――犬将軍との戦いから、およそ一週間がたった。
五月も終わりかけ、急に暑くなってきて、僕は思わずハンカチで汗を拭く。
……まあ頬が熱くなっている理由はほかにあるのだが。
「おはよう、侑ちゃん!」
「……おはようございます、氷見さん」
茶化しながら笑顔で挨拶してくる氷見さんに、僕は控えめに、俯きがちで応答する。
「なーにぶすったれた顔してんだよ! かわいい顔が台無しだぞ!」
隣から浦和さんがガッと僕の肩をつかんで、顎をくいっと上げた。
「そーそー、せっかくかわいいのに真顔じゃもったいないってー」
「笑ってよー。笑ったほうがかわいいよ?」
……名前も知らない女子が寄ってたかってくる。鬱陶しいったらありゃしない。
それもこれも、この服装がいけない。僕は下にはいた「スカート」を軽く押さえながら、ひどく赤面した。
なんで僕は、女子制服を着て学校に通う羽目になってしまったんだ!
「新手のイジメですか……?」
「でも、まんざらじゃなさそうな顔してるよ?」
……かわいいかわいいと褒められて、確かに嫌な気持ちではないけど……!
男として大事なものが崩れていくような感覚を覚えながら、僕は今までのことを思い出した。
――さて。
物語は犬将軍戦直後へと戻る。
ぜえぜえと息を吐く僕。落とし穴の底は深いようで浅く、僕らは下の階層へと叩き落されていた。
目の前の犬将軍は、白目をむいて――油断する僕を素早い手刀で小突いた。
「最後まで油断はするものじゃないぞ」
忠告する彼女の顔は、しかしわずかに笑っていた。
「……悔しいが、大変悔しいが……仕方ない。お前の力量を認めよう」
しばらく休んでから告げられた言葉。
「ありがとう、ございます」
告げた感謝に彼女は「礼を言うんじゃない。……それは、お前が勝ち取った栄誉だ」と返し。
落ち着き払って、彼女は言う。
「それは本来、解き放たれてはならなかった願望器。いまも様々な精霊が狙っている。――ほら、いまも」
言いながら、犬将軍は玉座から一つの方向を指さした。
騎士の犬人間が捉えたのは、チンピラのようなプードルの犬人間。……もしかしなくても、何か月か前に僕を襲ってきた奴だろう。
「チクショウ、これがあれば一攫千金――」
「牢屋に放り込んでおけ。このように、お前のそれは常に狙われる」
犬将軍は諭すように僕に話しかける。
「もっとも、人間世界は精霊にとって不都合が多いのでそう攻めてくることはないだろうが……」
「……その分、攻めてくる精霊は強力ってこと、ですか」
「そうだ」
肯定した犬将軍。彼女は少し俯いて。
「そして、邪悪な意志を持つ者の手に渡れば――」
――最悪、世界が終わりかねない。
犬人間の言葉を肯定するように。
[世界の一つや二つ、滅ぼしたり再構成したり……まあ、そのくらいなら可能だな]
さらっと言ってのけた魔法の鈴に、僕は戦慄して。
「故に、お前を信じて託す。その力は正しく使えば、きっと世界はもっと良くなるだろう」
詰まる息。思いのほか重責だと緊張する僕。それを見て、犬将軍は僕の肩に手を置いた。そして。
「私にはできなかった可能性を、見せてくれ」
僕を見据えて笑ったのだった。
「ただし、まだ最低条件をクリアしたに過ぎない。その程度の力では、到底、他の精霊たちに敵いはしないだろうな」
「えっ」
――それから度々、犬将軍のほうから僕の家に出向いて戦闘の特訓をしてくれるようになった。地獄だ。というのはさておき。
その後、犬人間たちの持つ、指定した座標に人間世界と精霊世界を繋ぐゲートを作り出せる装置を使わせてくれた。
なんだその超技術はなんて思ったが、鈴のある場所――教室のど真ん中に突如犬人間が出現したのもこの超技術のせいだったと思えば腑に落ちた。なにをどうやっているのかは知る由もない。
こうして僕は直接、朝五時過ぎの学校の保健室へと降り立った。
早朝特有の静寂。澄んだ空気を肺に取り込むと、不思議と心地よさを覚える。
――ああ、戻ったんだ。生きて戻れたんだ。僕は……僕らは。
朝日は僕らを祝福するように、その小さな部屋に光を届けていた。
よろよろと歩みを進める僕。落ち着いたからか、急激な眠気が僕を襲ってきて――。
「……きて……起きて……起きて、侑くん」
その声に僕は薄目を開く。
知らない天井、ではないか。保健室のベッド。
「んぅ……」
僕の微かな呻き声。聞こえた吐息に喜色が混じっていたのは、きっと気のせいじゃない。
意識して見上げる。徐々に焦点があっていき、世界は鮮明に映し出され。
まずはじめに見えたのは。
「よかったぁ……」
泣きそうな顔で、しかし嬉しそうに僕を見つめる氷見さんだった。
……僕の隣で寝ながら僕を起こす、氷見さんだった。
「……おはようございます、氷見さん」
「おはよう……! ……生きてて、よかったぁ……」
挨拶を交わし、ほっとした様子で彼女は僕を抱きしめた。寝ながらである。
「わ、ちょっと」
「もう二度と会えないかと思ったよぉ……」
「そ、それはわかったですから!」
いいにおいがする……あったかくてやわらかい……。
そんな感想を抱きながら慌てる僕に「イチャつくのも大概にしときなー」と声がかけられる。名前は忘れたけど担任の先生だ。
ベッドを立つ氷見さん。そういえば担任の顔をまともに見るのも初めてかもしれない。
その一見若々しくありつつもわずかに目立つほうれい線が年齢を感じさせる女性教師は、ため息を吐きながら面倒くさそうに告げる。
「とりあえず吉水、伝えたいことが三つある」
僕は上体を起こした。
――一つは、氷見さんが自分から志願して、夜中ずっと僕の世話をしてくれていたこと。昼間に僕が倒れてから、深夜に僕が起きてくるまで、保健室で、ずっと。
多くのクラスメイトから心配されていた僕の様子を見続けて、たびたびクラスのチャットに流していたとのこと。
精霊云々は流石に隠されたそうだが、魔法少女の世界に旅立っていったことは伝えられていたらしい。
……死んだことの比喩だと思われて誤解を解くのに二時間近くを費やしたそうだ。僕の隣で寝ていたのもそれで疲れ切って寝落ちしたからだ……と本人は言っている。
二つ目は魔法少女のことについて。魔法少女の話はもうあまりにも拡散されているため収拾がつかないかもしれない。僕はあまりにも目立ちすぎてしまった。
きっともう元通りの平穏とはいかなくなるぞ、と忠告された。
「問題ないです。人と向き合うってきっとそういうことだから」
そう答えると、担任の先生はため息を吐きつつ。
「いいんじゃないか。がんばれよ」
とエールを送られた。
そして、三つ目。
「ところで、制服だが」
――そういえば、いま何を身に纏っている?
答えは男子制服――だったものだ。
精霊の世界で無茶をしすぎたらしい。もう布地はボロボロで、ズボンには穴も開いてしまっていた。匍匐前進したからか、ブレザーもボタンが外れ傷があり、ワイシャツはいくらか破けていた。
「これはもう買いなおしたほうが安くつくだろう。しかし、買ったとして制服が届くまでに時間がかかる」
氷見さんが何故かニヤニヤしている。どうしたのだろう。
その理由はすぐに理解することになった。
「しかし、残念なことに、学校にある予備の制服はいま女子用しかない」
僕は頭を抱えた。
「お前には二つの選択肢がある。このままぼろぼろの制服を着て教室に戻るか、女子制服を着るかだ」
「常々思ってたんだ。侑くんってズボンよりスカートのほうが絶対似会うよねって……」
普段ならあり得ない選択肢。そして氷見さんの衝撃的な発言。
「ま、まさかだけど」
「なぁに?」
「たびたび僕を一緒に帰ろうって誘ってたのって……」
氷見さんは悪戯っぽく笑って。
「うん。一度でいいから、きみにスカートを履かせたかったの」
だから、僕を放課後に誘っていた。ブティックか、自分の家か。そのどちらかに連れ込んで――僕を女装させたがっていたのだ。
思わぬ事実にベッドに倒れ込む。
「……せめて、スラックスとかありませんかね」
「残念ながら出払っている。スカート一択だ」
絶望した。脳内にベートーヴェンの運命が流れた。
時計を見るともう七時半を回っていた。早めに登校してきた生徒たちのやかましい話し声が聞こえる。
いまから家に帰ってまた登校したら遅刻してしまう。そもそも家に帰ったって洗い替えの制服なんてものはない。
実質一択しかない二者択一を前に、僕は顔を真っ赤に染めながらこう言うしかなかったのである。
「スカートの着方、教えてください……」
その時の生き生きとした氷見さんの姿を僕はきっと忘れることはない。
――そんなことがあった一週間前のことを思い出しながら、僕は女子にいじくられていた。
抵抗はしない。抵抗しても無駄だろう。それに。
……案外、こんな生活も悪くないな。そんな風に感じていた。
名前は覚えきれてないが、クラスメイトのみんなと話すようになって。
それで、僕の物語はようやく動き出したのかもしれない。
きんこんかんこんとチャイムが鳴る。授業開始。席につく生徒たち。僕もあわててカバンから教科書を出す。
隣の席の黒髪の女子が、僕を見つめて軽く微笑んだ。
そこに邪推はない。何を思ったのかは知らないけど、きっと悪くは思ってないんだろう。そう思えて、僕もわずかに笑った。
なら、一歩だけ、踏み出してみようかな。
「なにをするのにゃ?」
再び僕の幻覚になったうるかの声。僕はこっそり微笑んで、心の中で告げた。
便所飯脱却さ。
僕は決心した。途端に、胸が苦しくなる。
断られるかもな。断られたら、きっとしばらく立ち直れないかも。
やらなきゃ。いや、やりたい。
動き出さなきゃ、何も始まりやしないから。
「あっ、あの」
小声で、僕は氷見さんを呼ぶ。
「なに?」
僕のそばに近寄る彼女に耳打ちするように。
――僕は、一歩を踏み出した。
「今日、お昼ご飯、一緒に食べませんか?」
「いいよー」
軽々しく言った彼女に、僕は面を喰らう。
「そそ、そんな簡単にオーケーしちゃっていいんですか!?」
「うん。いいよねー」
そう言うと、浦和さんは少し逡巡してから指で丸を作った。
「ねっ」
「ねって……」
苦笑する僕を、氷見さんは笑って。
「もう友達でしょ、魔法少女くん」
それもそうか。じんとする心。
夢はまだあるけど、今日ようやくその一つが叶う。なんだか感慨深くて。
ぐう、と腹の虫が鳴いた。
「ふふっ。どこで食べよっか」
笑う氷見さん。僕も笑いながら希望の場所を伝えた。
「じゃあさ、中庭なんてどうですか? 二人きりで、ベンチに座って――」
Fin.