「……驚いた。まさか、生きた人間のままこの世界に足を踏み入れてくるとは」
声。犬将軍の声。
視界が少しずつ回復する。
「よほど執着が強いと見える。所詮は私たちと同じ知的生命というわけだ」
眩暈が治っていき、周りを見渡す。
――大広間、と言えるような畳敷きの広大な空間。その中央に僕らは放り出されていた。
右手には西洋風の金属鎧を纏った兵士、左手には日本風の甲冑を纏った兵士。奥にはチワワコマンドーをはじめとする様々な犬人間たちが、跪いている。まるで、僕を待ち伏せていたかのように。
そして、正面に西洋風の玉座。そこには中華風の衣装を身に纏った犬将軍が鎮座していた。
和洋折衷をはき違えたかのようなカオスな空間。しかし犬将軍の存在感がそれらの違和感を打ち消していた。
「どうでもいいにゃ。あたしたちの命を――返せッ!」
駆けだすうるか。しかし、哀れな子猫はすぐに押しつぶされることになる。
ズドンと衝撃が走った。
全身が押しつぶされる感覚。飛び掛かるうるかにも、同時にかかったようで。
「びゃあっ!?」
空中から叩き落されていた。
「な、にを……」
「本当に、叶えられるというわけか。――重力をも自由自在とは」
――鈴を使って重力を操って、僕らの動きを止めたというわけだ。
「動け……うご、け……!」
わずかに這いずることはできたが――さらに重力は強くなる。
周りの騎士の犬人間や、その周囲の犬人間たちには効力は及んでいないらしい。僕らにしか効いていない、というより周りに効力が及ばないようにしているらしい。
犬将軍は僕らを一瞥して。
「……なるほど、守り人の娘か」
唾棄した。
「あの馬鹿な駄猫、どうしてこれの存在を我々に示したのだ。これの奪い合いで戦乱になる未来など、容易に見えただろうに」
「父さんのこと、悪く言うにゃ……っ!」
「いいや、流石の私でもあれは愚策だったとしか言えない。魔法の鈴の存在を、伝説の実在を公開するなど……!」
犬将軍の怒りに満ちた口調。僕は気圧され、しかし目を見開いた。
「希望は毒だ。それを求め、誰もが蜂起する。結果として、多くの同胞たちが争い、そして消滅した」
「……」
「何を思って鈴を見せびらかしたかはもはや知る由もない。本人は自ら命を絶ってしまったからな。ただ、もしも大国がこれを手に入れたらどうなるか……想像に難くない」
そして彼女はうつむいて、唇を噛み。
「……故に、我々もこれを狙わぬ選択肢はなかった。大国より先に手に入れ封印し、自らの身と国を守るために。故に余計な軍事力と諜報力を、国防とこれの奪取に懸けてきたのだ」
手元に鈴を転がしながら、僕らを睨みつけ。
「若造――否、魔法少女。そして守り人よ。我々はお前らを信用しない。故に、私が引導を渡してくれようッ!」
力強く言い放った。
「させ、る、か――ミギャっ」
強く押しつぶされたうるか。ちいさな猫の姿になった彼女に僕は手を伸ばそうとして。
冷えた目の犬将軍はその犬歯をむき出しながら口にする。
「ああ、守り人の娘よ。何故牙を剥いた。息を殺して、黙って、空気でいれば――あるいは、殺さずに済んだかもしれぬのにな」
「違うっ!」
思わず僕は声を上げた。
「……ほう。どう違うというのだ」
犬将軍の冷たい黒の瞳は僕に向けられる。
「鈴をさっさと明け渡し、どこかへ逃げ隠れる選択も出来ただろう。それをせずに抗ったから、命を狙われ、現にこうして殺されようとしている。それがどう違うというのだ」
――犬将軍の言うことはあってるさ。僕だったらきっと負けていた。守るものも守れずに、奪われていた。
でも。
「動き出さなきゃ、何も始まらなかった」
僕は、立ちあがった。
「うじうじして、悩んでばっかで何もしないほうが楽かもしれないけど……それだと、僕とも会えなかった! 独りで奪われ続けて、そんなのただ辛いだけじゃないかッ!」
刮目する犬将軍。強まる重力。されど。
「何故。何故、何故立ちあがる! 立ち上がろうとする!!」
「動き出した勇気を、笑うな…………ッッ!!」
血が滴った。体は崩壊を始めているらしい。
でも関係ない。僕は怒りによって突き動かされていた。
「ああそうか……そうか……!」
哄笑する犬将軍。叫ぶように。
「あくまでも、運命に抗おうというのか! ならば私はねじ伏せよう!! 我々の信念のために!!」
骨が悲鳴を上げた。
歪む体。再び地面に押さえつけられる。
漏れる呻き声。しかし、眼光は失せない。
板張りの床に腹を擦って、片手で体を前へ前へと押し上げる。
――いま横にいる猫は、目を見開いた猫は、なにを思うのだろう。
逆転の一手を探っているのだろうか。それとも、僕の怒りに何かを感じたのだろうか。
彼女は、涙を流していた。
涙を流して――ひとつ、泣き声を上げた。
「にゃ……」と静寂に響いた蚊の鳴くような声。
――そういえば。
――うるかが「止まれ」って願えば鈴は機能を一時的に停止する。一度だけ、鈴はそう告げていた。
いわば緊急停止ボタンの役割。意識すらしてこなかった一言。僕は思い出し。
「やりおったな……ッ」
重力が、軽くなった。
いつもより動きは鈍いが――それでも、さっきよりかはマシだ!
「うああああああああああ!!」
叫んだ。
突進する僕。犬将軍の驚愕。狙う一点。――犬将軍の手の中。
どうする。考えても無駄か。
そうして僕はただ願った。
どうか、これからも生きられますように。ようやくできた友達のために。いままで見向きもしなかった想いに向き合うために。愛されるために。必要とされるために。弱い自分を壊すために。罪を、償うために。
「僕は、生きなきゃいけないんだぁぁぁぁぁ――!」
指先が崩壊をはじめ、血が飛散する。
――タイム・イズ・オーバー。言葉が脳裏をよぎる。
もう駄目なのか。
犬将軍の、固く握りしめた掌の中。飛散した血液が、偶然にもその中にかかってしまったのに、僕は気付くことなく。
薄れ始めた意識、その中で僕は確かに、声を聴いた。
[幸運だな、少年。――血がもう一度、最期の願いを運ぶとは]
ちりんと鳴った、鈴の声。
崩壊を始めていた指先はいつの間にか元に戻っていて。
鈴は床に転がった。犬将軍は鈴を落としていた。――血が運んだ「生きたい」つまり「鈴を取り戻したい」という僕の願いが、そうさせた。
ここからは、願いの強さの勝負、ということか。
拾おうとする犬将軍と僕。
「私が、封印――」
「生きてやる……生きるんだ――」
衝撃と、耳鳴り。視界はホワイトアウトして。
――次の瞬間、鈴は僕の手元にあった。
息を切らした僕の掌の中の冷たい感触。鈴はちりんと音を立てる。
――深呼吸した。僕は。僕は――静かに微笑んで。
「やった。これで、後は帰るだけ――」
だと、思ったか。
失念しそうになっていた。僕は、彼女の存在を。
「鈴を返せッ!」