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#03

  私は煙草を咥えながら紺野の隣に立った。紺野の目線の先には縛られ、暴行を受けた男性が数人いる。おい、隆二。十一人じゃないか。数は正しく数えろ。


「で? なにをしろと?」


「腹掻っ捌いてくれる?」


 紺野の言葉に男たちの声にならない悲鳴が轟いた。


「コイツらの腹ん中にヤクが入ってる。腹の中で出ちまうまえに回収したい」


「……そんなの私じゃなくてもよくないですか? 紺野さん」


「アンタの腕を買っている」


 はぁ。私は溜め息を吐いて紺野を見つめた。にこり、毅然とした笑みを浮かべる男性。他人が自らの頼み事を断らないと知っている人間の表情だ。末恐ろしい。


 私は一度車内に戻り、持ってきた処置道具を抱えて再度紺野の前に立つ。紺野は自らの靴に少量の汚れが付着したことが煩わしいのか、目の前にいた男性の服で靴を拭う。今から腹を切られるのにそんなことまでされるなんて可哀想に。


「麻酔は?」


「要らない。消耗品を無駄にするな」


 私は紺野が靴を拭いた男性の前に跪く。怯え、失禁している男性の頬を優しく撫ぜた。


「…、た、たす、け…」


「すぐ終わるから頑張って」


 私は紺野と同様に男性を絶望の谷に落とす。


 人間は大抵のことでは死なない。人間は外傷によって死ぬことはなく、自分の死を覚悟したときに死ぬ。意志の力は偉大だ。こんな場所でのたれ死んでたまるか、という強い気持ちは神をも動かす。


そのことを紺野の首を縫ったときに知った。紺野はその切創が忌々しい、と傷に巻きつく蛇の刺青を入れている。そのことから紺野を蛇と呼ぶ人間もいるのだが、その異名を紺野が好いているのかは知らなかった。


「……君、よく生きてるな」


 煙草を咥え血液を纏った私は虫の息だがまだ生きている人間の腹を縫合する。腹を開けた六人はショック死で死んだ。意志が弱かったのだろう。声をかけた男が今晩初めて縫合を施した人間だった。


 混ざり物なしのビニールに包まれた薬物の塊が地面に転がっていく。今のところ誰一人として薬物を体内で破裂させなかった。いい子たちだ。だが、そのいい子たちは簡単に死んでしまったから組員たちの手で解体作業が始まっていた。七人目の生き残った男性を残して骨の砕ける音と肉片が潰れる音が聞こえてくる。静かな夜にノコギリが擦れる音が落ちる。ぬちり、ぬちゃり、ぐちゃり、こきん、ぱきん、ぼき。ノコギリや手を使い、器用に肉の塊にしていくヤクザたち。


「は、疲れた……」


 私は腹を裂いたのにまだ息がある男性の隣に腰を落とす。青いビニールシートの上で縦横無尽に踊り回る鮮血。どこに流れていけばいいのか自らでもわかっていないその赤色は私が座ったおかげで私の尻に向かって流れてくる。氷のように冷たい液体がジーンズに染みた。


 目に留まる煌びやかなシルバーが目の前を横切った。この場所で毅然と静寂を保っているのは紺野だけで、彼は鷹揚に煙草を唇に咥えた。初めて会ったときと同様に紺野の背後から火の灯るライターが翳される。煙草を咥えた紺野は畏怖さえ感じる清廉さで乳白色を吐き出した。


「初めてメス持たせたときより手際がよくなったな」


「……そりゃぁ、数こなせばねぇ。紺野さん、ホント人使い荒い」


 ははは、と朗らかに笑う紺野。この場に似合わない笑みが、まだ体内に薬物を入れた人間たちの恐怖を誘う。


 紺野に初めて闇医者としての仕事を任されたのは彼が撃たれたときだった。あのときも紺野は言った。やれ。とにかくやれ。アンタならできる、と。弾は貫通していた。それどころか掠っただけだったが縫えと命令された。経験がまったくない十八歳の夏だった。


「頑張れ。頑張ったら褒美をやるから」


「……ご褒美って飴でしょ? さっき隆二からもらったんですよ」


 私が名前を出したせいか、解体に勤しんでいた隆二が慌ててこちらを振り向く。「せんせぇ!」と情けない叫び声が落ちる。


 私たちのやり取りを気にも留めない紺野は私の方に近寄ってくる。私の頭を軽く撫ぜ、隣に寝そべる虫の息の男性に馬乗りになった。瞬く間に一発拳が振り落とされる。痩躯から放たれる重く熾烈な一撃は激情に駆られているように思える。紺野の暴行は男の顔の原形を失わせる。それをさも当たり前と言わんばかりの冷静さを孕んで紺野は男を殴っていた。


「楽にさせてやったほうがいいだろう」


 すべてを静観していたからこその行動なのだろう。生死は紺野が決める。紺野は神をも動かす人間だった。


「すとっぷ」


 気付いたときには言葉が出ていた。私は独りごちただけのような意識だったけれど、私の言葉をつぶさに拾う紺野はこの言葉ももちろん鼓膜に入れていた。きろり、研磨で磨かれた鋭いナイフのような冷徹な瞳がこちらを向いた。絶対零度のその瞳。感情を表に出さない人間のとろり、落ちる殺意は背筋が凍る。


「……なに?」


「殺すな」


「誰に物を言ってんのかわかってんだろうな?」


 そりゃぁ、もう。関東最大と名高い指定暴力団、藤野組の若頭、紺野庵さんですよ。近年稀に見る活躍と言われ出世コースをひた走った紺野庵ちゃんですよ。という言葉は喉奥に引っかかる。凄みさえも感じるその低い声に体の芯が硬直する。異名通り蛇のような男だ。身動きが取れない。少しの判断ミスで喉元掻っ切られる。命を掌握されている。だが、負けられない。私は紺野の瞳を真っ直ぐに見つめる。そのうちに紺野の瞳が正常に戻っていくのを感じられた。数秒、無言の応酬が続く。


「……最近誰かさんが人使い荒くて仕事がたくさん。生きているなら私にちょうだい」


「ご苦労なことだな。こんな死に損ないを拾うなんて。惚れた?」


「そういうことにしておいて」


 はッ、と破裂音で笑う紺野は顔の原形を留めていない男から離れた。まだ男は生きていた。人はそんな簡単には死なないのだ。図太い。この死に損ないは私と同じように生きる道を選んだ。この掃き溜めの世界で生きていこうと腹を括った。神はまだ君を連れてはいかないとさ、名無しくん。


「使いものにならなくなったら私が金属バットで殴り殺す」


「得意だもんな」


「……当然」


 にこり、平和的に笑う紺野と目が合う。煙草を咥えた男と女が視線を絡ませる。数秒の睨み合い。紺野は私の顔を見ながら懐からなにかを取り出した。飴だ。琥珀色の飴。


「褒美だ。……俺に楯突いた」


「ありがとう。紺野さん」


「アンタ、拾ったときから生意気なんだよ」


 私は煙草を指先に挟み口をぱかり、開ける。ふ、っと微かに笑った紺野は革手袋を無造作に脱ぎ捨てた。白く悍ましいほど色香を放つ指先で飴の包み紙を剥がしていく。そして私の唇をその第二指で軽く撫ぜたあと咥内に飴を放り込んだ。思い出の味だ。不味くて安心できる味。


「さぁ、オマエら。先生はこれから用事があるんだとよ。残りの人間の腹はオマエたちで裂いてくれ。くれぐれもヤクに傷をつけるんじゃねぇぞ。商品が一ミリグラムでも減っていたら、オマエらの腹に入れて運ばせるからな」


 残された四人の生存者はノコギリを持ったヤクザたちを見つめ愕然する。


 紺野は「あとは頼んだ」と近くにいた舎弟の肩を叩き、車の後部座席に乗り込んだ。車は砂埃を撒き散らし去っていく。



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