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7.年齢を気にする女



「課長、大丈夫です?」

「あー月見里やまなしおはよー」

「体調悪いです?」


 翌朝、会社に行くと事務の月見里が私の顔をじろじろと見てくる。その月見里の肌は艶々で……、そりゃそうか。独占欲の強そうな彼氏がいるもんな〜。


 私の肌なんてカサカサだよ。


「考え事してたらあんまり眠れなくて、ごめんごめん、大丈夫大丈夫」

「栄養ドリンクが要るようだったら言ってくださいね。多分川辺かわべのロッカーにストックがあるんで」

「おお〜良い事聞いた〜」


 聞こえていたのか営業の川辺がデスクに着いたまま「マジっすか」と言っている。


「月見里なんで知ってんだよ?」

「え? だって松岡くんに聞いたから」

「おい松岡〜」

「すみません、外回り行って来ます」


 涼しい顔をした月見里の彼氏である松岡がフロアを出て行く。


「行ってらっしゃい〜」


 若いっていいな〜。私とは肌の潤いから違う。

 星野さんもこいつらと同年代なんだ。


「若い子たちは朝から元気いっぱいでいいですね。見ているこちらが元気を分けてもらえるようです。ね、久保田課長?」


 私の向かいの席にいる三山みやま係長がそう微笑むと目尻に皺が寄る。これでも私の二つ年下。そして奥さんと子どもが2人いる。


「ほんと朝から元気が良いですね」


 こんなとき、私は20代あっち側じゃなくて、アラフォーこっち側だと思い知らされる。年齢なんてどうしようもないのに、どうしようもないことに切なくなってきた。


「はあ〜」


 大きなため息でも吐いてないとやってらないと、私はもう一度息を吐き出した。


 小一時間ほど事務仕事をして外に出る。あらかじめピックアップしていた新規でおもちゃを置いてくれそうな雑貨店を訪ね、店長やオーナーがいれば話しを聞いてもらった。


 今日最後の雑貨店を出ると、そこが真樹の家の近くだと気付く。お昼を取り損ねていた私はコンビニでサンドイッチを買って真樹の家に向かう。


「家にいるかな真樹?」


 電話もメッセージも送らず、いつも突撃する私を、真樹は迷惑そうな顔をしながらも招き入れてくれる。


 インターホンを鳴らすとしばらくして玄関の扉が重そうに開いた。


「姉ちゃん……」

「やっほー真樹!」

「来るなら連絡してってば」

「うんうん、ごめんごめん」


 文句は言うけど、どうぞ、と中に通してくれる。


「コーヒー? お茶?」

「じゃあコーヒーで。真樹はお昼もう食べた?」

「食べたよ。姉ちゃん今から?」

「そうそう。ちょっと食べさせてね〜」

「いいけど……。あ、きんぴらとほうれん草のおひたしと、あとミニトマトとレタスがあるから簡単なサラダは出来るけど、いる?」


――実家か、ここは?


「美味しそ! きんぴら欲しい〜! サンドイッチにレタス挟まってるし、ミニトマトだけ2〜3個ちょうだい?」

「いいよ。ちょっと待ってね」


 連絡なしに突撃しても美味しいものが出てくる妹の家。それに比べて私の家なんて、出て来るのはビールくらいだ。


 品数の増えた遅い昼を食べる私の前でカフェオレを飲む真樹が、そうだ、と口を開く。


「美成堂の化粧水使い始めてから、肌がもちもちになってきたよ、姉ちゃん! やっぱりスゴイね」


 言いながら頬を押さえる真樹の肌は、きちんとケアが出来ているようで前よりも肌色がトーンアップしたように見える。


「おお、良かったじゃん!」

「とくにおでこ! ファンデ塗ったら皺が浮き出て見えてたのに、今じゃ全然。皺も目立たなくなってきたし化粧のりも良くて。……本当に姉ちゃんに教えてもらって良かったよ。あと、それから口紅も……」

「どう、口紅? 良かった?」

「うん。あれ健太と買いに行ってくれたんだよね」

「そうそう、そうだよ。なんかさ、サプライズしたいとか言うからさ、品番教えようと思ったら健太さん、美成堂が分からないとか言うじゃん? 困るよ〜二人並んで歩くのとか気まずかった〜」

「ははは、ごめんね健太が。ありがとう」

「いやいや、真樹が喜んだんならいいんだけどね」


 でも真樹は喜んでないのか苦笑している。


「何か問題あった?」

「いや、……まあ色々あったんだけどね、今は大丈夫だよ」

「そう?」


 これ以上突っ込んで聞いてはいけない気がして詮索するのは止める。

 でも真樹の雰囲気が前に比べて明るくなっている気がしたので、それについてはあまり気にしないことにした。


 長居は無用とばかりに、食べ終えると「またね」と手を振って真樹の家を出る。


「真樹の心配より、自分の心配をした方がいいかも……」


 誰にも聞かれていないひとりごとが、のどかな住宅街の青空に溶けていった。



「お疲れ様でしたー」


 と言っても返って来る声はない。私が営業部を出た最後のひとり。

 会社を出ると冷たい風が首から入りこんでくるので肩をすくめながら最寄り駅まで歩く。


「はあ」


 温かい息が胸の底から逃げていく。

 疲れから来るため息ではない。それをもう一度吐く。


 実は朝、家を出てからが怖かったのだ。玄関を出て誰もいないことを確認し、通りを横切るたびに左右へ視線を走らせる。警戒しながら駅に向かう私の心臓はいつも以上に忙しなくて駅に着く頃には息切れしていた。


 駅の手前で周囲を確認する。怪しくて危険そうな人物が見当たらないことに安堵しながら改札に吸い込まれる人々の中に身を隠す。


 いつもは辟易する朝の混雑も、満員電車も、今朝ばかりは感謝した。


 だからと言って帰り道にアイツに遭遇しないとは限らない。


「はあ」


 実害はないにしても、これは精神的に結構キツイぞ、と頬を引つらせながら駅に着いた。


 カバンから交通ICカードを出していると後ろから声を掛けられて驚く。声のない叫びに喉が「ひっ」と鳴った。



 だが、振り向いたそこにいたのは星野さんで、ひどく安堵する。


「なんだ〜星野さんか。あ〜びっくりした」

「すみません、驚かせてしまいましたか……」

「いや、大丈夫大丈夫」


 うなだれる星野さんに私は手の平を見せて『大丈夫』だとアピールする。


「っていうか、星野さん、なんでこの駅?」


 ――あれ? 星野さんってこの駅使うことないよね?


 そう疑問を抱く私に、星野さんは苦笑しながら人差し指で頬をかく。


「昨日の今日ですし、その……なんて言うか……」

「ん?」

「……お迎えに来ました」

「お迎え? 私の!?」


 はい、と頷く星野さんの口角が少し上がるが変わらず困ったような笑みだった。


「本当はですね、朝も駅まで一緒に行くつもりでいたんですが、夜中シュミレーションしていたら、朝、……寝坊してしまいまして……不甲斐ないです。なので夜だけは絶対にお迎えしようと、参りました」

「なんのシュミレーションしてたんです?」


 それは…、と星野さんは口ごもると困ったような顔から恥ずかしいというような照れた顔になって、もそもそと口を開く。


「どうやって、久保田さんを……お迎えするかとか……。なんて言って、……一緒に駅まで行こうかとか……。どんな言葉にしたらいいかと、……その、悩みまして……」

「そんな悩まなくてもいいのに。ありがとうございます、星野さん」


 星野さんの気遣いに私が微笑むと、星野さんは安心したように笑ってくれた。


「じゃあ一緒に帰りましょうか。というか、お待たせしてすみません。何時から待ってたんです?」


 ウチの会社の定時からすでに2時間は軽く越えている。帰る時間なんて私にも予測が難しいのに、それを星野さんはいったい何時から待っていたのだろう。


 もしかしたら2時間前から待っていたのかもしれないのだ。




「何時から? いや、さっきです。さっき来た所で……」


 そう言う星野さんが目をそらすので、私は星野さんの左手を取った。


「手、冷たくなってますよ?」

「あの、それは……」


 温度を確認するようにペタペタと触るが手の甲だけでなく手の平も冷たい。


 前に星野さんに手を取られて引っ張られた時はこんなに冷たくはなかった。


「私のせいでごめんなさい。とくに月曜は遅くなるんです……。こんなに手が冷たくなって、絵が描けなくなったらどうするんですか……」

「いや、たかだか1時間ほど外にいただけで絵が描けなくなることはないですよ。北極にいる訳でもないんですから。それより久保田さんの手が冷たくなりますから離してください」

「大丈夫だよ。……そうだ! 温めてあげるから、ほらそっちの手も貸してください!」


 貸して、なんて言いながら私は星野さんの右手も取る。その右手と左手を合わせて、私は外から包むように覆うが星野さんの手の方が大きくておさまらない。


「星野さんの手、おっきいですね。少しは温かい?」

「は、い」


 星野さんのなぜかぎこちない返事に私は笑う。


「どうしたんですか?」

「あの、その、……温かいです」

「良かった」


 言葉通り、星野さんの手が温かくなってきたのを感じて安堵する。


 しかし、安堵した途端急に距離の近さに気付いてしまった。それまで何ともなかったのは、駅に星野さんがいたという驚きと、待たせてしまったという罪悪感があったから。


 そして思い出す言葉、


――嘘じゃなくていいです。


 ぱっと手を離す。不自然な態度に星野さんも気付いたようで私は焦った。


「あ、……帰ろ。うん、帰ろ帰ろ」


 くるりと方向転換して今度こそカバンから交通ICカードを出す。改札機にかざしてカバンに戻そうとしたが、焦って落としてしまった。しかし足はすぐには止まらず一歩、二歩と進む。


 振り返れば落としたそれを星野さんが拾ってくれている。


「はい、どうぞ」

「ありがとう」


 受取る時に指先が少しだけ触れただけなのに、どうしてかドキドキする。さっきまで普通に両手を触っていられた私はどこに行ったのか?


「久保田さん?」

「へ?」

「前見てください。危ないですよ」


 星野さんはそう言って私の右手を取って引っ張る。前を見ると降車した人たちが改札に向かってながれていた。その人たちの間を星野さんと手を繋いで抜けていく。



 ――これは、ああそうだ。



 ――介護だ。




 引っ張られる手を見て、そう思った。

 いや、勘違いしそうになる思考を遮断するためにそう思うよりほかなかったのだ。



 この手はいつまでこのままなんだろう?



 手、離していいよ――とも言えず電車内では無言が続く。意識が向く右手はもう燃えるように熱い。


 そして電車を降りてもそのままで、……だけど改札を抜けるのに左手だけでカバンの中を探れずもたもたする私を見兼ねたように星野さんは繋いだ手を離してくれた。


 熱い手をカバンに突っ込む。革製のパスケースがひんやりとしている。


 ――もう繋がないよね。


 ちょっとだけ残念な気持ちになりながら改札を抜けると星野さんはまた私の右手を掴んだ。


「あの、星野さん――」

「アイツがいたら困りますから」


 星野さんは周囲を確認するように見回すと、行きましょう、と言う。


「もしかして、いました?」


 私がそう小声で問うと、星野さんも声音を落とす。


「暗いので分からなかったです」

「……そうですよね」


 さり気なく左手首に視線を落とせばそこにある小さな時計は21時前を示していた。


「星野さん夕飯食べました?」

「ああ、そう言えばお腹空きました」

「まだ食べてなかったんです!? もしかして私を待ってたから?」


 そうに決まってる。私なんかを待ってさえいなければ今頃家に帰ってのんびり出来ている時間だろうに……。


「でも、今日はまだ朝ごはんしか食べてませんね」

「えっ!?」


 驚き見上げる私の顔を、星野さんは首を傾げて見下ろす。


「……あーー、と言っても朝は11時だったので、朝昼兼用みたいな?」

「それでも18時くらいになるとお腹空くでしょ?」

「ん……? ご飯のこと考えてなかったので忘れてました」


 芸術家っぽい発言だな、と思いながら聞く。


「他のことに集中してたって事ですか?」


 例えば絵の事とか? ――そう思うが、しかし返ってきた言葉は想像の斜め上でそれを聞いた私の頭は沸騰寸前におちいる。


「はい。久保田さんのことずっと考えてました。今日一日ずっと」


 ボンっ――脳が噴火する音が聞こえたような錯覚。それから心臓が止まる――否、止まらない。それどころかどんどん早くなっていく。


 固まる私の腰に手を回して星野さんは介護してくれる。


 ――大丈夫です?


 聞こえる問いに首を縦に振る。


 ――あそこのラーメン屋さん行きません?


 首が縦に揺れる。揺れ続ける。




 そして、


 気付けば目の前にラーメンが一杯、コトンと置かれた所であった。


 ラーメンを一杯食べ終えて外に出る。21時を過ぎて食べるラーメンは胃に重いなんて考えながら。


「さむっ」


 温まったはずの身体に容赦なく冷たい風が襲ってきた。寒さに堪えるように握り締めた拳の上に温かい手が触れる。

 それはもちろん彼の手。


 見上げれば微笑んで、ゆるく解けた拳の中に星野さんの指がするりと潜り込んでくる。


「帰りましょうか」

「うん」


 ――やっぱりこの手はなんだろう?


 その疑問を口から出せず、喉元に留めたまま星野さんのマンションの前にきた。


「今日はありがとうございました」

「送ります」


 お礼を言おうと立ち止まった私は、足の止まらない星野さんに引っ張られ体勢を崩す。


「わ、ぶ」


 前のめりになった身体は倒れる前に何かにぶつかった。それは――、


「大丈夫です? すみません僕が引っ張ってしまったから」


 ――星野さんの胸。そこにおでこが当たっている。


「大丈夫大丈夫、ダイジョーブ……」


 ごめんね、と呟いて顔を上げようと思ったが星野さんの顔が案外近くてそのまま視線を下げる。


 こんなの何て事ないはずなのに……。

 どうしてこんなに意識してしまうのだろう……。


 胸がきゅっとして切なくなる。


 ――勘違いしない。勘違いしない。

   勘違いだけは絶対にしない。

   イタいオバさんにだけはならない。


 勘違いしてしまったら、それこそ私は星野さんにとっての勘違い野郎ダサいさんになり兼ねないのだから。


 気を取り直して前を向いた私と歩幅を合わせて隣を歩く星野さんには感謝しかない。

 こんな時間オバさんの隣を歩く暇があるのなら年相応もしくは若い女性とデートでもしていた方が有意義な時間が過ごせるだろうに……。

 若い女性――たとえば、……と頭に浮かんだのは同部署の二人の可憐な笑顔。私にはもう『可憐』なんて言葉は皆無で、それはほど遠いどこかに忘れてきている。


 ちらりと横を見上げれば、にこ、と返ってくる。眩しい――。



 ――重ね重ね、申し訳ない。



 そううなだれるのだった。


 ――朝は何時に出ますか?


 そう聞かれるが質問の意図を理解するのに時間を要していると、それをどう捉えたのか星野さんと繋がったままの手がきゅっと軽く潰される。


「答えるまで離しません」


 ここは私の家の玄関前。

 星野さんの真剣な瞳。


「――時」


 かすかな声で答えれば嬉しそうに微笑む星野さんの顔が可愛くてまた胸がきゅっと痛くなる。


「おやすみなさい」

「おやす――」


 アパートの廊下に一つだけある電灯が隠される。繋がったままの手とは反対の星野さんの右腕が私の背中側にまわったのが分かって、緊張に肩がぴくりと一瞬震える。

 私の目の前には星野さんのジャケットのボタン。そして額に何かが当たる。


 何かなんて確認しなくても分かる――。


 目の前のボタンが遠くなる。視界が明るくなり廊下の電灯が視界の端に現れる。


 コンコンと階段を降りる靴音。その音が完全に止むとアパートの下を歩く星野さんが見えた。3階から呆然と見下ろす私に気付いた星野さんが会釈して過ぎていく。


「いっ、今の……、なにっ?」


 額を押さえる。額が熱いのか、手の平が熱いのかよく分からない。慌てながら玄関の鍵を開けて部屋に入り、すぐにカーテンをしめる。力の抜けたように床にへたりこめば、床のひやりとした感覚が熱い身体に心地よいが、心は平穏とは全くほど遠かった。


「最近の若い子にとっては普通なのか?」


 恋人同士ならいざ知らず、私と星野さんは、


「違うよね?」


 それじゃあ考え付くのは、さっきのは恋人のフリだったということ。

 だけどあれはダサイさんの前でだけ有効なのだ。と言うことはダサイさんが近くにいたと言うことなのかもしれない。


「家バレた? ダサイさんに……」


 熱かった身体が一瞬で冷えていく。


「だから朝の時間も聞いてくれたの? 星野さん優しすぎでしょ……」


 ――あんなことまでしなくて良かったのに。


 そう思いながら額に手を当てる。驚いたけど、嫌じゃなかった。だけど喜ぶべきことではない。ダサイさんがいたから仕方なくをしてくれただけ。




 翌朝。

 カーテンをそっと開いて向こうを確認する。カーテンのない出窓の奥に人の動く気配を感じて、何とも言い難い感覚に胸がきゅっとする。なのに私の右手は胸を押さえず額を押さえていた。昨晩、星野さんの唇が触れたところを。


 身支度を終えてまたカーテンの隙間から向こうを覗く。するとそこに星野さんがいたことに動揺してカーテンを揺らしてしまった。

 それに気づかれない訳もなく、コーヒーでも飲んでいたのかマグカップを持ったままの星野さんが出窓を開ける。ドキドキする胸を抑えて、平静を保ちながら私も窓を開けてベランダに出た。


「おはようございます」

「おはよう」

「もう出ますか?」

「そろそろね」


 星野さんの顔を正面から直視出来ないのは横から差し込む眩しい朝日のせいではないだろう。


「すぐに行くので玄関で待っててください」


 はい、と私が返す前に星野さんは出窓を閉めてしまった。

 私も中に入って窓を閉める。戸締まりの確認をしてカバンを持って玄関に向かうが、なんとなく自分の顔が気になって鏡の前に戻る。


「へんな所ないよね?」


 化粧と髪型をもう一度確認して、私は玄関をそっと出た。

 私側から見て怪しい人影はなし。


 アパート下に星野さんが見えたので1階に降りると星野さんが微笑んだ。


「行きましょうか」


 そう言って自然に右手を取られる。だから私は目だけで左右を確認する。


「久保田さん?」

「いた? ダサイさんいた?」


 なおも辺りに視線を飛ばす私に、星野さんは大丈夫ですよと言う。


「いなかったと思います」

「そっか」


 ほっとして肩が下がる。

 あの人だって仕事があるのだろうし、朝は忙しいだろう。


「ごめんなさい、付き合わせて」

「いえ」

「今度お礼するから。何がいいか考えてて?」

「はい。何でもいいですか?」

「もちろん、何でもいいですよ! って言ってもあんまり高価なものはちょっと……」

「僕、高価なものはあまり興味ないので」

「そっか。……何に興味があるの?」

「絵」

「あ……、そうですよね。じゃあ画材とか?」

「いや、画材はいいです」

「そっか。じゃあ決まったら教えてくださいね」

「はい」


 そろそろ駅に付くというタイミングで星野さんが口を開く。


「仕事終わるの、何時くらいになるか目処が付いたら連絡ください」

「え……」

「駅に迎えに行きます」

「うん。あ、今日は昨日みたいに遅くはならないから」

「分かりました。では僕は3番線なので」


 改札を通り、星野さんは3番線へ。


「行ってらっしゃい」


 振り返って星野さんが「行ってきます」という。


「久保田さんも行ってらっしゃい」

「い、行ってきます」


 胸が温かい。

 優しい気持ちがあふれる。


 穏やかで心地よくて、うすく涙が浮かんだ。



 早く終わらせなきゃ――そればかり考えて仕事に取り組む。どこかで「課長殺気立ってる」という声が聞こえた気もするが構っている暇はない。そんな暇があるなら一分でも早く終わらせて会社を出たい。


「ふう〜」


 腕時計を確認すると16時半。とりあえず山は越えた。今日中にやらないといけない仕事はあと1時間ちょっとあれば終わるだろう。


 首を左右に倒して、猫背になっていた背中をぐうっと伸ばす。


 小休止ついでにスマホを手に取り、星野さんへショートメールを送る。

 『お疲れ様です。今日は18時頃には帰れそうです。』


「よし、もうひと頑張り!」


 星野さんを駅で待たせるわけにはいかない、という思いを抱えて残っている仕事に着手した。







 星野さんが『会社を出ました』というメールをくれたので私も会社を出て駅に向かう。

 会社を出る前に三山係長に「今日はえらく早いですね?」と問われたので、「ちょっと用事が〜あはは〜」と誤魔化すように笑ってしまった。変に思われていないかと、あとになって心配になってくる。


 駅に着くと星野さんはまだいなかった。

 待たせてばかりは悪い気がするから、早めに着いて良かったと胸をなでおろす。


 数分待つと改札口を出る人の流れが見えたので、流れに逆らって近づいた。もしかしたら星野さんがいるかもしれない。

 案の定、改札を出ようとする星野さんを見つける。


「星野さん、そっち行きます!」

「あっ」


 星野さんが改札を出るより早く、私が改札を通って中に行く。


「久保田さん、お疲れ様です」

「お疲れ様です」

「何か急いでるんですか?」

「え?」


 特に急いではいない、と私は首を傾げる。


「なんていうか、慌てたようにこっちに来たから、てっきり急いでるのかと……」

「ああ。だって星野さんが改札を出る必要ないじゃないですか。それに出たら余計なお金かかっちゃうし」

「なるほど」


 星野さんは妙に感心したように3回頷いた。


「……でも、お仕事終わらせるの急かせてしまいましたか?」

「い、いやあ……そんなことないですよ!」

「そうですか?」

「星野さんこそ急いで仕事終わったんじゃないですか?」

「いえ、僕は。いつもこんな時間ですし、わりと自由がきくし、会社にいるより家にいたほうがデザインのイメージが湧いてくるので……」

「じゃあ帰りましょうか」

「はい。どこか寄る所はありませんか?」

「ううん。ないです」

「それじゃあ真っ直ぐ帰りましょう」


 私はそれに微笑みで返して駅のホームへ向かい、やってきた電車に乗った。


 電車を降りるとやっぱり二人とも周囲に視線を飛ばす。


「いない? ですね」


 改札を出ても、駅を出てもダサイさんの姿は見当たらず、ほっと息を吐き出した。


「もう諦めてくれたのかな?」

「さあ、どうでしょう。警戒するに越したことはないですから……」


 そう言った星野さんの手が私の右手に当たる。そう思った直後には私の右手は星野さんの左手に包まれていた。


「星野さん?」

「嫌ですか?」

「嫌じゃ……」


 嫌だなんて言えるわけない。嫌じゃないんだから。


 手を繋いで夜道を歩く。すっかり真っ暗な空に反して駅前はまだまだ明るくて街灯もたくさん並んでいる。それが通りを一つ入るたびに街灯が少なくなっていく。

 星野さんのマンションの前に着くけど星野さんの足は止まらない。


 ――送ってくれるつもりなんだ。


 そう思えば胸のあたりがくすぐったい。


「星野さん、今日はお昼ごはん食べました?」

「あ、はい。今日は同僚がサンドイッチを差し入れてくれたので、それを食べました」

「そうなんだ。その同僚って女の子?」


 気遣いの出来る女性を思い浮かべると胸が痛くなる。


「違いますよ。男です。同期の奴で、僕が仕事に没頭してると『食べてないだろ』って言って何かと与えられてます」

「与えられてるって、ふふふ」

「よく食事を忘れる僕が悪いんですけどね」

「じゃあこの後、家に帰ったら何食べます?」

「うーん? カップ麺かな? ささっと食べてデザインの続きをしたいんですよね」

「私のせい?」


 一緒に帰ることにしたから、仕事を持ち帰ったのだろう。


「違いますよ。久保田さんと一緒に電車に乗ってる時にちょっと浮かんだんです。だから忘れないうちに描きたいんですよね」

「そっか」


 安堵と、そして嬉しい気持ちが合わさって頬が緩む。


「じゃあ早く帰らなきゃね! ここでいいよ!」


 と言ってももうアパートは目の前。


「久保田さん」

「なに?」

「抱き締めていいですか?」

「え?」


 是非を返す前に私は星野さんの腕の中におさまっていた。


「星野さん、私まだ良いって言ってない……」

「はい。でも待てなかったから」


 そうは言うけど、抵抗する気もない私が返すべき言葉は「是」なのだけど、果たしてそれを言えたかどうかは分からない。

 良いよ、なんて恥ずかしくて言えないだろうから、星野さんが待てずに抱き締めてくれて良かった。


「おやすみなさい」

「おやす――」


 言い終わる前に額に落ちてくる唇が見えて目蓋をふせる。昨日と同じ、おでこに感じる熱。

 そこからじわじわと広がる熱を意識する私を置いて星野さんの腕が離れていく。


 昨日は咄嗟のことに反応しなかった身体だが、今日は違う。背中を向ける星野さんのジャケットの裾を私の右手は掴んでいた。



「ねえ、星野さん……」


 呼び止めたはいいけど、私は彼に何を聞こうとしているのだろう。

 躊躇して、言葉を止めて、掴んだ裾を離した。


「久保田さん?」

「あ、……あの、あっ、今日も送ってくださってありがとうございました」

「いえ」

「引き止めてごめんなさい」


 軽く頭を下げる私に向かって星野さんが一歩近づく。


「あの、久保田さん」

「はいっ!」


 少しだけ返事が上擦る。きっとおかしいと思われたに違いない。さっきから挙動不審すぎる、サイアクだ。


「朝言ってたお礼の話しなんですけど」

「ああ、うん。お礼。はい……」

「本当に何でもいいです?」

「うんうん、何でもいいです、いいです!」


 壊れかけのオモチャみたいに首をぶんぶん縦に振る。


「もしかして決まりました?」

「はい、決まりました」

「何にしますか?」


 画材じゃないにしても、呑みに行こうとか、レストランで食事しようとか、そのあたりかなと予想していた。星野さんの性格からして高価なものが欲しいとは言わないんだろうなあ、と思っていたからだ。

 だけど、星野さんの口から出たのは全く予想もしていなかった私の名前――!?


「え?」


 聞き間違えかと思って聞き直す。


「お礼は久保田さんがいいです」

「えっ!? わたし??」

「はい。久保田さんが欲しいです」


 どうやら聞き間違えではないらしい。


 と言うことはどういう事だ?


「私がお礼って?」


 今までの星野さんの態度から合わせて考えて、お礼として求められる意味が分からないわけじゃないけど、でも『まさか? 本当に?』という思いが前に出てしまう。


「今もらってもいいです?」


 何が? ――と問う声が出なくて、否定しないことを肯定と捉えたのか星野さんがまた一歩こちらに近づく。

 二人の間にはわずかな隙間しかない。

 星野さんの瞳があまりに綺麗で、どんどん近づく瞳に捕らえられ、瞬きも出来ないまま唇にそっと熱が移されていく。


 ゆっくり離れた星野さんは歯を見せず、にこと笑った。

 私の胸がとなる。そろそろ心不全とかにならないだろうか。心臓が死にそうだ。



 翌朝、アパート下に迎えにきてくれた星野さんと一緒に駅に向かうけど、「おはよう」と挨拶を交わしたきり、言葉が出ない。


 口を開けば私は星野さんに「私の事好きなの?」とか聞いてしまいそうで、どうしたものかと色々言葉を考えてしまう。

 だが考えるだけで何も浮かばす駅に着いてしまった。


「今日もお仕事頑張ってくださいね。それじゃあまた仕事が終わる頃に連絡ください」

「うん」


 3番線に向かう星野さんを見送りながら私は2番線に行きすぐに来た電車に乗って会社に向かった。






「――課長」


 ――星野さんも何で私を?


「久保田課長!」


 ――まだ若いんだから私じゃなくても……。


「久保田課長ー!!」

「へっ?」


 虚空に漂っていた視線を横に向けると事務の月見里やまなしが訝しげにこちらを見ていた。


「呼んだ?」

「呼びました。何度も。どうしたんですか? 何をそんなに考えてたんです?」


 そう言いながら私の前にあるパソコン画面を覗いた月見里が首を傾げる。


「納品書? 何かおかしい所がありました?」

「あー、いやいや、ないない! 大丈夫!」

「それならいいですけど。もしかして体調悪いです?」

「ちょっと寝不足なくらいかな? でも全然大丈夫だから」


 そう言うと、今度は事務の結城さんまでやって来た。


「ダメですよ〜、寝不足は!!」

「うん、そうだね。今日は早く寝るようにするわ」

「そうですよ! ちゃんと寝てくださいね〜」


 結城さんの若くて澄んだ高い声に増田部長が反応した。


「おやおや?」


 いや、反応しなくていいからデスクに戻ってくださいって!!


「久保田課長」

「はい……」

「寝不足なら、これから外回りに行きますか?」


 鬼だ。目を覚まして来いってことだろうかとうなだれる。


「でも外回りの予定は月曜に済ませたばかりで……」

「じゃあ私のお遣いをお願いします」


 理不尽。


「……わかりました」


 早く帰らないと星野さんを待たせることになってしまう。なるべく急いでお遣いを終わらせて帰社しようと思った。


 増田部長の『お遣い』という名目の市場リサーチに行くため会社を出る。


「もう16時前なんだけど……」


 今から出て、帰社は何時になるだろう。急ぎのデスク仕事はないから、帰社次第すぐに退勤できるはず。そう考えているとスマホが鳴りはじめた。


 画面に表示されているのは『増田部長』である。ひとつ大きな息を吐き出して電話に出る。


「はい、お疲れ様です」

「あー、『お遣い』行かなくていいから」

「は?」

「そのままお遣い行ったフリして直帰してくれたらいいから。たまにはこんな日があってもいいでしょ」

「ですが」

「いいから、いいから。だけど今日だけね〜。明日からまた頑張って。じゃ!」


 ピ、と終話になる。


「え、部長? ……えー、帰っていいの?」


 部長、若い娘を見て鼻の下を伸ばすエロオヤジだなんて思っていてごめんなさい――と心の中で謝る。本人には絶対言わないけど。



 思いもよらず早く帰れる事になったわけだが、どこかでぶらぶらするわけにもいかないだろう。


 でも星野さんと待ち合わせして一緒に帰るには時間はまだまだ早い。


「今日は先に帰るか……」


 きっと一緒に帰っても今朝のように会話に悩んでしまうのだから、それならいっそのこと今日は先に帰ってしまおうかと考える。


「とりあえず連絡だけ入れとこ」


 今日は早く帰れることになったので先に帰ります――と星野さんへメッセージを入れる。


 送信して、真っ直ぐ駅に向かう。


「こんな明るい時間に帰れるなんて初めてだな〜」


 スーパーに寄って帰ろうかな、と考えるものの早く帰れるからこそ自炊したくなくなる。


「デパ地下のお惣菜? 行ってみる?」


 でもデパートまで行くのは面倒くさいな、と今度は考える全てが億劫になっていく。もともとこんな性格だから自分は困らないけど、周りに迷惑を掛けていることは自覚しているのだ。


 デリバリーもいいけど、あれはあれで玄関に出るのが面倒くさい。


 ――あ〜、帰り道に手軽にテイクアウトできて美味しいものってなんだ?


 いい案が浮かばないまま駅に着く。そのまま電車に乗って、このまま何も買わずに家に帰りそうな自分を想像して車内で一人失笑する。


 車内に人は少ない。と言っても座れる所はなく、開かない方の扉に寄り掛かって外を向いていた。


 昨日と一昨日は星野さんと一緒に乗った帰りの電車が今日は一人。

 それをちょっとだけ寂しいなと感じながら降車する。ぶらりと揺れる右手は乾いていて少し冷たい。


 隣に人のいない寂しさに胸の中まで寒くなる。だからといって隣にいて欲しいのは誰でもいい訳じゃないのだ。

 浮かぶ顔は一つ。


 その時、自分の名前が呼ばれた気がした。都合のいい幻聴だろうか、と考えながら首をめぐらす。


 するともう一度、ナオさん――と呼ばれて、私の喉はひゅっと鳴った。


 ナオと呼ぶのは一人だけ。

 ナオは、Nao。


 目の前に現れたのは二度と会いたくないと思っていたダサイさんだった。


「だ、ダサイさん!?」


 目の前に現れたダサイさんは無表情。何を考えているのか全く分からない。


 私の家がここの近所だと知っていての待ち伏せなのか、それとも偶然なのかは分からないが背中に悪寒が走る。


「どうして?」

「仕事ですが」


 そう言われて初めて服装に注視する。紺色のスーツに青系ストライプのネクタイ。カチッとした黒い鞄。どこからどうみても普通のサラリーマン。


「訪問です。この辺りの地域を担当してます。と言ってもこれから役所に戻りますが」

「え、お役所仕事? 公務員?」

「はい、そうですが……」


 ダサイさんは、知らなかったのか、という視線を向けてくる。


「始めに言っておきますが、貴女も私に会いたくはなかったのでしょうが、私も貴女に会いたくはありませんでした」

「はあ……。えっとじゃあどうして声を掛けたんですか? 無視してくれてもいいのに……」


 私がそう言うとダサイさんはため息と同時に視線を斜め上にやる。


「私もいくらか悩みました。このご近所にお住まいならまたいつか顔を合わせる事があるかもしれないので。そしてその時にあらぬ疑いをかけられても非常に迷惑ですから」


 あらぬ疑いとはストーカーだろう。


「貴女みたいに平気で二股する女性に騒がれるのはご免こうむりたい」


 二股なんてしてないけど――と飛び出しそうな言葉は飲み込む。この際、ダサイさんには私がビッチだとでも思われていた方が助かるのだから。


 ダサイさんもそう思っているようで、「私は健全な女性とお付き合いしたい」うんぬんかんぬんと一人で喋り続けているが、どうでもいい。


 コバエが飛んでるな〜レベルでどうでもいいのにダサイさんの話しは終わらない。

 だけどもう婚姻届を持って結婚を迫られないということが分かって心底ほっとした。


「聞いているのですか?」

「え?」

「いい歳してきちんと話しも聞けないなんて、これだから40歳過ぎても結婚出来ないんですよ」


 頬がピクピクする。

 でもこういう人に反論しても仕方ない。ネチネチ嫌味たらしく返されて私の精神がゴリゴリ削られるだけなのだ。

 黙って聞いている私は相当忍耐力があると自分を褒めながら、後半の話しは「早く帰りたいな〜」と思いながらダサイさんの話しを聞き流した。


 そして一通り話して満足したのかダサイさんは腕時計に視線を落とす。


「ああ、これ以上は時間の無駄ですね」


 時間の無駄は私もなんだけど……。早く帰れるはずだったのに駅の外は暗くなり始めていた。


 電車を降りた人が駅の外へと向かうのが見える。その中に見知った顔があった。焦った顔をしてこちらに走ってくる。


 それは――星野さんだった。



「何してる――!?」


 顔色の悪い星野さんがその背中で私の視線を遮る。


「また君か」

「警察を呼びます」


 静かな声だけど怒りが滲んでいる。でも警察は待って!!


「ちょ、星野さん!?」

「大丈夫です。僕が守ります」


 こんな時にときめいてごめんなさい。でも、でも……、守るだなんて言われた事なくて、胸が不覚にも反応した。


 だって今までは「直子なら一人で生きていける」評価だから、誰も守るだなんて言ってくれなかった。


「君は誤解しているようだが」

「そうそう星野さん、誤解なんだってば!」


 星野さんがゆっくり振り返り、私を見下ろす。その瞳には怒りの色が滲んでいる。


「星野さん、大丈夫だから」

「どこが?」

「えっと、その、なに? 今、和解したところ?」

「和解?」


 怪訝な顔をする星野さん。そりゃそうか。和解なんて言われても意味が分からないだろう。


「もういいかな? 私はもう次の電車に乗りたいんだ」

「どうぞどうぞ」

「ふんっ」


 憮然とした表情で改札に向かうダサイさんを唖然として見送る私とは反対に、星野さんは睨みつけていた。


「久保田さん」

「はい」

「あなたに危機感というものはありますか?」

「あ、あります……」

「じゃあ何で先に帰るんですか。何かあってからでは遅いんですよ」

「でも……。定時より早く終わったから」

「僕は、……僕は……」


 星野さんは大きな手の平で顔を覆うと「はあ〜」と息を吐き出した。


「良かった。無事で。久保田さんとあいつが一緒にいて、心臓が止まるかと思いました」

「大袈裟だよ」


 私がそう言うと星野さんはキリっと私をひと睨みする。


「ごめん、ね?」


 上目でうかがう私を星野さんは抱き締める。ぎゅっと腕の力が強まる。


「和解って、なに?」

「え? なにってその……っていうか星野さん、ここ駅」

「だから?」

「離して欲しいな、って……」

「無理」

「いや、でも」

「何でそんなに落ち着いてるんですか。駅じゃなかったらいい?」

「えっと、場所による?」

「じゃあ僕の家」


 私の身体にまわっていた腕がゆっくり離れ、その代わりに私の右手が掴まれる。


 そのまま引っ張られる私の心臓は、ダサイさんに会った時よりドキドキしているような気がした。



「座って」


 リビングのローテーブルの前に腰を下ろした星野さんが隣を叩いて、私に座るよう促す。

 抗えずに正座して両手を太ももの上に重ねて置く。

 いつもの穏やかな星野さんじゃない。それは口調のせいだけではないだろう。


「星野さん、怒ってる?」

「怒ってます」

「ごめんね?」

「悪いと思ってるんですか? というか和解って何ですか?」

「えっと……」


 ダサイさんの言葉を思い出す。


「向こうも私みたいな二股女には会いたくなかったけど、仕事でどうしてもこの辺に来るし、たまたま会ったとしてもそれはストーカー行為ではないから理解しろ、みたいな?」

「やっぱりあいつ警察に付き出せば良かった」

「え、何で何で? ストーカーじゃなかったんだよ?」

「じゃあ一発殴る」

「ダメだよ! そんな事したら絵が描けなくなっちゃうじゃん!!」


 というか星野さんの口から「殴る」なんて暴力的な言葉が出て来るなんて思わなくてびっくりする。


「だって……、あいつは自分のことばかりで久保田さんの心を傷付けたから」


 星野さんの怒りが、夜の静けさのような哀しみに変わっていく。


 ――なんで星野さんの方が泣きそうなの?


「ありがとう。でも私そんなこと言われたくらいでへこたれないから大丈夫だよ」

「なんで強がるの?」


 泣く寸前の子どものような顔がこちらを向く。


「強がってなんて……」

「ないって言える?」


 言葉が出ない。だって本当は「酷い! 悔しい!」と叫びたい。


 でもそれを星野さんの前で晒せない。


「僕に甘えてよ……」


 床に向けて呟いた言葉はまるで星野さん自身に言ったように聞こえたが、それは私に向けられた言葉だろう。


 甘えるなんて出来ない。


 だって私はずっと長女おねえちゃんだからとか、委員長だからとか、課長だからとかいうラベルを貼り付けて生きてきた、甘えを許されない人間。


 少しでも甘えたら「おねえちゃんなのに」とか「委員長のくせに」とか言われてしまう。


「僕じゃ頼りない?」

「そんなこと……、ない。守るって言ってくれた時、嬉しかったもん。でもね、私もういい年した大人だし、一人でダイジョ……」


 言いかけた言葉を止める。

 『一人で大丈夫』は自分で自分に掛けた呪いのような言葉だと気付いた。


「久保田さん?」


 目に涙が滲むのが分かる。だけどこぼしたくない。私はこんな事で泣くほど弱くない。


「大丈夫だよ」


 また呪いを掛ける。


「そんな顔で『大丈夫』なんて言っても僕は信じませんよ」


 視界が暗くなる。星野さんが抱き締めているのだと分かるのに数秒かかった。


「星野さん?」

「駅じゃないからいいんですよね?」


 いいとも、ダメとも言えず大人しく星野さんのぬくもりに包まれた。


 星野さんがあったかいコーヒーを淹れてくれる。湯気とともに香ばしい匂いが漂う。


「ありがとう」

「パスタなら作れますが食べますか?」


 いつもの口調に戻った星野さんが冷蔵庫を覗きながら問う。


「いいの?」

「ええ。嫌いなものありますか?」

「ないよ」


 穏やかに微笑む星野さんに安心しながら、先ほどの口調のままでも良かったのにと、残念に思う。


「何か手伝おうか?」


 そう言って、私もいつの間にかタメ口になっている事に気付いた。いつからだろう? でも気付いたからといって直す気はあまりない。


「コーヒー飲んでてください。すぐ出来ますから」

「うん」


 言われるままコーヒーに口を付ける。熱くて少しずつ口に入れながら飲むとその爽やかさと苦味の美味しさに肩の力が抜けていく。


「美味しい」

「良かった。……ニンニクとタカノツメ入れていいですか?」

「うん、いいよ。もしかしてペペロンチーノ?」

「はい」

「すごいね。私家でペペロンチーノなんて作ったことないな」

「あまり好きじゃないです?」

「ううん、好き。お店でよく注文するし」


 良かった、と言う星野さんの声とフライパンのジューという熱された音が一緒になる。ニンニクを入れたのだろう、その匂いがカウンターキッチンを越えてこちらに届く。


 こちらから星野さんの手元は見えない。だけど手際がいいのだろう。包丁がまな板を叩くリズムは均一で、手が止まることはない。


 コーヒーを飲み終えて立ち上がる。


「ねえ、何か手伝うよ?」

「それじゃあ……」


 私に何が出来るか考えているのか星野さんがキッチンをぐるりと見回す。


「あ、サラダがいりますか?」

「パスタだけでいいよ」

「じゃあスープ?」

「品数増やそうとしなくていいよ?」

「本当に?」

「うん」

「……じゃあお皿出してもらっていいですか?」

「うん、いいよ」


 小さな食器棚はスッキリしていて食器は少ない。パスタを盛り付けられるお皿を探すが一皿しかなかった。


「星野さん、これしかない?」

「あ、そうだ。お皿買っておかないといけないですね」


 ――え、それって……。またご飯作ってくれるってこと?


「じゃあ僕はフライパンに入れようかな」

「ふふ」

「?」

「笑ってごめん。なんかインスタントラーメンを鍋のまま食べるの思い出して」

「久保田さんは鍋のまま派?」

「やっぱりダメだよね、男子学生じゃないんだし……」

「ふっ」

「星野さん?」

「いや……すみません……」

「あー、ガサツだと思ったでしょ?」

「いえ、気取らない所がやっぱり……」

「やっぱり?」


 ――やっぱり、なに? 

 期待と不安に心臓がドキドキする。



「やっぱり……、今は言いません。はい、出来ました」


 私が手にしていたお皿を星野さんが取る。くるりと円を書くようにパスタを盛り付けてくれて、そのお皿とフライパンを星野さんがテーブルに持っていく。


「久保田さん、カウンターの上にある鍋敷き取ってくれますか?」

「うん、いいよ」


 白いカウンターの上に木製の丸い鍋敷きがあった。それをテーブルに置くと星野さんはその上にフライパンを置く。


「美味しそうだね」

「その感想は食べたあとにお願いします。フォークだけでいいです?」

「うん」


 キャベツとベーコンのペペロンチーノから、香ばしい匂いが上ってくる。

 星野さんからフォークを受け取り椅子に座る。


「いただきます」

「いただきます」


 フォークにキャベツがザクっとささり、そのままパスタを巻き取る。口に入れるとピリッとした辛味とニンニクと塩味とあま味とうま味、全てが上手く調和していて口の中いっぱいに至福が広がっていく。


「うう〜ん!!」


 左手で頬を押さえる。押さえないと落ちてしまいそうだったから。


「美味しい〜。何コレ〜!!」


 お店で食べるペペロンチーノより、断然星野さんのペペロンチーノの方が美味しい。


「お口に合って良かったです」


 星野さんは大口を開ける私を見て微笑んでいる。慌てて口を閉じるが意味はないだろう。


 それでも手は止まらなくて、あっという間に完食してしまった。


「ほんと美味しかった! ご馳走さまでした」

「また作りますね」

「絶対食べに来るっ!!」


 前のめりに反応する私を見て、星野さんはにこりと笑う。


「お皿片付けるね」

「いいですよ、気にしないでください」

「いやいや、ここはちゃんと洗います!」

「そうですか? それじゃあ僕はコーヒーでも淹れましょうか? 飲みます?」

「うん飲む!」

「コーヒーでいいです? それともビール出しましょうか?」

「いや〜、ビールは」


 人様のおうちで「ぷは〜」なんて出来ないし、とお断りする。


「ビールはさ、お風呂も済ませてから呑むのがいいよね」


 言いながら、流しにあるスポンジに洗剤を付けて泡立てる。


「ウチで入ります、お風呂? 一緒に入りますか?」


 洗おうと手にしたお皿を落としかける。


「なっ!?」

「お風呂一緒に」

「ちょ、星野さんでも冗談言うんだ……」

「冗談じゃなくて本気」


 背後に立つ星野さんに、背中が緊張に固まる。その背中がゆっくり温度を感じて、肩口に星野さんの顎が乗った。

 私の顔は正面を向いたまま硬直する。


「本気って言われても、付き合ってもないし、ね?」

「付き合ってたらいいです?」

「そりゃ、……コイビトドーシなら……」


 言いながら、言ってはならない言葉だと気付いて止める。だがもう遅いのかもしれない。お腹が苦しくなる。


 それは星野さんの腕が私のお腹に回されているからで……。


「久保田さん」

「な……に……?」

「恋人として、僕とお付き合いしてください」



「……星野さんはさ、私のこと好きなの?」


 それはずっと聞きたかったこと。聞いてもいいのか、と躊躇っていたのに気付けば口からこぼれ落ちていた。


 耳のすぐ近くで、ふ、と笑われる。


「嫌ですか?」

「い、嫌とか、じゃないけど……」

「『けど』?」

「けど、私は星野さんより10歳も年上だし……」

「年齢差が気になるんですか?」

「当たり前だよ」

「どうして?」

「だから、……10コも違ったら色々考えちゃうの」

「じゃあ逆だったら? 久保田さんが僕より10歳年下だったら良かったですか? もしくは僕が30歳ではなく50歳だったらダメですか?」

「えっと、いや……」


 星野さんが50歳ーーそれならアリかな、なんて考えてしまう。ようは自分が彼より10も年上であることが許せないのか。


「でも私、赤ちゃん産めないかもしれないよ? もう40過ぎてるからリスクもあるし」

「それが?」

「星野さんならもっと若い女性がお似合いだと思うけどな〜」


 自分で言ったセリフなのに、どうしてか胸がズキンと痛くなる。


「僕なんかでは久保田さんのお相手に相応しくないと言うことですか?」

「違うよ。私には勿体ないって言ってるの」

「僕は相当のポンコツですよ。食事も忘れるくらい……」

「そんなの大した事ないって、若くてイケメンで素敵なデザインが描けるんだから星野さんなんて引く手あまたでしょ?」

「引く手あまただとしても、その中に意中の人の手がなければ意味ありません」


 お腹に回されている腕の力が強くなる。と同時に星野さんの頭の重みが私の側頭部に寄り掛かる。


「……星野さん?」

「僕には久保田さんが必要です。貴女の笑った顔を見るたびにデザインが溢れてくるんです」

「え……」

「独り占めしたいくらい久保田さんのことが好きです」

「…………」


 星野さんの顔は見えないけど、真剣な声はすぐそばから届く。


「男の部屋に呑気に上がらないでくださいよ。やっぱり危機感がなくて困る。僕はこんなに久保田さんが欲しいのに……」

「呑気に上がったわけじゃ……。星野さんが引っ張るから……」

「流された?」

「うん」

「それじゃあ、このまま流されてください」


 耳に星野さんの吐息がかかる。

 そのまま耳を軽く食まれて、身体がピクッと反応する。


「やっ」

「好き。久保田さんのこと好き」



「だっ、ダメっ!!」


 お皿とスポンジを離し、手には泡をつけたまま星野さんの腕の囲いを剥がし、横にずれてから向き合う。


「星野さん、ごめんなさい」


 頭を下げれば、佇む足が見えるだけ。


「気持ちは、……嬉しいんだけど……」


 嬉しいだけではどうにもならない。


「私があと、せめて5歳若ければ、……星野さんの気持ちを喜んで受け取ってたと思う。でもお付き合いを楽しむ時間はないの。私、すぐに結婚したいから。だから婚活しなきゃ――」

「婚活もマッチングアプリもやめてくださいって言いましたよね?」

「だから、結婚したいの! 私が求めているのは結婚相手であって、恋人ではないの」

「じゃあ結婚しましょう」

「だからっ!! え!?」


 ……結婚しましょうって言ったの?


「え……」

「結婚、……しましょう?」


 泡の付いた両手を、星野さんの両手が取り上げる。


「なに、言って……」

「ゆくゆくは結婚したいって思ってました。だから僕と結婚してください」


 微笑んでいるけど真剣な瞳が真っ直ぐ私を射抜く。

 冗談ではないと伝わってくる。それに星野さんは冗談なんて言う人じゃないってことを私は知っている。


「でも……」

「まだ何を気にしているんですか? 年齢差はどうにもならないので気にしないで欲しいです」

「……お互いに、……何も知らないでしょ?」

「それじゃあどこまで知ったら結婚出来ます? 知りたいこと全部話しますよ? それともお付き合いする期間が必要ですか? それはどれくらい? 1ヶ月? 半年? 1年?」

「えっと……」


 1ヶ月は短い?

 でも1年は長い?

 それなら半年?

 ……わかんない。


「でも婚活が成功したらすぐに結婚するつもりだったんですよね?」

「え……」


 その通りだ。


「それなら、……ここで成功したって思えば良くないですか? ダメですか?」

「な、……なんで……」


 婚活が成功した、なんて嬉しい言葉に涙腺が緩む。


「ほ、しの……さん」


 ほろりと頬を伝う涙を見た星野さんが困った顔をする。困らせたいわけじゃない。


 嬉しいのだと伝えたい。


 だけど、本当にこの好意を受け取っていいのかと、私の中の何かがブレーキをかけている。


 星野さんの幸せは私ではない他の所にあるんじゃないかと考えながら私は星野さんに繋がれた手を強く引っ張って下ろした。


「ごめんなさい」


 水気を残したままの手で鞄を持ち、玄関を出た。



 自宅のベッドに仰向けになり、天井を仰ぐ。


 星野さんの言葉が嬉しかったのは確かだ。

 もし星野さんと結婚したなら――と頭の中で日だまりに包まれるような温かさと穏やかで幸せな日々が想像できた。



 だけど…………、


 星野さんのように若い人の手を、私なんかが取ってしまっていいのだろうか。


「ダメ。……ダメに決まってる……」


 眠れないまま夜が明けていく。


「昨日、早めに帰らせてもらったのに一睡も出来なかったなんて……」


 腕をおでこに乗せると額の熱が腕に移っていく。


「仕事休むわけにもいかないしな〜。あー、もう、しゃきっとしよっ!!」


 身を起こして熱いコーヒーを淹れるが、なんだか美味しくない。砂糖を入れてみてもやっぱり美味しくない。


 そして食欲はあまりない。でも何か食べたほうがいいよな、とは思う。


「あ、カバンの中に結城さんがくれたチョコがなかったっけ?」


 カバンの中に手を突っ込む。内ポケットに透明のセロハンに包まれた四角いチョコレートが一つあった。包みを開いてチョコを口に入れる。


「あま……」


 口の中に残る甘さをコーヒーで流すが、コーヒーにも砂糖を入れたため、余計に口の中が甘ったるくなってしまった。


「はあ……」


 カップを台所の流しで洗うと、私は仕事に行く身支度を整えて家を出た。


 アパートの下におりると、そこには生真面目に直立した星野さんがいて驚く。


「ほ――」

「おはようございます」

「何で?」


 昨日あんな感じで飛び出したから、私のことなんて呆れてるかと思っていたのに。


「朝だけは今まで通り、駅までご一緒させてください」

「な、んで?」

「嫌なら……すみません」


 踵を返そうとする星野さんのジャケットの裾を慌てて掴む。


「嫌じゃ、……嫌なんてことはないんだけど……、星野さんこそ私のこと呆れてたりしないの?」

「呆れる? どうしてですか? それなら僕の方こそ嫌われたかと……」


 嫌ってなんてない、というように首を横に振ると、星野さんは安堵に息をほっと吐き出した。


 そんな彼を見て、改めてその心の優しさに気付く。だからこそ彼の幸せを願う。きっと星野さんにお似合いの優しくて若くて可愛いい良い娘がそのうち現れるだろう。

 その時傷付くのは私だ。歳を重ねる内に傷に対して免疫がついて、気付くのに鈍くなっているとしても身体より心の方が繊細にできている。


 だから昨日のことはなかったことにして、今まで通りに振る舞うのが一番なのだろう。


「じゃあ、駅まで一緒に行きましょう!」


 はい、と笑顔で返事をしてくれる星野さんのその顔に胸が高鳴ったのは内緒だけど……。


 仕事を終えて家に帰ってくる。寝不足だったため定時で上がらせてもらった。


 それでも家に帰れば外は真っ暗で電気を付けて窓に寄る。

 カーテンをそっと開けば星野さん家の出窓が目の前に見えるのだが、向こうの家の中は真っ暗。まだ仕事から帰ってきていないのだろう。


 昨日までは一緒に帰っていたのに、今日からは朝だけになってしまった。

 星野さんのことを拒否したのは私なのに、やっぱり寂しいなんて思うのは、どうかしているのだろうか……。


 部屋の中に視線を戻す。

 テーブルの上に乱雑に置いた郵便物に目が止まる。そういえば全然整理してなかった。手に取り、上から仕分けていくと一枚の葉書で手が止まる。


「あ、同窓会……」


 高校の同窓会のお知らせが来ていたのをすっかり忘れていた。よく見ると返信期限は明後日。

 明日の朝イチで出せばまだ間に合う。


「このタイミングで気付いたってことは参加しろってことなのかな?」


 参加してもいいかな、と考えながら開催日とカレンダーを確認する。


「2週間後? 予定は……ない」


 カレンダーに【同窓会】と書き込む。


「何着て行こうかな……」


 気乗りしているわけでもないからオシャレする気もない。かと言って普段着で行くわけにもいくまい。


 適度にきちんと感ある格好でいいか、と少し投げやりに考えながら私はカーテンに視線を向ける。

 見ているのはウチのカーテンではない。


 その向こう。


「そろそろ帰って来るかな?」






 それから微妙な距離を取りつつも星野さんと朝だけは待ち合わせて駅へ向かう日が続いた。


 そして2週間経ち、同窓会の日がやってくる。服装はなんだかんだと気にしつつ、白いブラウスにネイビーのパンツスーツで向かう。


 これじゃあ取引先に行くみたいだ、なんて苦笑していると、会場となるレストランの前で友人を見つけた。


あかね?」

「あ、直子〜!」

「久しぶり」


 高校の時は腰までのびて長かった髪がばっさりショートカットになっている。たしか、前回の30歳で開催した同窓会で会った時は茜の髪はまだ長かった。


「切ったの?」


 質問しながら二人で会場に入る。


「うん。子どもに引っ張られるのが嫌で思い切って切ったら、ほんとにラクで。って言ってももう7〜8年になるかな?」

「男の子だったっけ?」

「そうそう! もう小学5年生だよ!」

「え!? そんなに大きいの?」

「そうだよ」


 笑う茜と一緒に受付を済ませて席に付くと、見覚えのある顔、見覚えのない顔が色々あった。


「あそこ、赤ちゃん抱っこしてるの佐藤さんじゃない?」


 茜の視線が示す方を見るとプクプクした赤ちゃんが女性に抱っこされていた。


「かわいいね〜」


 姪っ子の数年前を思い出す。


「4人目だって」

「子ども4人いるの?」

「らしいよ」


 驚く私を見ながら茜は聞きにくそうに質問する。


「ねえ?」

「なに?」

「直子は、……その……結婚は?」

「まだだよ〜」


 茜が気にしないように明るく答える。しかしそれもまた痛く見えているのかもしれないと思えば、どんなテンションでどう答えるのが正解なのか分からない。


 そんな私たち二人の会話を聞いていたのか隣にいた男子40歳男性が割り込んで来る。


「え? 結婚してないの? オレもオレも!」

「あ〜〜〜」


 すでに酔っているのだろう。顔が赤いこいつの名前は、誰だっただろうか?

 そんな名前も思い出せない相手に向かって『結婚してないの一緒だね〜』なんて返せるわけない。


「あいつもまだ結婚してねえぞ! おーい独身のコ〜バ〜ヤ〜シ〜! こっちこっち〜」


 端から端への勢いでそいつは叫ぶ。呼ばれたコバヤシくんはそれはもう迷惑そうな顔でこちらを向いた。


「うるせえ谷口」


 酔っぱらい男子の名前は谷口というのか。聞いてもピンと来ないのは同じクラスになったことがなかったからなのだろう。


 しかし、こちらに向かってくるコバヤシくんには見覚えがあって――


「って、えっ!? a&Eアンドイーの小林さん!?」

「あれ? ムクモクの久保田さん?」



「え? 同じ高校だったの?」


 小林さんに指をさされてそう言われる。


「全然知らなかった」

「久保田さん、普通科でした?」

「はい、普通科です。小林さんは?」

「俺、あ、いや、私、あー、俺?」

「どっちでもいいですよ仕事じゃないですし」

「あ、それじゃあ敬語もなしで」


 茜が席を詰めてくれて、私の隣に小林さんが座る。


「俺、理数科だったんだ。普通科とは校舎違ったし接点なんて全然なかったもんな」

「そうそう、校舎違ったよね」


 確か、普通科が南校舎で、理数科が西校舎。移動教室も西にはないから理数科クラスに行った記憶もない。


「久保田さんと同じ高校だったんだな〜。もっと早く知ってたら同じ高校のよしみで条件良く仕事もらえたのに〜」

「そんな贔屓はしませんよ! それに決めるのは社長だし」

「え〜マジ?」


 少し大袈裟なくらい顔を曇らせるので、私も冗談っぽく「マジ」と返す。


「ぶふっ」

「え? 笑うとこ?」

「いや、だって久保田さんがそんな顔して『マジ』なんて返してくれると思わないし……。久保田さんってオフだとカワイイね」

「かっ――」


 ――カワイイ!?


「そうなの、直子ってこう見えてカワイイとこいっぱいあるの」


 援護射撃のつもりだろう茜の言葉にさえ、私は恥ずかしくて首から上が熱くなる。


「なんかさ、いっつもキリっとしててさ、なんか付け入るスキはありません、みたいな鉄の壁を感じてたんだよな〜」

「え、鉄の壁?」

「そうそう」

「直子って仕事になるとそんな感じなんだ〜。でも確かに学級委員の時はそんな感じあったかも!」

「久保田さん学級委員? めっちゃ似合うし!」

「いや、学級委員が似合うってなに? 微妙なんだけど……」

「いやいや似合う似合う! これ褒めてるから!」

「直子が一人いてくれたら絶大な安心感あったよね。頼れるお姉さんって感じは今も昔も変わらないね」

「うんうん、頼れるお姉さんは納得だな」


 右から左から止まることなく褒め言葉が飛んでくる。恥ずかしくてもう止めてくれ、と思うが二人ともほろ酔いで楽しそうに盛り上がっていたので、しばし我慢することにした。


「久保田さんと茜ちゃん、次なに飲む?」

「えー、わたしを『茜ちゃん』って呼んでくれるなら、直子にも『直子』って呼んであげてよー」

「あ、悪い悪い!」

「わたしワイン〜」

「オッケー! で、直子ちゃんは何飲む?」


 ほんとに下の名前で呼ぶんだ、なんて思いながら私も茜と同じでいいと答える。



 それからお開きになるまで茜と一緒に恩師のもとで昔話を懐かしんだ。



 店を出ると茜がスマホを出して電話を掛けていた。今から帰る、と言うのが聞こえたので旦那さんへの電話なのだろう。


 どこかで「二次会行くやつこっち〜」と声が響いている。


 茜は帰るみたいだし、私も二次会には参加しないつもりだ。電話を終えた茜がこちらを見る。


「直子、二次会行く?」

「ううん、行かない。茜、帰るでしょ?」

「うん。旦那が迎えに来てくれるって」

「優しい旦那さんだね」

「ふふ」


 その笑顔から幸せな家庭が想像出来た。声には出さないが心の中で『羨ましい』とつぶやく。


「茜ちゃん〜、直子ちゃん〜!」


 どこかの輪から抜け出てきた小林さんが駆け寄ってきた。


「帰るの?」

「うん。わたしは旦那が迎えに来るから、小林くん、直子をよろしくね!」

「オッケー! 茜ちゃんまたね〜!」

「またね! 直子もまたね!」


 手を振り去って行く茜を見送り、私も帰るべく小林さんに向き合う。


「それじゃあまた仕事で」

「え? 帰るの?」

「うん。小林さんは二次会行くんでしょ?」

「いや、行かないよ。俺は直子ちゃんと二人で飲み直そうかと思ってるんだけど」

「え?」


 予想外のお誘いに目をぱちくりしていると小林さんが笑う。


「なんでそんなに驚いてんの? やば、直子ちゃんやっぱりカワイイ」

「小林さんがカワイイって言うと軽く聞こえる」

「えーー、軽くないよ? 重いよ? ずっしり重いのに……。傷付いた」


 しょんぼりと肩を落とす小林さんの姿に私は慌てる。


「うそ? ごめんね?」

「じゃあ一杯付き合ってくれる?」

「……一杯なら」

「よし! 行こう〜!!」


 途端に元気になった小林さんが私と肩を組む。


「ちょっと手」

「いいから、いいから」

「よくないって」

「おごるから許して〜」


 仕方ない。これは酔っ払いに絡まれているだけだと考え直し、そのままバーに連れて行かれた。



「改めて乾杯」

「乾杯」


 バーカウンターに座り、マティーニに口を付けていると右に座る小林さんがこちらを向く。


「なに?」

「久保田さんは……」

「あれ? 名前戻ってる?」

「ああ。あれは、……茜ちゃんに合わせてただけ。久保田さんの許可はおりてないな〜と思ったからさ」

「別にいいのに。変な所で真面目だね」

「真面目な直子ちゃんに言われたくないな〜」

「あ、戻った」

「どっちがいい? 久保田さん? 直子ちゃん?」


 どっちでもいいよと言いながらナッツをつまむ。


「直子ちゃんは毎回同窓会来てたの?」

「うん」

「皆勤賞?」

「そりゃ10年に1回だからね。でも今回は参加するか悩んだんだよね」

「なんで?」

「だって……」

「あ、言いたくないなら無理には」

「言いたくないわけじゃないんだけどさ、みんな結婚してたり子供産んでたりするわけでしょ? だからさ、ちょっと」

「なるほどね」

「分かる?」

「分かるよ。俺も未婚だからね。あ、『俺』って言っちゃったけど、直子ちゃん?」


 うん、と頷いてマティーニをごくごくと飲む。


「聞いていい?」

「どうぞ」

「彼氏は?」

「いない……」


 そう答えるが頭には星野さんの顔が浮かんで切なくなる。自分勝手なのは承知で会いたいなと思った。


「小林さんは?」

「俺、将也まさや。マサって呼んでくれていいよ!」

「へ? ……私今、彼女いるのかって意味で聞いたんだけど」

「ははは、分かってるって。ただ『小林さん』って他人行儀だから嫌だな〜ってずっと思ってたから。ごめんごめん」


 明るい笑顔に怒る気も失せる。


「で、マサは彼女いるの?」

「マサって呼んでくれんの?」

「じゃあ小林さん」

「いやいやいや、マサのままで!」

「ふふっ、分かったから質問に答えてよ」

「気になる?」

「全然。興味なくなった。このカシューナッツ美味しいね」

「うわ、カシューナッツに負けた」


 気を遣わないでいいのは小林さんの人柄のせいか、それとも同級生だからかは分からない。だけど飲んで話して、苦しさを感じることはなかった。同い年という気楽さもあって、自分がしっかりしないといけないなんて思うこともない。


 ただひたすらに楽チンなのだ。


「あー、美味しい」


 マティーニを飲み干す。


「飲んじゃった」

「お代わりは何にする? 同じもの頼もうか?」

「ううん。一杯だけ付き合う約束でしょ?」

「あ……。そっか。確かに一杯だけって俺言ったよな。……なあ、もう一杯付き合わない?」

「ごめん。ご馳走さま」

「直子ちゃん」


 小林さんの顔が引き締まる。真剣な瞳が私を映していた。


「また会える?」

「仕事で会えるでしょ」

「そうじゃなくて。プライベートで。また一緒に飲まない?」


 きっと少し前の私なら嬉しいお誘いだと喜んで頷いていただろう。


 だけど今の私は返事の是非に悩んでしまう。それは心の中に星野さんの存在があるから。


「それじゃあ、また飲んでもいいって思ったら連絡して? 俺の連絡先知ってたよね? ……今日は送るよ」


 最後は有無を言わせない力強さを感じて断り辛かった。返事をしないまま、会計を済ませた小林さんの後ろを付いて行く。


「電車まだあるな。直子ちゃん何線?」

「○○線」

「一緒じゃん」


 微笑みを向ける小林さん。でもそれは私の好きな微笑みじゃない。



 同窓会の翌日は日曜で、昼前まで寝ていた。


 今から洗濯回して干して、乾くかな? なんて考えながらカーテンをゆっくり開ける。

 向かいの窓に望む人はいない。


「ああ――」


 ――会いたいなんて、どうかしてる。


 ざわめく胸を両手で押さえて洗面所に向かうと鏡に映った私の顔は眠そうで目が半分しか開いてない。


「うわ、こんな顔で星野さんに会わなくて良かった……」


 恥ずかしすぎて見せれない。冷たい水を出して顔を洗うと、無理矢理目を見開いて溜まった家事に勤しんだ。


 一通り終えて、マグカップにコーヒーを淹れる。

 ベランダ側に目をやるとカーテンの隙間から午後のこもれ日が小さく揺らめいている。


 暖かなひと筋に引き寄せられるように窓辺に寄って、そっと熱いコーヒーに口を付けながらカーテンの隙間に視線をやると――。


「ぶふっ」


 咄嗟に手で口を覆うが、口の中のコーヒーが少しだけ手の平にこぼれてしまった。マグカップを近くのテーブルに置くのだが、


 だけど、それよりも――。


「星野さん!?」


 ばっちりと目が合った。そして彼は律儀に会釈をしている。それから星野さんが出窓の窓を開けるものだから私もしぶしぶのように掃出し窓を開ける。


「こんにちは、久保田さん」

「……こんにちは」

「いいお天気ですね」

「そ、だね……」


 どうして喋り方がこんなにぎこちないのかと言えば、星野さんの顔が正面にあるから。そして真っ直ぐにこちらを向いて、更に微笑んでいるから。


 もうそれだけで心臓がどうにかなりそう。


 だっていつも朝は隣に並ぶから真正面に顔を捉えることも捉えられることもないわけで……、緊張する。


「お昼食べました?」

「え? お昼? あ、いや、えっと、何もないから買いに行こうかなって思ってたけど……」

「コンビニに? それともスーパーに?」

「スーパー?」


 行き先は決めてなかったけど、色々買う事を考えればコンビニよりスーパーの方がいいだろう。


「一緒に行ってもいいですか?」

「え? 一緒に?」

「あ……、嫌なら……」


 星野さんの声のトーンが下がる。表情はあまり変化していないが少し項垂れているようにも見えた。


「嫌じゃ、……ないけど」

「それじゃあ迎えに行きます。待っててください」

「あの、待って! さ、30分後にしてくれる?」

「分かりました。30分後ですね」


 嬉しそうな微笑みに釘付けになっていると、星野さんが窓を閉める。私も慌てて部屋に戻って窓を閉め、レースカーテンをぴちっと閉める。


 身体を反転しながらダイニングチェアにどさっと腰を落とした。


「はあ……。星野さん、良い子過ぎる」


 曲がりなりにも、君を振った女だぞ私は――。



 30分後、外に出るとアパートの下で星野さんはすでに待っていた。


「ごめんね、お待たせしました」

「じゃあ行きましょう」


 優しい微笑みが私を見下ろす。胸が痛い。


「久保田さん昨日はお仕事でした?」


 歩きながらそう質問される。


「ううん、仕事じゃないよ。どうして?」

「いや、あの、なかなか電気が点かなかったから心配してて……」


 心配、という言葉に高鳴る胸よ、しずまれ!!


 まあ、ダサイさんのこともあったばかりだし気になるのは当然か……。星野さんにはすごく迷惑掛けたわけだし。


「昨日はね、同窓会だったの」

「ああ、そうだったんですね。久保田さん友達が多そうですし、楽しかったですか?」

「うん、まあね……」


 既婚者ばかりの同窓会は楽しかったのと居心地悪かったのと半々かな、なんて考えながら小林さんのことを思い出す。


 そのまま星野さんに「小林さんに会ったんだよ」と言おうとして、口が止まった。


 二人きりでバーに行ったこととか、また今度と誘われたこととか、星野さんに言って無用な誤解を与えたくなかったから。


 私が沈黙したことで、星野さんも質問を止めた。


 何も喋らなくても居心地が変わらないのは星野さんの雰囲気のお陰だろう。





 買い物を終えてアパートまでの道を二人並んで歩く。


「そういえば火曜日でしたよね?」

「火曜?」

「ウチとムクモクさんの打合せ」

「ああ、打合せね。火曜の午前だよね」

「はい、よろしくお願いします」

「うん。星野さんのデザイン楽しみにしてる」

「オッケーが出れば嬉しいんですけど……」

「社長厳しいからね」

「それは自分の作ったオモチャを愛しているから妥協しないんですよ」

「妥協しないというか、頑固というか……」


 アパートが見えてきた。

 まだもう少し一緒にいたいけど、そんなのダメだよね――と自分に言い聞かせる。


 アパートの前で二人の足が止まった。


 ――良かったらウチで一緒にお昼ごはん食べない?  


 そう言いそうな口を閉じて固く結ぶ。

 星野さんを拒否した私が言っていいセリフではない。


 だけど、星野さんのためを思って拒否したのに、拒否したことを後悔している自分に気付く。


 二人の間にある空気が見えない壁のよう。


 その壁を作ったのは私。

 そしてその壁を星野さんは尊重してくれて、こちらに入っては来ない。


「それじゃあ、また明日の朝。迎えに来ますね。では、失礼します」

「っ――」


 『待って』も、『さよなら』も言えず、アパートに背を向けるその背中をただ黙って見送るだけで息がつまる。胸が苦しい。



 ――ああ、どうしよう。


   こんなに好きになっていたなんて……。



 火曜日の朝もいつものようにアパートの下で星野さんが私を待っていた。


「おはよう」

「おはようございます」


 唇を閉じて頬を上げる星野さんの微笑みを見ただけで胸が異常な音を出し始める。


「う……」

「久保田さん、どうしました?」

「ううん、何でも、ないです」

「今日ですね、打合せ」

「うん」


 何か嬉しい事が待っているような表情をする星野さん。打合せに出すデザインがそれほど良い出来に仕上がったのかもしれない。


「星野さんのデザイン楽しみにしてるね」


 どんなデザインになったのだろうと、わくわくしてしまう。


「ご期待に添えるといいですが」

「きっと大丈夫だよ!」


 今見せて欲しいという思いを仕舞って駅で別れる。


 後ほど、と微笑んだ星野さんの顔が、今日はまたすぐに拝めるのかと思うと少しだけ胸が弾んだ。


 ――よし、今日も頑張ろ!!


 単純だな、と自分の思考に苦笑しながら会社に向かった。






 小さな会議室には私と社長、そしてa&Eアンドイーデザインの小林さんと星野さんが座っている。

 4人の視線は机の上に置かれたパッケージの図案。


 私の隣で社長が「うーん」と唸る。


 オフホワイトでまとまる中に、淡い色合いで小花や草が描き込まれ片隅にはオモチャで遊ぶネコがいる。この白い仔ネコはオフホワイトの背景に溶け込むことなく愛らしい顔でミャーと鳴き声が聞こえてきそうだ。


 だけど、この仔ネコ。どこかで? ――そう考えながら顔を上げると星野さんと目があった。


 ――あ、そうだ!


 どこで会ったネコだか思い出したら、なんだかニヤニヤが止まらなくて慌てて下を向いて顔を隠すが、その際に額がデスクにぶつかった。


「何してんだ、久保田?」

「あ、いや……。すみません」


 だって、この仔ネコ。

 星野さんと一緒に行ったショッピングモールのペットショップにいた白いネコなんだもん。

 あの時、抱っこしたスコティッシュフォールドがここに描かれている。


 悶絶しそうになるのをひたすら堪えて、頬の弛みは唇を噛んで堪える。


 それにしてもこの温かみを感じるデザインは、どこまでも優しさで溢れているのが感じられて胸の奥底までじんわりと温かくなる。



「うん、よし! これで行きましょう!」


 社長が膝を叩きながらニカっと笑う。


「ありがとうございます」


 小林さんと星野さんが机に額をぶつけんばかりに頭を下げた。


「いや、こちらこそいつも素晴らしいデザインを考えてもらってありがとうございます。今回もやっぱりa&Eアンドイーさんにお願いして正解でした。じゃあ、あとは久保田よろしくな」


 オモチャの案が閃いた、とか言いながらさっさと退出する社長の代わりに二人に、すみませんと謝る。


「いやいや、クリエイティブな方の行動は自由であった方がいいですからね。星野だってすぐにふらふらと外に出掛けて行きますよ」

「ちょっと小林さん」

「言ったらいけなかったか?」

「いや、まあ、はい」


 星野さんの視線が一瞬こちらを向くので、私に知られるのが嫌だったのかなと思う。


「それでは今日はこれで終わりと言うことで」

「はい、ありがとうございました」


 二人にお礼を言って立ち上がり、荷物をまとめ終わるのを見計らって会議室の扉を開ける。


 先頭の小林さんと目が合う。


「今日はこれで終わりですよね?」

「はい、そうですが?」


 私がそう言うと小林さんは少しだけ声を小さくする。


「じゃあ普通に喋っていいよね?」

「えっと……」


 いや、まだここ会社だし――と思う内に小林さんが距離を詰めて目の前で足を止める。


「今から昼休憩でしょ? 直子ちゃん一緒にランチ行かない?」

「は?」

「もう12時過ぎたしさ、どっか食べ行こうよ。奢るし、ね?」


 私の視線は小林さんから、その後ろに立つ星野さんに移る。その星野さんは訝しげに小林さんの声を聞いていた。


「ナンパですか小林さん? 取引先の方を?」


 静かに淡々とそう言う星野さんの声には感情が全くこもってない。


「そうそう、口説き中だから邪魔すんなよ星野。あ、先帰ってていいから、お疲れ〜」


 小林さんにそう言われた星野さんの視線が一度だけ私に向く。

 何か言わないと――と焦るのに何を言えばいいか分からない。


「ほ、しのさん」

「お疲れ様でした」


 私の横を通りながら会釈する一瞬、悲しそうに眉が歪んだ気がする。それを見て私の胸が痛くなる。


「直子ちゃん?」

「……だ」

「うん? なに?」

「まだ、ここ会社だからちゃんと苗字で呼んでください」

「マジメ〜」

「小林さん!」

「あ、ごめん。いや、すみませんでした。悪かったよ久保田さん、調子に乗り過ぎました」

「分かってくだされば、……いいです。今日はお引き取りください」

「うん。……でもまた食事誘うからね?」

「…………」

「また一緒に飲みに行こうよ? ね?」


 下を向く私は最後まで小林さんと目を合わせなかった。



 家に帰ると真っ直ぐにベランダ側の窓に向かう。カーテンの隙間からそっと向かい側を見ればそこには電気がともっている。

 でも主の姿は見えない。


 星野さんに会って、昼間のことを釈明したいのに……。


「釈明って……なによ。言い訳して、どうするつもり……」


 こんなことなら同窓会に行ったと話した時、素直に小林さんに会ったのだと話しておけば良かった。


 あとからあとから悔いばかりが胸の内から生まれ、全身に広がり指先が震える。


「はあ……」


 私は星野さんの恋人でもない。

 むしろ、そうなることを拒否したのは私なのに、どうしてこんなに星野さんのことばかり考えてしまうのか。


「自分がどうしたいのか分かんないや……」


 手の平で顔を覆う。

 指が生温かく濡れる。


「ああ……」


 気になるのは年の差。

 年の差なんてなければ――。

 私がもっと若ければ――。


「なんで星野さんのこと好きになっちゃったんだろ」


 ずるずると床に座りこんで項垂れると、膝にぽたりと雫が垂れた。


 心のままに動けたらどんなにいいだろう。

 だけど年を重ねると心より先に頭が動く。


 心のままに従えた若い自分は遠い過去にいる。

 今ここにいるのは頭で先に考えたがゆえに、心を押し殺し、身動きの取れない自分。


 ――滑稽だ。


「明日の朝、星野さんに話ができるかな?」


 取り合えず、小林さんのことを伝えて、それから――。


 ……どこまで話せるだろう? やっぱり私も好きなんて今更都合が良すぎるだろうか?


 でも自分の気持ちを伝える覚悟はまだつかない。


「情けないな」


 こんな私を見たらいくら星野さんだって呆れてしまうんじゃないかな、と肩を落とした。





 翌朝。

 緊張しながら身支度を終えると、そろそろいつもの時間になる。もう星野さんは下で待っているかもしれないと考えて心拍が早くなる。


 ゴク、という生唾を飲み込む音が身体に響いた。


 と、その時。

 スマホが通知音を奏でる。もう家を出るのに――なんて毒づきながら操作をすると星野さんからのメッセージだった。


「星野さん? なんだろ?」


『おはようございます。今日は先に出ます。すみません。』


「え……、先に行ったの?」


 すーと力が抜けて行くのが分かる。


「愛想尽かされた? ははは……。だよね……」


 纏めた髪が乱れるのも構わず髪の中に手を入れて、髪の毛をぎゅっと掴んだ。

 そのまま座り込んでしばらく呆けていたのだが、頭の中は私を仕事に行かせようとする。


「……仕事、行かなきゃね」


 いつも乗る電車は間に合わない。でも一本遅らせても仕事には間に合う。

 一度鏡の前に立って乱した髪を適当に結び直すと、荷物を持って玄関に向かう。


「行こうか……」


 十数年築いてきたサイクルが私を動かしていた。何も考えずとも駅にたどり着くし、電車も間違えずに乗れるし、最寄駅で降車も出来る。


 はあ、と何度目かの溜息を吐いたのは自分のデスクに着いた時だった。



 翌日の朝も同じようなメッセージが星野さんから届いた。


「これって、私……拒否されてる?」


 先に行きます、ってことが二日続けばそれは、私と一緒に行きたくないということだろう。


「あ……」


 胸が――痛い。

 すごくすごく痛い。心臓をぎゅうっと握りつぶしたみたいな痛みに息が一瞬とまる。


 身体の動きまで止まりそうになる。だが、もし今すぐに家を出れば星野さんに追いつけるのではないかと一縷の望みに私は家を飛び出した。


 前のめりになりながら階段を駆け下りることなんて普段は絶対しないから足が上手く動かない。踏み外しそうになりながらも何とか下まで無事に下りたら駅に向かって走る。


 走るといっても格好いいものではない。足も動かないから小走りになるし、腕も動かないから、どちらかと言えば早歩きのよう。こんな私より競歩の人のほうがよっぽど早いだろうと思う。


 息を切らして、色んなものを振り乱しながら駅に着いたけど星野さんの姿はなかった。


「はあ、はあはあ、はあ――ない、いない?」


 星野さんが乗る3番線に向かうがやはりいない。その時電車が到着した。


「この電車もいつもより一本前よね? ってことは更に前の電車に乗ってるの? 何時に家出てるのよ?」


 そう一人ごちながら仕方なく自分が乗る電車がくる2番線へ向かった。






「はあ」


 拒否されているのだとしたらどうしよう――そう考える昼休み、デスクに肘を付いて手の平に顎を乗せていた。


「はあ」

「久保田課長?」

「ん?」


 呼ばれた方に顔を少しだけ傾けると横に月見里が立っていた。


「お昼ご飯、……買って来ましょうか?」

「え? ああ、ご飯。うん。……月見里も買いに行くの?」

「はい、コンビニに。……あの、課長? どうしたんですか?」

「あはは、駄目だね。バレてるよね、そうだよね、溜息ばかり吐いてごめんね」

「何かあれば言ってくださいね? わたしなんかじゃ頼りないかもしれないですが……」

「頼りないなんてことはないよ」


 それは本心。そう、月見里はしっかりしているから社内でも頼りになる存在だ。


 そう言えば、月見里は恋人が年下だったな、と考える。年下の男性ってどうなのだろう。ちょっと聞いてみたい。聞いたら答えてくれるだろうか。


「私も一緒にコンビニ行く」

「あ、そうですか? 言ってくれたら買って来ますよ?」

「ううん、ちょっと月見里と一緒に行きたいから」

「分かりました。それじゃあ行きましょうか」


 私は鞄から財布を出して椅子から立ち上がった。



 月見里の隣を歩きながら聞いてみたいことをそのまま質問してみる。


「月見里はさ、その……恋人が年下なわけじゃない? 年下ってどう?」

「え?」


 こんな質問が飛んでくるとは思ってもいなかったという驚きの表情をした月見里は、すぐに考え込む。


「それって、課長の溜息の原因でもあります?」

「えっ!?」


 今度は私が驚く番。

 ――月見里、侮れない子だわ!!


「まあ、そうね。そういう事として、月見里に聞いているのは確かよ」

「興味本位で聞かれるのは嫌ですけどね、私がそれに答えることで課長のためになるなら、まあ……」


 しぶしぶ、と言った表情で「年下は」と月見里が答えを返し始める。


「ん~、なんて言うのか、一緒にいるとそこまで年下だと実感することって少ないですよ。それこそ、小さい時に見ていたテレビアニメとか、流行った歌とかでジェネレーションギャップを感じることはありますけど、でもそれも面白いなって思うし」

「でもそうは言っても二人は平成生まれでしょ? それが昭和生まれと平成生まれだとしたら壁は厚くない?」

「あの、それってやっぱり……星野さん?」


 ――ひえっ!! やっぱり侮れない!!


「う、うん」

「やっぱり!!」

「やっぱりって、なんで知ってるの? 月見里は星野さんと接点ないでしょ?」 

「私じゃないですよ~。結城さんです。この前の打ち合わせの時、先に社長が出てきたじゃないですか? あれで、もう終わったんだと思った結城さんが片付けに行ったんですよ」

「え、ってことは会話聞かれてたの?」

「一部始終しっかりってわけじゃなかったみたいですけどね? だけど結城さんが『三角関係です』ってわくわくした表情で戻って来たからすぐにたしなめておきました。あと、誰にも言わないように口をチャックしてあります」

「あ、それは、ありがとう」

「いえ。まあ、だからってわけではないですけど『年下』って言われたので星野さんの方かな? と思いました」

「あはは」

「で、課長は星野さんとお付き合いされてるんですか?」


 私はそれに首を横に振って答える。


「好きなんですか? 星野さんのこと?」


 今度は首を縦に一度だけ下げる。


「わっ! 課長が乙女!!」

「乙女なんてやめてよ、もうおばさんだし。小学1年生の甥っ子だっているんだから」

「でも、恋は恋ですよ? 気持ちは抑えられないですよね」


 答えられない私に月見里は言葉を続ける。


「もっとシンプルに考えましょうよ。星野さんのこと尊敬できますか?」

「尊敬? うん、尊敬できる。って言うか、尊敬してる」

「じゃあ十年経っても二十年経っても笑い合えますか?」

「笑い合う?」

「そうですよ。相手の顔を見て笑えるかどうかです。同じご飯を食べて同じ物を見て、それで一緒に笑える未来が想像出来れば、あとは何とかなるんですって!! 難しく考えたって何も楽しくないですよ!」


 十年後、二十年後、三十年後……ーー。


 一緒にいる未来を想像してみるーー。


 私が笑えば穏やかに笑い返してくれる星野さん。

 星野さんが笑えば嬉しくなる私。


 ぽかぽかと日だまりみたいに温かな空間で寄り添って、泣いても喧嘩しても一緒にいる未来は苦しいものじゃない。


「うん。笑い合う未来が想像出来る!」

「じゃあ、それ以上難しく考えないことですね!」

「でも、10歳差だよ」

「それが?」

「『それが』って重要でしょ」

「課長はこれから先、笑い合える未来を想像出来る人が他にも現れるって思えますか?」

「え……、思えない。星野さん思えた……」

「ふふ」

「月見里?」

「課長の方が私より恋愛してそうなのに、今日の課長は女子高生みたいに見えますよ」

「え? 私、女子高生の倍は生きてるのに!?」

「答えは出てるのに、それを難しく考えてるのは課長ですよ〜」

「そうなのかな……」

「かわいい〜課長〜」

「からかわないでよ……」


 ツンとそっぽを向く私を見て月見里はまだくすくすと笑っている。


「ほらほら、コンビニ着いたから、さっさと買って戻ろ」


 はーいと間延びした返事を背中に聞きながらコンビニに入った。




 会社に戻って買ったばかりのコンビニ弁当を箸でつつく。


 ご飯を口に入れながら考えるのは、月見里から聞いた言葉。


『一緒に笑える未来が想像出来れば、あとは何とかなるんですって!!』


 どんなに歳を重ねても相手と笑い合って生活できるかどうか……。


 顔中、皺だらけになっても、白髪になっても薄くなっても、隣にいるのが星野さんならいつも穏やかな気持ちで暮らしていけるんじゃないだろうか?


 いや、そんな穏やかな暮らしを星野さんと築いていきたい。


「うん、よしっ!」


 難しく考えるのはやめよう!

 そして、星野さんに私の素直な気持ちを聞いてもらおう。


 それでもやっぱり手遅れなら仕方ない。だけど少しでも脈が私にあるなら今度は私が頑張ろう。


 ――そう決意する、昼休みとなったのだった。



 家に帰るがベランダの向こう側の星野さん家は真っ暗だった。


「まだ帰ってきてないか」


 明かりが付けばすぐ気付けるようにレースカーテンだけにしておく。


 夕飯をとりながら星野さんの帰宅を待つが、それでもまだ帰って来なかった。


 帰って来て欲しい日に限ってなかなか帰って来ない。しばらく待っていたが、今から話しをしたいと言えるような刻限ではなくなってくる。


「早く話したかったけど、今日じゃなくてもいいよね」


 いくらか緊張していたのだろう。

 はあ、と息を吐き出すのと同時に肩の力が抜けていく。


「お風呂入って寝ようかな。明日早く起きて星野さんのマンションの下で待ってもいいし」


 きっと明日も『先に行きます』とメッセージが来そうな予感がしていた。


「よし、そうしよ」


 さっさとお風呂済ませて、さっさと寝よう――そう考えながらお風呂に入った。




 お風呂から上がる。髪はまだ乾かしてないので毛先から水が落ちていく。肩にタオルを掛けて、スキンケア。


 美容部員の小松栞に教えてもらった通り、丁寧に肌を整える。化粧水がじんわりと肌に浸透するよう手の平で押さえる。決して叩き込まない。

 手の平に残った化粧水は首にも馴染ませる。


 美容液と乳液で同じように整えればお風呂上がりのスキンケアは終わり。


 ドライヤーを出して髪を乾かそうかな、と思っているとスマホが短く鳴った。


「あれ? メッセージかな?」


 テーブルの上に置いてあるスマホを見れば、メッセージの通知があった。


「あぁ、小林さん……」


 週末飲みに行かない? なんて軽いお誘いが目に入る。


「はあ〜、断らないとな……」


 小林さんのことより、それより――そう考えながらベランダ側へ顔を向けると、カーテンの向こうに明かりが見える。


「あ、帰って来てる」


 カーテンを少しだけ開けて向かい側を覗けば一瞬、人影が見えた。


「星野さっ!」


 今なら声を掛けられる、とそれだけしか考えてない私は、自分が今『お風呂上がり』で『部屋着』であることさえ忘れ、窓を開けてベランダに出た。


 しかし、先ほど見えた影はない。

 だけど、気配はある。


 そして、星野さん家の窓がほんの少しだけ開いている。


 ――声を出したら届くかな?


「おぉ〜い」


 と言ってはみたものの、小声。大きな声は出せない。


「星野さ〜ん」


 なんだか自分が不審者のよう。


 夜遅く、アパートのベランダから40歳の女性が、向かいのマンション、30歳男性のお宅へと声を掛けている図。


「めっちゃ怪しい人だな私」


 冷たい風がアパートとマンションの隙間を抜けていく。それにぶるりと身体を震わせた。濡れたままの頭は寒くて、くしゅん、と大きなくしゃみが出た。



「久保田さん?」


 まさかのくしゃみの音で気付いてくれた星野さんが窓を大きく開ける。


「何してるんですか?」

「あ、星野さん。……こんばんは」


 言いたいと思っていることがたくさんあるのに、いざ本人を目の前にすると頭から言いたいことが抜けていく。


「こんばんは。寒くないですか?」

「あ、うん」

「頭濡れてません?」

「あ、うん」

「お風呂上がりです?」

「あ、うん」

「早く中に入った方がいいですよ」

「あ、……うん」


 中に入らない私に訝しげな視線が向けられる。


「久保田さん?」

「…………」

「風邪ひきますよ?」

「あのね」

「はい」

「あのね……」

「どうしたんですか?」

「あの、ね。あの……、あの、話しが、したくて」


 伝えたい言葉が上手く出て来ない。

 どうしよう、何から話せばいい?


 考えなくても口からポンポン出ていた言葉が出て来ないのは緊張しているからなのだろうか?


「あの、ね」

「話し?」

「うん」

「それって明日ではダメですか?」

「え、明日?」

「ほら、今日はもう遅いし、それにこれ以上ここで話してたら久保田さんが風邪ひいちゃいますよ」


 そう言って星野さんはふわっと微笑む。


 ――あ。……好き。


「今日はやめましょう。明日の仕事終わりに話しませんか?」

「うん」

「そこの駅で待ち合わせしましょうか?」

「うん。お願いします」

「それじゃあ明日」

「あっ! 明日、明日の朝は? 明日の朝も早く出る?」


 私の質問に星野さんは数秒考えてから、「いえ」と答えた。


「明日の朝は、いつも通りの時間にお迎えに行きますね」

「うん」


 なんだかそれだけで心が舞い上がる。


「おやすみなさい」

「おやすみ」


 軽く手を振って部屋の中に戻る。窓とカーテンを閉めるまで星野さんは向かい側から微笑んでいた。


 まだ顔を見ていたい。

 まだ話し足りない。

 まだ、まだ……――。


 カーテンを閉めて、くるりと身体を反転させ、両手で顔を覆う。


「ああー、好き。好き。なんだこれ? ダメだ。好き。どうしよう、おかしい。ああー好き!」


 避けられてると思っていた所から、ほんの少し会えて、ほんの少し話せただけなのに、それだけで好きが爆発する。


「もう会いたい。でも明日には会えるし、一緒に駅まで行ける」



 こんなに好きなのに、なぜあの時星野さんの手を拒否したのだろうと後悔する。


 あの時――『お付き合いしてください』のみならず『結婚しましょう』とまで言ってくれたのに。


 素直にありがとう、嬉しいと受け入れていれば良かったのに。


「ああ自分のバカバカバカ」


 だけど、どうしても不安は残る。

 どうやったって10歳の差は埋められない。いつか飽きられたら、なんて考え始めてまた首を横に振る。


「ダメダメ。それならそれで飽きられないように努力すればいいのよ!」


 そうだ、何でも前向きに考えるのが私らしいと手をぎゅっと握った。



 翌朝、不安になりながら外に出るとアパートの下で星野さんはちゃんと待っていてくれていた。


 それを見て安堵に息をほっと吐き出す。と同時にくしゃみも出て慌てて手で口を押さえる。


「おはようございます。風邪ひきました?」

「おは、っくしゅん。ごめん、大丈夫です」


 へへ、と笑って誤魔化すが鼻水も垂れてきて、ずずっと鼻を鳴らす。


「ほら、頭乾かさずに外に出てるからですよ」

「そうだよね」


 風邪をひいた自分は馬鹿だけど、心配してくれる星野さんが愛しくて頬が緩む。

 まだ一緒にいたいのに、と思うがすぐに駅に着く。


「今日、仕事終わりにここで待ち合わせね?」

「はい。仕事が終わったらここで」

「うん。じゃあ、いってらっしゃい!」

「はい。久保田さんもいってらっしゃい」


 星野さんが微笑む。その背中を少しだけ見送っているとまたくしゃみが出た。


「やば。早く治さなきゃ……」


 鼻をずびすび言わせながら私も電車に乗って会社に向かったのだった。





 身体が熱っぽくなっているのを自覚しながらも、一応仕事を終えた。

 明日が休みで良かった。休みの間に風邪を治してまた週明けからバリバリ働こうと思いながら、いつもの時間より早めに退社する。


 会社と駅の間にあるドラッグストアで風邪薬を買ってから電車に乗った。 


 星野さんとの待ち合わせには少し早いかもしれない。でも星野さんが定時で退社していたら星野さんが待っているかもしれない。


 星野さんは『仕事終わりました』とか『待ってます』とか言わない人だ。言ったら私に気を遣わせると思っているのかもしれない。

 かと言って、連絡もなく私を長時間待たせることもしないだろう。

 だから星野さんは私より早く駅に着いている気がした。


 連絡が来ていないか確認するため鞄からスマホを出す。開いて通知を見ようとすると電源が落ちた。


 ――あ。そういえば充電してなかったんだった。


 一瞬見た通知には何もなかった。仕方ないと諦めて鞄に戻す。



 駅に着いて降車し、改札を出て待ち合わせをしたベンチのある場所へ。


 そこには誰かが座っている後ろ姿が――。誰かなんて、確認しなくても分かる。


 星野さん。


 でも隣には綺麗な女の人が座っていて、親しそうに喋っていた。


 ――誰?




 足が止まる。


 ベンチに座る星野さんと綺麗な女性に視線がとらわれて動けなくなる。


 ――嫌だ。


 少し前まで、星野さんにはもっと相応しい女性がいると思っていたのに、いざそれを目の前にすると悲しみが溢れてくる。


 綺麗な女性が隣にいる星野さんに向かって『お似合いですね』なんて言いたくない。星野さんの隣に立ちたいのは私なんだ。


 だから負けそうになる心を奮い立たせ、拳をぎゅっと握った。


 どんなに綺麗な女性だろうと、私はこの気持ちを譲らない。……譲りたくない。


 ふぅ、と息を細く吐き出して止まったままの足を叱咤する。


 ドクドクと暴れる心音を聞きながら星野さんの背中に近づくと、星野さんが振り返った。


「あ、お疲れ様です」


 微笑む星野さんに、お疲れ様ですと返そうとすると隣の女性が訝しげな視線を私に向けて「誰?」と問う。


「久保田さん」

「名前を聞いてる訳じゃないんだけど?」


 女性には歓迎されてない雰囲気に生唾を飲み込んだ。一緒に、貴女こそ誰? という疑問も飲み込んで笑顔を貼り付ける。


「久保田と申します。星野さんとは一緒にお仕事をさせていただいておりまして、家も近――」

「そうですか。それで今から仕事ですか?」

「いえ、仕事では」

「なら伊織、家に帰ろ」

「だから待って」

「待ってください。仕事ではありませんが、星野さんと約束をしていましたので、話しをする時間をください」


 彼女の目に訴える。


「ふ〜ん」


 目を逸らしたのは彼女の方。


「もういいかな?」

「せっかくここまで来たのに冷たいよ伊織……」

「そんなこと言ったって急に来たのはそっちでしょ? こっちの都合も考えて欲しいな……。すみません久保田さん、場所を変えましょうか」


 場所を変えるのは構わないけど、彼女はここに放置でいいのだろうか?


「こちらの方は、いいの?」

「はい。……いいよね? たつみくんには連絡しておくから仲直りしてよ、姉さん」

「え、お姉さん?」

「あなたにお姉さんとか呼ばれたくないんだけど」

「姉さんやめてよ。関係ない人に八つ当たりしないで」

「だって……」

「すみません久保田さん」


 謝る星野さんが簡単に事情を説明してくれる。


 彼女は姉の沙織さおりさん。巽くんと言うのが旦那さんで、旦那さんと喧嘩をして家を出て来たそう。

 旦那さんの方には星野さんが連絡済みでもうそろそろこちらに着くらしい。


「姉さん、巽くんが迎えに来たらちゃんと帰るんだよ?」

「嫌よ。伊織一緒にいて!」


 星野さんは、でも、と私をちらっと見る。


「いいよ、私は後で。迎えが来るまでお姉さんと一緒にいてあげて」

「でも久保田さん」

「いいから、いいから、ね?」


 星野さんの家族だから大事にしたいし、星野さんにも大事にして欲しい。


 彼女が星野さんのお姉さんだったから今日は引き下がるんだ。これが元カノなんかだったら絶対に引き下がらなかったけど。


 それに沙織さんに睨まれていて居心地も悪い。


「あとで連絡します。だから待っててください」

「うん」


 沙織さんに会釈して、私は駅を出た。


 寒い。夜風に襲われくしゃみが出る。ぶるりと身体を震わせて家に向かうが、少しだけ気が緩んだのか頭が重くなり始めていた。


 家に帰ったらすぐに薬を飲もうと考えながらまた大きなくしゃみをした。





 アパートの階級が辛い。一段上がるたびに頭が痛みに襲われる。

 ああ3階が果てしなく遠く感じるのは何故なのだろう。


「っくしゅん。あー」


 早くベッドに突っ伏したいと思いながら最後の段を登り切り、鍵を出して部屋の扉を開ける。

 靴を脱いだのか、あるいは脱げたのか分からない状態でベッドへ一直進。


 ドサ、と音を立ててベッドにダウンした。


 ――薬飲みたいけど、ああもう後で。


 とりあえず頭痛が酷くてもう起き上がること出来ない。頭を少しでも動かすことが苦痛で目をぎゅっと閉じた。


 ――そうだ、スマホの充電……。


 充電しないといけないと思うが、もう動きたくない。


 いや、動けない。


 頭の痛みを逃すには一眠りするのが一番だと考えながら、こめかみを押さえる。


 しばらく痛みを堪えるように眉間に力を入れていたのだが、気付けば眠りに就いていた。






 どれくらい眠っていたのだろう。目を覚ませば起き上がれないほどの頭痛はおさまっていた。


 手を動かすと左手が何かに触れる。


 なに!? ――そう思いながら視認すると、そこにあったのは人の頭だった。


「えっ――え!? 星野さん?」


 何故ここに?

 どうして星野さんが?


 疑問があふれる中、星野さんの「ん〜」というのんびりした声が……。


 床に座って頭をベッドに預けていた星野さんが動く。星野さんも眠っていたのだろう。欠伸をしながら薄く目が開いた。


「あ、起きましたか? 調子はどうですか?」

「……星野さん?」

「はい」

「どうして?」

「どうしてって……。心配したから。あの後、電話しても繋がらないし、家に帰ったはずだろうに部屋に電気は付いてないし、それでここに来てみたら玄関のカギはささったままだし、カギ開いてるし……。どうするんですか? 変な人が入ってきたら? で、中に入ったら久保田さんは倒れてるし、まさかって思いましたよ」

「ごめんなさい」

「いえ。朝から体調悪いの知ってたのに……気付けなくて……」

「いや、体調管理出来てない私が悪いんだから……。あ、ねえ今って、何時?」


 まだ暗い時間。暗くて時計がよく見えない。23時とか24時くらいだろうか?

 こんな時間まで迷惑かけてしまったと、胸が痛む。


 星野さんは腕時計に視線を落して目を凝らしている。


「4時前、ですかね?」

「へ? 4時?」

「はい。あ、……何か要りますか? お水? それとも何か食べたいものありますか?」

「えっ?」


 必要なものより、4時だという衝撃が強い。


「星野さん、何時からここに?」

「あー、あの後だから20時は過ぎてましたよね」

「ってことは星野さんこそお腹空いてるんじゃないの?」

「僕の心配はいりませんよ。1食2食抜くなんて日常茶飯事ですから」


 そう言って星野さんは微笑む。



「とりあえず家に帰って休んだ方がいいよ。床に座ってたから腰痛いでしょ?」

「大丈夫ですよ。それより久保田さんのことが心配です。こんな時、頼れる人がいないんですか?」

「いないよ」


 即答する私の目を星野さんはじっと見つめてくる。


「ほんとに?」

「だって、もう親に連絡するような歳じゃないし……」

「小林さんは?」

「な!? なんでここで小林さん?」

「いや、だって。……違うならいいです」


 しゅんと項垂れる星野さんを見て、ちゃんと話さないといけないなと思った。


「あのね、小林さんとは同じ高校だったみたいで」

「同級生?」

「そう。この前の同窓会で会って初めて知って。私は普通科で、あっちは理数科だったから接点もなくて、全然知らなかったんだ」

「同窓会で仕事先の人間と会って驚きました?」

「うん、びっくりだよね。全然知らずに打ち合わせしてたんだし。まあ、それもあってちょっと盛り上がったのは確かで、同窓会のあと二人でバーに行った……」


 言うか迷いながらバーに行ったことを話し、星野さんの方をチラっと伺うと、少しだけ面白くなさそうな顔が見えた。


「二人きりでバー?」

「うん。あ、でも1杯だけだよ」

「1杯だろうと2杯だろうと……、ああー」


 そう低く声を漏らしながら星野さんは髪をかき混ぜる。


「星野さん?」

「それで小林さんに言い寄られてるんですか?」

「うん、そうなの」

「そうですか」

「あ、でも――」


 ――断るつもり、という言葉はかき消される。


「歳の差、……気にしないでいい相手ですね」


 ――あ……。


 星野さんの言葉に胸が抉られる。

 自分が言った歳の差セリフなのに。


 なのに、それが自分に返ってきて傷付くなんて……。私はどれほど星野さんを傷付け、想いを踏みにじっているのだろう。


 歳だけ無駄に重ねている自分が情けない。


 ごめんね、と謝りたいのに、軽軽しく聞こえそうで口に出すのを躊躇してしまう。


 何を言うのが正解か――。

 私は何を伝えたいのか――。


 言わなければ始まらない。

 想いを胸の底に隠していても始まらない。


「ほ、しの、さ……」


 声が震える。名前を呼ぶだけなのに。


 でもその名前は何より愛しい人の名だからこそ震えるのだ。


「久保田さん?」

「わた、私ね」


 ふー、と長く息を吸いお腹に貯める。星野さんの目を見つめ、そのままお腹の底に隠した言葉を空気とともに口から吐き出す。


「好、……き」


 届いただろうか?

 星野さんの目がゆっくり見開いていくが、伝わってないのかもしれない。


 それなら何度でも、伝わるまで伝えよう。


「星野さんのこと、好きです」


 星野さんの唇が一瞬震え、言葉にならない言葉が口からふわっと出ていくのを見て、更に愛しくなる。


「星野さんの隣にいたい。ずっと一緒にいたいです」

「え……ほんとに?」

「うん。ほんとに」

「ほんと?」

「うん。星野さんのお嫁さんになりたい!」


 星野さんの目が輝き、頬まできらりと輝く。


「僕で……いいの?」

「うん。誰でもいいなんて思えない。星野さんじゃなきゃイヤ」


 床から腰を浮かせた星野さんが両腕を広げる。


「久保田さん!!」


 星野さんの両腕が私の背中に回った。


「ほんとに?」


 まだ信じられないのか星野さんは何度も確かめるように聞き返す。それに私は何度も首を縦に振り、顎が星野さんの肩に当たる。


「大切にします。幸せにします」

「うん。私も星野さんを幸せにします」


 腕の力が緩んで目の前に星野さんの顔が現れる。

 それがゆっくり真っ直ぐに近づき、鼻先が触れ、お互いの唇がしっとり重なる。


 あまりの心地よさにくらりと目眩がしそうになる。


 と、そこで我にかえった。


「あっ!」


 雰囲気をぶち壊した自覚はある。だけどこれ以上は、


「ダメダメダメ! 風邪うつしちゃう!!」

「別に構いませんよ」

「私が構う!」

「別に気にしない」


 そう言って星野さんは私の唇を一度だけ啄むと、にこと微笑みを見せる。


「まあ、でも悪化したらいけないし、続きは治ったらと言うことで」


 今度は満面の笑みを見せる星野さんの顔が好き過ぎて、心臓がぎゅっと締め付けられた。




 なんだか色んな意味で熱の上がった私を心配した星野さんは、早朝のコンビニに向かってくれた。


 横になって休むが、ドキドキしすぎて目だけは冴えている。


 そのうちに星野さんが静かに戻ってきた。


「起きてます?」

「うん」

「じゃあ何か食べて薬飲みましょう」

「ありがとう。星野さんは帰って大丈夫だよ」

「帰って欲しい?」

「え?」

「僕は側にいたいけど?」


 ――っ!!


 息が止まる。心臓が止まる。


 そんな事言われたら、もう……、どうしたらいいの!?


「い、一緒にいたいけど……、星野さんだって寝なきゃさ、ね?」

「……分かりました。じゃあ昼まで寝て、昼にまた来る」

「うん」

「色々買ってあるから、食べれそうなもの食べて薬ちゃんと飲んでくださいね」

「はい」

「他にやる事あります?」

「ないよ、大丈夫」

「じゃあまた昼に」

「うん」

「おやすみ」

「おやすみ」


 玄関を出ていく後ろ姿を見送って、息をぜえはあ吐き出す。


「やばいな、なんだこれ」


 星野さんから出る甘い空気に、心臓が激しく暴れていた。それを悟られまいと平常心を装っていたがバレていないだろうか?


「それに星野さん、言葉遣いが……」


 いつも通りの丁寧な口調に、時々タメ口が混ざる。それが何ともくすぐったくて、また心臓が暴れるのだ。






 薬を飲んで熟睡していた。それが物音を聞いて覚醒する。


 なに? ――何の音? スマホの通知音でもない、と寝ぼけた頭で考えながらゆっくり目を開くと、横に星野さんがいて驚く。


「うわっ」

「起きました?」

「あ、はい。え、もう昼?」

「今12時。玄関の鍵開けっぱなしでしたよ、不用心」

「あ……」


 星野さんが出て行って、閉め忘れたまま寝てた。


「食欲あるなら、うどん食べます?」

「……食べる」

「台所借りますね」

「作るの?」

「茹でるだけ。鍋は?」

「流しの下」

「分かりました」


 私はベッドの上。

 台所から音がする。


「変な感じ……」


 胸の中がくすぐったい。


「何か言いました?」

「ううん」 


 胸の中がぽかぽか温かい。


 すぐに出来たうどんは、うどん鉢と、丼鉢にわけられていた。


「いただきます」

「熱いですよ」


 うどんの上に味付けのおあげさんが乗っている。スーパーで売っている個包装の商品だと分かるけど、なんだか嬉しい。


 ひとくち、うどんを啜る。


 あったかい。


「美味しい〜」

「安いうどんですみません」

「安くていいよ。それに安いうどんでも高いうどんでも星野さんが作ってくれたから美味しいの!」


 私がそう言うと星野さんの眉が寄る。

 何かおかしなことを言っただろうか?


「星野さん?」

「……それ」

「それ?」

「やめませんか」

「やめる?」


 何を『やめる』のか皆目検討がつかない。


「名前。……下の名前で呼んで?」

「下?」


 ああ、なるほど。

 苗字で『星野さん』と呼ぶことを『やめて』欲しかったのだと分かる。


 だけどそれは『伊織』と呼ぶことを求められているのか、『いおりん』と呼ぶことを求められているのか、どちらだろうと悩む。


 星野さんが求めているのは果たしてどちらなのか?

 正解は? ――悩みながらゆっくり口を開く。


「い、お、……り……、くん?」


 星野さんの顔に満開の花が咲く。


「もう一回呼んで?」

「え? えっと、伊織くん?」

「はい」


 大きな花が咲いた。

 その笑顔を見た私の胸にまで鮮やかな花が咲く。


「「あー、どうしよ」」


 二人同時に同じセリフを吐いて身悶える。

 それに目を合わせ、どちらともなく「ぷっ」と吹き出した。


「どうしよ?」


 私がそう聞くと、


「どうしよ?」


 星野さんもまた同じように返してくる。


 外野から見れば完全なバカ。

 でも浮かれている今はバカなことが普通に出来てしまう。


 ――そう。恋ってバカになる!!


「伊織くん」

「抱き締めていい?」

「えっと……」


 許可なんて求められても困る。

 許可なんて求めなくていいのに。


「何もしないから、ぎゅってさせて」


 コクン、と頷けば星野さんが椅子から立ち上がって私の横に来る。


 大きな手が背中を引き寄せ、胸が星野さんに密着する。


 色んなところから熱が吹き出しそうになって鼓動が早くなる。


 ドキドキしていることがバレてしまう。

 でもバレてもいいか……。


 だって大好きだもの。


 幸せだよ、と少しでも伝わるように星野さんの背中に手を回す。細身に見えるがやっぱり男の人だと思えるほどに厚みがある。


 頬を寄せれば星野さんの匂い。


 ――全部好き。




 薬を飲んで少し寝て、起きたら星野さんが側にいて……。


 頬が緩む。


 だらしない顔を隠すように布団を引き上げると星野さんがこちらを向いた。


「起きました? 体調どう?」


 言いながら星野さんの大きな手が私の額に乗る。


「熱はない、かな? 水飲みます?」

「うん」


 立ち上がるその背中を見て、またムフフとにやける。


 水が注がれたコップを受取りながら、幸せを噛みしめる。


「夕飯食べれそう?」

「う、うん。食べれる」

「昼はうどんだったし、お粥がいい?」

「別にお粥じゃなくても普通のごはんでいいよ?」

「消化悪いから」


 ダメだと言うように星野さんは首を横に振る。

 私のことを考えてくれていることに、胸がぎゅうっと掴まれた。


「卵粥なら作れるけど、お米と玉子あります?」

「あー、玉子がない」

「じゃあ買ってくる。他に要るものある?」

「えっと……」

「なに?」

「桃のゼリー食べたい」

「うん、分かった」


 なんか、やり取りが恋人っぽい。


「あっ、お金出すよ。財布は、えっと……鞄の中だ」


 鞄を探そうと立ち上がる私を星野さんが制する。


「いいから、寝てて」

「でも」

「いいから、任せてください。僕は嬉しいんです。だから遠慮しないで」

「うん。……ありがとう」

「桃のゼリーと、他に要るものない?」

「ないよ、大丈夫。お願いします」


 微笑む星野さんに微笑み返し、星野さんはまたスーパーに向かってくれた。一日に何度も申し訳ないと思いながら、私のために動いてくれる星野さんの愛をひしひしと感じる。


「なんて素敵な恋人なのっ!!」


「知ってた。星野さんが素敵な人なんて、ずっと前から知ってた」


「あ〜、夢じゃないよね? あ〜幸せ!!」


 ひとりでぶつぶつ呟きながら星野さんが帰ってくるまで身悶えていた。



 作ってくれた卵粥は熱くて、食べたら胸も熱くて、味は『美味しい』と大声で叫びたいけど、ごめんなさい。……それどころじゃない。


 だって、


「ふー、ふー、はい。あーん」

「あ、いや、自分で食べれるよ?」

「はい、あーん」


 微笑みを崩さない星野さん――ではなく、伊織くんが私の顔の前で匙を止める。


「あ……。あ……」


 躊躇い、口を開けるか開けまいかと悩んでいると少し開けた唇の間にお粥が差し込まれた。


「はふ」


 お粥はもう熱くない。

 だけど、顔は真っ赤。


「ふーふー」


 柔らかなお粥を軽く咀嚼するそのちょっとの間に次のひと口が用意される。


「はい、あーん」

「あ、だから、もう……」

「もうお腹いっぱい?」


 いや、と否定する口が開いた隙間にまたお粥が飛び込んでくる。


 もう、これ以上はさすがに恥ずかし過ぎて両手で顔を覆った。


「ほんとに、……もう、勘弁して?」

「分かりました」


 残念そうな声が聞こえる。


 顔を覆った両手を少しだけ下にずらして目だけ出す。


「ごめん。嬉し過ぎて……ごめんなさい」


 眉尻が下がる伊織くんの顔を見てしまえば、いいよ、と言ってしまいそう。だけどそれをぐっと堪える。


「熱いから気を付けてくださいね」


 伊織くんがお粥と匙を私の前に並べる。


「ありがとう。気持ちはすごく嬉しいよ。だから、気持ちだけもらっておくね」

「はい」


 伊織くんが微笑む。すると私の心臓が雑巾のようにきつく絞られた。しかも右絞りかと思えば左にも絞られ、あまりの負担に息が上がりそうになる。


 ――その顔を見るだけで暴れる心臓よ、落ち着け!


 そのあとは、にこにこと微笑む伊織くんに見守られながら卵粥をなんとか完食したのだった。



 翌日は日曜。

 月曜からの仕事に備えて一日中寝ることにした。


 側にいると言ってくれた伊織くんだが、これ以上側にいられたら風邪が治るより前に心臓が使い物にならなくなりそうなので、丁重に家に帰ってもらったのだ。


 と、言ってもこの距離。


 ベッドから起き上がって数歩、ベランダ側の窓に到着すれば、窓の向こうに伊織くんの部屋が見える。


 しかも、窓辺に椅子を持って来て読書でもしているようで、伊織くんの横顔に濃い日の光が差して明暗を作っている。


「はあ〜〜」


 ――カッコいい。

 熱いため息が漏れていく。


「ほんとに? 彼氏? あ〜もう〜、うわぁ〜。いやいや、夢じゃないよね? え? ってことは私が星野さんの彼女? あ、星野さんじゃないや……」


 ――伊織くん。


 心の中で名前を言っただけなのに、胸がぎゅうっと痛み出す。


 そんなうるさい心臓の騒ぎを責めるようにスマホが鳴動する。


 軽快な音楽――それは電話の着信音。


 スマホの画面に表示された相手は『小林さん』だった。咄嗟に伊織くんの見えない位置まで移動する。


 そういえば食事でもとお誘いされたまま既読スルーしていた……。


「はい」

『もしもし? 直子ちゃん? 良かった〜電話出てくれて! なんかあった? 忙しかった? 大丈夫?』

「うん、大丈夫」

『あれ? 風邪?』

「あー、うん。そうなの」

『熱は?』

「もう下がったかな」

『薬飲んだりした? なかったら買って持って行こうか?』

「飲んだから大丈夫」

『お腹すいてない? 食べ物ちゃんとある? 飲み物は? ある? 要るものない? 大丈夫? 買って行くよ?』

「大丈夫。ほんと大丈夫だから」

『あ、ごめん。迷惑だった?』


 本気で心配してる声だったから、迷惑だなんて返せない。


「小林さん、あのね」

『なになに?』

「今度話しがある」

『……えっと。……うん、分かった』


 何か気付いたような小林さんの抑揚のない返答。


『じゃあ直子ちゃんの風邪が治ったらね!』


 だけどまた明るい声に戻る。


「うん、治ったら」

『それじゃあよく休んでね!』

「ありがとう」

『…………』


 通話が切れる。


 ――なんだか……、すごく悪いことをした気分だ。


 そんな憂鬱な気分を抱えたままベッドに戻ろうと足を動かしながら視線はベランダの窓へ……。


 窓の向こうの、更に向こうにある窓――。


「あ……」


 視線があった。


「電話してたの?」


 窓の向こうにある瞳と目が合って、ベランダの窓を開けるとその声が飛んできた。


 責めている感じもなく、抑揚のない声。ただ気になって聞いただけ――そんな感じだったけど、こっちは悪いことしたみたいで変にドキドキする。


「あの、えっとね……」

「ん?」


 なかなか答えない私を見た伊織くんの首が横に傾く。


「あの」

「ごめん。詮索してる訳じゃないよ? 声が聞こえたから、僕が呼ばれてるのかと思ったんだけど、違うみたい……」


 照れたような、恥ずかしそうな顔をして視線を斜め下に下ろす伊織くん。


 私のことを心配して、私が呼んだらすぐに応えられるよう窓辺で待機してくれていたのだろう。


「ありがとう」

「え?」

「あのね電話、小林さんからだった」


 正直に話そう。だって隠すことではないし、隠したくない。


「食事に誘われてたんだけど」

「オッケーしたんですか?」

「してないよ。ただ今度話しがあるって言っておいた。その時にちゃんと断ってくる……からね!」

「行かなくていいです。僕から小林さんに伝えておきます」

「でも……。そういう訳にはいかないよ」

「じゃあ僕も一緒に行きます。その方が小林さんも理解してくれるでしょう」


 有無を言わさない強さに首肯するしかなく、仕方ないなと思いながら小さく頷いた。


「いつです?」

「まだ決めてないよ」

「早い方がいいですよね」

「うん、まあ」


 後回しにする必要もないので、都合が合うなら明日でもいいくらいだけど、小林さんの予定はどうだろう?


「じゃあ明日にしましょう」

「えっ、明日!?」

「仕事終わり。……あ、月曜だから忙しい?」

「多分忙しいと思う……。でも伊織くんと小林さんの都合が付くなら早めに切り上げるよ?」

「もし切り上げることが出来なかったら連絡ください」

「うん。……じゃあ小林さんに明日って言っておくね?」

「それも僕から言ってはダメですか?」

「いや、それはちょっとさすがに小林さんもびっくりしない?」


 私がそう言うと伊織くんは少しだけ考えるみたいに視線を左右に走らせた。


「たしかにびっくり? でも遅かれ早かれですよ?」

「でも、私がちゃんと言いたいから、それまで伊織くんは何も言わないで!! ね? お願い?」

「……お願い、なんて言われたら、僕はもう何も言えません……」


 少し拗ねた顔をする伊織くんがとても愛おしい。


「じゃあ明日ね」


 私が微笑むと、伊織くんも微笑む。

 大好きな微笑みにまた胸が弾けた。


 小林さんにメッセージを送るとすぐに了承の返信が来た。


 そして月曜、仕事終わり。

 場所はうちの会社から車で10 分ほどの距離にある大きなカフェ。この場所を指定したのは伊織くん。


 仕事を終えてタクシーで向かうと二人は四人掛けのテーブルに並んで座っていた。


 ――これって……なんだか打ち合わせにきたみたい?


「ふふっ」


 笑ってる余裕なんてないけど重かった気分が少しだけ軽くなる気がした。


「お待たせしました。お疲れ様です」


 小林さんに向けてそう言うと、視線をずらして伊織くんに視線を送る。


「お疲れ様です。ってコレ仕事と関係ないよね? なんかさ〜なんで星野まで? ねえ直子ちゃんなんで?」

「あっ、それは」


 どこから説明しよう、なんて考えているうちに伊織くんは立ち上がると私の席の隣に座って口を開く。


「こういうことなので」

「は?」


 理解出来ないとばかりに小林さんは私と伊織くんを交互に見る。


「姉弟とか? ……ではないよね?」

「違います」

「あのね、私と星野さんは、……そのお付き合いしてるの。だからね、小林さんの気持ちは嬉しいんだけど受け取れない……」

「付き合……ってんの? マジ? あれ? 直子ちゃん彼氏いないんじゃなかったっけ?」

「えっと、その……昨日から?」

「きのう? って昨日?」

「うん」

「は? え? 待って……。二人って何か接点あったっけ?」

「あります。小林さんよりたくさんあります」


 隣を見るとキリっとした顔が正面を見据えていた。


「あ、るんだ……。そう……。えっ、昨日から!?」


 落ち着きを持って状況理解に努めようとしていたのだろう小林さんだが、理解より混乱が上回ったようだ。


「待って待って、そんな雰囲気あった? 星野に関しては一緒に仕事してたけど全然分からなかった……。いや、お前今もだけどポーカーフェイス過ぎるだろ? えっ? 直子ちゃん、これのどこが良かったの?」

「『これ』って言い方ひどいよ? 私の彼氏なのに。ね、伊織くん?」

「はい。でも久保田さんの彼氏です」


 小林さんの口が、唖然と大きく開いた。



「うん、分かったご馳走さま」


 そう苦笑すると小林さんは先に注文していたコーヒーを飲んで頭をくしゃっと掻いた。


「俺はじゃあカッコよく引くよ」


 カッコよくって――と思いながら笑うと小林さんも笑う。


「あーもうちょっと早く直子ちゃんにアプローチしてたらなぁ〜」

「引き際心得てないじゃん」

「あ、ほんとカッコワル! って星野、睨むな睨むな!」

「睨んでません」

「眼光鋭い星野なんて見た事ないぞ? あ、あれか? 嫉妬か?」

「違います」

「そうかそうか。だって仕方ないだろ俺と直子ちゃん同級生なんだし、ってだから睨むなよ。……あ〜、なるほど〜」


 ふふん、と面白い事でも見つけたみたいに笑う小林さん。

 伊織くんは少し憮然としている。


「俺が『直子ちゃん』って呼ぶのが気に入らないわけか」

「えっ? そうなの?」


 そんな名前のことで嫉妬なんてと驚きつつ隣を見上げると、バツの悪そうな顔をした伊織くんが「別に……」とつぶやく。


「いいよいいよ、呼んでいいよ。私は下の名前で呼んでるんだし、伊織くんも好きなように呼んで?」


 伊織くんに「直子ちゃん」なんて呼ばれたら嬉しいけど、恥ずかしい。でもやっぱり嬉しいな、なんて思うと頬が緩む。


「やだやだ空気が甘いよ〜。俺帰るわ〜」

「あ、……あの、ごめんね」

「いいよ、そんなの。それより幸せになって! で、星野に泣かされたら俺が慰めたげるしさ!」

「泣かせません」

「分かんないよ?」

「幸せにするので……」

「ふ〜ん、そっかそっか。ま、星野も直子ちゃんも幸せそうな顔してるから、ほんとご馳走さまです〜」


 小林さんは立ち上がると片手を上げて、じゃ、と背を向けた。


「ありがとうございます」


 伊織くんがその背にお礼を言うと小林さんは振り返らずに小さくピースサインをしてカフェを出て行った。


「小林さんのああいうところ、本当は僕、尊敬してるんです」


 ひとりごとのようなささやきに、うん、と相槌を打つ。



「今からご飯食べに行きませんか?」


 ちょっと緊張していて忘れてたけど、そう言われたらお腹がすいてきた。


「うん、行きたい!」

「では出ましょうか」


 小林さんが指摘したポーカーフェイスが崩れ、私の好きな微笑が咲く。


 行き先を決めてないままカフェを出たのに、伊織くんの足は迷わずカフェの右へと向いた。


「どこ行くか決まってるの?」

「ええ。少し歩くことになるけど大丈夫? それともタクシーで行く?」

「大丈夫、歩いて行こう!」


 私がそう答えると伊織くんは笑いながら「じゃあ」と言って下で揺れる私の左手を取った。温かい手が私の冷えた手を包む。


「ふふ」

「なに?」


 ――幸せだなって思っただけ。


「何でもないよ」

「ほんとに?」

「……ご飯楽しみ〜、どこだろ?」


 年甲斐もなく繋がれた手を揺らしてみる。


「知ってるかもしれないよ?」

「え? どこどこ?」

「川辺さんに聞いたんだ、美味しいとこあるって」

「え? うちの川辺? 川辺に聞いたの? 川辺と連絡取り合う仲だったの?」

「うん、……まあ」

「あいつが教えてくれる所って言ったら居酒屋でしょ〜」

「居酒屋? そうなのかな? 野菜が美味しい所って言ってたけど」

「野菜?」


 ああ何だかどこかで聞いたような、聞いてないような気がしてくる。


 その曖昧な記憶が小さな看板を視認してはっきりとした。


「もしかして、ココ?」

「そうみたい」

「あ〜確かに『野菜が美味しい所』だな」

「やっぱり知ってた?」

「うん」

「体調崩してたから栄養満点なご飯食べてほしかったから」


 最後に小さく言った伊織くんの言葉に胸がまたぎゅんっと絞られる。きっと私の事を考えてくれて、移動も少なく済むように会社の近辺を探してくれたのだろう。


 小さな看板には『キッチン みやび』と掲げられている。外から中はよく見えない。

 木製の扉を引いた伊織くんが「どうぞ」と私を中に促す。


「いらっしゃいませ〜」


 店員さんの声。でもこの声の主はオレンジ色の髪をした店長さんだ。


「あっ、彩葉あやは会社とこの課長〜さん?」

「ご無沙汰してます」

「何年か前に来てくださいましたよね?」

「2〜3年前? いや、もっと前かな?」

「彩葉がいつもお世話になってます」


 オレンジ頭というド派手な見た目とは反対に、律儀に直角のお辞儀を見せる店長さん。


「いえいえ、こちらこそ月見里やまなしには助けてもらってますので」


 社交辞令を交わす私の後ろで伊織くんが「あの」と声を出す。


「あ、こちらはね、ここの店長さんで、月見里のお兄さんだよ」

「ああ、月見里さんのお兄さんですか」

「お兄さん、……っていうか従兄だけどね」

「あれ? お兄さんじゃなかったですっけ?」

「はい。残念ながら従兄なんです。さあ、立ち話もなんですからお席に案内しますよ。奥の席が空いてるのでそちらに座ってください」


 案内された席はコの字にソファが設置されている。白い木製テーブルにメニューが置かれた。


「今日仕入れた野菜だとカボチャが美味しいです。カボチャのポタージュか、カボチャのグラタンにしてますよ」

「へぇ〜、どっちも美味しそう! 伊織くんはカボチャ好き?」

「はい」

「じゃあどっちも頼もうかな?」


 二人でメニューを眺めそれぞれ食べたいものを注文していく。

 オーダーを取り終えた店長さんはキッチンの中に戻っていった。


「オレンジ色の髪ってインパクトありますね」

「ははは、そうだね。でもあの店長さんだから似合ってるんだよね」

「僕だったら何色かな?」

「えっ!? 伊織くん染めるの?」


 見開いた私の目を伊織くんは真面目に見返してくる。


「染めないよ? あ、でも所々白髪が出始めてるからもう少し目立ってきたら染めるかも」

「あ、白髪……、白髪ね。なんだ、……金髪にするとか言うのかと思った」

「金髪は嫌い?」

「いや、……似合えばいいんじゃない?」

「僕の金髪は?」

「伊織くんの金髪? ごめん、それはなしでお願いします」

「分かりました」


 伊織くんのサラサラな黒髪。ぱっと見ても白髪は分からない。でも徐々に増えて来る年齢には来てるのだ。

 そういう私だって定期的にカラーしてないとすぐに見つかるくらい白髪は増えてきている。


 『老化』のふた文字が脳裡を横切っていった。



 お腹いっぱい食べ終わって『キッチン みやび』を出た。


「じゃあ帰ろっか! 明日も仕事だしね」

「はい。……あの」

「ん〜、な〜に〜?」


 空腹が満たされて眠くなったのか欠伸が出そうになる。それを抑えながら隣を見上げると、いつになく真摯な眼差しがそこにはあった。


「10分だけ久保田さんの家に行ってもいいですか?」

「10分?」

「あの、ダメなら5分でも」

「ふふ、いいよ」


 まだ一緒にいたいという気持ちは私も同じ。そんなこと言われなくても、伊織くんはきっと送り届けてくれるだろうから、そしたら「少しだけ上がっていく?」と私が提案していただろう。


 最寄り駅から電車に乗って、いつもの駅で降りる。


「コンビニ寄る?」

「いえ、僕は」

「うん、じゃあ私もいいや」


 駅から離れれば外灯がどんどん少なくなっていく。その時そっと右手が取られ、伊織くんの大きな手に包まれた。


 ――嬉しいな。


 温かい手のぬくもりを感じてきゅっと胸が苦しくなる。


 好きが溢れる。


「はあ」


 熱い吐息をバレないように小さく吐き出す。

 隣をこっそり伺えばしっかりと前だけを見つめていた。


「伊織くん?」

「はい」

「寒い?」

「いえ、寒くはありません」


 いつもなら二人きりになると敬語が取り払われるのに、今日はまだ続いている。いや、食事している時はゆるい口調だったはず。

 それが元の丁寧な口調に戻っている。どうかしたのだろうか?


「伊織くん?」

「はい? 何かありましたか?」


 だけど、かと言って口調がおかしいよと指摘するのもどうなのだろうか。


「ううん、なんでもない」


 きっと外だから。部屋に入ればゆるい口調に戻るだろう――そう考えているうちにアパートに着いていた。



「何か温かい飲み物でも淹れようか? コーヒーか紅茶か、どっちがいい?」

「コーヒーをお願いします」

「オッケー! ちょっと待ってて。あ、その辺座っててね」

「はい」


 コーヒーを用意する間、伊織くんは椅子に座って背筋を伸ばして待っていた。


 初めてうちに来たわけでもないのに緊張しているのだろうか?


「はい、どうぞ」


 マグカップをテーブルにコトンと置くと、伊織くんはコーヒーを見下ろしながら深く息を吐き出した。


 それを見て「どうしたの?」と聞きながら私も向かいの椅子に腰を下ろす。


 すると伊織くんは未だ斜め掛けしているボディバッグのファスナーを開け中に手を入れると何かをテーブルの上に出した。


 それは5〜6センチ四方の箱。


 ――あ……。


 まさか。

 もしかして。


 期待と緊張。


 私の鼓動が早くなる。


「どうぞ……。……って、……あれ? こういう時は僕が開けた方がいいんですか?」

「え? えっと、どうなの?」


 二人とも緊張しているのがお互いに伝わり、くすっと笑ってしまう。

 笑ったことで私の緊張は解けたが、伊織くんはまだ緊張が続いているよう。


「私が開けてもいい?」

「は、はい。お願いします」


 赤いリボンを外して、白い箱の蓋を上に持ち上げる。中には白いクッションがあって、その真ん中に指輪があった。


 太いリングと細いリングが中央で交差し、全体的に軽くねじりのあるデザインのシルバーリング。

 中央には輝く紅の石。左右に小さなダイヤがあしらわれている。


「もしかしてルビー?」

「はい。久保田さんに似合うと思って。それに誕生石ですよね?」

「そうなの! 知っててくれてたの? うわ、嬉しい〜、綺麗! え? これ私に?」

「もちろんです。でもサイズがちょっと自信なくて、大きいかもしれないです」

「着けてみてもいい?」

「是非」


 だけど、自分の指が震えている。

 どの指に着けるべきか?


 左手の薬指ではないか……。

 それならと、左手の人差し指に嵌めてみる。少し弛いけど、


「素敵」


 嬉しさが瞳から溢れていく。

 左手を眺めながら、右手の指で涙を払う。


「久保田さん」

「ん? ありがとう」


 角度を変えて眺めてもキラキラ光る。


「あの」

「うん、大事にするね」


 華美過ぎない繊細なデザイン。


「僕も大事にします」


 そう言われて、指輪に向けていた視線を伊織くんに向ける。


「だから、……大事にするので……」


 ――あれ?

   私、伊織くんの話し聞いてなかったのかな?

   何を大事にするって?



「だから……」


 あれ?

 何を大事にするって?


「だから僕と、結婚しましょう」


 ――ケッコンシマショー?


「これからもずっと一緒にいたいと思う女性は久保田さんしかいません」

「へ……」

「幸せな毎日を二人で築いていきませんか?」

「結婚?」

「はい」

「本当にいいの?」

「はい」

「私でいいの?」

「久保田さんいいです」

「結婚だよ? 人生共に?」

「はい。もちろんです」

「婚姻届書くんだよ?」

「はい。いつでも出せるように貰ってきました」

「貰ってきた?」


 伊織くんはまた鞄から何かを出す。それはクリアファイル。綺麗に挟まれているのは婚姻届。


「気が早いかとも思ったんですが、僕の決意は固いんだということを分かって欲しくて貰って来ました。でも書くのは久保田さんのご両親に挨拶してお許しをいただいてからですね」

「両親に挨拶は……、そりゃ必要だけど、うちの両親なら行き遅れた娘を貰ってくれるってだけで大喜びだよ。それより伊織くん家のご両親に挨拶行かなきゃ」

「え?」

「え?」


 伊織くんが何かに気付いた、みたいな顔をする。


「返事はOKってことですか?」

「返事? うちの両親の?」

「違います。僕から久保田さんへのプロポーズの返事です」

「あ……」


 展開が早すぎて付いていけてないのは歳のせいなのだろうか?


「こんな私でいいの?」

「久保田さんいい、ってさっきも言いましたよ」

「あ、そうだね。ちゃんと聞いてたよ。……うん、お願いします。私の方こそ結婚してください」

「はい!!」


 見たことないほどの笑顔がそこにある。

 胸が痛い。ぎゅうぅぅんと絞られるみたいに息まで苦しくなる。


 両手を大きく広げて抱き付きたい。


 でももういい歳した大人だし……、とどこか自制してしまう。だけどやっぱり喜びを分かち合いたくて寄り添いたい気持ちが溢れ出る。


 いきなり抱き付いたら驚くかな?

 だけど「抱き付いていい?」なんて恥ずかしくて言えない。

 無言でいくか、宣言していくか……。さあどちらがいいだろう?


「久保田さん?」

「あの、あのね……。引かないでくれる?」

「引きませんよ。……どうしたの?」


 伊織くんの口調の変化にドキッとする。

 言葉だけで距離が近付いたような錯覚。


 物理的な距離もゼロにしたい。


「その……、抱き締めても、いいかな?」


 言ってしまった。存外恥ずかし過ぎて軽く死ねる。

 俯いた私に伊織くんの顔は見えない。今どんな顔をしてるだろう?

 是か非かの返答を待つ私の耳に届いたのは椅子の動く音。伊織くんが立ち上がったのが気配で分かる。


 やっぱり引いた?

 40女に抱き締めてもいいかな、なんて言われたらそりゃ引くよね……。

 呆れて家に帰るのかな、寂しいな、なんて思いながら顔を上げると伊織くんが私の前に立つ。


 そのまま近付いて……、

 目の前が暗くなって……、

 伊織くんの匂いでいっぱいになって……、

 背中が温もりに包まれて……、

 苦しくなる。


「かわいい」

「――――」

「おじいちゃん、おばあちゃんになってもハグしようね」


 嬉し過ぎて声が出ない。

 やっと出たのは愛しい人の名前。


「……伊織くん」


 ゆるゆると手を彼の背中に回す。細身に見えるけど厚みがあってたくましい。

 少しだけ肩の力を抜いて、温かくて穏やかな伊織くんの胸に頭を預ける。


「直子さん」

「へっ」


 初めての名前呼びにドキッとして顔を上げると伊織くんの唇が目の前にあった。少しでも動けば触れる距離に戸惑いながらも顔をゆっくり上に向ける。


 吐息と吐息が触れる。


「…………」

「…………」


 伊織くんの薄茶色の瞳に私が映っている。私の瞳にも伊織くんが映っているのを彼は見ているだろう。


「…………」

「…………」


 どちらが先に動いたか……。


 ちょん、と触れる唇の先。


 それが合図となる。

 しっとりと重なった唇が徐々に熱を帯びていく。少し離れ、角度を変えて重なる唇はほんのりコーヒーの味がするのに酔いそう。


「直子さん」


 息継ぎの合間に私の名前が漏れる。自分の名前が特別になったような錯覚に、彼の名前も特別にしたくなる。


「伊織くっ」


 名前ごと食べられるような口付けに酸素が足りなくてクラクラする。


「好き、……大好き、……直子」


 骨が砕かれたように足の力が入らなくなった。


 崩れ落ちそうな私の身体を伊織くんの腕が支えてくれる。


「大丈夫?」


 こくん、と頷くと大好きな微笑みが私の心臓を止めようとする。


 ――いや。止まるどころか加速する。


「可愛い」


 背中が熱い手の平で撫でられる。


「続きしたい。いい?」


 ――続きってキスの続き!?


 ってことは――と色々考える。下着何つけてたかなとか、お腹の脂肪やばいなとか。


「ダメ?」


 そう聞いてくるつぶらな瞳を見てしまえば、ダメなんて言えなくなる。


「……とりあえず、……電気消していい?」


 伊織くんは嬉しそうに、うん、と頷きながら私が苦しくなるほど腕の力を強めて抱きしめる。

 それから名残り惜しげにゆるゆると腕がほどかれると伊織くんは電気を消した。


 伊織くんに手を引っ張られる。


 ベッドの上に座った伊織くんにそのまま手を引かれ、伊織くんの膝の上に座る形となる。

 私の背中に伊織くんの胸が当たり、私のお腹に伊織くんの腕が回される。


 伊織くんが見えない分、五感を働かせたいのに緊張に包まれて余計な力が入る。


「直子」


 呼ばれるままに首だけで振り返ればすぐに唇が塞がれる。体勢が苦しくて横を向きながらキスに応えていると、二人の身体がゆっくりベッドの上に倒れていく。


 ついばむようなキスからむさぼるようなキスへ変わる。


 息が上がる。

 上下する胸と胸が合わさる。


 熱い吐息が溶けていく――。







 ふと覚醒する。

 ベッドの上。素肌の上に直にシーツの感触。


 ――ああ、そっか。


 先ほどまでの自分の身の上に起きたことを思い出せば消えかけた灯火がまたぽっとともる。


 良かった――なんて、隣で微かな寝息を立てる彼には言えないけれど。


 若いっていいな。


 そう感じるとやっぱり年齢差を気にしないことなんて出来なくなる。


 でも一緒にいたい。

 伊織くんの隣にいたい。


『私よりも若い子たくさんいるでしょ?』なんて言葉はもう言いたくない。


 君が好き――。


 伊織くんの微かな寝息に自分の吐息のような「好き」を混ぜる。


「ん」


 みじろぐ伊織くん。

 起こしたかな、なんて思いながら薄暗い室内で目を凝らす。


 ぴくりと揺れたのは長い睫毛だろうか?


 薄く目蓋が上がる。ぱち、ぱちぱち。


 起きたかな?

 こっち向いてくれるかな?


「ん、……おはよ」

「ふふ」


 目の開き切っていない寝ぼけまなこが可愛い。


「直子さん?」

「おはよ、伊織くん」

「何時です?」

「えっとね……」


 そういえば何時だろう、とベッドの脇にあるデジタルの置き時計に手を伸ばす。盤面を覗けば『3:08』とある。


「3時過ぎだよ」

「3時か……」

「明日、……じゃなくてもう今日か。今日も仕事でしょ? 家に帰る?」

「んん、まだ一緒にいたいから、このまま寝ていい?」


 てっきり帰ると言うのだと思っていたのに、その言葉だけでまた胸がぎゅんと痛くなる。


「うん」


 頷く私に近付くように伊織くんはモゾモゾと動くと私を抱きしめる。素肌と素肌がぴたりと重なって恥ずかしさもあるが、心地よさもある。


「あったかい。ああ〜もう一緒に住みたい」

「ふふ、うん。そうだね」


 家が同じなら帰る家も一緒。


「お互いの家、こんなに近いのにね」

「うちにおいでよ。部屋ひとつ余ってるし。あ、でもその前に直子さんのご両親にご挨拶に行かないとね。今日仕事終わったら行こうか」

「今日? それはいきなり過ぎて両親もびっくりするからさ……」

「じゃあ週末」

「急いでる?」

「うん。一日も待てない」

「一日もって……大袈裟でしょ?」

「大袈裟じゃないよ、もうずっとこの時を待ってたから」


 そう言って伊織くんは抱き締める腕の力を強くする。その腕から離したくないという気持ちが伝わってきた。



 その週末。

 土曜の夕方、伊織くんが迎えに来てくれて私の実家へと向かった。


 住宅街にあるごく普通の一軒家。私が5歳の時に建てたこの家は築35年。


「緊張する」


 玄関の前で深呼吸をする伊織くんの両手には紙袋が提げてある。

 右手のものは日本酒。

 左手のものは大福。


 どっちも両親が好きなもの。

 手土産を準備したいと言って来たのが火曜日だった。それから伊織くんなりに調べて美味しいお店を見つけたらしい。


「大丈夫だよ。連絡したら泣いて喜んでたから」

「だから緊張します」

「なんで?」

「予想を下回る男だと思われたら……」

「大丈夫だって! ね、じゃ入るよ?」


 緊張した顔で「はい」と頷く伊織くんを愛しく思いながらインターホンを鳴らす。


『はーい』


 母の声。


『開いてるわよ、どうぞどうぞ』

「はーい」


 玄関扉を開ける。


「ただいまー。伊織くん、どうぞどうぞ入って」


 中に促していると母のスリッパの音がパタパタと近付いてくる。


「まあ、いらっしゃい。初めまして直子の母です。ねえ直子、どこで捕まえて来たのよ〜?」

「お母さんここまだ玄関だから。とりあえず上がらせてよ?」

「あら? ごめんなさい。リビングにいらっしゃい。お父さんそわそわしてるから」


 肩を上げて楽しそうに「ふふっ」と母が笑う。


「ごめんねお母さんのテンションちょっとおかしいね」


 こそっと伊織くんにだけ聞こえるようにささやく。


「だけど予想は下回ってないみたいだから安心して上がって?」

「はい。お邪魔いたします」


 リビングに行くと正座するお父さんの背中が見える。


「お父さん?」

「あ、ああ」

「お父さん緊張しているのよ、ふふっ」

「っていうかお父さんそこ下座。上座に行きなよ? 伊織くん緊張して座れないでしょ?」

「だっ、だが、直子なんかを貰ってくれる相手に下座にいってもらうわけにはいかないだろ……」

「はいはい、お父さんも直子も上座とか下座とか気にしないでいいから座ってよ? お茶置けないでしょ?」


 おおらかなというかガサツな母がお盆を持って立ち尽くす。


「ごめんね伊織くん、ほんと気にしないでいいからこっち座ってくれる?」


 そう言いながら、それでも伊織くんは気にするだろうから私が一番奥に座る。そして隣に伊織くんが恐縮しながら座ると、母がお茶を配った。


「初めまして、星野伊織と申します。本日は急なお願いにも関わらずお時間をいただきありがとうございます。こちらお好きだと伺いましたので……」


 伊織くんはテーブルの上に日本酒と大福の箱を置く。


「まあ、いいのに。ご丁寧にありがとうございます」

「ねえ伊織くん?」

「はい」

「こっち大福だよね? やけに箱デカくない?」

「そう?」

「何個入り?」

「10個」

「お父さんとお母さん、二人しかいないけど?」

「ふふっ、いいのよいいのよ! たくさんあって嬉しいわ〜。それに明日真樹たちも来るから大丈夫よ」


 それならいいけどと言う私の横で伊織くんは「すみません」と謝る。

 しっかりしてそうなのに、ちょっと抜けてる時のある伊織くん。


「そうだわ! ねえねえ、思い出したんだけど星野くんって何年か前に直子が嬉しそうに話してくれたオモチャの箱の?」

「そうそう香苗にあげたやつ!! え!? お母さん覚えてたの?」


 疑問符を浮かべた顔の伊織くんにも分かるように説明する。


「あれ、3年前だったよね?」

「3年前?」

「そうだよ、伊織くんがデザインしたパッケージが初めて採用された時」

「ああ、そうです。3年前ですね」


 あの時ね、と母が会話に混ざる。


「直子が香苗にねプレゼントを持って来てくれたのよ。『箱が可愛いから、本当に可愛いからみんなちゃんと見て!』って。ふふっ。普通中身でしょう? 早く開けて中のオモチャを出したいのに直子ったら箱箱うるさくて」

「そんなにうるさかった?」

「そうよ」

「だけど、……だから覚えてるわ。ねえあなた?」

「あ、ああ。直子は仕事が好きなんだなと思ったのを覚えてるよ」

「違うでしょ、あなた! 仕事じゃなくて星野くんの描いた箱が好きだったのよ直子は!!」

「あ、ああ」

「そう考えたら直子のお相手が星野くんっていうのは納得ね! むしろ星野くんは直子なんかでいいの?」

「ねえ、さっきからお母さんもお父さんもなんで『直子なんか』って貶めるの?」

「あら? あなた自分の年齢分かってるの?」

「わ、……分かってますけど……」

「あの! 僕には、直子さんしかいません。僕もあの3年前から直子さんを尊敬していて、いつの間にか恋していて、それがやっと実って、それで――」

「ちょっと待って、伊織くん待って待って」

「はい?」


 にこやかに話しを聞く母の前で私は目を見開いていた。


「ねえ? それ初耳なんだけど? 私に言うより先に両親の前ここで言う?」

「ダメですか? 特に隠していた訳でもないですし、ご両親に隠す事のほどでもないですが……」

「えっとさ……、恥ずかしいので一旦ストップ!」

「はい」


 しゅんと小さくなる伊織くん。

 お母さんはまだふふっと笑っている。

 お父さんはお茶を飲んでメガネを曇らせていた。


「ねえねえ、それよりいつからお付き合いしてたのよ〜。前に帰って来たときはそんな事言ってなかったでしょ?」

「うん、……まあほんと最近になって……」

「ふふっ、それじゃあ結婚はまだかしら?」


 お母さんは頬に手を当てて首を傾げる。それに伊織くんが「いえっ!」と身を乗り出した。


「僕は今日にでも直子さんと結婚したいと思っています。直子さんと一緒に幸せな家庭を築き、直子さんのお父さまやお母さまのように仲睦まじい夫婦になりたいです」


 伊織くんのはっきりとした言葉に胸が熱くなる。

 きっと伊織くんとなら穏やかで温かな家族になれる気がする。


「まあ。……お父さんどうしましょう?」


 笑みのこぼれたお母さんがそう言うと、みんなの視線がお父さんに向く。


「ォホンっ、……オホンっ。結婚とは1人でするものではない」

「はい」

「星野くんと直子の二人でするものでもない」

「はい」

「星野家と、それから久保田家に橋が架かる……。直子は星野家の家族になり、伊織くんはウチの家族の一員に。星野家に何かあれば直子は何を置いても一番に駆け付け、わたしたちも駆け付ける。結婚とはそういうものだ。その覚悟が二人にあるかい?」


 お父さんの言葉をゆっくり飲み込んだ伊織くんが深く頷く。


「はい」


 お父さんの言いたい事は分かる。分かるけど……。


「直子は?」


 みんなの視線が私に向く。

 私の視線はお父さんとぶつかる。


「私はまだそれに頷けない。伊織くんのご家族に会ってないから。だけど会ってなくても『はい』って返事はします。覚悟はちゃんとあるから」


 背中を伸ばしてお腹の底から返答すると、背中から汗が吹き出る。


 しばしの沈黙ののち、視線を逸らせたお父さんが「はあ」と小さく嘆息する。


「そうか」

「お父さん?」

「俺がどうこう言っても二人の問題だからな。二人でよく話してよく考えて決めたことならお父さんもお母さんも反対なんてしないよ。それよりも伊織くん」

「はい」

「直子をよろしくお願いします」

「はいっ! こちらこそよろしくお願いいたします」


 伊織くんは足を後ろに下げて頭を床まで下げる。

 私も同様にして床に手をついて頭を下げた。


「ありがとうございます。お父さん、お母さん」


 夕飯にお寿司を用意してくれていたお母さんが、お皿と箸を配りながら伊織くんに質問する。


「ねえ、星野くんはどこに住んでるの? 遠かったら今日は泊まって行ってもいいからね」

「ありがとうございます。でも僕が住んでるのは直子さんの近所なので大丈夫です」

「そうなの、そうなの、近所なの!」

「近いの?」

「そう。手を伸ばせば届く距離。ね?」

「はい。手、届きました」

「って事はお隣りさん?」

「あー、隣ではないんだよね」

「はい。直子さんのアパートと僕の住むマンションが近接しているんです」

「それで、ウチのベランダから、伊織くんの窓までがめっちゃ近くて」

「なにそれ、防犯は大丈夫なの?」

「いまのとこ、何もないよ。あの辺、駅から近いしアパートもマンションも乱立してるから、どこもそんな感じよ?」

「まあ……。でも怖いわね〜。ねえお父さん?」

「ああ」

「もう二人一緒に暮らしたらいいんじゃないの? そうよ、それがいいわ! ねえ星野くん? 直子と同棲したらいいんじゃない?」

「はいっ! お許しをいただけるなら」

「許しなんていらないわよ〜。もう二人ともいい大人なんだから。それより直子が孤独死する心配が減って嬉しいわ〜」

「孤独死ってお母さん」

「だって直子、昨年の冬にインフルエンザかかって倒れてたじゃない! 何か他の用事があってたまたま直子に電話したら病院にも行けてないし食べるものもないって言ってたじゃないの……」

「ああ……」

「『ああ』じゃないわよ。あの後お父さんだってしばらく心配してたんだから。『直子は熱下がったのか?』『治ったのか?』『薬飲んだのか?』ってうるさかったのよ。40歳になったって言っても娘は娘。心配なのよ〜」

「うん、……そうだね。心配かけました」

「星野くん、直子をよろしくお願いしますね」

「はい」

「しっかりして見えるけど、でも時々ちょっと抜けてて、あとそれから強がってみせるけど寂しがり屋さんなのよ。私たちも『お姉ちゃんだから』ってすぐに我慢することを覚えさせたのがいけないんだけどね……」

「はい。直子さんに甘えてもらえるよう頼りがいのある男になりたいと思います」

「あら、素敵ね! 直子も星野くんを大事にするのよ」

「はい」


 それからしばらく他愛ない話しをしながら夕飯をいただいて私たちは自宅に帰った。



「どうぞ」 

「お邪魔します」


 実家を出てコンビニに寄ってそのまま伊織くんのマンションへ。


「今日はありがとうね」

「いえ」

「次は伊織くんのご両親にご挨拶しなきゃだね」

「そうですね。いつにしようか?」

「そちらの都合に合わせるよ?」

「うん。聞いておく」

「お願いします」


 コンビニに買ったものを伊織くんがテーブルに置く。


「飲む?」


 そう聞きながら伊織くんは袋から中身を全部出した。

 ビールが2缶と、さきいかにチーたら。


 おつまみを選んだのは伊織くんだけど、私もどっちも好き。食の好みが似ているのはやっぱり嬉しいなと感じながら「ビール飲む〜!」と返事をする。


「お疲れさま〜」

「お疲れさまです」


 缶と缶を小さくぶつけてから、ゴクゴクっと喉に流し込む。


「っはぁ〜。なんか自分の親だけど緊張したわ。伊織くんはもっと緊張したでしょ?」

「うん。ちょっと自分が何を喋ったか覚えてないけど……」

「けど?」

「同棲していいって言われたね」

「あ、うん」


 嬉しそうに笑う伊織くん。

 結婚の許しをもらえたことより同棲の許可をもらえたことの方が嬉しいようで、可愛いなあと感じる。


「直子さん、ここに住む?」


 私はもう酔ってしまったのだろうか。

 伊織くんが『待て』をする犬に見える。


 私が『いいよ』と言えば今にも尻尾をブンブン振りそうな気さえする。

 いや、尻尾なんてないし、そもそも犬でもないのだが……。


「使ってない部屋が一つあるよ? それにここなら家賃も要らないよ?」


 家賃が要らないのはありがたい。


「うん」

「ほんと!?」

「うん。一緒に、……ここで」

「やった」


 小さくガッツポーズする伊織くん。


 決め手は家賃ではない。家賃は関係ない。

 私だって伊織くんと一緒にいたいし、帰る家は同じがいい。一緒に『ただいま』と言いたい。


 早く結婚してしまえば同棲なんて考えなくても一緒に住めるのだけど、どんなに早く結婚したくてもそこに辿り着くまでにはきっと時間がもう少し掛かるのだ。


 ビールを傾けた伊織くんの喉仏が上下する。ただそれだけにいちいち格好いいな、なんて思っていると伊織くんがこっちを向く。


「じゃあ今日から?」

「今日?」

「だめ?」

「いや、それはちょっと……」

「じゃあ、今日は泊まる?」

「う……」


 うん、と言う代わりに大きく頷くと、伊織くんはあの大好きな微笑みを見せてくれる。


「今日は泊まって、明日はプチ引越し、しようか?」


 伊織くんの提案に私は『プチ引越し?』と首を傾げる。


「要るものこっちに運んで、足りないもの買おう」

「お皿とか?」

「ああ、それもいるね」

「それ?」


 ということは伊織くんは他に何が足りないと思っていたのだろう。


「とりあえず何が要る?」


 私がそう聞くと伊織くんは真面目に答える。


「ベッド」

「ベッド?」

「ベッド要らない? この際ダブルベッド買おうか?」

「ダッ!?」

「それともシングルに二人で寝る? 狭いよ? 僕はいいけど、直子さん抱き締めて寝るから」

「ダキっ!?」


 そうか、二人で住むということは二人で寝食を共にすると言うこと。


 私は『食』ばかり考えていたけど、『寝』も真面目に考えねばならない。


 真面目に、二人で一つのベッド……。そう考えるだけで顔が熱くなり、全身に伝播する。


 発生した熱はじわじわと熱さを増していく。


「直子さん?」

「でもね……」


 私の名前を呼ぶ唇から目が離せない。

 キスしたいけど、そんな雰囲気でもない。


 ――早くそんな雰囲気にならないかな……。


「伊織くんのご両親にもちゃんとご挨拶してからね、同棲するのは」

「うん。分かった。でも、今日は泊まるんだよね?」

「うっ……」

「直子さん? 泊まるのはいいよね?」


 いいに決まってる。だって一緒にいたい気持ちがあふれて、この二人の間にある隙間でさえ寂しく感じているくらいなのに……。


 残っていたビールを飲み干し、はあ、と嘆息する。


 ――キスしたい……。


「伊織くん」

「酔ってる?」

「酔ってない」

「おいで」


 そう言いながら伊織くんは私の腰に手を回し引き寄せる。


「直子さん、いい匂い」


 首筋に伊織くんの鼻が当たる。


「ビールの匂い?」

「違うよ。なんか、美味しい匂い」

「お寿司?」 

「違うって。食べ物の匂いじゃない。でも食べたくなる」


 そう言うと伊織くんはおもむろに「パク」なんて言いながら私の首の付け根を喰む。


「ん」


 咄嗟に口を押さえるが肩が震えて声が漏れた。


「おいし」


 伊織くんは食べ続ける。

 私は食べられ続ける。


「いっ、おり、くっ」


 だけど少しだけもどかしい。

 私も食べたい。


「うん?」


 私を見上げる瞳に吸い寄せられるようにして私は喰まれたばかりの首をゆっくり倒し、その食事中の唇を深く塞いだ。




 シングルベッドに二人で寝るにはやはり狭いなと、そう二人でぶつぶつ言いながら起きた翌朝。


 二人で朝食を準備しながら伊織くんが「やっぱりお皿」とつぶやく。


「どうしたの?」

「ああ。やっぱりお皿がないなあと思って。パン乗せるのは2枚あるけど、玉子はどれに乗せようか?」


 フライパンで目玉焼きを焼いているのだが、どうやら丁度良いお皿がないらしい。


「じゃあパンの上に乗せちゃおうよ」

「それでいいの?」

「え? ダメ?」

「ダメじゃないよ……。直子さんが良いならそうしよう」

「うん。……じゃあ今日はお皿買いに行こ? ね、ベッドとかはちゃんとしてから買うにしても、お皿は何かと必要でしょ?」


 私が提案すると伊織くんは嬉しそうに「うん」と微笑んだ。


 コーヒーにたっぷり牛乳を入れて食卓へ。


 お皿2枚とマグカップが2つ。

 食パンと目玉焼きに、サラダはないけどプチトマトを添えて、立派な朝ごはん。


 ――ああ、なんて素敵な朝だろう。


 その内これが私と伊織くんの日常になるのだ。


 ――ああ、心があったかい。


 伊織くんが焼いた目玉焼きは私が好きな半熟。半熟が好きなんて言ってないけど、こういう些細な所がぴたりと重なる感覚がとても心地よい。


 伊織くんは何が好きなんだろう?


 そういえば好き嫌いとか知らないし、伊織くんのこと知らないことだらけだと気付く。


 だけど、ゆっくり知っていけばいいか。何を知っても嫌いになんてならないんだから。


 お皿以外にも色々見ようということで、ショッピングモールに来ていた。


 目についた落ち着きのある雑貨屋でまず手に取ったのは丼鉢。

 ほんのり光沢のある黒色で、丼ものでも、うどんでもラーメンでもいけそうな丁度良いシックな鉢だった。


 それと同じシリーズで茶碗もあったので2つずつ購入する。


 それから色々見て回ったけど結局辿り着いたのは100円均一。そこでシンプルなお皿を大中小、それぞれ2枚ずつ揃える。


「とりあえず買うお皿はこんなもんかな?」

「そうですね」

「じゃあ次は……」


 モコモコのあったかいスリッパ買いたいし、新しい部屋着に新しい下着も欲しいけど、これはまた一人の時にでも――そう考えながら隣を見上げると、伊織くんの視線はどこかに向かっていた。


 その視線を辿る。


 辿り着いた先には女性が二人。


 一人は私より年齢が少し上に見え、もう一人は伊織くんと同じくらいでお腹が大きい女性だった。


「ええっと……、伊織くん?」


 声を掛けると伊織くんは機敏な動きで反転する。


「え? 伊織くん?」

「あ、あっち。あっちに行こ」

「伊織くん?」


 伊織くんが足を踏み出すと、「伊織じゃない?」と声が飛んで来る。

 その声は身体を反転してない私の正面に届いた。


「ほら、伊織でしょ?」


 お腹の大きな女性がそう言いながら近づいて来る。その女性はなんだか誰かに似ているような気がするのだが……。


「直子さん、ごめん。僕の母と姉さんだ」

「っ!?」


 女性二人の正体を聞いて背中が伸びる。


「やっぱり伊織だ。何してんの? ……ってか、このおばさん誰?」

「ちょっと美織みおりちゃん!!」

「なに?」


 お腹の大きな女性が、伊織くんのお姉さんで、その後ろから上品に近付いて来るのがお母さんなのだろう。


「初めまして、久保田直子と申します」

「こんにちは。こんな所で会うなんて思わなかったわ。ねえ美織?」


 お母さんが微笑む。その微笑みは伊織くんに似ていた。


「沙織から聞いてはいたけど……」


 美織さんに睨まれる。


 ――すみません。お姉さんより遥かに年上で。


「今度紹介するって言ってたお嬢さん?」

「うん。お付き合いしている久保田直子さんだよ」

「伊織の母です。良かったら今から家にいらっしゃいな?」

「今から? それはちょっと急だよ」

「そう? でも美織の赤ちゃんが産まれたらバタバタしちゃうでしょ?」

「そうだよ、予定日来週だし。もしかしたら明日にでも産まれるかもよ?」

「いや、だけど、ちょっと待ってよ」


 伊織くんがごめん、と言いながら目尻を下げて私を見る。


「今日は難しいよね。またちゃんと日取り決め――」

「でも、来週が予定日なんでしょ? お姉さんの」

「そうらしいけど」

「大丈夫だよ私は。とりあえず手土産用意する時間は欲しいけど」

「あらあら、気を遣わなくていいからそのままいらっしゃいな」

「お母さん、そこはちょっと」

「そう?」

「そうだよ。気い遣うって。はい、だからすぐに何か買って来てよね」

「分かりました!」

「じゃあ30分後にここに集合ね」


 美織さんが手をパンと叩いたのを合図に散った。



「私、歓迎されてない感じだよね?」


 手土産を探すために早足で移動しながら伊織くんに尋ねる。


「すみません、美織ちゃんじゃなくて姉さんはだいたいあんな感じの人で、……だけど母は歓迎してるみたいだから大丈夫だと思うんだけど……」

「そっか……。で、手土産何がいいかな? 洋菓子? 和菓子? それともお酒?」


 昨日うちの実家に行ったときの伊織くんの手土産を思い浮かべながらそう尋ねると、伊織くんは眉を寄せる。


「洋菓子はなしで。お酒もあんまり飲まないし、姉さんは妊娠中だし。母はこし餡じゃないと食べれないんだけど、姉さんはつぶ餡が好きで面倒くさいから和菓子もなしで」

「じゃあ、なんだろう? 何がいいかな?」

「だけどやっぱり姉さんのことなんて考えなくてもいいのか……」

「いやいや、考えようよ! 一発目で嫌われたくないし」

「そう?」

「そうそう! さ、それじゃあ何にしようか? お母さんとお姉さんは何が好き?」


 ちょうど食品売場のフロアに到着し、周りをぐるりと見回す。

 ケーキ屋は視野から外し、片っ端から候補を上げていく。


「コーヒー? 紅茶?」

「ああ、紅茶なら……。あっ!」

「なに?」

「パンも好きだけど……」

「パン? 菓子パン?」

「食パン」

「食パン? 食パン一本ってこと」

「手土産って感じではないか……」

「そうだね。気心しれた相手ならいいかもしれないけど、初めて挨拶に伺うのに、食パンはね、……ちょっと考えるよね。伊織くんだって久保田家に食パン持って挨拶行ける?」

「ごめん。行けない……」

「だよね。じゃあ紅茶かな?」

「うん。そうしようか」


 一旦落ち着くために二人で詰めていた息を大きく吐き出す。


 それから紅茶専門店へ入ると、どこか心を落ち着かせる茶葉の香りが漂っていた。


「よければ試飲も出来ますよ?」


 どれも同じに見えてしまう私の横に店員さんが立つ。


「手土産っていうか、贈答用っていうか、彼のご両親にご挨拶するのに持って行くにピッタリなものとかあります?」

「そうですね……。お好みのフレーバーなどは分かります?」

「伊織くん分かる?」

「何でも飲む」

「それでは色んな種類が入ったものにされるのはいかがですか? こちらなんて人気ですよ?」


 店員さんが示したのは箱の中に色とりどりの紙包みに入っているティーバッグタイプのもの。


「あ、うちの親、茶葉をポットに入れて飲むので、そういうのじゃなくて缶に入ったのがいいかも……」

「そうなんですね! それではこちらのものはいかがでしょう?」


 次に示してくれたのは丸い缶が箱に収められたもの。2つ入り、3つ入り、5つ入りとあるようだ。


「これならいいかも」

「じゃあこれにしようよ!」


 値段的に言えば3つ入りくらいが妥当だろう。


「この3缶セットをください!」

「はい! それでは茶葉の種類をお選びください」

「種類?」

「はい。こちらからお選びいただけます」


 そう言って店員さんはズラリと整列している缶を示した。


「えっと……」


 この中から選ばないといけないって、時間が足りなさ過ぎる!!


「直子さん、この人気No.1からNo.3までの3缶にしたらどう?」

「え、そんな感じでいいの?」

「全然いいと思うよ」

「そうなの? じゃあそうしようよ」


 だって残り時間あと10分ちょいしかないもん。


 そんなこんなで私たちは適当に決めた紅茶をラッピングしてもらい、急いで待ち合わせ場所に戻ったのだった。



「さあさ、上がって上がって」


 伊織くんのお母さんに促されるまま星野家に来る。


 ごく普通の一般家庭をイメージしていていた私はその家の佇まいに声が出ないまま固まっていた。


「直子さん?」

「こっここ、……どっどこ」

「僕の実家」

「うそ」

「ほんと」


 目の前にあるのは海外ドラマで見る大きな家、もしくは別荘ではないのか?

 黒くどっしりとした大きな門は自動で開き、向こうに見える白壁の建物までのアプローチにはレンガが敷き詰められ、その両側は草花で綺麗に整えられている。


「向こうにも大きな庭があったりして?」

「あるよ」

「プールがあったりして?」

「あるよ」

「あるの!?」


 ――え? 待って待って。伊織くんっておぼっちゃま?


「おかえりなさいませ」


 目の前から綺麗な紫色の髪をしたおばあさんがやってくる。


「まあまあ伊織ぼっちゃま、久しぶりでございます」


 ――まじでおぼっちゃま!? というかお祖母様ではなくて使用人?


雪枝ゆきえさん久しぶりです。ただいま帰りました。こちらは――」

「ええ、ええ、ええ、ええ。奥様から聞いております。さあさ、外は寒いでしょう。中に入ってくださいまし」

「直子さん、入ろうか。……直子さん?」


 開いた口がふさがらない私は、伊織くんを見たまま時間が止まる。



 ――待って。


「直子さん?」


 ――待って。一旦帰りたい。帰ってから心の準備をしてきてもいいかな?


「ほらほら、ぼっちゃまをこんな寒い所に立たせとくんじゃないよ。これだから若い女は……」

「若い?」

「そこ反応する所じゃないよ。ほら、こっちだよ。さあさ、ぼっちゃまこちらにどうぞ」


 雪枝さんの態度が明らかに違うのは何故かしら?

 やっぱり歓迎されてないのかな? ――ひしひしとそう思いながら、恐る恐る雪枝さんの後ろを歩く。


 そしてとうとう玄関を入った。


「あらあら?」


 そう言って雪枝さんは立ち止まると、こちらを振り返る。


「貴女、お手洗いに行きたいのではなくて?」

「いや」

「行きたいわよね?」


 有無を言わせないというように雪枝さんの目が見開く。


「雪枝さん、彼女をいじめないで」

「いじめてなどおりませんよ」

「あっ、あのトイレじゃなくてお手洗い行きます! 行きたいです」

「はいはい、じゃあ貴女はこちらに。伊織ぼっちゃまは先にリビングへどうぞ」

「直子さん大丈夫?」

「うん、多分。うん、大丈夫」

「大丈夫じゃなかったら呼んでね?」

「うん、分かった。ありがとうね」

「じゃあ先に行ってるから」

「は〜い」


 伊織くんの背中を見送ると、雪枝さんが咳払いする。


 さて、何が始まるのだろうか……。


 おほん、と咳払いする雪枝さんを見て背筋がぴっと伸びる。


「お嬢さん」

「はいっ」


 じっと見つめてくる雪枝さんの瞳に、ここで負けてはいけないと目に力を入れる。


「家の佇まいに尻込みしたのならここで帰りなさい」


 確かに外観で臆した。

 だけど、帰れと言われて分かりましたなんて頷けるわけない。


「いえ、帰りません。ご挨拶させてください」

「伊織ぼっちゃまにまとわりつく虫はこの雪枝が払います」


 私が……悪い虫なのね。

 まあそう思うよね。

 年齢差も結構あるしね。


 ――って、ダメージ受けてる場合じゃない!


「遊びでお付き合いしている訳ではありません。今日は急でしたのでご挨拶に伺うに相応しい身なりではありませんが、気持ちだけはきちんとあります」


 雪枝さんの探るような視線が全身を這う。


「ふ〜ん」

「……あの?」

「背中を伸ばす! お腹を出さない。丹田に力を入れる!!」

「はいっ!」


 お腹を引き締めると同時に息まで止める。


「息を細く吸いなさい。静かに吐いて」


 指示に従う。

 雪枝さんの口が一度閉じ、それから、はあと嘆息する。


「……まあ覚悟があるならいいです。奥様はのほほんとして、だいたいの事は考えなしで行動されますから、振り回されることは覚悟なさってくださいまし」

「はいっ!」

「私は奥様がここに嫁がれる前から星野家の家政婦をしております、野村雪枝のむらゆきえでごさいます」


 雪枝さんは言いながら腰を直角に曲げる。

 慌てて私も腰を曲げて自己紹介をする。


「私は久保田直子と申します。伊織さんとお付き合いさせていただいております。どうぞよろしくお願いいたします」


 伺うようにゆっくり顔を上げると、仕方ないとでも言いたげな雪枝さんの顔が私を見下ろしていた。


「さあさ皆様お待ちでしょう。貴女のトイレが長いと思われているでしょうから、そろそろ参りましょう」


 そうだった。お手洗いに行くっていう設定だった。


 だけど、あれ?

 これって雪枝さんに認められたってことかな?

 まあ多分、「仕方なく」「しぶしぶ」だと思うけど……。



「なに、もう第一関門突破したの?」


 ふっかふかのソファに身を沈めた美織さんが大きなお腹を撫でながらそう言う。


 第一関門とは、雪枝さんのことだろう。

 と、いうことはこれから第二関門が待ち受けているのか……。今日は生きて帰れるかな、と弱気になりそうになるが先程雪枝さんの前で背筋を伸ばしたからには心を強く持たなければいけない。


「もう! 美織はそうやってすぐ第一関門とか第二関門とか第三関門とか第四関門とか第五関門とか――」

「ストップお母さん!! どこまで続くのその関門? さすがに私もそこまで言ったことないんだけど」

「あら? そう?」


 美織さんに向かって小首を傾げるお母様はどこか少女のようにも見える幼さがある。

 そのお母様がこちらを向いて「そうそう」と手を合わせた。


「直子ちゃん、紅茶ありがとうね。今お湯を沸かしているから早速みんなでいただきましょう!」

「あの、お好みの茶葉が分からなくて――」

「あら? そうなの? 私の好きなアールグレイと、美織の好きな白桃と、雪枝さんの好きなダージリンがあったから嬉しかったのよ!」

「え! 白桃!? やるじゃないの、おば――直子さん」


 美織さんの顔が少し穏やかになる。


 もしかして第二関門突破か?


「白桃見せて見せて!!」


 そう言いながら立ち上がる美織さん。

 立ったその瞬間、手を叩いたような風船の割れるようなパンという軽い音がした。


「あ……」


 美織さんが声を漏らし、口を開けたまま固まる。


「美織ちゃん?」

「あ、……あ」


 ゆっくりと美織さんの頭が下を向くので、私も一緒に美織さんの足元へ視線をやる。


 だが足元には何もない。


「美織ちゃん、……破水?」


 そう言ったお母様の声を聞いて一番に動き出したのは雪枝さんだった。


 部屋から出てどこかに行ったのかと思えばたくさんのタオルを持って戻ってくる。


「産院へ電話しないと」

「パパにも電話しなきゃ」

「パパより先に史哉に電話してよママ!」


 母娘があたふたしている下で雪枝さんが美織さんの腰にタオルを当てる。


「お嬢さま、先に下を履き替えて、夜用ナプキンを当ててきてくださいまし」

「はい、雪枝さん」

「その間に奥様は史哉さまにご連絡を」

「はい」


 雪枝さんの的確な指示が飛ぶ中、何も出来ない私と伊織くんは、何も出来ないにも関わらずおろおろしているしかなかった。


 雪枝さん指示のもとそれぞれが動き、伊織くんの運転で美織さんとお母様は産院へ向かった。


 そして私はというと、今日はもう帰った方がいいかと考えていたのに、何故か雪枝さんと一緒にタクシーに乗っている。


 どこに行くとかは聞いていない。


『直子さんは着いていらっしゃい』


 ただそう言われ、雪枝さんの後ろを着いて来ただけなのだが、


「パティスリーホシノに到着しました」


 タクシーが止まり、運転手さんがそう言う。


「直子さんはここでちょっと待ってなさい」

「分かりました」


 ――いや、分かんないけどさ。なんでケーキ屋さん? しかも、ここ世界的にも有名なパティシエのお店でしょ?


 美織さんの赤ちゃんが産まれるからお祝いにお菓子を買うということなのか。まだ産まれてないけど。これは星野家の風習とかだろうか。


 ――験担ぎ?


 ――ケーキで?


 ――それとも焼き菓子とか?


 待っているタクシーの中で思い浮かぶこと全てを考えてみるがどうにもよく分からなかった。


 その内に慌てたように男性が二人出て来て、その後ろに落ち着いた雪枝さんが見える。


 雪枝さんは助手席に。

 そして男性二人が私のいる後部座席へと来る。


「いやいや、すまないね」


 そう言いながら私の隣に座ったのはダンディなオジサマで、テレビでもよく見る顔の、世界的に有名なパティシエご本人――。


「ホシノ テル?」


「いやいや、そんなに有名かな? はじめまして」

「喜んでいる場合じゃございません。では出発してください」


 助手席に座る雪枝さんが運転手さんに合図する。ゆっくり走る出すタクシーの車中で私の頭の中は目まぐるしく回転していた。


 だって、だって、だって――。


「パティシエの星野輝美てるみさん?」

「よくご存知で」

「直子さん何を寝ぼけていらっしゃいますか」


 雪枝さんにそう言われて、辿り着いた答えは一つ。

 というか、パティスリーホシノに着いた時点で、星野という苗字にピンと来なかった自分が恨めしい。

 ……なんで早く気付かないかな私?


「伊織くんのお父様?」

「はい。貴女は伊織の婚約者の直子さんでしたか?」

「こっ!?」


 ――婚約!?


「違っておりましたか?」

「いえ、行く行くはそう考えてます」


 そう答えて、背中を伸ばすがいかんせん後部座席に3人座っていては見動きが取り辛い。


「あの、タクシーの中でのご挨拶になってしまいますが、伊織さんとお付き合いさせていただいております久保田直子と申します」

「はい。父の星野輝美でございます。よろしくね、直子さん」

「はいっ! よろしくお願いいたします」

「ああ、こっちはね――って、こっちは聞いてないか。美織の夫の史哉くんだよ。史哉くんもパティシエで、うちの婿なんです。だから伊織が長男だからって星野家の心配はいらないから、伊織と直子さんの好きなように自由にしてくださいね」


 はい、と答えながら私は本当に伊織くんから星野家について聞いていなかったのだと理解する。


 つい最近まで『私でいいの?』と年齢差を気にしていて、お付き合いを始めたのも先日なのだ。仕方ないと言えば仕方ないかもしれないが、ご両親と顔を合わせる前にもう少し情報を共有するべきだった。


 あと、それから、手土産に洋菓子はダメって伊織くんが言っていたのはお父様が世界的なパティシエだからだったんだと一人で腑に落ちる。


 だけどそれならそうと教えてくれたら良かったのに。

『洋菓子はダメです、父がパティシエだから』くらい言ってくれても良さそうなものだけど、そこで私もちゃんと聞けば良かったんだよね――。


 伊織くんを責めるよりも、先に自分が反省しなければ。伊織くんは元々寡黙な方だから聞きたいことがあれば私が質問するべきなのだ。 


 そう考えているうちに美織さんの産院に着いた。


 美織さんに付き添える旦那さんの史哉さんとお母様以外はラウンジで待つことになった。


 ――って、いや、普通に座っちゃったけど、私がここにいる意味?

 ないよね? ないよね? ないよね?


 だけど、『じゃあ帰りまーす』なんて言える雰囲気でもない。


「雪枝さん、ちょっと皆にお茶を買ってあげて」

「かしこまりました」

「あのっ! お手伝いしますっ!」


 挙手をしながら立ち上がると、当たり前ですという雪枝さんの視線がびゅんと飛んで来た。


 ここにいるのはホシノテル――じゃなくて伊織くんのお父様と、伊織くんと雪枝さんと私の四人。


 ラウンジの端に設置された自動販売機でお茶のボタンを押そうとして雪枝さんに怒られる。


「旦那様は無糖のコーヒー」

「はっはい!」

「伊織ぼっちゃまはカフェオレ」

「はい!」

「直子さんは?」

「私は……、いえ、雪枝さんは?」

「私はこれよ」


 そう言って雪枝さんは温かい緑茶のボタンを押して、ガコンと出て来たお茶と無糖コーヒーを持ってさっさと戻っていく。


「えっと、……私も買っていいのかな?」


 ここは買わないべきか、それとも自分のお金で払うべきか。

 いや、どちらにしてもホシノテルは良い気はしないだろう。


「ありがとうございます」


 自動販売機に向かってお礼を言いながら微糖のコーヒーを買う。


 席に戻って改めてホシノテルにお礼を言うとダンディな微笑みを見せられた。


 伊織くんに似た微笑みに、危うく心臓が撃ち抜かれそうになる。ヤバいヤバい、彼氏のお父様に胸キュンなんて、伊織くんには一番知られたくないと、そう思いながら伊織くんにカフェオレを差し出す。


「お父さんにときめいた?」

「ばっ! いやだって」

「だって?」

「だって伊織くんに似てたから。っていうかさ、ちょっと来て、こっち来て。あの、少しばかり席を外します。失礼します」


 ホシノテルと雪枝さんに断りを入れるとホシノテルが「どうぞどうぞ」と笑う。

 私は伊織くんの手を掴んでラウンジを出た。



「どうしたの直子さん?」

「だって、聞いてない!」

「聞いてない?」

「ホシノテルだなんて」

「お父さんの名前? 星野輝美だけど?」

「知ってる!!」

「知ってるの? 来る途中で自己紹介した?」

「ああー、そうじゃなくてっ!!」


 苛立っている訳じゃない。でもそう聞こえてしまったかもしれない。


「ちょっと落ち着いて。向こうに座ろ?」


 それでも優しい微笑みを見せて手を引っ張ってくれる。

 こんな所が本当に好き。


 好きだから伊織くんのことをたくさん知りたい。


 なのに今日は知らなかったがために驚かされてばかり。


 このモヤモヤしている気持ちは『不安』なのかもしれない。


 日当たりのいい廊下のベンチに腰を下ろす。


「伊織くんのこと教えて?」

「僕?」

「そう、家族の事とか。……今日はずっとびっくりしてばっかりなんだもん」

「んー?」


 何を話したらいいのか、という表情で少し唸ると伊織くんは「ええと」とゆっくり話し出す。


「僕は3人姉弟の末っ子。一番上が美織、真ん中が沙織。沙織ちゃんは結婚したばかりで旦那は巽くん。沙織ちゃんとは前に駅で会ってるよね?」

「うん」

「沙織ちゃんと巽くんは高校の同級生」

「そうなんだ! ずっと付き合ってたの?」

「いや、2〜3年前くらいに再会したらしいよ? 詳しくは知らないけど。それから上の姉、美織ちゃんだけど、美織ちゃんは色んな男性と付き合ってたけど落ち着く所に落ち着いた感じかな?」

「史哉さんだっけ?」

「お父さんの所でずっと働いてる。弟子っていうのかな? 史哉くんがいるから伊織は好きにしなさいって言われた事があるよ……」


 少し悲しい顔。

 自分は星野家に不要だって言われたみたいに感じたのだろうか。


「お父さんは伊織くんの絵を応援してくれたんだね!」

「え?」

「さっきもね、『伊織が長男だからって星野家の心配はいらないから、伊織と直子さんの好きなように自由にしてください』って言ってくれてたよ。すごく優しい微笑みで」

「また見惚れたの?」

「だっ!?」

「そんなに似てる? 僕とお父さん」

「似てる。微笑んだ瞬間なんてそっくり。でも私が好きなのは……、伊織くんだよ?」


 恥ずかしっ!!

 病院の廊下で何言ってんだ私!!


「うん。僕が好きなのも直子さん。3年前からね」


「伊織、それに直子さん。ここにいましたか」


 ホシノテルが早足でこちらに来る。


「お父さん?」

「産まれたって。美織の子が産まれたって」


 聞いたままを口にしているような伊織くんのお父様。まだ実感出来ていないからなのか、喜びの表情ではなく、戸惑いのような表情をしている。


「もう産まれたの?」

「ああ。産まれたって。スタッフの方が産まれたって教えてくれた」

「美織ちゃんのところに行かないと、お父さん」


 その時、廊下の向こうで顔を左右に振る雪枝さんが見える。


「雪枝さん! こっち」


 伊織くんも気付いたのか、雪枝さんに向かって手を上げると、雪枝さんがこちらを向く。


「旦那様、上ですよ上! エレベーターに乗らないと! 2階に行きますよ」


 今度は雪枝さんが両手で手招きする。


「ああ、行く。行く」


 ギクシャクと返答する伊織くんのお父様が緊張しているのが分かって、かわいいなと思ってしまった。


「直子さん、僕たちも行こう」

「え、私も行っていいものなの?」

「さあ?」

「駄目でしょ? 家族じゃないんだし」

「未来の家族」

「なっ……」


 ――なんだよ、もう。嬉しいじゃない。じゃなくて、


「美織さんとは今日初めて会ったんだよ? 普通は遠慮するでしょ」


 二人でそう言い合う前から雪枝さんが「ほら、来なさい」と私たちを呼ぶ。


 なんだか雪枝さんの言葉には従わないといけないと思わせる何かがある。


 二人で「はい」と返事をして、後ろをついて行った。


 上のフロアに行くと、スタッフの方に「ご家族のみ」と言われ私は遠慮する。


「じゃあ僕も待ってるよ」

「伊織くんは行っておいでよ」

「でも……」

「ほらほら。じゃあ私はまた下で待ってるから」

「うん。早めに戻るから待ってて」


 みんなが美織さんの所に行くのを見送って私はゆっくり歩き出す。どこからか小さな泣き声が聞こえてきて、妹の真樹が出産した時を思い出した。


 と言っても産んだ直後ではなく翌日だったが。


 それでも小さくて愛しくて癒やされて……。


 ――私も早く赤ちゃん産みたい。


 お腹に手を当てる。夏には考えられなかったことだけど、季節が変わるように自分の人生もまた変わっていったのだ。


 自分を好きだと言ってくれる相手が現れて、私も彼を好きになって、ゆくゆくは結婚する。


 エレベーターボタンを押して、エレベーターが来るのを待つ。3階にいたエレベーターがゆっくり2階に来た。


「直子さん! 待って!」


 廊下の向こうから伊織くんの声。


 エレベーターの扉が開いたけど、乗らずに伊織くんの方を向く。


 伊織くんが早足でこちらに向かって来るので、私も早足で近づく。


「美織ちゃんが呼んでる」

「私を?」

「せっかく来てくれたんだから抱っこして帰ってって」

「いいの?」

「産んだ本人が言ってるんだからいいんじゃない?」


 みんなが待つ部屋に入るとそこは分娩室のようだった。


「美織さん、おめでとうございます」


 美織さんは額に汗をのせてぐったりしている。


「直子さん、抱っこしてあげてくれる?」

「はい!」


 タオルにくるまれた小さな赤ちゃんが美織さんの横で寝ている。そっと抱き上げると落ちないように優しく腕と手で支えた。


「抱っこの仕方が慣れてるわね?」


 伊織くんのお母様にそう聞かれ、甥っ子と姪っ子がいますと答えた。


「かわいいですね。ほわほわしてる」


 ありがとうございます、と美織さんの横にそっと寝かせると赤ちゃんの目蓋がぴくりと動く。


 こんなに小さくても一生懸命生きてる姿は本当に神秘的だ。


「それでは皆様一度お戻りください」


 美織さんの処置がまだ残っているとかで、全員部屋から出ることになる。


「じゃあ僕たちは帰るよ」

「分かったわ。またお家にいらっしゃっいね! 今日はバタバタさせちゃってごめんなさいね。直子さんもまた来てね!」

「はい、またお伺いいたします」


 雪枝さんにも挨拶をすると「伊織ぼっちゃまをよろしく」と言われた。


「私も一度店に戻るよ。史哉くんは美織と一緒にいなさいね。伊織、店まで送ってくれないか?」

「いいですよ」

「では行こう」


 産院をあとにして、ホシノテルの店まで車で行き、車をそこに置いて、私と伊織くんは電車で帰ることにした。



 街はイルミネーションできらめいている。


「今日はあちこち連れ回してすみません」

「ううん。結果的にとってもステキな瞬間に立ち会えて嬉しかったし」


 どこかの店先でジングルベルの曲が鳴っている。


「……そういえばもうすぐクリスマスか〜」


 クリスマスまであと2週間くらいだと気づく。


「クリスマスに予定ってありますか?」

「ん? クリスマスに予定はないけど、甥っ子と姪っ子にプレゼント買わなきゃ」

「その買い物一緒に行ってもいいです?」

「もちろん、いいよ! いつ行こうか? クリスマス前には渡してあげたいから、来週渡すとして……えっ!? 今週中には買っておかないといけないじゃん!?」


 クリスマスのことを忘れていたせいであまり時間がないことに気づく。


「仕事帰りに行きます?」

「そうしようか?」


 お互いのスケジュールを確認して買い物に行く日を決めた。


「クリスマスイブなんですけど……」

「24日?」

「デートしませんか?」

「うん、したいです」


 クリスマスなんてここ数年はだいたい一人で過ごしていたせいか、素直に嬉しいな、と感じて胸がくすぐったくなる。


 でもそうなると伊織くんにもプレゼントを用意しなきゃ。何がいいだろう?

 普段使いできるもの? 仕事で使えるもの?


 考えるだけでちょっとワクワクし始める。


「ねえ、伊織くんは欲しいものとかある?」

「欲しいもの? ありますけど……」

「なになに?」

「いや、……恥ずかしいので言いません」

「恥ずかしいものが欲しいの?」

「違います。恥ずかしくはないです」

「じゃあ教えて! 小さい声でいいよ」


 そう言って私は伊織くんの方に耳を近づける。伊織くんはそんな私を一度見てから視線を外して、ぼそっと小さく囁いた。


「……直子さんが欲しい」


 私の耳にはしっかり届いたその声に、目が大きく開く。


「わっ、わたし?」


 伊織くんはこくんと頷いて反対を向いた。


「毎日一緒にいたい。同じ家に帰りたい。おはよう、おやすみって隣で言いたい。独り占めしたい」


 伊織くんの中心にある感情が剥き出しになっているのを感じて、この手が触れるか触れないかの距離がもどかしくなる。


 距離をゼロにしたい。


「明日仕事ですよね?」


 明日は月曜日。もちろん仕事だ。


「うん、そうだよ」

「じゃあ今日は家に――」

「朝、早く起こしてくれる?」

「え?」

「伊織くん家に泊まるから、起こしてね? それから家に戻って支度するから……」

「はい! 起こします! 何時でも起こします」

「ふふ、ありがとう」


 私は伊織くんの手を取って指を絡めた。見上げれば嬉しそうな表情がある。


 だから私もすっごく嬉しい。







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