旅館について部屋に入ると彩葉の綺麗な目がおかしなくらい見開いた。
「わ!? え、待って、前よりお部屋のグレード上じゃない? え? なんで?」
「当たり前じゃないですか。前と同じなんてしませんよ。あれは湊くんが用意した部屋だし、そんなのと同じにできません」
この温泉旅行は、前回出来なかった事を叶えるためなのに、それが前と同じ部屋なんて意味がない。前よりより良く、上書きできるくらいじゃないと。
忙しなく部屋中を見回した彩葉の顔が最後に僕の前で止まる。
「でも前の部屋も広かったよ?」
「だから何ですか? いいじゃないですか、夕食だって宴会場じゃなく、個室に用意してくれますから誰にも邪魔されず二人でゆっくり食事できますよ」
宴会場で夕食なんてしたら、この人はまた中居さんに注がれるままに何杯ものビールを飲み続けるに決まっている。たとえそんな事になったら僕が全力で止めるんだけど。
だけど、今日は周りを気にせず食べて欲しいし、飲みたいものを飲みたいように飲んで欲しいから宴会場ではなく個室で食事ができるプランにしたのだ。
と、
そう考えていたのに、
部屋から移動した食事用の小さな個室で、彩葉は飲む量を抑えている。前回の反省からなのか、瓶ビールを二人で一本と、オススメの日本酒をちびりちびりと呑んでいる。
「お肉も美味しいけど、お刺身も美味しいし、ああ、こっちの天ぷらもサクサク――」
あまりの美味しさに落ちる頬を手で包み至福の表情をする彩葉を眺める。
だがセリフに既視感があるのは気のせいではないだろう。
「前も同じこと言ってましたよ?」
「前? あの時も美味しかったけど、最後だと思ってたからこんなにゆっくり味わえなかったんだよね。だから今日はとびきり美味しい!」
「じゃあ今日はゆっくり味わってください。それにそんなに気にいったんならまた来ましょうよ。ここでもいいし、違う所でもいいし、ね?」
「うん。行こう! いっぱいいろんな所に行こうね!」
そう無邪気そうに笑う顔を見るだけで僕は気分良く酔えそうだった。
「もうお腹いっぱい。満足です。ごちそうさまでした」
「僕も、ごちそうさまでした」
ふう、と息を吐き出す彩葉の側に寄り、手を差し出す。
意図を察した彩葉が照れながらも嬉しそうに僕の手に手を重ねる。
「ちょっと散歩しながら部屋に戻りましょうか」
「うん、そうだね。お腹いっぱいだからゆっくり歩こう?」
「もちろんですよ」
いつもの半分以下の速度でゆったりと旅館の廊下を歩く。少し酔っているのか彩葉が揺れて肩がトン、トン、と当たる。
ただの酔っ払いの所業なら不快に思うはずなのに、彩葉だから全く不快ではない。むしろ、愛しいとさえ感じる。
彩葉も自分が揺れている事に気付いたのか、こちらを見上げてにへらと顔を緩め、へへっ、と笑った。
会社じゃこんな顔、絶対に見ることは出来ない。
それが僕の前でさらけ出してくれる事に何とも言えない優越感を抱く。
「ねえ歩くん、見て見て!」
彩葉が指差すその先は旅館の庭園だった。色付いた紅葉に石灯籠のやわい灯りが幻想的な雰囲気を作っている。
「綺麗ですね」
「うん。……はあ。落ち着く。なんかここだけ時間がゆっくり流れてるような感じしない?」
「ああ、言いたい事は分かる気がしますね」
その空間だけ現実から切り離されたような特別な景色で、赤い葉が一枚ふうわりと落ちていく様さえ絵画のように見える。
きっと、この景色を僕が「美しい」と思えるのは隣に愛しい彩葉がいるからだろう。
彩葉がいるから僕の世界がどんどん色付いていく。
世界が明るく照らされる。眩しいほどに――
「歩くん? どうした?」
「……いえ。なんでも」
「そう? そろそろお部屋戻ろうか?」
ほら、こうやって僕の心を優しく掬ってくれるのはいつも彩葉なんだ。
もう離さないとばかりに繋いである手にぎゅっと力を入れて、僕たちは部屋に戻った。