イヤホンに流す音楽は一昔前の邦楽ロック。最近の曲は少しわからない。
何事もなく登校して、外したイヤホン。
「おはよう、ございます」
小さく挨拶すると、返ってくる「おはよー」という気軽な声。
……挨拶ができるようになっただけ、前よりかはマシになった、のかもしれない。
今日は誰にも占領されていなかった自席に座ると、隣の席の氷見さんが笑いかけてきた。
――少しだけ、心臓が高鳴って。
ニヤニヤする猫少女の顔が脳裏に浮かんで、軽く頭を抱えた。
「ねぇ、侑くん」
僕は息を吐いた。机に体を預けながら。
「侑くんってば」
体がゆさゆさ揺らされて、余計に眠気がして。
「ふぁぁ……」
「侑くん、ねえ、聞いてる?」
――僕は気付いていなかった。呼ばれていることに。
「呼ばれてるにゃんよ」
「誰に?」
「あやめちゃんに」
……あやめって誰だっけ。そんな一瞬の思案と、思い出す「彼女」の名前。
「氷見さん!?」
「さっきから呼んでたのにー」
眠気で気づけなかった。
「ご、ごめんなさい」
「いいんだけどね。……あ、でも」
微笑んで許してくれた彼女は、しかし少し考えて。
「じゃあさ、ちょっと放課後付き合ってよ」
そう言ってきた。答えはもちろん。
「お、お断り、します」
「なんでよー!」
頬を膨らまして怒った彼女。かわいい。けれど、僕は冷や汗をかいていた。
「……なんか、嫌な予感がするから、です」
とても失礼ながら、そんなことを思ったのだった。
「ただの予感なんてどーでもいいじゃん!」
「いえ、で、でも」
「じゃあじゃあ、一緒に帰るのはダメ?」
「え、あ、あ……」
目を逸らし冷や汗だらだらで息を詰まらせ。
だめだ……そんなに強く押されちゃうと――。
「ひゃ、ひゃい……」
だめだ、断れない!
午前中最後の休み時間。ぐうと腹の虫が鳴いた。
「はぁ……」
「……んっ……ふぅ……なにかオナやみですか、せーんぱい」
美袋さんが個室の薄い壁越しに冗談めかして聞いてくるのが聞こえた。
――彼女とはあれから便所飯仲間としてちょっとした雑談なんかをするようになっていた。とはいえ、たいていは彼女の方から話しかけてくるのだが。
「弁当を買い忘れただけですよ」
「ということはおにぎり?」
「そうです。……ちょっと物足りないです」
鮭のおにぎりは十分にしょっぱくておいしかったが、それだけじゃ少し物足りなくてため息を吐いていた。
僕はこれでも男子高校生。食べ盛りにおにぎり一つは少しつらい。
「でも、それだけじゃないでしょ先輩」
げ、ばれてたか。
もう一度ため息を吐いて、僕は少し詰まりつつ、一時間くらい前にあったことを話した。
「へー、デートのお誘いおめでとー」
「そんな大層なものじゃないですって……たぶん」
どーせ僕をからかってるだけだ。
「じゃあいかないの?」
「いきますけど……」
断ったら嬲り殺されかねないし――なんてする人じゃないのはわかってるけどさ。
スマホの時計を見ると、昼休みはもう終わりかけていた。
「なら楽しんできなよ、せんぱい。こういうイベントは楽しまないと損だぜーってな」
扉越しの笑う声に、少し緊張がゆるんだ気がして。
いやいや、なんでそんな言葉に安心感覚えてるんだ。おにぎりを包んでいたフィルムをぐしゃっと握りつぶす。
バッグの中のペットボトルをぐっと飲みほして、ぷはっと息を吐き。
「わかった、です。ありがとう、美袋さん」
ぎこちなく礼を言ったのだった。
そして放課後。
「にゃあ……」
歩きながら欠伸をした僕に、隣を歩く氷見さんが聞く。
「眠い?」
「あっあっ、す、すみませんっ!」
「なんで謝るの?」
「あっ、えーっと、あっ……」
こんな感じの会話になってない会話を交わし。
やがて、話すことがなくなって、互いに無言になる。
うぅ……気まずい……。
そんなとき、突然。
「あっ、ねこだ」
「にゃんっ!?」
僕の方を指さして彼女は言ってきた。
……まさか、バレてる? 僕が猫の精霊と一心同体――つまりほとんど猫だってこと!
「だから! 猫じゃないにゃんっ!」
「そんなに驚いてどうしたの? ……ほら、後ろ」
同時に二人の女の子の声。どうやら氷見さんが指さしていたのは僕の後ろだったらしい。
うるかは……いつものことだけど、なんかごめん。
振り向くと、黒い猫が、尻尾をピンと立て、すまし顔で「んにゃー」と鳴いた。
よく人慣れしているようで――あるいは僕から同族の匂いを察知したのかもしれないが――その猫は僕らのほうに近寄ってきて。
「んみゃ」
一言鳴いて、ぐるぐると喉を鳴らし、かがんだ僕の膝に頬ずりした。
「かわいいっ!」
目を輝かせて黒猫に駆け寄る氷見さん。黒猫は喉を鳴らして二人に大人しく撫でられる。
……僕にもこんな風に愛嬌やコミュ力があればなぁ……なんて猫相手に嫉妬してため息を吐く。
「どうしたの?」
「なんでもない、です」
少し目を逸らしつつ告げると、氷見さんは不意に黒猫の頭から手を離し。
「そういえば、最近の侑くん、猫っぽいね」
冗談めかした軽々しい口調で、ずいぶんと直球に聞いてきた。
「そ、そんにゃこと……」
「にゃって言ってるし。たまーに猫耳や尻尾まで見えちゃう」
「にゃんっ!?」
慌てて頭の上をまさぐった。「流石に冗談だよ」と笑った氷見さんに、一人だけ慌てていた自分が馬鹿らしくなって、少し眉間にしわを寄せる。
「なんでそんなこと言ったんですか」
訝しげに問う僕に、彼女は愛おしいものを見るような目つきで――それこそ、目の前の黒猫に向けていたのと同じ目で、僕を見つめ。
「ただ、侑くん前よりかわいくなったなーって」
ぼっと燃え上がるように熱くなる顔面。少女の伸ばされた手は、僕の頬に触れ、唇の横を通り過ぎ、顎を撫でた。
「んぅ……」
何とも言えない胸の温かくなるような感じに、思わず出た声。目を細める僕を彼女はじっと見て。
「ほら、とってもかわいい」
……ほらって言われてもわかんないよ……。
息を吐いて、喉が苦しくなって。
一歩後ろに下がって、僕は深く息を吸って。
「あ、ありがとうございますっ」
勢いに任せて言った。
その声に驚いて、黒猫は逃げて行く。
「じゃ、じゃっ、これで……」
僕も踵を返そうとすると「待って」と声がかかって。
振り返ると、氷見さんは照れくさそうに少し口元を歪めて、それから微笑んだ。
「また、明日」
――そんなことを言われたのは、はじめてかもしれない。
きっと僕はいなくていい存在だった。いまもそう、そのはずなのに。
とたんに詰まる息。なにも返せず俯いて、僕は駆けだした。
……明日。また明日。「明日も会いたい」と言われた。望まれた。当たり前のように。
僕はもうすでに、彼女にとっての日常に組み込まれてしまった。その認知が、心臓を熱く熱く熱く熱く燃え上がらせて。
もう息もできなくなるほどに走った。痛む肺に冷たい春の夜を取り込んで。
ゲホゲホとむせながら、僕は「なにやってんだ」と自分に笑った。
なんで、なんで。
こんなにも、胸があったかいんだろう。
――人に望まれることって、こんなにも充足感を覚えることなのか。
「……」
公園。顔をあげるとうるかが目の前にいた。
猫耳の少女は、にゃあと一言だけ、悲し気にないて、そのまま消える。
これじゃあ何を伝えたかったのかわかりやしない。
ただ、どこか悲しいような気持ちだけが、直接伝わった。
整ってきた息。深呼吸して、僕は上を向いた。
都会の分厚い大気に覆われ見えないはずの星が、少し見えた気がして。
……空ってこんなにもキレイだったんだ、なんて思って、ふふっと声を出した。
僕の日常が変容する、その前夜であった。