「――っ!!」
がばっと上体を起こすと、体中に激痛が走る。
「っ……たた……」
荒く息をして、どうにか呼吸を整えようとするが――冗談じゃない。あんな夢を見た後でどう落ち着けというのだろうか!
「ふー、ふー……」
「だ、だいじょうぶ? おにいさん」
息を吐く僕に、聞きなれない声。どこかで聞いたような、少女の。
辺りを見回すと。
「やっぱり蘇生失敗したにゃ?」
[そんなことはないはずなんだが……どうだかな]
呆れたような男の声。これも聞いたことがあるような。
……ここは僕の自宅。カップ麺やレポート用紙やらが乱雑に転がる、汚いアパートの一室。
僕は軋む頭を押さえつつ、おそらくキッチンか玄関方面――どちらも同方向にある――にいるのであろう謎の来訪者のほうへと這いずり。
「…………」
目を合わせた。
鈴を片手に持った、白い猫耳のついた茶髪の、だいたい小学三年生くらいの小さな女の子。ぶかぶかのパーカーをワンピースのように着こなし、その裾から短く太い茶色と白の尻尾をのぞかせている。左は金色、右は透き通った緑色の瞳がきれいな美少女。
そう、その姿はどう見ても、あの夢の――。
「にゃ……」
――その夢に出てきた猫耳の、というか三毛猫の女の子は、ひどく怯えた様子で僕を見ていた。
ここで僕の姿を顧みようと思う。
呻き声を上げながら這いずり寄ってきた、布団を被って黒に近い焦げ茶色の髪を振り乱した、まさに怪異。
「にゃああああああああああ!?」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
僕らは二人して悲鳴を上げた。
[やれやれ、先が思いやられるな]
鈴はちりんと、呆れるような音色を奏でた。
カチッと小気味よい音が響いて、電子ケトルは中の水が沸騰したことを告げる。
ぐう、と腹の虫の音。ラジオの天気予報。僕はカップラーメンを一つ開けて。
「……その、いりますか?」
「いらないにゃ」
軽く髪を梳いてどうにか身なりを整えた僕は、息を吐いてお湯を注いでいく。
じゅう、というこれまた小気味よい音と共に、僕は尋ねた。
「あなた……たち? は、一体どちらさまですか?」
[そこは私から答えるとしようか]
脳内に響くダンディな男の声。音源は一体どこか。スマホのタイマーをセットしながら探ると。
[ここだ。少女の掌の中]
再び声がした。
思考を読まれていることに僕は一抹の恐怖を抱き、背筋に悪寒が走る。
「まあ、信じられないか。このかわいい鈴からこんなオッサン声が出るなんてにゃ」
少女が告げながら、掌の中を見せる。
――直径一センチ程度、ほんの小さな、猫の首輪についているような丸い鈴。それが、あの声の正体だった。
[私は『魔法の鈴』。触れた相手の願いを可能な限り無尽蔵に叶える究極の願望器――と、精霊の世界では言われている]
「まず精霊ってなんです?」
[この猫みたいなやつのことだ]
「猫とは失礼にゃ!」
そう言ってその少女は猫耳をぷるりと一瞬閉じて、声を荒げた。
「あたしは精霊。猫型族、鈴の守り人のうるか! 本物の猫じゃにゃいもん!」
それにしてはずいぶんと猫っぽく見えるのだけれど、それは置いておくとして。
「要するに?」
[可愛いだろ、うちの子]
僕はあきれた目で、目の前の机に鎮座した小さな鈴を見つめた。
――精霊は別世界の、人間世界の小動物の姿を真似た超自然の精神生命体だということを教えてもらったのは、それからしばらくしてからの事だった。……まず精神生命体ってなんだ。そしてそれ以前に。
「……そもそもどうして僕の部屋にいるんですかね」
一瞬なじみそうになったが、それとこれとは話が別だ。
忘れそうになっていたが、いまは知らない人間……人間、なのか? 知らないがとにかく他人が家に上がり込んでいるという異常な状況。
「え、お兄さん今の状況わかってないのにゃ?」
[わかるわけがないだろうが。だって死んでいたんだから]
その鈴の言葉。血の気が引く。
「どういう――」
聞こうとして、ようやく思い至った。
さっきの、僕が猫の少女――うるかちゃんをかばって死ぬ光景は、もしかして夢じゃ――。
息が詰まった。
――なら、なんで僕はここに存在してるんだ?
僕は自分の手を見つめた。
死とは不可逆の現象のはずだ。黄泉返りだなんて、二千年近く前にどこぞの宗教の教祖がして見せたことくらいしか知らない。
ならば、僕は――死から蘇った僕は、一体なんなのだろうか。そしてどうして蘇った。
そこで僕は一つの可能性に思い至った。
『魔法の鈴』、それは願いを可能な限り無尽蔵に叶える究極の願望器。すなわち――。
[そうだ。君の血が最期の――もう最期ではなくなったが――願いを運んだんだ。『もっと生きたかった』という願いをな]
僕は目を見開いて。
「け、けれど、死んだ人間を蘇らせることなんて」
[魂はどうにでもなるさ。呼び戻せばいいだけだからな」
当たり前のように、鈴は言い放った。
「問題は魂を受け止める肉体。ほとんどミンチだったので、足りなかった分をそこの精神生命体で補って、どうにか君の魂の受け皿を作ったのさ]
わけがわからなかった。
「え、でもうるかちゃんはそこに――」
「あたしは幻みたいなもんにゃ。他の人には見えないし、声も聞こえないにゃん」
寂しいにゃー、と鳴くうるかちゃんを横目に、僕は頭を抱えた。
理解不能。理解不能。僕はうるかちゃんと文字通りの「一心同体」になってしまったことはどうにか理解できたが、故に。
「どうしてそうなった!」
他人の命を使ってまで生きたいなんて思いはしなかった。はずなのに。
[願ったのだろう? 『そうしてまでも生きたい』と]
底冷えするような声が脳内に響く。
ひっ、と息が詰まる。何も言い返せない。
「……ちゃんとあたしも承諾したにゃ。命を賭してまであたしを救った若き恩人を、みすみす殺したくはなかったから」
軽い口調で、しかしうるかちゃんはまじめに告げる。
「助けてくれて、ありがとうにゃ。……この恩は、返しても返しきれないにゃ。だから、せめてあたしの命もいっぱい使って、いっぱい生きるにゃ」
「……そんなの、申し訳ないですよ。僕なんかにそこまでする価値」
「あたしにとってはあるにゃ。……きみが思ってる以上に、きみはとってもいいひとにゃ」
ぴょんとテーブルをひとっとびして僕の膝元に飛び乗ったうるか。胡坐をかいた僕の足の上に座って、彼女は僕の顔を見上げて。
「だからこれからよろしくにゃ、お兄ちゃん!」
そうして、粒子となって消えていった。
驚愕するのも一瞬。
「……ああ、わかったよ。よろしく」
胸のあたり――僕の体の中に息づくもう一つの命に僕は微笑みかけた。
そんなときだった。
どこからか悲鳴が聞こえた。