物分かりがいい男は忠誠心を込めてか私をさん付けで呼んだ。このヤクザの世界で私は先生と呼ばれている。誰もが女の私の名など気にも留めないし覚えてもいないだろう。だから簡単に先生と呼ぶ。
「あ、ん、たを殺せば……俺はかいほ、うされるのか?」
「いいえ。私の主人が君を殺すだけだよ」
私たち飼い犬は主人に、わんと鳴くことさえも許されない。口輪と首輪で繋がれ檻に入れられている。搾取する人間と搾取される人間がいる。ただそれだけだ。
紺野は的確に急所を狙っていた。やはりこいつは私が止めなければ死んでいただろう。私は煙草の紫煙をふわり吐き出す。
「二重に見えたり、ある方向が見えないとかあるか?」
「……うら、しゃかいになぜいるのか? と思うびじん、がみえ、るよ」
「物が上手く見えているようでなによりだ。眼球は問題なさそうだな。目ん玉の手術をしないだけ私も楽だよ」
冗談が言えるまでには持ち直しているようだ。やはりこいつは図太い。ヤクザの世界は運だ、と紺野は言う。運の女神が微笑む瞬間がたまにある、と言っていた。こいつは今がそのときなんだと私は思う。
私は診察台を離れ、冷蔵庫から氷を取り出す。タオルでそれを包み、男の額と眼球の腫れ上がっている場所に押し当てる。唸り声が小さく聞こえた。鼻の骨が折れていたようだ。
「……骨折した鼻は綺麗に治したいか? それともヤクザ仕様にしたいか?」
「どち、らが……今後つごう、がいい……」
「この稼業に勤めるなら後者がいいだろうな」
く、ッと軽く喉で笑った男。氷を外してみれば挑発的な笑みを浮かべていた。紺野が私の耳元で囁く。
やれ。アンタならできる。
こんなときでさえ幻聴のように紺野の声が聞こえてくるのだからおかしかった。私の味方であり私の行動の理由である紺野のその言葉。
種類は違えど、この眼前の男も心底自分に自信があるように見える。こいつは紺野と同じように上り詰められる人間かもしれない。
「君、生まれはいつかな?」
「…ふゆ」
「なら、……桐か鳳凰だな。どちらが好き?」
私はそう訊きながら曲がった鼻を持ち、勢いよく曲がった方向とは反対、いわゆる定位置に骨を戻す。ぼき、ッといい音がした。本来は手術で切開し骨を元の位置に戻すのだが、こいつが都合がいいほうを選んだのだ。男の汚らしい呻き声が落ちる。
「きり、」
「……だろうね。君の名前は今日から桐だ。呼びづらいな。桐野にしようか」
「ど、うも……めいさん」
「鼻いい感じになったな。男前だ」
はッと笑いながら私は男の腫れた場所に再度氷を押しつける。そのときだ、私の手を上からするり、撫ぜる骨張った指先を感じた。桐野と目線が絡まる。しっかりと意思を持っている瞳だ。桐野の指先が私の手を撫ぜていた。
「じぶん、でやる」
「……そうかい」
私の手から氷が離れていく。私はいまだ桐野の瞳に絡め取られたままだった。桐野の指先から氷が落ちる。かしゃん、音が鳴ったときには桐野の手が私の顎を強引に掴んでいた。
「……にくしみは、愛より強い、げんどうりょく、だと聞いたことが、ある」
「命の恩人に憎しみを持つってのは外道だな。性根が腐っている」
私は嘲笑した。
「……あんたを、あいせる日がくる、といいな」
嘲笑した私を嘲笑する桐野は私の顎を強い力で引き、血が出ている唇で私の唇を愛撫した。
紺野でもキスをするときは目を閉じるんだなぁ、と下劣な見方をした。長身の痩躯を眺め、綺麗でゴージャスなブロンドの女性にキスをしていたところを盗み見てしまったときに彼の人間らしい側面を垣間見た。だがその次の瞬間には煩わしいと目を逸らしていた。紺野の体に豊満な胸を押しつける女。それをこれから紺野が揉みしだくのだろうかと思うと悄然としてしまう。なぜ自分が紺野にこんなにも乱されているのかが理解できなかった。二度目に紺野が他人の咥内にある舌を食しているのを見たときはハイエナのようだと感じた。男性の尻を揉みながら妖艶にそして一心不乱に男を堪能していた。目線が絡まったのを覚えている。煽情的に唾液を舐め取る紺野と目が合ってしまったのだ。この世の者とは思えない凄艶で悪辣な表情だった。
「元気そうでなによりだよ」
桐野の血の味がする舌が私の咥内を蹂躙する。歯列を確かめ、裏顎を触り、舌を吸う。元気なことだ。私は桐野の胸板に手を乗せ、彼を押し返す。離れる瞬間に唾液がぽとり、桐野の肌に落ちた。
「こういうことは傷が塞がったらにしてくれ。もし生死の縁を歩いたことで気が高まっているなら女の子を呼ぶよ。紺野は風俗も経営している。あの人は手広いんだ」
「……あ、んたに忠誠を、誓うんだ、ろ?」
「性処理に困っているように見えるか?」
私は桐野を粗略に扱い睥睨する。煙草を咥え桐野と距離を取る。この重症な体で肢体を動かせるとは興味深い。キスされたことより先にそんなことを考える。
紺野は特定の人間を作らない。紺野の色だと自ら豪語する女はいたが、紺野はどこ吹く風だった。
「……それにそういうことはこの先に取っておけ。性処理のためなら男に突っ込むだけでもいいって奴がわんさかいる。上の者に誘われたら断れないってもんだ」
「あんたは、ムリヤリにされた、ことが……あるのか…?」
第二指と第三指で煙草を持ち乳白色を吐き出す。煙草の味を教えてくれたのは紺野だった。
「……さぁね。さぁ、坊やは少し寝ろ」
「ねむ、くない」
「なら言葉を変える。安静にしていろ」
私は椅子から立ち上がり服を脱ぐ。血がこびりついたその服を抱え、浴室に向かう。紺野に与えられた家で紺野に与えられた服を着て紺野のために働く。紺野は私の道標であり避けるべき障害物だった。
「逃げ出してもいいが背後に気をつけろよ」
私は廊下を歩きながら桐野に忠告をする。口の中が桐野の血で満たされていた。不快なそれに口元を拭う。