クリスマス1週間前。
今日は真樹のおうちに来ている。
「ねえね?」
「なあに、
「そのお兄ちゃんはねえねのカレシ?」
私の後ろに視線を投げている甥の陽太に「うん、そうだよ」と首肯すると、伊織くんが私の隣に来てしゃがみ込む。
「僕の名前は伊織です。君が陽太くんかな?」
「そうだよ。ボクが北島陽太」
「よろしくね陽太くん。陽太くんにプレゼントがあるんだけど、もらってくれるかな?」
「いいよ、もらってあげる!」
「はい、どうぞ」
伊織くんが差し出したのは大きなサンタクロースのブーツ。しかも特大サイズで伊織くんの足も余裕で入りそうな大きさだ。といっても本物のブーツではない。ブーツの底はプラスチックで、上に厚紙が巻かれていて、中にはたくさんのお菓子が詰まっている。
受け取った陽太はジャンプして喜んでいる。
「だから言ったでしょ? 喜ぶって」
これを選ぶ時に伊織くんは、ベタ過ぎて喜ばないんじゃないかと心配していたのだ。
そんな陽太の姿に真樹がお礼を言いなさいと静かに言っている。その真樹の後ろには可愛い影が2つ。
突然来た伊織くんの存在に人見知りを発揮している美琴と香苗だ。
真樹も「ほらほら、ねえねにこんにちはって言っておいで」と促すが二人はびくともしない。
「ねえ伊織、ゲームしよ!」
「こら陽太! 『伊織お兄ちゃん』でしょ! 呼び捨てにしないで。……すみません伊織さん」
「あの、……僕は別に気にしてないですし、その、真樹さんも……」
伊織くんにとっては真樹は年上。
だけど真樹にとっては姉の(未来の)夫。
真面目な真樹のこと。姉の夫を蔑ろに出来ず『伊織くん』とも呼べないのだろう。
「真樹、『伊織くん』でいいから。『さん』付けされたら蕁麻疹が出るんだって」
嘘だけど。
「え? そうなの? 失礼しました。それじゃあ……伊織くんは、あの、何か飲みますか? コーヒー? 紅茶? ビール? ワイン?」
「真樹、落ち着きなって。それより、美琴と香苗おいで〜」
真樹の側に寄ると美琴が真樹の太ももから顔を出す。
「美琴?」
「しらないひと」
「あのお兄ちゃん? あのお兄ちゃんはね、ねえねが好きな人なんだよ〜」
「すきなひと? みことはね、りっくんがすき」
「かなはね、かなはね、パパがすき」
「あら? 香苗はパパが好きなんだ〜。ってあれ、パパは?」
今日は健太さんもいると聞いていたのだが。
「あのね、オネエネによびだされたの」
「『オネエネ』?」
真樹にどういう意味かと視線を投げると真樹は苦笑する。
「会社の上司よ」
「上司の名前がオネエネ?」
「違う違う、名前はモモヨ」
「モモヨさん?」
女性が上司と聞いて、なんとなく私と同じような立場なのかと思ったのだが……。
「オカマなの。そっちのオネエよ」
「そっち!?」
「でも仕事は出来るし、本当に女性かと思うほど綺麗な人で、健太は振り回されっぱなしよ。でも多分そろそろ帰って来るんじゃない?」
その時、タイミングよくインターホンが鳴った。
「子どもたち〜、帰ったわよ〜」
謎なテンションで玄関から現れたのは美女だった。ゆるくウェーブした豊かな黒髪は背中に流れ、膝下丈のタイトスカートからは細くて白い足が伸びている。
「モモヨだ!」
笑顔で駆け寄る陽太を美琴が抜かして美女に抱きつく。
「りっくん!」
「美琴〜、今日も可愛いわね〜」
「美琴から離れてください!!」
健太さんが美女の後ろで眉を寄せて困った顔をしている。
「あら、美琴から来てくれたんだからいいじゃない」
目の前で繰り広げられる情報を処理できず、真樹の横でささやく。
「もしかしてあれが、『オネエネ』で『モモヨ』で美琴の好きな『りっくん』?」
「うん、まあ、うん、そういうことかな?」
曖昧な返しをもらう私の前に美琴を抱っこしたモモヨが笑顔でやってくる。
「貴女が真樹さんのお姉さんね。真樹さんは可愛いって感じだけど、お姉さんの方は美人って感じね!」
いや、あなたに美人と言われても負けた感でいっぱいなんですが……。
「あ! あっちには、イケメンが転がってるじゃない!!」
転がってるのは私の彼氏です。近いうちに夫になる予定なので触らないでくださいと、少し焦る。
「どこで捕まえたの? 羨ましいわ〜。あら、誰かに似てない? えっと、そう、あれだわ、あれ。そうそうあのパティシエの」
ドキっとする。
でも有名なパティシエだから分かる人には分かるのかもしれない。
「りっくん……」
美琴がモモヨの腕の中でむくれている。
「あぁ、可愛い美琴ちゃん。ごめんね。そうだ、可愛い美琴ちゃんにプレゼントがあるのよ!」
「プレゼント!!」
上手く話しが逸れてほっとする。
ナイス美琴!!
だが、美琴の好きな相手としてはいかがなのだろう?
でも悪い人ではないのは分かる。
人を見た目で判断してはいけないのだ。
モモヨが3人にプレゼントを渡すと荷物を持って立ち上がった。
「じゃ! 帰るわね!」
「りっくんもう帰るの〜?」
「そうよ、また遊びましょうね」
来た時同様の早さで玄関を出て行くモモヨを健太さんが急いで追い掛け見送っている。
「なに、……あれ?」
私が呟くと、真樹も横で呟いた。
「嵐」
嵐が過ぎさった北島家に大人たちのため息が広がる。
「真樹、コーヒー飲みたい」
「うん、だね。伊織くんもコーヒーでいいです?」
「はい。ありがとうございます」
「健太も飲む?」
「おお」
玄関から戻ってきた健太さんがダイニングの椅子を引きながら、「お義姉さんも座ってください」と促してくれる。
椅子に座ると真樹がお菓子をのせた皿を出す。
「ママ〜、かなもおかしたべたい〜」
「そうだ、香苗。あのお兄ちゃんがお菓子くれるよ〜。ねえねと一緒にもらいに行ってみる?」
「おかし? ……ねえねといっしょ?」
「うん。ねえねと一緒に! 美琴もおいで」
香苗と美琴の手を握って伊織くんの前に行くと、伊織くんが少し緊張しながら微笑む。
「はい、どうぞ。メリークリスマス」
香苗と美琴には女の子のイラストがパッケージのカバン。色違いでもなく全く同じもの。喧嘩にならないようにとの配慮だ。中にはお菓子が入っている。
「わ〜キュアプリだ!!」
「クアプリ〜!!」
「ママみて、キュアプリー!」
「パパー、クアプリー!」
美琴は真樹に、香苗は健太さんに報告に行く。
「良かったね、お兄ちゃんにお礼言ったのかな?」
「あ……」
「じゃあママと一緒にありがとう言いに行こうか?」
「うん」
お礼を言いに行くチビっこたちの向こうに恐縮する伊織くんが見える。
早く仲良くなれたらいいな〜と思いながら、そうだ、と妙案を思いついた。
「ねえねえ、美琴」
「なあに?」
「お兄ちゃんね、絵を描くのがすっごい上手なんだよ〜」
「おえかき? みこともおえかきじょーずよ!」
あのね、あのね、と言いながら美琴はお絵かきノートとクレヨンを伊織くんの前に持っていく。
「みてみて。みことがかいたキュアピンクなの。いおりくんもかける?」
ノートを見せる美琴に、首を傾げる伊織くん。
「キュアピンクってこの真ん中の子かな?」
伊織くんは先程美琴たちにあげたカバンの真ん中を指差す。
「そうなの。いっちばんカワイイの、キュアピンク!!」
「そうだね、カワイイね! じゃあ描いてみようか?」
「うん! かいてかいて!!」
美琴は真っ白なページを差し出して、瞳をキラキラさせている。その後ろから興味津々な顔の香苗が静かに覗き込んでいた。
「はい、コーヒー。置いとくよ」
「ありがとう真樹」
「伊織くんのコーヒーもこっちに置いておきますね」
ありがとうございます、と言いながらも伊織くんの手は動く。
「伊織くんてデザイナーさんだっけ? お母さんから聞いたんだけど」
「うん。そうそう。香苗が生まれた時にプレゼントしたオモチャのパッケージをデザインしたのが彼だよ」
「木のオモチャの?」
「そうそう」
そう真樹と話すうちに絵が完成したらしい。
「すごーい!」
「クアピンク!!」
「つぎはキュアイエローかいて!!」
「つぎはクアパーププ!!」
仲良し作戦は大成功みたいだ。
すっかり仲良くなった伊織くんと子どもたち。
「いおり、もう帰るの?」
「うん帰るよ。だけど、また遊びに来てもいいかな?」
「いいよ!」
「いおりくんとまだおままごとしたい〜」
「いおりくんだっこして〜」
モテモテだ。
「香苗、ねえねが抱っこしてあげようか〜?」
香苗に向かって手を広がるが、香苗に睨まれる。
「やだ」
完全なる拒否に若干傷つく。それを見ていた伊織くんが笑いながら香苗を抱っこした。
「香苗ちゃん、また今度遊ぼうね」
「うん。かなね、パパよりいおりくんがすきなの」
それを聞いた健太さんの肩が落ちる。
「いおりくん、こんどはかなとねんねしようね!」
「うん」
「やくそくよ!」
「ほらほら香苗、そろそろバイバイよ。すみません伊織くん。こっちおいで」
伊織くんに抱かれたままの香苗を後ろから真樹が引きはがして抱き直す。
またね〜、と子どもたちが手を振って見送ってくれるなか私たちは北島家を出た。
外は日が落ちたばかりだのに、すっかり暗くなっている。
「ありがとうね、伊織くん。疲れちゃったよね」
「いえ、楽しかったです。子ども3人いるとやっぱり賑やかですよね。僕も3人姉弟だったから……」
伊織くんの言葉がそこで止まる。
「『3人姉弟だったから』?」
続きを促すと、優しい微笑みがおりてきた。
「いや、これ今言うタイミングじゃないかなって思うんですけど……」
「なに? 気になるから教えてよ」
「……あの、直子さんと僕のところにも3人欲しいなって。あ、でも絶対とかじゃなくて、……1人でもいいし、……産まれなくてもいいし」
きっと私の年齢を気遣ってくれているのだろう。高齢出産になるんだもの。どんなリスクがあるか分からない。
それでも出来るなら、自分のためにも、伊織くんのためにも二人の子どもを産みたいと強く思う。
「でも、なんていうかその……、プレッシャーに感じて欲しくはないです。直子さんに負担がない範囲で……」
「うん。じゃあその時は、負担にならない範囲で一緒に頑張ろ?」
きっと何度も産婦人科に行ったりして検査とか色々しないといけないのだろう。
「はい! 一緒に頑張ります!」
伊織くんに手を取られる。握った手が持ち上がり伊織くんの顔の前で止まる。
私の手の甲に優しく口付けたままの伊織くんのその視線とぶつかった。
胸がぎゅんっと苦しくなる。
嬉しいのに、心臓に悪い。
結婚する前にもしかして死んじゃうんじゃないかと思いながら、今日もまた伊織くんのマンションに帰る。
少しずつ荷物を運んで、いるものがある度に自分のアパートと往復する生活が始まっていた。
*
クリスマスイブ。
伊織くんの隣で起きて、それから一度自宅のアパートに戻っていた。
用意したプレゼントを持って出勤する。
伊織くんとは仕事が終わって待ち合わせの予定だ。
何となくそわそわしている数人を見掛けると、もしかして自分もそう見えているのかもしれないと、気を引き締める。
定時が近付いて壁掛けの時計を見上げると、あと5分。今日は急ぎの仕事も特になく時間が来れば帰れるだろうと、営業部の小さなフロアを見回すと川辺も時計を見上げていた。
――川辺もデート?
そんな無粋な質問は声に出す前に飲み込む。もしそんな言葉を言ったなら、同じ言葉が自分に返って来るだろう。
『久保田課長もデートなんでしょう? 分かりますよ〜。あっ、それプレゼントでしょ?』
得意気な顔をした川辺が言いそうな言葉を妄想してひとりで苦笑する。
「今日は皆さん定時上がりになりそうですね」
デスクの向かいからぼそっと呟いたのは三山係長。
「私もたまには早く帰りましょうかね」
そう言ってパソコンの電源を落としたようだった。
それを見た周りも、同様にパソコンの電源を落としていく。そして時計の長針が真上に向かうのを待っているようだ。
時計の秒針が静かにくるりと回ると、長針も短針も動いた。
「よし、じゃあ帰りましょうか」
一番に立ち上がった三山係長が営業部に帰宅を促し「お疲れ様でした」とフロアから出て行く。
いつも残業当たり前みたいな三山係長が誰より先に帰るなんて珍しくてみんなの目が丸くなっている。
「どうしたんすか、係長? いや別にいいんっすけどね。じゃあ俺も、お疲れっしたー」
川辺に続いて松岡くんも、お疲れ様でしたと立ち上がる。
外に出て行く男性陣と、逆に向かうのは女性陣で、月見里と結城さんと私の3人が向かったのはお手洗いだった。
鏡の前に立って一番に化粧直しを始めたのは結城さん。続くように私と月見里もファンデーションを出して肌色を整えていく。
「みなさんデートですか〜?」
鏡の中の西洋人形――ではなく結城さんが聞いてくる。
「結城さんもデート?」
「『も』ということは課長もデートですね〜! 月見里チーフはバレバレですけど」
「バっ!?」
「いやいや、バレてないと思ってるんです? あんだけアイコンタクトして……、いやらしい」
「いやらしいって……。あ、課長もそわそわしてましたよね〜」
「やっぱりバレてた?」
「課長かわいい〜」
そう言って結城さんがかわいい顔を向けてくる。
「恋する乙女ですね!」
「乙女なんて年齢じゃないけどね」
「年齢関係ないですよ!! 女はずっと乙女なんですから」
「そうなんだ……」
「じゃあ月見里チーフも乙女だ」
「なんか、ついでみたいな扱いじゃない?」
「そんな事ないですけど?」
「ふふっ、なんか二人は姉妹みたいだよね」
月見里が姉で結城さんが妹。
「それじゃあ課長が長女ですね!」
「え?」
長女だけど? なんて思っていると、結城さんが順番に指を差していく。
「課長が長女で、月見里チーフが次女で、私が三女! 営業部三姉妹の誕生ですね!!」
「えっ? 待って待って、私のポジションってどっちかって言うとお母さんでしょ?」
「えー? 三姉妹でいいじゃないですか〜」
「そうですよ課長! 私兄弟いないから嬉しいです! わ〜い、お姉ちゃんと妹ができた〜」
月見里が喜んでいると、電話の音がお手洗いに響く。
「あ、私です」
月見里がカバンからスマホを出して電話に出ると、向こうの声が聞こえてしまった。
『彩葉遅いです』
「ごめん、すぐ行くね」
会話が聞こえる後ろで結城さんがニヤニヤ笑っている。通話を終えた月見里が謝りながらお手洗いを出て行く。
「お疲れ様でしたー」
「お疲れー」
「イブ楽しんで来てくださいね〜!!」
月見里に手を振って、さて、と鏡に向き直る。
メイクはオッケー。
時間もぼちぼち待ち合わせの時間になる。
「じゃあ結城さんもデート楽しんで来てね」
「はい! お姉ちゃんも楽しんで来てくださいね!」
結城さんが親指を立てて私に見せる。
「はは、その三姉妹設定いいね」
私も結城さんを真似て返したら、結城さんがとびきりの笑顔を返してくれた。
電車に乗って待ち合わせの駅へ。
改札を出た所で待つ伊織くんが私に気付いて手の平をこちらに向ける。
「お待たせ」
「お疲れ様でした。それじゃあ行きましょう」
うんと頷いてみるが、これからどこに向かうのかはまだ聞いてない。朝も伊織くんに訪ねてみたが「内緒」としか返って来なかった。
「ねえねえ、そろそろどこに行くか教えて?」
「う〜ん?」
言うか言うまいか悩んでいるのか、唇の中央がちょびっと突き出る。
かわいい。
声に出すことは控えて観察しながら歩いていると伊織くんが急に私の肩を抱いてくる。
「わ」
「前見て、危ないですよ。やっぱり今日はひときわ人が多いですね」
「イブだからね」
私たちを含め、楽しそうに顔を綻ばせる男女が多いのは確かだ。
そして少々浮かれて見えるのは、……私もか。
駅前から南に向かってのびる大通りはキラキラと光り、あちこちからクリスマスソングが聞こえてくる。
五分ほど歩いた所で伊織くんは「ここです」とそこを見上げた。
周りに聳えるビルよりも頭1つ高い建物のそこは一度は名前を聞いた事があるホテル『
確か、レストランの食事が美味しいとか何とかでテレビで見た記憶があるような、ないような……。
――そうか、ここでディナーなんだな!
ふむふむ、と一人で納得しながら中に入り、レストランは何階だろうな〜と呑気に考えていると伊織くんがソファのある場所で立ち止まる。
「ちょっと待っていてください」
「え? あ、うん。待ってる」
トイレかな? なんて考えながら伊織くんの背中を追うとフロントに向かって行った。
その背中から視線を外してホテルの一階フロアを見渡す。高い天井から小振りのシャンデリアが華やかさを添えている。またフロアの中央は3階か4階までの吹き抜けになっていて、緩やかな螺旋の白い階段が西洋のお城のような雰囲気を出している。
その階段下では着飾った人たちが集まっていた。
なにかな、なんて首を傾げたその時、BGMが変わる。
「新郎新婦のご入場です」
マイクを通した声が届くが、声は遠く感じる。多分あの中央の白い階段辺りから聞こえるのだろう。
「直子さん、お待たせしました」
「あ、伊織くん。ねえ、あれ結婚式かな?」
「ああ、人前式ですね」
二人で同じ方向に視線を向けると階段の3階から2階に向かって白い衣装の男女が下りて来る。
「うわ、ドレスで階段……。転けないのかな?」
「そこです?」
「だって、転けたら悲惨だよ?」
「転けないように僕がエスコートしますよ」
「え?」
どういう意味? と問う前に伊織くんは「さあ行きましょうか」とカードキーを私に見せたのだった。
一番上ではないけれど、上層階でエレベーターを下りるとその無駄に広い部屋へ入った。
まさかのスイートルームというやつか?
一番大きな部屋はうちの小さな営業部がすっぽり入りそうな広さ。そこから扉が3つもある。
1つは寝室だとしても、あと2つは何なんだ?
奥の窓は腰から上が全てガラスでビル群の明かりがイルミネーションのようにこちらに届いている。
「うわ〜すごいお部屋だね」
口を半開きにそう言ってから気付く。もっと気の利いた言葉を考えて出せば良かった。
だけど、この感動をどんな言葉で現せばいいのだろう?
部屋の中央より、やや窓際。夜景のよく見えるその場所には大きなテーブルと椅子が2脚ある。
テーブルには真っ白なテーブルクロスがセットされていた。
「直子さん、どうぞ座って」
伊織くんが椅子をひいてくれる。
「ここで食事?」
「ええ」
「てっきりホテルのレストランかと思ったよ」
「レストランは3ヶ月前には予約でいっぱいになってたらしくて……」
「え? そうなの?」
「支配人が部屋でも良ければって、ここを用意してくれたんです。僕は周りの目を気にしなくていいからかえって良かったけど、直子さんはレストランが良かったですよね。来年は予約します」
「いやいやいや、いいよ、充分だよ! って言うか特別に用意してくれたってこと? なんかクリスマスプランがあったとかじゃなくて?」
「はい、まあ『特別』?」
「ん?」
二人で首を傾げる。
というか、ちょっと待て。
なんか、こう、伊織くんの意思が見えないと言うか、誰かにお膳立てされてるような……。
「ねえ伊織くん」
「はい」
「なんていうかさあ、もしかして、ホシノテ――じゃなくてお義父様が関係してたりする?」
そう言葉にすると、なぜか『あり得る』と深く頷ける自分がいた。
――だって伊織くんさっき『支配人』って言ったじゃん? 絶対ホシノテルと支配人に繋がりあるよね?
「お父さんは、……関係ないかな?」
「あれ? 関係ないの?」
「ん〜……、どっちかって言うとお母さん?」
「お母さん!? 何者?」
「母、旧姓が有本って言うんですよ」
お母様の旧姓が今どう関係あるのか――そう考える私の頭で何かが引っかかる。
「ん? 今『ありもと』って言った?」
「はい」
「え……」
何なんだ、星野家。
父ちゃんは有名なパティシエで、
母ちゃんは――
「ここ、お母様の実家?」
「実家は別にありますけどね。まあ、そういう事です。ホテルARIMOTOは母の父、だから僕の祖父が経営してます」
おう……。
やっぱりスゲーわ、星野家。
今からディナーらしいけど、ごちそうさま。
だけど食事が運ばれて来ると胸いっぱいだった気持ちも落ち着いて、素直に食事を楽しみたくなる。
フルコースではないけど、前菜、サラダ、スープとテーブルに並び、グラスにワインが注がれた。
「メインは魚と肉の両方、もしくはどちらかお選びください」
ワインを注いでくれた男性給仕にそう聞かれたら、どっちも両方食べたくなる。だが四十路女の胃に入るだろうか?
「直子さん」
「なに?」
「どっちも食べたいけど食べ切れるか心配してる?」
「うん」
私の悩み顔を見て、伊織くんは気付いてくれたのだろう。
「それじゃあ」
そう言い置いて、伊織くんは男性給仕を向く。
「半分ずつでお願いします」
「えっ、そんな事出来るの?」
「かしこまりました」
「えっ、出来ちゃうの?」
「お客様に気持ち良くお食事していただくためならば、お客様のご要望は応えられる範囲できちんとお聞きいたします」
「おじいちゃんのモットーだからね」
そうなんだ、と頷く私の横で男性給仕は一礼して部屋を出て行った。
「それじゃあいただきましょうか」
「うん」
お互いにワインの注がれたグラスを持ち上げて「乾杯」とグラスを触れ合わせる。
すっごく美味しいね、と笑い合いながら心も胃もときめく時間を過ごしていく。
デザートのお皿から最後のひと口を口に運び煎れた伊織くんが姿勢を正すのを見て、私は味わうのもほどほどにしながらお皿を綺麗にしてナフキンで口を拭く。
すると伊織くんがテーブルの下から何かを出した。
「これって……」
「はい」
緊張した面持ちの伊織くんが両手で1枚の紙を差し出している。
「婚姻届?」
「はい」
星野伊織、と名前が書いてある。
「あと直子さんが書いてくれたらいつでも出せます」
「今日? 今日出すの?」
「今日にしますか? 結婚記念日?」
「イブに?」
「クリスマスイブが結婚記念日?」
「あ、待って。でも私判子ない……いや、あるわ。仕事鞄に入ってるもん……」
仕事から直接来たお蔭でいつも持ち歩いている印鑑が鞄の中、ファスナー付きの内ポケットに入っているのを確認する。
やっぱりあった。
「でも、証人は?」
「一人は父に書いてもらってます」
そう言って伊織くんは証人欄を指差す。
そこにはちゃんと『星野輝美』の名前がある。
――うっわ。
「もう一人は直子さんのお父さんがいいかな? って思ってましたが、『
世界のパティシエとウチのしがない父親の名前を並べるの?
でも自分の親に喜んでもらいたい気持ちもあるから、ここはお父さんに書いてもらいたいと思う。
「私のお父さんに証人になってもらいたいんだけど、いいかな?」
「もちろんですよ」
「そうなると、今日出せないね」
「イブを結婚記念日に――」
「しない! しないから、大安吉日を選んで二人で決めよ?」
「じゃあ結婚式も」
結婚式か……。さっき見た新婦みたいなウエディングドレスを私が着れるんだ、と気持ちが少し上向く。
だけどそれよりも、伊織くんのタキシード姿はきっと素敵なんだろうな……。
「直子さん……」
「なに?」
婚姻届を持ったまま問い返すと、伊織くんの視線が一度下に落ち、それからゆっくりと上がってきて、私と目が合う。
「結婚式はどこで挙げたいとか、夢とか理想とかありますか?」
そう問われ、唇を結んで数秒考える。
「もうさ、……この年でしょ? 半分諦めてたとこもあるから、ウエディングドレス着て両親や家族に祝ってもらえたらそれで充分かな。それに、漠然と挙式場でバージンロード歩くイメージだったんだけど、さっき下で見たあんな感じも素敵だよね」
階段を下りていた新郎新婦の姿を思い出し、うんうんと頷く。
「僕の夢を聞いてくれますか?」
「うん、もちろん!!」
伊織くんがすうっと息を吸う。
「ここで結婚式がしたいです」
「そうだったんだ!」
「男が、……って引かないですか?」
「なんで? 二人の結婚式なのに? 男とか女とか関係ないでしょ? いいんじゃない? って思うけど私は」
ほっとした表情を見せる伊織くんがたまらくかわいい。
「そっか。夢だったんだ、ここで式挙げるの! ……あっ、でもドレスで階段下りる?」
「支えます。もしくは階段を下りないパターンもあります」
「それ聞きたい」
「2階、吹き抜けで円になっている廊下を新郎と新婦が左右に分かれて半周ずつ歩くパターンです」
「それって、一人で歩くってこと?」
ちょっと恥ずかしいな、と思ったりもする。
そう思いながら、今日見た新郎新婦の顔がいつの間にか自分と伊織くんの顔に置き換わって想像している事に気付いた。
そっか結婚式かあ〜、そう思いながら左手に視線が落ち、伊織くんからもらった指輪を捉える。
プロポーズでもらった指輪――と考えて、まだクリスマスプレゼントを渡していないことに気付いた。
あ、と声を漏らしてから鞄と一緒に置いていたプレゼントの袋を手に取る。
「伊織くん、メリークリスマス」
ラッピングされた包みを渡すと、伊織くんは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。開けていいです?」
「もちろん!」
丁寧にラッピングを解く所に性格が見えるな〜なんて考えながら、伊織くんは気にいってくれるだろうかとドキドキしてしまう。
「あ、色鉛筆とクロッキーだ」
中身を見て驚いた表情となる。
プレゼントは180色の色鉛筆セットと、クロッキー帳。
これは喜んでくれているのか、ちょっと判断し難い。
「あっ、これ家に置いてるのと同じ色鉛筆なんですよ」
「うん」
「もう短くなってる色がたくさんあって、年が明けたら買おうと思ってたので嬉しいです。クロッキーもこれをいつも使ってるんですよ」
「うん」
「もしかして、……知ってた?」
「うん。だって同棲してるから、相手の事見ちゃうでしょ? でもその色鉛筆なかなか見つからなくて」
「そうなんですよ、取り扱ってる文具屋が少なくて」
「仕方ないから、店員さんに相談したら発注してくれたの」
「僕もいつも発注するか、ネット注文します。……ありがとうございます。なんか、どう表現していいか分からないけど、……結構嬉しいです。好きな人が自分のことをちゃんと見てくれてるのって」
いつも言葉少なめで、表情もあまり変わらない伊織くんがたくさん喋ってくれている。それだけで、私には伊織くんがちゃんと喜んでくれたのが分かって嬉しくなる。
「あー、直子さん」
「なあに?」
喜んでいる伊織くんと、喜んでくれたことが嬉しい私。二人とも笑顔だ。
「抱き締めたい」
「え? ふふ」
伊織くんの口から気持ちがこぼれているようで、嬉しいような、おかしいような気持ちになりながら、「いいよ」と答えると椅子から立ち上がった伊織くんがプレゼントを椅子に置いてこちらに来る。
私も立ち上がって腕を広げる伊織くんの中に入るとすぐに背中が苦しくなった。
「あー、どうしよう」
伊織くんから苦悶の声がこぼれる。
「どうしたの?」
「全然足りない」
「なにが?」
「直子さんが」
ドキっとする。
「好き」
ぎゅ、と腕の力が強まる。
「大好き」
ぎゅっ、と更に腕の力が強まる。
「愛してる」
ぎゅうっ、とされると流石に苦しくなり過ぎて伊織くんの背中をぺちぺちと叩いた。
腕の力が緩むと「目閉じて」と囁かれる。
疑問を感じるものの、素直に従うと伊織くんが私の背後に回った。
伊織くんの両手が私の肩辺りで動いている。
すると首の下が一箇所だけ小さく冷たいものを感じて肩がびくりと揺れた。
そこから首の後ろに向かってさやさやとくすぐったいような感触を得て、それが何か理解した。
「目開けていいですよ」
「ん……」
そっと目を半分開けながら首元に視線を定めると、既視感のあるデザインのネックレスがあった。
「あれ、これって、指輪と一緒?」
「はい」
後ろを振り向くとにこやかに微笑む伊織くんが背後から私を抱き締めながら左手を取る。
そこの薬指に輝く指輪を半分にしたものが首に掛かっている。
ただ首にあるのはゴールドで、薬指にあるのはシルバーなのだが、埋め込まれた宝石は一緒。
「わぁ……」
元々少ない語彙が消滅した。
嬉しいと表現する言葉をどこにやってしまったのか……。
口から何も言葉が出ない代わりに目から雫が落ちていく。
「直子さん?」
「ん……」
ボロボロこぼれる涙にキスされる。
「こっち向いて?」
「んん?」
首を捻ると唇に温かいものが触れる。
ちょっとしょっぱいのは、私の涙が伊織くんの口に付いているからで……。
ゆっくり合わさった唇が少し離れ、ついばむようなキスになる。
――ふわふわする。
もっと欲しいと、応えれば唇の重なりが深くなり、欲が膨らんでいく。
足りない――と思うのは私も一緒。
まだたくさん欲しいし、たくさんあげたい。
これからも、伊織くんと重なる度に好きが大きくなるのだと感じながら目の前の快楽に溺れた。
*
月日が経るのは早いもので、師走なんてあっと言う間にどこかに去っていき、新しい年が明けたばかりだと思っていたら、またすぐにひと月、ふた月とまたたく間に終わっていた。
駅前の街路樹に梅が咲いている。
今日はホテル『ARIMOTO』に行ってウェディングプランナーさんと最終打ち合わせ。
なんだかんだと結婚式が目前となっていた。
『ARIMOTO』を経営する伊織くんの母方祖父は、やっと自分の孫が自分のホテルで結婚式を挙げてくれると涙を流しながら喜んでくれていた。
――ここで挙式するのが僕の夢って言ってたけど、おじいちゃんの夢を叶えてあげることが僕の夢だったんです。……美織ちゃんはハワイで結婚式だったし。
そう恥ずかしそうに小声で教えてくれた伊織くんは、「おじいちゃん、おじいちゃん」とお祖父様と一緒に涙ぐんでいた。
祖父大好きな孫と、
孫大好きな祖父の、
愛溢れる姿に私の目にまで涙が溜まっていたのは内緒だけど。
あれが正月明けすぐのことで、お祖父様はこうしちゃいられん、と支配人を呼ぶと胸を張って高らかに宣言した。
『すぐに日程押さえて、それから採寸じゃ! タキシードとドレスはオーダーメイドじゃっ!!』
最後は唾を飛ばしながら、にかっと笑った。
それだけで、どんなに楽しみで、どんなに喜んでくれているのかが分かって胸がじんとしたのをよく覚えている。
オーダーメイドなんて、と恐縮した私だったけど、『僕も一緒にデザイン考えたいです』という伊織くんの熱視線に負けて了承したのだ。
「直子さん?」
「ん?」
「考え事?」
この目まぐるしく過ぎていった2ヶ月に思いを馳せていた私を伊織くんが現実に戻してくれる。
通い慣れた道に新鮮味はなく、気付けばARIMOTOの正面入口まで到着していた。
*
これ以上ないほど緊張して周りはよく見えていない。
だが後ろでキャッキャと嬉しそうな声が聞こえる度にベールが揺れるので、それが若干緊張をゆるませてくれている。
ベールガールをしてくれているのは、もちろん美琴と香苗だ。真っ白なドレスに花冠を頭にのせている二人はまさに天使と言って過言ではない。
ホテルARIMOTOの吹き抜けになっているこの場所で。
クリスマスイブのあの日、ここで見た新郎新婦のように(階段じゃないけど)私たちもここで挙式することになるとは思ってもいなかったのに。
仕事の手を止めてこちらに拍手を送ってくださる従業員の方々。拍手に隠れた声が耳に届く。
「会長のお孫さんかっこいいわね〜」
そうなんです。かっこいいんです。
そのかっこいい旦那さんは私とは反対側から中央の祭壇へ向かっていた。
ベール越しに白いタキシードを着こなす伊織くんが見える。
祭壇の手前では母が待っていて、私の顔に掛かるベールを後ろに下げてくれる。
「ほんとうに綺麗よ……」
「ありがとうお母さん」
お母さんの瞳からぽろりと雫が落ちた。
「泣くの早いから」
「だって、もう……」
泣き出す母の後ろに立ったスタッフが「お母様はこちらに」と横にある特等席へ案内する。
それを見届けて私は改めて祭壇の下へ。そこで私を待つ伊織くんの腕に手を乗せ、それから二人で一緒に祭壇へ上がった。
大きな窓から明るい陽射しが私たち二人を照らすように降り注ぐ。
まるで天からの祝福のように――。
〈おわり〉