まるで殺人者だった。シャワーを浴びようと風呂場に入れば鏡の中に二十代の女の全裸が映る。頬や髪の毛に血液が飛び散っていた。ポニーテールにしただけのブラウン色の髪の毛に黒い血の塊が付着している。隈が酷い。ハイライトのない肌は実年齢より老けて見える。私はポニーテールを解き、冷たい水を頭から被った。
なにかに不満があるわけではない。だが、なにかが埋まらないのだ。強烈になにかを求めているし享受したい。それを思うたびに頭の中には紺野が横切るのが腹立たしかった。
紺野はよく自身の身の周りの人間に紙幣を渡していた。豪快にスーツの胸ポケットに捩じ込んでいるのだ。私はそれが羨ましくて、彼が捩じ込み易いように制服のポケットを必ず空っぽにしていた。努力虚しく、紺野は私に高値なブランド品である財布を買い、その中に多額の紙幣を入れ渡してきた。男の女の違いを見せつけられた気がした。あのときの私は男と同じように扱われたかった。
アンタさぁ、美人なんだからそんな安いシャンプー買うなって。
金を与えられ、美人と高価はイコールだと教えられた。父と母のおかげで安い物しか使えなかった髪の毛は紺野に与えられたシャンプーを使用し、たった三日で艶やかになったのを覚えている。そんな思い出を携えた愛用のシャンプーを手に取り、髪の毛に絡めていく。
「……おい」
「なに…?」
髪の毛を洗い終え、シャワーの蛇口を閉めたときだ。外から声が聞こえてきた。安静にしていろと言ったはずの桐野の声だ。……ここまで歩いてきたのか?
「でん、わ」
「……どうも」
私は裸のまま風呂場から出る。そこには紺野より身長が高いんじゃないかと思わせる男が立っていた。私は桐野にスマートフォンを差し出される。私のスマートフォンだ。体が上手く動かないのか桐野は脱衣所の壁に身を預けた。
「もしもし?」
〈……めい、女が薬を過剰摂取して伸びてるんだがどうしたらいい?〉
「息は?」
〈残念ながらあるな〉
冷静な男は嘲笑うように言葉を放つ。紺野の語気は死んでくれていたほうが楽だった、という感情を孕んでいるものであった。だが、そんな感情を抱えながら殴り殺さないで私に電話を掛けてきた。そこには理由があるはずだ。脳みそが回転した。風俗の女の子が自殺を図ったか。高跳びは困る、というわけだろう。
「なにを飲んだ?」
〈メトプロロール〉
「状態は?」
〈死にそうだな〉
「アトロピンを静脈注射。救急キットに必ず入っている」
私のその言葉に紺野は電話口で誰かに指示を始めた。数秒し電話口がより騒がしくなる。
「さすがだ」
〈賞与期待しています〉
紺野は私の言葉に、ははっと笑い電話を切った。私は目の前で血の気が引いている桐野を見つめる。自分の髪の毛から雫がぽたり、床に落ちるのを感じた。
「戻るのに手伝いがいるか?」
「……ほざい、てろ」
桐野はそう吐き捨て、壁伝いに脱衣所を出ていく。私もシャワーを終わらせ、身支度を整えてから診察室に向かった。扉を開ければ相変わらず血液の香りが漂い、私は軽く溜め息を吐いた。骨の髄までこの香りに侵食されている。昔は父と母のおかげで薬物の甘い香りをよく嗅いだが、今では体内に入る大抵の空気は血の香りを携えていると思う。
桐野は大人しくベッドの上に寝転がっていた。上半身裸で腹に縫合の痕と顔に殴られた痣のある長身の男。ヤンキーや元暴走族のような過激な男には見えない。ただ薬物を体内に入れ運ぶ、闇バイトを行ってしまったただの一般男性だ。暇な私はそんな桐野をまじまじと観察してしまう。視線が煩わしいのか桐野がこちらを睥睨した。
「……な…んだ?」
「いや、なに。さっきの流れで一発ヤッておけばよかったかな、とね」
「けがに、んによく、情する……せい、癖か?」
「違う。君はこれからこの裏社会に染まっていく。運がよければ闇医者の助手に留まらないかもしれない。裏社会を知らないこの初々しい時代は今しかないからね」
はは、っと小さく笑いながら私は桐野が寝る診察台に椅子を近付ける。そこに座り、傍らからシガレットケースを取り出した。桐野は調子が戻ったら、私の煙草に火を点けるようになる。そして出世していけば自らがライターを持たなくていいようになる。それがこの裏社会の摂理だ。
「……する、か?」
「医者の立場から言わせてもらえば激しい運動は控えろ、だな」
「してぇ、って言ったり……なんなんだ、よ」
この話が煩雑らしく桐野は大きな溜め息を吐いた。眉根を顰める桐野に笑えてしまう。そんな私を一瞥した桐野は私の手首を掴む。
「しろよ」
煙草の先から揺らめく乳白色が私と桐野の間を通り抜ける。数秒無言の応酬が続く。目線と目線が絡み合う。腹を決めた男の雄の瞳は煽情的だ。
「肝が据わっていてなによりだが死なれては困るんでな。また今度にしよう」
「……俺のいのちは、おまえの物な、んだろ…。お、まえの命だ、おま、えがど、うしようと…勝手だろ…」
私は瞠目する。聞き分けのいい子を持つのも一苦労だな。私はふ、っと小さく笑い、着ているジーンズを脱ぐ。シャワーをしたときに新しく着替えた下着も脱ぎ捨てた。煙草を咥えながら診察台に上る。
「ま、医者としての立場があるからな、こちらが動いてやるよ」
「……そ、のまえ、に濡らしてやる、から顔を跨げ…」
「女の扱いを心得ている男じゃないか」
私は感心しながら笑う。傷だらけの男は煙草を咥えた女の膣を舌で愛撫する。
「好きな女でも思い浮かべていろ」
「……そんな者は、むかしにう、しなった」