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#02



「せんせぇー」


 今日二度目の隆二の声に寝ていた体を起こす。隆二が止血しにきたのは朝だった。朝からなにやってんだ、と思った記憶がある。窓の外はネオンに輝いていた。深夜だ。ヤクザは夜行性。夜に仕事が増えるのは常だった。


 煙草を咥えた隆二は「やっほー」と言葉を落とし私の部屋に上がってくる。闇医者になってプライバシーはなくなっていた。いや、言いすぎた。父と母がヤク中だったころからプライバシーなんてものはない。


「……はいはい」


 私は欠伸を噛み締めながらベッドの上で体を伸ばした。隆二は断りを入れずに寝室に入ってきて私のベッドに上る。まるで巨大な猫だった。きらり、赤髪が夜の光に照らされて光り輝く。


「お仕事」


 隆二はまるで語尾にハートマークでも飛びそうな言葉を落とし、私の唇にキスを落とす。センタータンがごり、ッと咥内を蹂躙した。「うへぇ、やっぱり寝起きにキスは衛生的によくないな」と苦い顔をして言う隆二。断りもなくフレンチキスをした隆二にそんなこと言われちゃたまんない。私はベッドから隆二を蹴り飛ばす。


「……いって! 先生! 腹開いちゃうよ!」


「安静にしてろって言っただろ?」


「え? それ先生が言う? 俺のこと蹴った先生が言う?」


 私はベッドから出てもう一度欠伸をした。それから床に落ちた隆二を見下ろす。カーテンの隙間から夜の光がこぼれていた。光の束が隆二の姿を暴き出す。朝、傷を処置したときとは違う血液が付着していた。殺人鬼のように顔中に血をつけ、まるで血糊の海に拳を沈めたような真っ赤な手を携えている。それはどうしたって安静にしていたとはいえない格好だ。


「だぁって、庵ちゃんが休ませてくれると思う?」


「……それもそうか」


 自分が安静にしていなかったことを理解したらしい隆二はへらへらと笑いながらそう呟いた。私は愚問だな、と溜め息を吐いてから煙草に火を点ける。


紺野はできる奴だ。できる奴は大抵、サイコパスと相場が決まっている。人の気持ちを配慮することなどできやしない。だから夜中に人を叩き起こせるし、なんなら人を殺害できるのだ。


「庵ちゃんが先生に会いたいってさ」


「私は庵ちゃんに会いたくないね」


「……本気で先生と庵ちゃんってなんもないわけ?」


「さぁね」


 私は隆二を寝室に置いて部屋を出た。診察室に人はいない。


「ちょっと大人数でさぁ、ここまで運べなかったんだよね。さぁ! 俺と楽しいドライブだよ」


「どこまで?」


「ヤクザが人を埋める場所は森って決まってんじゃん!」


 埋めるなら私要らなくないか? そんな疑問は紺野には通用しない。あの凶暴な人間には。


 隆二は特攻隊として先陣を切る人間で紺野からも好かれているが、ヤクザの世界ではこれから出世できるかどうかが問われるただの組員だった。隆二は暴力性もあり、上の人間の懐に入り込める可愛げもある。現に紺野という組の中でも一癖ある人間に好かれている。大した玉だった。だが、出る杭は打たれる、が日本の文化だ。足元をすくわれる可能性は大ににある。私はそういう人間を何度も見てきた。


「せんせぇってさぁ、美人だよね」


「まぁな。美しい男と美しい女の間に生まれたから」


「だったらなんでこんな場所にいんの〜。他にやれることあったでしょ」


 私はがつん! と音を立てながらダッシュボードの上に足を乗せる。シガレットケースから煙草を取り出し口に咥えた。


隆二の言葉、それは私の長年の疑問でもあった。風呂にでも沈めてくれれば紺野にとっても楽だっただろうに。


「……先生はさぁ、どーして庵ちゃんに拾われたのよ?」


「身の上話は飽きた」


「でもせんせぇの身の上話、噂程度にしか聞かないけど」


 隆二はただの組員だ。この立場に運転手はつかない。調子の外れた男が黒塗りの威圧感ある車を転がす。法定速度を守っているから警察も表立って騒がないが、この東京の歓楽街では誰もが黒塗りのこの車を避けるだろう。


 私の話が噂程度にしか流れていないということは、私がまだ紺野に飼われているということと同じことになるだろう。護られていることと首筋にナイフが当てられているということはこの世界では同義だ。立場が違えばなおさら主従関係は明白なのだ。私は彼に飼われた闇医者で彼は若頭まで上り詰めた男。


「簡単な話だよ。その美男美女が闇金に手を出し、首が回らなくなった。それだけさ」


「庵ちゃんの取り立ては絶品だからね。そりゃぁ、先生の親は死ぬね」


 へらへらとまるで自らの兄を讃えるかのように笑う隆二。私は両親を金属バットで粉砕した、とは言わない。紺野に唆されて初めての殺しをした、とは言わない。訊かれていないからね。


車は山道を走っていく。数十分走ったところで一台の車が停車していることを確認する。山奥だ。当然だが東京の猥雑な光が届かない薄暗がり。そこに一筋、スポットライトのように車のヘッドライトが輝いている。まるでステージのようだった。私たちの車に気付いたのかひとりの男がこちらを振り向く。


「……合計何人?」


「ざっと十人くらいかなぁ」


「なにしたの?」


「先生が知るところじゃな〜い」


 センタータンが光り輝く笑い方をした隆二。いつかそのセンタータンをメスで裂いてやろうと思っている。スプリットタンにするのが今の私の楽しみだった。


「さて、庵ちゃんがお待ちかねだよ」


「……私、会いたくないって言わなかったっけ?」


 はぁ。私は溜め息を吐いて車を出た。すぐに痛々しい悲鳴が聞こえてくる。卑猥なラブホテル街でもこんな声は聞けないだろうな、と思う人間のか細い声の大合唱。私は煙草を咥えたままサンダルを履いた足を伸ばす。関節のぱき、っと鳴る音が響く。それが私のものかどうかなんてわからなかった。ただ、関節の音がした。


 森に行くと隆二が言うから愛用のハイヒールじゃない足元を選んだ。だが、どうやら紺野は違うようだ。ヘッドライトの光で煌びやかに輝く革靴が見える。何年も大事に愛用してきたらしく美しい履き皺ができていて、中央には一糸乱れぬ均等に結ばれた紐。完璧主義者らしく、そしてカリスマ性を端的に表した足元だ。私はそれだけを頼りに目的地に向かう。辿り着いた先にいる紺野を見つめる。


「……めい。久しぶり」


「こんばんは。紺野さん」


 にっこり、柔和な眼差しの微笑みを浮かべる紺野。その笑みは今日も今日とて美しく、まるで宗教画のような耽美さを兼ね備えていた。凄絶な美貌だ。神が一等大事に自らの分身でも作ったかのような精巧さ。私が拾われたときの紺野は二十代半ばだったはずだが、今や三十代になっていて、それはもう男性としての色気を存分に撒き散らしていた。美と暴力で周囲を支配している。ヤクザと知らずに一般人でさえも彼に傾倒してしまうだろう。高価そうなスーツと腕時計。そして手元を隠す革手袋。清潔な短髪を撫でつけた黒髪。相変わらず身なりだけで威圧感がある。



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