?」
「何で死のうと思ったの……?」
(今それを訊く…?)
当然そう思う彼だが、彼女の自分を見る目には真摯な光があった。
輪っかを掴む右手はもういつ離れてもおかしくないが、こうなったらなるようにしかならない。こんな出遭いだがこれも何かの縁、最期に自分語りを聞いてもらうのも悪くないかもしれない。
「…大した事じゃない、フラれたんだよ。
カノジョ、オレがいるのにホストにハマってさ。こっちは結婚するつもりだったんだぜ?それがもう自分の仕事の給料から何から、オレがあげたモンも全部売っ払って、そのホストに貢いでさ。それが分かって怒ったら、逆ギレされたよ。『あんたには関係ない』『ホストの彼と結婚する』とかメール来てさ。
はあ〜?何ホスト相手に夢見てんだよ!」
「ホスト…」彼女の表情が微妙に曇るが、スイッチの入ってしまった彼は止まらない。
「そしたらある日、カノジョ、黙って会社辞めて引っ越してさ、スマホもブロックされて連絡付かなくなって…アイツが通ってたホストクラブ突き止めて乗り込んだけど、そのホストの野郎も店辞めてたよ。今カノジョと一緒にいるのかは知らないけど、きっと金をむしり取れるだけむしり取ったら捨てられんだろアイツ…アホらし。
そう、アホらしくなったんだ、全部。
オレの稼いだ金でキャアキャアとシャンパンタワーとかやってたんだぜ?アホらしい…あんな女と結婚しようとした自分もアホらしい…大馬鹿だよ。
アイツを殺してオレも死ぬとかも思ったけどさ、せめてアイツが後悔するくらい派手に死んでやろうと思って。ニュースになる様な死に方してやろうって思ったんだよ。
彼の顔は最後には諦めた様な虚ろな笑顔に変わっていた。
いったんは死ぬのが怖くなったが、話しているうちにまた当初の投げ遣りな気分が戻ってきた。幸い地上に背中を向けているし、ちょっと目を瞑っているうちにあっという間に墜ちて死ねるだろう。そして何より、そうすれば目の前の彼女も助かるかもしれない。
もうすぐ右手は限界を迎える──
ふと、彼の頬に冷たいモノが落ちた。
見上げると、彼女が泣いていた。
女性の涙に条件反射的に動揺する彼。
「え…ど、どうしたの?」
「ひどいね、そのカノジョ…ひどいね……」
(オレの為に泣いてくれてる……?)
彼の心拍数が跳ね上がる。
化粧が崩れるのも厭わず泣きじゃくる彼女が、無性に可愛く見えてきた。
「あたしもね、ホストにハマっちゃったから…前のお店の給料も前借りとかしちゃって、そこクビになったから偉そうに言えないんだけどさ。あたしは恋人がいなかったから…あたしを好きになってくれる人がいなかったから…仕方なかったの……どうせバカでブスでムネもないキャバ嬢だもん…ホストくらいしか優しくしてくんなかったんだもん。
でもあたしを好きになってくれる人がいたらさ、あたしはその人だけを…あたしは……」
「…それで君は、死のうと思ったの?ひとりぼっちだから……」
その彼の問いに、泣きじゃくっていた彼女は顔色を変える。
「それもあるけど……」
急に怯える様に目を見開く彼女。
「…ストーカーなの……」
「ストーカー?」
急な話につい叫ぶ彼。
「仕事帰りに後を
「じゃあ、この部屋にも入り込んで…?」
その質問に表情を歪めて頷く彼女。
彼は愕然としつつ、猛烈に腹が立ってきた。こんなに精神的に弱っている女性をストーキングして追い詰めるなんて、万死に値する。死ぬべきは彼女ではない。彼女は怯えて輪っかを掴む両手も小刻みに震えているではないか。そのストーカーこそこの世から消えて失くなるべきだ。
彼は思わず叫んでいた。
「オ、オレが助けるよっ…!」
「えっ?」
彼女は目を真ん丸にする。
彼はその目を真っすぐ見つめて、ニッコリ笑った。
「君、自分でブスとか言ってるけどそんな事ない。ポニーテールも可愛いけど、髪下ろしてたのも綺麗だったよ」
「そ、そんな…」
頬を赤らめる彼女。
少し恥ずかしそうに身をよじる姿に、その両足を抱えている彼もまた心拍数が上がる。急に彼女の体温を意識し始めて、ドキドキと……
「…うっ…」
そこで右腕の上腕二頭筋と
(オレが墜ちれば彼女は助かるかもしれない。
でもストーカーの恐怖は消えないだろう…彼女をストーカーの恐怖から救えるのはオレだけだ!
どうするっ…どうすればっ……?)
彼は生きがいを見付けたのだ。無性に生きたい。
そう思った瞬間にドッと噴き出した冷や汗が、こめかみや背中を伝う。
その時、彼女が叫んだ。
「あ、あたし、後ろに思いっきり飛ぶから、あたしの足に掴まっててっ…!」
彼女の表情には今夜初めて見る真剣さがあった。
生きたいという意志があった。
確かに彼女がそこまで協力してくれれば、助かるチャンスはある。彼女が後ろに飛んで輪っかから首を外した瞬間、自分も彼女の足に掴まったまま腹筋を使ってマンション側に勢いを付ければ、二人はそのままリビングに転げ入れるかもしれない。ガラスに飛び込んだりして大怪我をするかもしれないが、生きて還れるかもしれない──
「よし、やってみようっ…そんで二度とストーカーなんてさせないからなっ…!」
彼の力強い言葉に彼女の胸がまた熱くなる。何だか物凄く勇気が湧いてきた。
「イチ・ニのサンで飛ぶぞっ!」
「うんっ…!」
今自分は間違いなくこの人に惹かれている。
だって言ってくれたのだ、こんな自分を可愛いって…髪を下ろしてたのも綺麗だって……
「イチっ…」
─髪を下ろしてた時…?
彼女はふと気が付く。
確かに仕事から帰ってきてマンションに着いた時、この髪は下ろしていた。ポニーテールにしたのは首を吊るのに邪魔だったからだ。さっき屋上から降ってきた彼が、何故それを知っているのか?彼はいつ見たのだろう?
「ニのっ…」
─まさか…あたしを
もしかして彼の話したホストに嵌った
その人物像と自分が微妙にズレているのは、彼が既に現実と妄想の区別が付かなくなっているからではないのか?
そして彼が狙っているのは……
希望を持たせてからの、絶望的な
彼が彼女の顔を見て、笑った。
「サンっ…!」
次の瞬間、彼女の体は無理やり引っ張られて、ストーカーとその被害者はもつれるように落ちていった。
リビングルームのテーブルの上には一枚の便箋が置かれている。そこにはこう書かれてあった──
『一緒に死んでください』………
……ブゥゥ━ン……
ブゥゥ━ン……
薄く目を開けると、見知らぬ白い天井が見えた。自分は仰向けに寝ているようだ。
(ここは…?)
そう思っていると足元の方からドアをノックする音がした。
首を起こして見れば、白いナース服を着た中年の女性看護師が入ってくる。
「あ、起きられました?加湿器ちょっとうるさかったかな?」
指差す方向にノロノロと視線を移せば、自分が寝ているベッドの右脇のサイドテーブルに、小型の加湿器が置いてある。
ブゥゥーン……
反対側は窓で、白いカーテンを引いて閉めてある。カーテン越しの光が照らす壁もベッドも白いし、これはどう考えても病院だろう。つまり自分は、助かってここに運び込まれた…?
毛布の掛かった胸元は浴衣みたいな患者衣を着ているし、上に出している両手も包帯が巻かれ、本人には見えないが額や頬にも大きな絆創膏が貼られている。
そして足は…天井から吊られて……?
「アイテテテッ…!」
「あ、麻酔が切れてんですから、動かしちゃ駄目よっ…両足折れてんだからね、
両足が折れていると聞かされて、世にも情けない顔をする彼──
(一体どうなったんだ…?確か彼女の体が急に中に引っ張られて、ベランダに落ちて……)
そこまで考えて聖志はハッとする。
「そうだ、彼女はっ…彼女は無事ですかっ?」
「彼女…
「草葉っ…て言うんですか彼女…今どこにっ…?」
聖志がそう叫んだ時だった。
バアンッ!
「あ、目ぇ覚ましたの?大丈夫〜?」
ドアを乱暴に開けて飛び込んできたのは、白いワンピース姿で頭に包帯を巻いた彼女──
どうやら〈死の未来〉とやらは、変わってくれたらしい。そのまま看護師を押しのけて枕元まで来た野影に、聖志は安堵の表情で笑いかける。
「良かったっ…最後どうなったのか分かんなくて、オレ気を失ったのかな…?」
しかし野影は黙って聖志を見つめた。その固い表情を見て首を捻る聖志。
やがて彼女は意を決した様に口を開く。
「どうして……」
「ん?」
「どうしてあたしが、帰ってきた時に髪を下ろしてたって知ってたの……?」
野影は真面目な顔をしているが、聖志はポカンとしている。何を言われているか分からないという風情だったが、やがて彼はあっと言う顔をして、少し苦笑いして言った。
「ああ、ゴメン。ホラ、君のマンション、オートロックだろ。どうやって玄関ホール入ろうかなって思ってた時、ちょうど君がエントランスキー開けて入ってったから、後からコソッと追っかけて、その開いた自動ドアが閉まらないうちに入ったんだよ。その時髪下ろしてたろ?最初分からなかったけど、君があの時のコだって気付いたからさあ……」
聖志が話しているうちに、野影の顔はみるみる明るくなってくる。心を許したはずの彼への疑念が募って、不安だったのだ。
「良かったあ〜っ。あたし一瞬、あんたがあたしをストーカーしてんのかと思っちゃって…!」
『そんな訳ないだろ』と聖志が笑い飛ばそうとした時である。
「ふざけんなっ…お前がストーカーじゃねえかあ━━っ!」
室内に怒声が響き、何事かと聖志が首を上げて見れば、足元のドアの外に若い男が仁王立ちしていた。
サラサラの金髪で、紫色のスーツの上に白いテーラードジャケットを羽織っている。顔もいわゆるイケメンの部類で女性にモテそうだが、今は充血した目を吊り上げ、口角泡を飛ばして怒鳴っていた。しかも何故か右腕を三角巾で吊っている。その男が睨み付けているのは──野影である。
「朝から晩まで電話してきやがってよ、メールも何百通も送り付けやがってっ…そりゃあ店に来たらイイ顔するよ、ホストだからなっ!それでいちいち恋人気分になんじゃねえよ!お前のせいで俺は引っ越して、店も移籍したんだぞっ?なのにっ……
どうやって俺のマンション突き止めやがった?どこから合鍵手に入れたんだよっ…そんで人ん
何が『一緒に死んでください』だあ━━っ!」
「お、落ち着いてください、
怒りとショックでパニック状態の男を、背後にいた二人の制服警官が宥めている。
聖志は呆然としていたが、大体の事情は把握した。確かに野影は自殺の一番の原因を『ストーカーなの』と言った。それを終わりにしたいと語っていたが、ストーカーを
「てめえ、昼間にも一回入り込んで業者呼んで、ベランダの金具交換しただろっ?留守電に料金払えとか入ってたから、おかしいなと思って金曜なのに早く帰ってきてみたらっ…ふざけんなよっ!」
知里夫は喚き続け看護師は固まってしまっているが、聖志の枕元に立つ野影は動揺した様子もない。やがて彼女はニッコリと笑って、知里夫に向かって深々と頭を下げた。
「ゴメンなさい!」
「はあっ?ゴメンで済むなら、コイツら要らねえだろっ!」
『コイツら』と言われて警官達があからさまにムッとする。見たところ野影は軽傷なので、知里夫からストーカーの通報を受けて事情聴取に来たのであろう。その警官達にも野影は笑顔で頭を下げる。
「お巡りさんもすみません、お騒がせしました。あたし、恋人もいなくて寂しくて、つい大して好きでもないこの人に付きまとっちゃって…ホント、馬鹿でした」
「大して好きでもねえだあっ?」
知里夫はストーキングに困っていた筈だが、ホストのプライドを傷付けられたのか一段と声を荒らげる。
「でも、もう大丈夫。あたしにはこの人がいますから!」
そう言って頬を染めた野影が両手で指し示したのは、聖志であった。
「てめえ、誰だよっ?」
知里夫のみならず、警官達も看護師もベッドの上の聖志を訝しげに見つめる。
聖志は何とも応えようがなく虚ろに笑っていたが、ふと肩に手が置かれて見上げると、野影が笑顔で覗き込んでいる。聖志は黙って彼女を見つめ返した。
─自殺未遂のストーカー女…?どう考えても厄介なんだけど……
その沈黙に野影が不安になったのだろう、笑顔が消えて表情が曇る。その顔を見た時、聖志の胸に痛みが走った。あの地上十三階の夜空で、彼女を助けたいと思った気持ちが甦る。
─もしかしたら、この気持ちが未来を変えた…?
きっと自分も彼女も不法侵入やら何やらで事情聴取されて、逮捕されなくても罰金とかとばっちり野郎との示談金とかは免れられないだろうし、雑にストーカーしちゃう彼女のメンタルもヤバそうだけれど、どうやらもう理屈ではないようだ。諦めた様に微笑む聖志。
─しょうがないな……
「ええ、オレは彼女の恋人です。この度はお騒がせしてすみませんでした」
聖志の言葉に、野影は泣き出しそうな顔で笑った。
「もしもーし、うん、あたし。
えっ…あ〜ん、ゴメ〜ン、終電無くなっちゃって……ちゃんとメールしといたでしょ、あけなさんのお店に泊まらせてもらうって…いいじゃん、今日は学校お休みなんだから。ちゃんと〈死の未来〉伝えたんだからさあ〜っ。
…うん、そう、大丈夫だったみたい。マンションから救急車で病院運ばれてったっぽいけどね、死んじゃったんならこっちにもイヤ〜な感じ伝わるじゃん?なかったもん、それ。二人とも助かったと思うよ。でも何で助かったのかな?確かに未来って変えられるけど、それなりのきっかけはいるでしょ?
えっ、うん、ロープ写ってたよ。送った画像見たんでしょ?えっ、パパが何て…ロープじゃない?
〈吊り橋効果〉?」
〈吊り橋効果〉とは、一九七四年にカナダの心理学者グループが発表した〈吊り橋理論〉で唱えられている心理効果である。
一般的に人間の感情は『出来事の発生』→『その出来事の解釈』→『感情の生起』という経路で発生すると考えられている。恋愛で言えば『ある人物に出遭う』→『その人物の容姿や言動に魅力を感じる』→『心拍数が上がりドキドキする』となる訳だ。
しかしあるアメリカの心理学者が『出来事の発生』→『感情の生起』→『感情の解釈』という、感情が認知に先立つ経路も成り立つのではという仮説を提唱した。つまり恋愛で言えば『ある人物に出遭う』→『ドキドキする』→『これは恋?』という、理屈抜きの一目惚れ状態である。
カナダの研究グループはこの仮説を実証しようと実験を行なった─それが『恋の吊り橋実験』である。
実験は十八歳から三十五歳までの独身男性を集め、高さ七十メートルの吊り橋と揺れない橋の二ヶ所で行なったという。男性達を半分に分け、片方のグループは吊り橋、もう片方のグループは揺れない橋をそれぞれ一人ずつ渡ってもらう。その橋の中央で一人の若い女性がアンケートと称して話しかけてくる。女性は吊り橋側も揺れない橋側も同一人物である。橋の上でアンケートを終えた女性は男性達に『アンケート結果に関心がありましたら電話をください』と、電話番号の書かれたメモを渡す。
結果、吊り橋を渡っていた男性は50パーセントの確率で電話を掛けてきたのに対し、揺れない橋の方は僅か12・5パーセントしか掛かってこなかったと言う。
つまり、地上七十メートルの吊り橋を渡っていた男性達は、その高さと揺れに緊張して心拍数が上がり、その『ドキドキ』を女性への恋愛感情だと誤認して、結果ホイホイと電話を掛けてきた──これが〈吊り橋効果〉である。
「…じゃあその〈吊り橋効果〉のおかげであの写真の二人は仲良くなって、協力して生き延びたかもってわけ?へえ〜……パパってホント、そういう怪しい事よく知ってるね。さすが、予知とか念写とか言ってひかれてたママと結婚…ううん、何でもないっ!
でもそんな効果そん時だけじゃないの?後からやっぱり、あのドキドキは勘違いでしたな〜んて…うん?……そっかあ、なるようにしかならないかあ。え?いや〜、あたしなんてまだまだお子ちゃまだから分かんな〜い。
……そうだね、そん時は──
また〈死の未来〉、写しに行ってあげよっか」
こうして、未来が視える少女の