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6.結婚を迫られる女

 それはメールだった。


 送り主は妹の旦那――健太さんから。いったい何の用事だろう。健太さんから連絡が来るなんてよほどの事だと思いながらメールを開く。


 その内容は、結婚記念日に送る真樹へのプレゼントについて相談させて欲しいというもの。


「真樹はいいねぇ〜、愛されてんねぇ〜。プレゼントかぁ〜。あ、そういえば口紅がいいんじゃない!」


 美成堂で栞にタッチアップしてもらった時の口紅。似合ってたのにあれ結局買わなかったよな、と思いながら健太さんに返信する。


『美成堂の口紅を欲しがってましたよ』


 返信からまたすぐに健太さんからメールが届く。


『美成堂というのは?』


 有名なんだけどな美成堂。健太さんは知らないのか。そう思いながらメールのやり取りを続ける。


 口紅の商品番号は栞から聞いておいて健太さんに伝えればそれでいいだろうと考えていたのだが、健太さんの中では要領を得なかったのか『買い物にも付き合っていただけませんか?』と言われてしまう。


 仕方ないかと、肩を上げて『いいですよ』と返したら、『サプライズにしたいので真樹には内緒にしてください』と最後にそう言われた。


「可愛いとこあんじゃん、あの仏頂面」


 そうして私は買い物に付き合うこととなった。当日、下調べをして来たらしい健太さんが「口紅だけじゃちょっと物足りないみたいなので、他にも何かありませんかね?」そんな事を言い出すので、美成堂に行く前に何件かのアクセサリーショップに寄ってみた。


「これは?」

「真樹には派手じゃ?」

「そう?」


 あれ、これ、と指差す私の意見は即却下。そんな私たちの前に店員が来た。


「ご夫婦ですか? 奥様にはこちらの――」

「えっ、ヤダ! 夫婦じゃないんです。は妹の旦那なんですよ〜。ヤダー。妹のプレゼントを選んでるんですよ、ねっ? ねっ?」

「あ、はい。そうです。サプライズにしたくて……」

「失礼しました。そうだったんですね〜。お誕生日プレゼントですか?」

「いえ、結婚記念日です」

「何年になるんですか?」

「ええと、何年かな? 9年になるのか?」

「まあ、9年なんですね! おめでとうございます。じゃあ来年は是非エタニティリングをプレゼントしてもらいたいですね」

「エタ?」

「はい。10年の記念にって方が結構いらっしゃいますよ。なので今年はイヤリングとかネックレスあたりにされるのはいかがでしょうか?」

「あ、ああ……」


 店員さんの勢いにタジタジな健太さんだが、ショーケースの中を一生懸命見つめている姿には憧れる。

 そうか……、10年か……。いいなぁ。


 こんないい旦那を持つ真樹が羨ましい。私も将来、旦那サマにサプライズされたいな。

 私も早く結婚したいな。改めてそう思った。



 午前中は外回り。急いでお昼を摂って会社に戻ると次の予定時刻ギリギリだった。


「久保田課長ー」

「はーい行きまーす」


 事務の月見里やまなしに呼ばれ、準備の出来た会議室に急いで向かうとすでに社長がいて、出来たばかりの新商品で遊んでいる。それから程なくしてa&Eアンドイーデザインの小林こばやしさんと星野さんがやってきた。

 お互いに軽く挨拶をして席につく。


「それでは今日は先にこちらを見てもらいましょうか――」


 子どもみたいな笑顔を浮かべる社長が先程まで夢中になって遊んでいた木製玩具を前に出す。


 今回、a&Eデザインさんに来てもらったのは新商品のパッケージデザインのお願いをするためだった。


「いつもは優しい色合いですが、今回は鮮やかなはっきりした色を使用されてるんですね」


 小林さんが玩具を手に取ると先程の社長と同じように遊び始める。星野さんはそれを横から静かにみていた。

 しかし瞳の中には仕事に対する情熱が現れていて、ひとつも取りこぼしがないように目に焼き付けているようにも見えた。


 パッケージのイメージを社長が伝えると星野さんはそれをメモしていく。小一時間ほど話しを交えて「今日のところはこれで」と社長が切り上げる。


「それでは何かあればまたご連絡ください。今日はありがとうございました」

「こちらこそよろしくお願いします」


 頭を下げて挨拶を終えると、私は会議室の扉を開けてみなさんが出るのをお見送りする。


「あの、久保田さん」

「はい?」


 こっそりと声を掛けてきたのは星野さんだった。


「これ、以前お借りしたハンカチです。遅くなってすみません」

「いえいえ、そんな。こちらこそありがとうございます」

「それと、あの……」

「はい」


 しかし星野さんの口からその先がなかなか出て来ない。


「どうした、星野? 帰るぞ。すみません久保田さん。ではまた」


 小林さんに背中を押されて星野さんが頭だけこちらに向けて会釈する。

 私はそれに、ありがとうございました、と言って二人の姿が見えなくなるまでお見送りした。


 それにしても星野さん、私に何か伝えたいことがあったのだろうか? だが考えてみても検討もつかなかった。



 家に帰ると同窓会のハガキが届いていた。


「高校の同窓会か〜。前に行ったの30歳だったよね、あれからもう10年経ったってこと!?」


 高校の同窓会は10年毎の開催らしく、私は20歳の時と30歳の時に行っている。そして今回は40歳での参加。


「ほとんどみんな結婚してるよね? 早くに子ども産んだ子なんかは子どもが成人しててもおかしくない、か〜」


 同窓会に行くつもりではいるが、『まだ結婚してないの』なんて言われそうで憂鬱になる。

 どうしたもんか、とため息を吐きながら缶ビールを開けて喉に流し込む。缶ビールと一緒に買ったコンビニの弁当をレンジで温めているとスマホが鳴った。


 誰からの連絡かと思えば、ダサイさんからだった。


『こんにちは。週末ですね。私は明日と明後日お休みです。』


 いつもながら返信に困るメッセージを見て、一度スマホを置く。うーん、と返信に悩んでいるうちに弁当が温まり終えた。レンジから取り出してテーブルに置く。

 椅子にどさっと座って弁当の蓋を開けると湯気がのぼった。


「あ〜お腹すいた! いただきます」


 誰も見てないが律儀に手を合わせて家の箸を持つ。家で弁当を食べる時は割り箸はもらわない。

 まずは卵焼きかな〜、なんて思っているとまたスマホが鳴る。食べ終わってから確認しようかと一瞬考えたが、まだ口を付けてなかったので、先に確認することにして箸を置き、その手でスマホを取った。


「え? ダサイさん? 私まだ返信してないよ?」


 何だろう? どうしたのかな? そう考えながら通知を開く。


『Naoさん明日お休みですね。一緒に食事しましょう。友人にススメられたイタリアンを予約しました。』


 それを見て私が唖然としたのは言うまでもない。そして思い切り眉が寄る。



――って言うか、怖っ!!!


――え? 待って? なに? え? え?


「どういうことっ!?!?!? はあ? 予約? 予約した? イタリアン? え? いつ? 明日? え? わたし? 休み? 明日、休みだけど……。えっ!? なんで知ってんの? 怖っ!!」


 気持ちがまったく落ち着かないまま、もう一度それに目を落とす。


『Naoさん明日お休みですね。一緒に食事しましょう。友人にススメられたイタリアンを予約しました。』


 フリーズしかけた私はまずスマホの電源を落とした。切ったのではない、完全に電源を落としたのだ。


 スマホを裏返しにして置き、取り敢えずビールを持つ。うん、ビールを飲もう。


「あーーー」


 ビールの味がしない。


「疲れてんのかな? さっきの目の錯覚とかじゃないよね? ……え、予約したって言った? まじで?」


 ダサイさん、悪い人じゃないと思う。だけどメッセージの返信にはいつも気を遣ってしまう。実際に会ってみたらその印象も変わるだろうか?


 ただのメッセージ下手なだけ、な人かもしれないし……。


「一度会ってみる? それでダメならもうメッセージのやり取りする必要もないよね? そうだよね。ダラダラと実のないメッセージのやり取りを何回もするより、一度会ってみればその後の判断が出来るよね! よしっ」


 だけど取り敢えず、お弁当食べてからにしよう。食べながら返信を考えよう。


 イタリアンいいですね〜なんて言ったら乗り気みたいかな?

 私が明日休みなんてよく知ってましたね〜って言ったら険悪な感じ?

 わざわざ予約してくださったんですね〜が無難かな?


 考え事をしながら食べるお弁当を味わうなんて出来ず、気付けば完食していた。


「ごちそうさまでした。さてと、返信でもしますかね〜」


 はあ、とため息を吐いて、落としたスマホの電源を入れる。起動中の画面を見ながら、ゆっくり起動してくれていいんだよ〜とスマホに話しかけていた。



 翌日。予約されたイタリアンは電車に乗り継いで、乗り継いで、乗り継いで。駅から徒歩10分と言われたのに、20分歩いてやっと着いた。所要時間は軽く1時間を超えている。


 店の前に立つ40歳代の男を見つけ、私の足は止まった。汚れたスニーカー、色の褪せた黒い綿パン、青いチェック柄のネルシャツ、その中に首回りのよれたクリーム色のTシャツがのぞいている。その上にある顔はアプリに出て来る顔写真と一致――ダサイさんだ。


「もしかしてNaoさんですか?」


 きらりと光るメガネの奥の瞳が私を捉えた。


「はい、そうです。Naoです、はじめまして」


 咄嗟に営業スマイルが顔に貼り付く。


「ああ良かった。もうかれこれ15分待っていました」


 そうは言われても予約時間ぴったりなんだけどな。駅から徒歩10 分じゃなくて徒歩20分って教えてくれてたら私だってもう少し早めに来れたのに……なんて思ってしまうが口には出さず微笑みで隠す。


「じゃあ中に入りましょう」


 そう言ってダサイさんは先に店の扉を開く。自動ドアではないから、てっきりダサイさんが扉を押さえてくれるものと思ったのだが、ダサイさんはそんな事が念頭にもないのか扉から手を離しさっさと店内に入って行く。


 レディー扱いして欲しいわけではないけど……、相手への気遣いが見えないのはちょっと嫌だ。それが結婚を考える相手ともなれば厳しい目になってしまうのは仕方ないだろう。


 しかもワンテンポ遅れて入る私を見てダサイさんは眉を寄せた。


 上手く行かない予感をひしひしと感じる。


――もう帰りたいな。


 私はダサイさんと合わない。もうメッセージを続ける必要もないと判断し、どう断ろうかと考えながら席につく。


「ご予約ありがとうございます。本日のオススメは『カニのトマトクリームパスタ』となります。メニューはこちらでございます」


 店員さんがメニューを開いてくれると、美味しそうな食材の名前がたくさん載っていた。ご飯くらい美味しいもの食べて帰ろうと思いながらゆっくり選ぼうと思ったそのとき、


「じゃあオススメふたつ。食後にアイスティーもふたつ」

「かしこまりました」

「やはりオススメを食べないとダメですよね」


――えっ!? 待って、なんで勝手に注文したの?


「なんで?」

「『なんで?』それはお店のオススメだからです。そうだ。パスタが来る前にこれを」


 そう言いながらダサイさんはリュックからファイルを出す。そのファイルに入っていたものは、実際にはあまりお目にかかる機会はないけれど、ドラマなんかではお目にかかることのある――婚姻届だった。


「ダサイさん、ちょっと待ってください」

「いえ、私はです。太宰治のダザイです」

「ダザイさん? いや、それはどっちでもいいですけど」


 いや本当にダザイでもダサイでもどっちでもいい。そこに全く興味はない。


「良くありません。Naoさんも苗字が太宰になりますから。そこはきちんとしてください」

「は? いや、えっと、ですね。ちょっと婚姻は、その……」

「あっ!?」


 眼鏡の奥の小さな瞳が大きくなる。

 もしかして出会ったその日に婚姻届なんて間違ってると分かってくれたのだろうか?


「ダサイさん?」

「いえ、ダザイです。Naoさんが戸惑われることを考えておりませんでした。分かりました」


 分かってくれたのか、と安堵する。しかし、


「今日の所、婚姻届は持ち帰ります。それから次のデートでプロポーズののち、婚姻届を提出に向かいましょう。そうだ婚約指輪は給料3ヶ月分でよろしいですか?」

「は?」


 開いた口が塞がらない。


「いやいやいやいやいや、だからちょっと待ってください」

「半年分にしますか?」

「そうじゃなくて、ちょっと待ってって言ってるんです」

「はい。何分お待ちすれば?」

「何分とかじゃなくて」

「分かりました。何日お待ちすれば?」

「だから待たなくていいです」

「なるほど。そうですか。では食事が済み次第役所に向かいましょう」

「だから違うって!!」


 あまりの話しの通じなさ加減に私はテーブルを叩いていた。バシンというその音にダサイさんの小さな瞳が見開いている。


――ダメだ。感情的になっちゃダメ。冷静にならなきゃダサイさんに話しは通じない。


「あの、そもそも私の合意もなしに婚姻届を持って来られても困ります」


 私がそういうと、ダサイさんは心底分からないという表情をする。


「僕たちマッチングしましたよ? ほら合意ですよね?」

「え? それはでも――」


 婚姻の合意にはならないよね?


「そのマッチングはもっとお話してみたいなとか、今日みたいに実際に会ってみたいと思ったからのもので、結婚したいとは言ってませんよね私?」

「結婚するために登録されたのでは?」

「それはそうですけど」

「Naoさんはもう40歳を過ぎています。相手を選んでいる時間があるんですか? それに貴女は刻一刻と子どもの産めない年齢になっているんですよ? ご自分のことを理解されているのですか? Naoさんが20代なら引く手あまたでも、もう40歳ですからね。この僕がもらってあげると言ってるんです。はい、ですから一刻も早く結婚しましょう」


 頭の中でプチプチと切れてはいけない何かが切れていく音がする。もう我慢ならない。どうしてここまで酷いことを初対面の男性に言われないといけないのだろう!!


 言い返したいけど、言い返す時間さえ無駄な気がして私は鞄を持って立ち上がろうとした、その時。


 タイミング悪く、パスタが運ばれてくる。


「お待たせしました。……お姉さんご気分が優れませんか?」


 運んで来てくれたのはにこやかなシェフだった。コック帽の下に白髪がのぞいている。

 なんとなく帰り辛くなってしまい私はシェフに「お気遣いありがとうございます。大丈夫です」と言っていた。


 目の前にオススメのパスタが置かれる。カニとトマトの匂いが漂ってお腹が鳴りそうになる。


「美味しそう」

「やはりオススメにして間違いはありませんでしたね」


 ダサイさんの一言に持ち直しそうだった気分が落ちていく。早く食べて帰ろ。

 スプーンとフォークをガチャガチャ打ち鳴らすダサイさんの存在を極力視界から消して、私はもちもちの美味しいパスタに集中した。


 食後のアイスティーをストローで吸い込むように飲み干す。


「一気に飲むほどアイスティーがお好きならもう一杯頼んでもいいですよ?」

「いえ結構です」

「そうですか。では僕もすぐに飲み終わりましょう」


 そう言うとダサイさんはストローを外してコップに口を付け、ひと息に流し込んだ。そして口の端に垂れたアイスティーを手の甲で拭っている。その手はそのままズボンに擦り付けたようだ。


 不快感が上昇する。


「では行きましょう」


 伝票を持って立ち上がるダサイさんに続いて私も立ち上がる。椅子を元に戻しながら、他所を向いたままのダサイさんが座っていた椅子が気になりそちらも丁寧に直す。


 会計はダサイさんを立てて、お店の外に出てから半額渡せばいいかと思った。だがダサイさんが私を呼ぶ。


「あとはNaoさんの食べた分、支払ってください。僕の分は払い終わりました」


 そう言ってさっさと店の外に出ていく。

 レジスターの前で待っている店員さんが申し訳なさそうにしていて、逆にこちらが申し訳なくなる。


「すみません」

「いえ、すみません」


 やっぱり無理だな。そう思いながら自分の分を払い終えるとため息を吐いて外に出る。と、ダサイさんが待ち構えていた。


「ここから歩いて20分で役所に着きます」


 本当に20分? と怪しく思いながら、問題はそこじゃないと自分にツッコム。


「ダサイさん」

「はい、何でしょう?」

「私あなたとは結婚できません」

「どうしてですか?」

「まず価値観が大きく違うので、スレ違いが生じると思います」

「なるほど。ではお互いの価値観についてすり合わせていきましょう」

「できません。ごめんなさい。メッセージもこれきりで終わりにしましょう」

「意味が分からないのですが?」


 どう言えば分かってくれるのだろう?

 何を言えば納得してくれるのだろう?


「もしですよ」

「はい」

「もし私がここで倒れたらダサイさんはどうしますか?」

「Naoさんが倒れる? そうですね。救急車を呼びます」


 どうだ、と言わんばかりのダサイさん。それも間違ってはないだろう。でも私が欲しかった答えとは違う。


「私は側に寄ってきてもらいたいんです。『大丈夫?』と声を掛けてもらいたいんです。だからダサイさんとは結婚できません」

「何故です? 倒れたのならいち早く病院に運ぶべきでしょう。僕には医療知識はありませんからね」

「でもこうやってスレ違いが何度も起きますよ?」

「だからすり合わせればいいと言いました」

「価値観全てをすり合わせる気ですか? 私には途方もなさ過ぎて気が触れそうです。だからごめんなさい。さようなら」


 これ以上ダサイさんと話しても埒があかないと判断してその場を立ち去る。だが納得していないダサイさんが追いかけてくる。

 本当に怖いからやめて欲しい。


「ダサイさん、諦めてください」

「どうしてですか?」

「だから私が無理なんです。なのに強要しないでください。これ以上追いかけてきたら警察呼びますから」

「ちょっと落ち着いてください。もしかして生理中ですか? ダメですよイライラしたら」

「――っんとにデリカシーないっ!!! もう、無理!!」


 ダサイさんが私の大きな声に唖然としている内に駅に向かう。そこにちょうどタクシーが通り掛かるのが見えて私は逃げるようにタクシーに乗り込んだ。




 大きな疲労感を抱えて家に帰る。

 あまりの出来事に頭を抱えながらカーテンもしめずに床に崩れ落ちた。どうせ向かいのマンションは空室なのだから、誰も見る者はいない。そう考えながらも目だけはそのマンションに向かう。


「っ!!」


 意に反してそこは電気がついていて、驚きに身を起こす。


「誰か引越してきた?」


 それもそうか。駅近、スーパー近の立地条件にあるマンションがずっと空室なはずない。


「ネコ飼わないのかな?」


 ネコに限らずイヌでもいいけどと癒やしを求めていた。今日こそ本当にあのモフモフの癒しが欲しい……。


 向かいの窓にはまだカーテンがないのか部屋の中が丸見えだった。覗くのも悪いと自室のカーテンを引こうと立ち上がり窓辺に寄る。

 タッセルを下ろしてカーテンを引こうとしたその時、窓の向こうの住人と目が合ってしまった。


「えっ!?」


 そこにいたのは――


「えっ星野さん!?」


 向かいの窓辺にいたのはa&Eアンドイーデザインの星野さんだった。向こうも私に気付いて口の形が『あ』のまま固まっている。

 私はカーテンをしめるのを止め、窓を解錠してベランダに出ると星野さんも窓を開ける。


「久保田さん、家ここですか?」

「そうです! そうです! 星野さんはここに引越してきたんですか?」


 お互いの人差し指がお互いの部屋を指し示す。


「はい今日、引越しで。あ、ここ元々は親戚が借りてたんですけど田舎に帰るからって紹介してもらったんですよ。だけどそれが久保田さんの真向かいだったなんて、偶然ってすごいですね」


 いつも物静かで穏やかな星野さんのテンションが上がっているのがよく分かる。


「でも取引先の人間が家の真向かいって気にならないですか?」


 私がそう言うと、微笑んでいた星野さんは少しだけきょとんとした顔になる。


「確かに。でも久保田さんで良かったと思います」

「そう? ……ならいいですけど?」


 そう言うと星野さんの頬がまた上向く。


「そうだ、すみませんこんな所から申し訳ないんですけど、スーパーって近くにあるんですよね?」

「ありますよ!」

「もしかして分かり辛い場所にありますか?」

「いやいやそんなことないですよ! でも星野さん家のマンションのエントランス側からだと少し回り込まないといけないんですよ」


 分からないのだろう星野さんの眉が寄る。


「それって?」

「駅前の大通りを一つ中に入るとマンションのある通りですよね?」

「はい」

「更にもう一つ中に入るんですよ。そしたらウチのアパートの玄関が見えるんです」

「ということはこんなに近いけど久保田さん家とは家のある通りが違うということなんですね」

「そうなんですよ! こんなに近いのに」

「手を伸ばせば届きそう」

「届きませんけどね」


 私が苦笑すると星野さんが手を伸ばす。だけど星野さんの長い手でもってしてもこちらには届かない。


「やっぱり届かないか。でも久保田さんが手を伸ばせば、手と手は繋げそうじゃないですか? 伸ばしてみてください」

「え?」

「手、繋げそうですよ!」


 窓から少しだけ身を乗り出し、少しでも届くようにと手を伸ばす星野さんのあまりの必死さに押されて私も手を伸ばす。


「あっ」

「ほら!」


 触れる指先と指先。お互いの手を握り合うことは出来ないが、指先を重ねることは出来た。


「届きましたね。ありがとうございます」

「ほんと、届きましたね。ふふふ、ふふふ」


 嫌な気持ちが胸に溜まっていたはずなのに、こんな子どもみたいなことをしたお蔭で霧散していくのを感じ、笑いが漏れる。そっと手を戻して浮かんだ涙を指先で拭う。


「久保田さん?」

「ごめんなさい。楽しくて。……実は今日ちょっとだけ嫌な事があって……。だけど吹き飛んじゃいました!」

「それは良かったです」

「ほんと良かった! そうだ、お礼にスーパーまで案内しますよ! 今から行きませんか?」

「お礼って言われるほどのことはしてませんが、久保田さんがよろしいのなら……」

「じゃあ行きましょう! 星野さん家のエントランスまで迎えに行きますね」

「いえ、そこまでしていただかなくても大丈夫ですよ。それにもう暗いですから私が久保田さんをお迎えに参ります」


 暗い、と言われれば暗い。だけどまだ17時過ぎ。仕事帰りの時間よりも早いけどな〜なんて考えていると星野さん家の窓が閉まった。

 それを見て私もベランダから部屋に戻ると窓を閉めて今度こそカーテンを引く。それからささっと化粧を直して家の前に出て、星野さんが来るのを待った。



 外灯がぽつりぽつりと点る小さな道を二人並んで歩く。


「ここを真っ直ぐに行って、そこの角を曲がるんです。そしたらスーパーですよ」

「なるほど。この道が分からなかったからスーパーに行けなかったんですね」


 星野さんはそう言いながら前と後ろを確認するように見ている。


「そこのスーパーは22時までです。17時頃になると割引シールが貼られるので丁度今が狙い目ですよ!」

「だから誘ってくださったんですか?」

「え!? 違いますよ。いや、違わないのかな?」

「どちらにしてもお誘いくださってとても嬉しいです。ありがとうございます。あ、あそこですね」


 角を曲がりスーパーの看板が見え、それを星野さんが指差す。

 大きなスーパーではないけどこの周辺住民にとっては大切なお店の一つだ。


 店に入るとそれぞれにカゴを手に取り、私は惣菜コーナーに向かおうとしたのだが野菜コーナーで足の止まる星野さんを見て私の足も止まった。


「もしかして自炊?」


 玉ねぎと人参が早々にカゴに入れられていくのを見ながら私は声を掛ける。


「はい」

「えー、スゴイですね!! 何作るんですか?」

「スゴイなんてことはないですよ。カレーとかシチューとかでしょうか?」

「寒くなってきたしシチューいいですね! あ〜私も食べたくなってきました!」


 思い浮かべるとお腹が空いてくる。私も星野さんを見習って自炊でもしようかな、なんて考えていると、


「作りますから、……その、一緒に食べませんか?」

「え?」


 その提案に驚きながらお互いの目が合う。

 ……1秒、2秒、3びょ――


 星野さんの目が大きく見開いた。


「すみません!!」


 そして足を一歩後ろに引いて謝る。


「調子に乗りました。すみません! 今の発言は忘れてください」

「ほ、星野さん、大丈夫ですから」


 横を通る女性がジロジロとこちらを見ている。


「すみません」

「すみません」


 二人で謝って、また目が合って、私はぷっと吹き出していた。


「久保田さん?」

「ふふっ、ごめんなさい。大丈夫、ふふっ」


 笑いをおさめながら目頭を指で押さえる。


「よし。買い物の続きしましょうか」

「はい」

「そうだ、私も今日はシチューにしよ! 玉ねぎと人参と……」


 それからじゃがいも、と手を伸ばす私の前にじゃがいもが一袋差し出される。


「はい、じゃがいもです」


 さり気ない気遣いが身に沁みて嬉しくて知らず知らずのうちに頬が上がる。


「ありがとうございます」


 そして同じお肉と、同じシチューのルーをカゴに入れ、それから星野さんは醤油や塩、砂糖といった調味料をカゴに入れる。

 缶ビールをカゴに入れる私の姿を見て、星野さんも同じ缶ビールをカゴに入れたのだった。





 玄関前まで送ってくれた星野さんと別れ、家に帰る。


「さて、シチュー作らないとね」


 でも一度作ると一人分で済まないから2〜3日はシチュー生活になるだろう。


「一緒に食べませんかって誘ってくれたの嬉しかったのにな。って自分が作るの面倒くさいだけか。あーあ、こんなんだから婚期逃してんのかな? だから変な男に初対面で婚姻届持って来られるのか? はあ〜」


 思い出したくない昼間の出来事を思い出してしまった。さっきまでの楽しかった気分が台無しだ。


「星野さんて、ちょっと癒し系?」


 ネコやイヌの癒しに少し似ているのだろうか?

 モフモフ不足が星野さんで解消されているような感覚を覚えた。


「そういえば星野さんのパッケージデザインも好きだしな私」


 穏やかな星野さんが表現する優しい色合いのイラストを思い出して、うんうんと一人で納得するように頷く。


「あ〜明日はオモチャ屋さんにでも行ってみようかな〜」


 でもペットショップでもいいかな〜なんて考えながら食事の支度を始める。


「なんでこうさ玉ねぎの皮って剥きにくいの?」


 気持ち良くツルッと剥けたらいいのにと考えながら茶色いパリパリの皮を爪で少しずつ剥ぐ。剥けない時ってどうしてこうも剥けないのだろう?


 時間を掛けてようやくひと玉白くなる。


 こんな時やっぱりパートナーが隣にいて欲しい。パートナーに皮を剥いてもらって自分は切り刻む係。分担すれば今よりずっと楽になるだろうと想像するだけ想像して、現実にパートナーがいないことに落胆するのだった。



 シチューを食べて、片付けて……、これでようやくひと息付けるな、と思いながらカバンに入れっぱなしのスマホを出す。


「そうだ、マッチングアプリの登録削除しなきゃな」


 そう思いながら開くとアプリの通知が44件あって、思わず「ギャア!!」と低い声で叫んでいた。きっとゴキブリが出現してもこんな声で叫びはしない。


「44とか不吉な数字やめて。しかもゾロ目、ヤダ」


 腕に鳥肌が立つ。と、その時、スマホが鳴ったのに驚いて今度はスマホを床に落とした。


「ヤダっ、もう。……電話? 誰?」


 眉を顰めて落ちたままのスマホを上から見下ろすと、スマホに表示されていたのは『a&Eアンドイーデザイン 星野さん』だった。電話を取る前に一度カーテンを見る。いや星野さんが見える訳はない。どうしたんだろう、と思いながら鳴り続ける電話に私はようやく出た。


「もしもし?」

『どうされました?』

「え? 星野さんこそどうされたんです? 何か聞きたいことでもありましたか?」

『いえ、久保田さんの叫び声が聞こえたもので……。あの何かありましたか? 警察呼びますか?』

「え、聞こえてました?」

『はい。窓を開けていたもので』

「あ〜〜〜」


 なるほど……。ガラス1枚隔てただけのこの距離だ。叫び声なら聞こえてしまうだろう。

 そう思いながらカーテンを開けると星野さんが心配そうな顔でこちらを見ていて視線ががっつり合う。窓も開けてベランダに出ると通知終了ボタンを押して、「すみません」と謝った。


「丸聞こえですよね、恥ずかしい」

「大丈夫なんですか?」

「はい。大丈夫です。……いや、大丈夫ではないかな? でも警察呼ぶほどのことではないですから。一人で解決出来ることなので大丈夫です。お騒がせしてしまい申し訳ないです」

「そうでしたか。でも……」


 星野さんの言葉が続かない。だけど続きが気になって「でも?」と促していた。


「でも、……こんなに近くに住んでますので、これもご縁と思って何かあれば頼ってください」

「いや、そんな悪いですよ」

「悪くないです。大丈夫です」


 星野さんは歯を覗かせて笑った。やっぱり癒し系だななんて思いながら私も微笑んで「ありがとうございます」と返した。


「星野さんご飯食べました?」

「はい。シチューを作って食べ終わりまして、なんとなく空を見上げると星が見えるなあと、ここから見ていた所です」


 顎を上に向ける星野さんに倣って私も真上を見上げる。


「ぼちぼち見えますね」

「はい。都会は明るいですからね、これだけ見えれば良い方でしょう」

「なんだか無性に綺麗な星空が見たくなりました」


 目を凝らしてやっと見えるような星ではなく、空からこぼれ落ちてきそうな満天の星空を見てみたくなった。


「山の上とか? 海の上とか綺麗ですよね」

「海?」

「夜の船に乗ったことありませんか?」

「ないですねぇ」

「僕は船から見た星空が今まで見た中では一番綺麗でした」

「あっ」

「どうしました?」

「全然関係ないんですけど……星野さんいつも自分のこと『私』って言うのに今『僕』って言ったのが新鮮で……。でも星野さんが『僕』って言うのしっくりきますね!」

「あぁ申し訳ないです。気を抜くとついつい『僕』になってしまうんです。気をつけなければ!」


 そう言って星野さんはしゃきっと背筋を伸ばした。


「気を抜いていいじゃないですか、だってここ我が家なんですよ? もういい加減オフモードにしましょうよ! そうだ、いっそのこと敬語もなしにしません?」

「いや、それは」

「素面じゃ恥ずかしいか……? あっ、さっき同じビール買いましたよね? 乾杯しましょ!!」

「え、久保田さん?」

「ほら早く早く、ビールビール」


 ベランダから部屋に戻り冷蔵庫からビールをひと缶出すと、スキップでもしそうなほど軽い足取りでベランダに戻る。ビールが飲めるという理由で足取りが軽いわけではないと思うのだが、すでにほろ酔いの良い気分に仕上がっているのは何故だろう?




「かんぱーい!」

「乾杯」


 缶を傾け喉に流し込む。う〜美味い!

 おやじみたいな私とは反対に、星野さんはちょびっと口に付けてまた上を見る。なのにそれがまた一枚の絵みたいでちょっと惹き込まれてしまう。


 さながら20代後半のイケメン俳優が出演するビールのCMだ。


 それが手の届く距離で上映されてるなんて、なんて贅沢な時間だろう。


「久保田さん?」


 しかも自分の名前まで呼んでくれる演出付き……――ではない!!


「はい? なに?」

「お疲れですか?」

「どうして?」

「今トリップしてましたよね?」

「ああ、脳内が?」

「もう酔ってます?」

「まだまだ酔ってないよ〜」

「いや酔ってますって」

「なんで〜酔ってないって〜」

「口調が砕けてますけど?」

「だって自宅じゃん? ビール呑んでるし。もう無礼講だよね? 星野さんも敬語やめていいよ〜。あっ、星野さん呼びもやめよっか? 星野くん? 星野っち? ホッシー? 何か違うな。そうだ下の名前は?」


 冷静になれば、これは完全なる酔っ払いのウザ絡みだ。こんなウザいやつ放っておいてもいいのに優しい星野さんは最初から最後まで付き合ってくれる。


「いおり」

「いおり?」

「はい、下の名前は伊織です」

「いおりん!」

「それは何か女の子みたいじゃないですか?」

「えっ、そうかな〜? じゃあいっくん? 違うな……」


 呼びやすくて、星野さんらしいあだ名を酔った頭で一生懸命考える。そしてあーでもないこーでもないと考える度にビールをあおると、いつの間にか空になっていた。


「ちょっとお替わり持ってくるね。何か良い呼び方ないかな〜。でも『いおりん』良くない? 可愛いよね!」


 酔った自分は「いおりん」という呼び方が気に入ったらしい。迷惑甚だしいと微塵も思う事もなく私は新たな缶ビール片手に、


「いおりん、お待たせ〜」


 と言っていた。



 その後の記憶はぼちぼち残っている。


 翌朝それを思い出して頭を抱えた。カーテンはぴっちり閉まっている。朝日が隙間から覗いているけどまだ開けたくない。


「うっわぁ〜〜。……やっちゃった」


 頭を抱えたまま項垂れる。


 だってあの後の私ときたら、ダサイさんの愚痴を延々と喋っていたのだから!!


 星野さんは優しいから合間に相槌をうちながらずっと聞いてくれていた。


「そう! なまじちゃんと聞いてくれるから、私の口は止まらないわけでしょ? あーーー、絶対引かれてる。顔合わせ辛い……」


 40歳にもなって年下の男性に絡むなんてどうかしてる。でも、どうしても誰かに聞いて欲しかったんだもん。私のあの恐怖体験を!

 いや、こんな私に絡まれて愚痴をこぼされる星野さんの方が恐怖体験だったかもしれない……。


「待って。……私、星野さんの名前なんて呼んでた?」


 昨晩ベランダでビールを煽りながら星野さんに絡む私の声がよみがえる。


『いおりん聞いてる? ねえ、どう思ういおりん? ないよね? 絶対ないよね?』


 なんということだ。


「失礼過ぎる。いおりんって呼び方も星野さん了承してないし。それに『女の子みたい』って言ってなかった? 本人絶対嫌なやつじゃん。うわっ、気にしてたらどうしよ? 謝らないと! そうだまずは菓子折持って謝罪に伺わねば!!」


 今日が日曜で良かった。

 仕事の日じゃなくて良かった。仕事なんて絶対手に付かなかっただろう。


「ケーキがいいかな? 洋菓子? 和菓子? 何が好きだろ? 甘い物嫌いとかだったらどうしよう? 引越したばっかりだから、蕎麦かな? いや蕎麦は違うか……」


 ああ〜、と項垂れながら、そっとカーテンの端を持ってその向こうを伺ってみる。


 そこの窓に星野さんは、……いない。


 それに安堵のため息を吐いて、レースカーテンは閉めたまま、手前のカーテンだけを15cmほど開けたのだった。



 身支度を整えて家を出る。時刻は11時前。とりあえず和菓子屋さんとケーキ屋さんを覗いてから、カフェでブランチでも摂りながら何にするかゆっくり考えようと思っていた。


 電車に乗るため駅に向かう。

 すると後ろから私を呼ぶ声が……。


「久保田さん」

「へ?」


 振り返ると、そこにいたのは星野さんで、私はその姿に驚きながらもすぐさま腰を折り頭を深く下げる。


「申し訳ございませんでした。昨晩はご迷惑をお掛けして――」

「久保田さん頭上げてください。こんな所でやめてください」


 って、そりゃそうだ。駅前で周りの視線が痛い。


「ごめんなさい、ほんと」

「いえ、そんな……。大丈夫ですから。それに何の謝罪ですか?」

「えっと……昨晩の失態を……」

「失態? そんなのありましたっけ?」

「え? だってずっと愚痴言ってたし、それにその……星野さんのこと、名前で呼んじゃってたし……。ああ、本当にごめんなさい。酔っ払いの戯れ言だと思って忘れてください」


 首を曲げて頭だけ下げる。そんな私の後頭部に落ちてきたのは星野さんの笑い声。


「昨日は楽しかったですよ。だから久保田さんが謝ることなんてありません。よければまた一緒に晩酌したいと思ってます」

「ほんとに? どんだけ優しいんですか星野さん! もう合わせる顔がないと思ってました」

「私は合わせたいですけど」


 その微笑みの顔に心臓が掴まれる。――痛い。こんなことで心筋梗塞になりはしないだろうけど、若い男子の微笑みほど心臓に悪いものはない。


「じゃあ行きましょうか」

「えっ?」


――行きましょうかって、どこに?


「昨日約束しましたよ? 11時に駅前と。……覚えてませんか?」


 私は昨晩の記憶を探る。

 調子に乗っていおりんって呼んで、ダサイさんの愚痴を言って、それから……、


「あっ、『モフモフに癒やされたい』って言ったかも……」



『モフモフに癒やされたいの〜』

『モフモフと言うのは?』

『ペットショップ』

『ああ〜なるほどですね』


 昨晩の会話の一部がよみがえる。


『隣駅のショッピングモールにあるペットショップがお気に入りなの。明日行こうかな〜』

『それ一緒に行ってもいいですか?』

『いおりんもモフモフに癒やされたい人?』

『いや、まあ、そうですね』

『いいよいいよ! 一緒に癒やされに行こうか〜。お姉さんが連れてってあげるよ〜』

『ありがとうございます』

『じゃあ明日の……10時は早いかな? それじゃあ11時に駅前集合ね』

『はい』



――言ってる。11時に駅前集合って。


 酔ってる私の中では受け流されてもいいくらいの冗談に近い話として処理されていたから、朝起きた時点で思い出さなかったのだろう。


 普段ビール2缶や3缶くらいであんなに酔うことなんてないのに……。昨日はきっとダサイさんへの愚痴を聞いてもらえることに興奮し過ぎたのかもしれない。


「電車そろそろ来ますよ?」


 星野さんの声に我に返る。


「え? あ、はい。行きましょうか」


 改札をくぐると星野さんの顔が一瞬こちらを向く。


「お疲れですか?」

「いえいえ、大丈夫ですよ!」

「それならいいですが、体調が悪いようだったら早めに言ってください」


 心配そうに顔を曇らせる星野さんに、私はただ「はい」と頷くしか出来なかった。


 そして二人、電車に乗り込み隣駅で降りた。



 あー、可愛い可愛い可愛い。

 あぁ〜ん、カワイイ! カワイイ!!



 隣駅の目の前にあるショッピングモール3階。そのフロアの片隅にあるペットショップに私と星野さんは来ていた。

 ショップの壁にずらりと並ぶ上下2段のケースに一匹ずつ小さなモフモフが入っている。


 まずはネコちゃんから。あらアナタおねんねしてるのね。寝顔が天使よ。

 あら、こっちの子はオモチャで遊んでいるのね。


「あ……」


 足をゆっくり左へ左へと移すうち一匹の白い仔猫と目が合う。


「遊びたいの? 可愛いね〜」


 私の動きに合せて着いてくる仔猫に私の足はそこで止まった。


「人懐っこいのね。はあ〜カワイイ」

「出してもらいます?」

「うーん、どうしよう。……でも抱っこしちゃったら絶対連れて帰りたくなっちゃうからここは我慢します」

「ふっ、そうですか」


 星野さんに笑われてしまう。でも笑われたことも気にならないくらい私は目の前の仔猫に夢中だ。


「スコティッシュフォールドの女の子ですね」


 と星野さんが横に貼ってあるペット情報を眺めながら言う。


「あれ、スコティッシュフォールドって星野さんの前の住人さんが飼ってなかったです?」

「ああ。あれスコティッシュフォールドって言うんですね。あんまり種類とかに詳しくなくて……。でも『マリー』もこの仔猫と同じ白色でしたね」

「あの子、マリーって名前なんです?」

「そうなんですよ。……命名は何だったかな。そうだ叔母がディズミーの白い猫が好きとか何とかで、その名前にしたと聞いてます」

「もしかして『オシャレネコ』?」

「あー? そうなんですかね? ディズミーもそんなに詳しくなくて……」


 その時、ケースの中から小さく「ミャーミャー」と鳴く声が聞こえる。


「私とも遊んでって言ってるんですかね?」

「そうかもしれないですね。久保田さんに遊んでもらいたいんじゃないですか?」


 きっといつもなら愛嬌を振りまく仔猫がいても、一人でゆっくり眺めて目の前を過ぎていただろう。でも今日は星野さんもまだ見たいのかな、と相手のペースも考えてまだ足を止めていた。

 そんな私たちの後ろに店員さんが立つ。


「よろしければ抱っこされてみますか?」

「あ、いえ――」

「僕が! あの僕は抱っこしてみたいです」


 星野さんの声が尻すぼみになり、最後には伺うように私を見て「いいですかね?」と聞いてくる。


「いいですよ、どうぞ」


 微笑みながら私は別の事に安堵する。

 もしかして星野さんを無理矢理連れて来たんじゃないだろうかと思っていたのだ。だからこそ楽しんでくれてる様子が見られて私はほっとしたのだ。



 椅子に座った星野さんの膝上に白いふわふわの仔猫が乗っている。


「あ〜、すごい。これは癒やされますね。よしよし、可愛いな」


 それを私は膝を少し曲げて眺めているだけ。でもゲージから出ると更に可愛いく見えてしまうのはどうしてだろう。何効果?

 若い男子が抱いてるから相乗効果?

 うん、そうだ。相乗効果だ。だって星野さんもいつもより可愛いく見えるから。


「久保田さんも撫でてあげてください。それとも抱っこ代わりましょうか?」

「えっと……、撫で撫でしたい、です」


 星野さんの大きな手の平の中に包まれて大人しくしている仔猫の頭から背にかけて指の腹を撫で付ける。柔らかい白い毛の中に指が沈んでいき、仔猫の熱がじんわりと伝わってくる。


――うううっ、ふわっふわっ!!!


「はあ、カワイっ」


 手が止まらない。ずっと撫で撫でしていたくなる。


「やっぱり抱っこされますか?」


 撫で続ける私を気遣って星野さんはしきりに抱っこを代わると言ってくれているけど――


「それはダメ、無理。抱っこしたら絶対連れて帰りたくなるから。もう今でも充分危険! これ以上はダメ! 本当にダメ。……でもありがとうございます。撫で撫で出来てすっごく癒やされました」

「そうですか。じゃあ僕もそろそろお返しします」

「もしかして愛着わきました?」

「ええ。赤ちゃんがこんなに可愛いものとは……」

「ふふふ」

「久保田さん?」

「星野さんの頬が見た事ないくらい弛んでるから……ごめんなさい笑ってしまって」

「いえ」


 そう言って星野さんは左手で仔猫を支え、右手で頬をつまんでいた。



 仔猫を返し、それからペットショップを一周して、最後にまたあの白いスコティッシュフォールドの仔猫の前に戻ると名残惜しくバイバイと手を振って店を出た。


 今度来た時にはもういないだろう。早ければこの後すぐに誰かに買われていくのだ。


 急に現実に戻されたような感覚に腕時計を見るとひるを過ぎている。そういえばカフェで何か食べようと思っていたのだと思い出してお腹が空いてくる。


「星野さん、この後の予定は何かあります?」

「いえ。特に何もないです。久保田さんお腹空いてませんか? 良ければお昼どこかで食べませんか?」

「いいですね!」

ショッピングモールこのなかの店でいいです? それとも出ますか?」

「どっちでもいいですけど、何か気になるお店がありました?」

「帰りでいいんですけど、その……引越したばかりなので足りないものを買おうかと。ここなら大体のものは揃いますし」

「いいですよ! じゃあここでご飯食べて買い物しましょう」

「ありがとうございます。それじゃあ何食べましょうか?」


 それに二人で首を傾げる。何の飲食店があったっけ?


「ちょっと待ってください。フロアガイドを探しに行くよりスマホで調べた方が早そうですね」


 周りを見渡した星野さんはフロアガイドが設置されている所が近辺にないとわかるとすぐに自身のスマホを出して検索を始める。


 こんな時、ダサイさんだったらどうするだろう? 『調べてください』とか言うのかな?

『どうして事前に調べてないんですか?』とか言われたら大きなため息を吐き出してしまいそうだ。

 それに比べて星野さんとはストレスなく会話出来る。年下だからか取引先の相手だからか気遣ってくれる訳だけど、全然嫌味に感じない所がまた偉い。


 行動がスマートなのだ星野さんは。


「レストラン街だとこんな感じです」


 そう言いながらスマホを両手に乗せて見せてくれるから覗き込む。


「昼時だからどこも混んでるかな?」

「そうですね。……嫌じゃなければフードコートにしますか?」

「うん。私は別に構わないですけど?」

「それじゃあフードコートに行きましょうか。お互いに好きな物を注文出来ますしね」

「そうだね。じゃあ行きましょう」


 それに「はい」と答える星野さんの微笑みがいつもより柔らかいのは、さっきまで仔猫を抱いていた効果なのかもしれない。



 フードコートに来たはいいがやはり混んでいて空いている席が見当たらない。


「先に注文しましょうか? 並んでいる間にどこか空くのを待ちましょう」

「そうですね。久保田さんは何にするか決まりました?」


 うーん、と悩みながらも視線はうどん屋に向かう。他の店に比べ並んでいる人は多いけど、その分注文後はどこより早い。


「僕はうどんにしようと思います」


 おもむろにそう言う星野さんを見上げ、「私もっ!」と言う。


「じゃあ並びましょうか」


 うどん屋の最後尾に並びつつ掲げられたメニューに視線をやる。『かけうどん』にしようかなと考えながら、あと『かき揚げ』も付けたいな〜なんて思っていると星野さんの声が降りてくる。


「決まりましたか?」

「うん。かけうどんとかき揚げにしようかなって思ってるんだけど……」

「それ僕が注文するので、久保田さんはあそこの席に座っていていただけませんか? ほら、あそこが空いたみたいなんです」


 星野さんが指差す先を見ると、確かに空いた席があった。


「でも、……じゃあ私が注文しますよ?」


 そうだ。昨日の絡み酒のお詫びにはならないけど、ここの会計くらい私がしようとそう思ったのだが、


「二人分のうどん持てます?」

「え!? も、持てます……よ?」


 とは言うものの持てるかな?

 一人分なら任せて! と言えるが二人分となると怪しい。その怪しさは充分に星野さんに伝わったようで、


「ここは僕に任せて、久保田さんは席をお願いします。早くしないと席埋まってしまいますよ?」

「わ、分かった。それじゃあ注文お願いします。お金は――」

「お金の事はいいですから、ほら早く! 席がなくなってしまいますよ!」

「そうだね」


 お願いね、と言い残して空いた席へ向かう。幸いまだ誰も座ってはいない。星野さんのお蔭で席に座る事が出来た私はうどん屋の方を見る。


 まだ列に並んでいる星野さんと目が合う。『席取れたよー!』と口パクをしながら手を小さく振ると、星野さんが『了解』とでも言うように握った拳から親指だけ上に向ける。


 こんなやり取りにどこか懐かしさを感じて、それが何だったか思い出す。


 それは、かつて恋人がいた頃のやり取りに似ていたのだ――。



 けれどこれはデートじゃない。

 それに私と星野さんは恋人同士でもない。まさか10歳下の男の子と付き合えるなんて思ってもいない。


 でも、一緒にいるのは苦痛じゃない。


 今の関係を取引先相手と言うのは違うし、かと言って友人関係と言うのも違う気がする。


 何と言い表すのが適切なのか……。ただ家が近いだけの知り合いと片付けるには、二人の距離感をやや近く感じてしまう。


「お待たせしました」


 星野さんがお盆を二つ持って来るので、私の分を受け取る。


「ありがとう。重かったでしょ?」

「いえ」

「二人分でいくらだった?」

「え?」


 私が二人分払うという事に星野さんは驚いているよう。


「昨日お詫び、……にはならないかもしれないけど」

「お詫び? 何のですか?」

「愚痴言ったりとか、その……星野さんのこと勝手に『いおりん』って言ったりとか……色々」

「覚えてたんですか?」

「覚えてました。いや全部じゃないかもしれないけど、ぼんやり覚えてます」

「今日はもう『いおりん』って呼ばれないからてっきり忘れたのかと」

「ほんとごめんなさい。嫌でしたよね?」

「うーん? でも呼ばれないのは呼ばれないで寂しいなって思いましたよ」

「星野さん、本当に優しいんだから……」

「さ、いただきましょう。お腹空きました。いただきます」


 背筋を正して手を合わせる星野さんに倣って私も手を合わせる。


「いただきます」


 二人でうどんをズルズル啜りながら星野さんの所作に不快感を感じないことに私は大きく安堵した。




 食器も二人分を星野さんが片付けてくれた。すごく気を遣わせているだろうな、なんて思いながら、日曜の昼間から40歳のおばさんおねえさんと出掛けさせていることに罪悪感を覚える。


「星野さん彼女は? 日曜もお仕事?」


 おばさんと出掛けてるなんて彼女が知ったら怒らないだろうかと、今更心配になってくる。


「彼女はいません。久保田さんこそ、って、あ……」


 そこまで言って口を押さえる星野さん。私に彼氏がいたらマッチングアプリに登録したり、ダサイさんに会ったりしないだろうと思い至ったのかもしれない。


「結婚相手を探してるんですよね? ってこれ聞いたらいけないですよね、すみません」

「いえ。と言うか本当にそうだから……。結婚したいって思っても、こればかりは相手がいないことには出来ないんですよ……。そしてそんな相手になかなか出会えない」

「理想とか、やっぱりあるんですか?」


 若干聞きにくそうに聞いて来る。


「理想? ん〜、今はあまり多くを望まないって思ってるはずなんだけど、ダサイさんアレはちょっとね……。だから第一印象良くて価値観が一緒で子どもが好きで老後もずっと仲良く暮らしていけるような人がいいかな、って望み過ぎですよね」

「そんな事ないですよ。きっと譲れない大切な事なんです。それを我慢して生活したらいつか破綻してしまいますしね」

「喧嘩ばっかりの毎日になったら嫌だね。そうしたら結婚する意味ないか……」

「例えば……」


 そこで星野さんは一度言葉を止めて私を見る。


「『例えば』?」


 私がそれを復唱すると星野さんの目が泳いだ。


「なになに? どうしたの?」

「あの、その……」

「?」

「例えば、ではなくて。その……、僕は久保田さんの理想に近かったりしますか?」

「えっっっ!?」


 星野さんの言葉が意外過ぎて一瞬動きが全て止まった。歩みを止めた私を星野さんも足を止めて振り返る。


 私より10歳も若くて――なんなら大きな娘みたいに思ってる月見里やまなしと同世代の星野さんをそんな風に見た事がなくて私の頭は混乱する。


 だけどこれは星野さんなりの気遣いなのかもしれない。そうでなければ遥かに歳上の私にこんな質問しないだろう。そうだ、これは星野さんなりの気遣いなんだ。

 ほんとに優しいなあ。

 だから私はその気遣いに感謝して、話題がこれ以上重くならないよう軽く応える。


「若いってだけでもう充分ですよ! 落ち着いててしっかりしてるし気遣いも出来て偉いです。星野さんなら温かい家庭を築けそうですよね! 星野さんは結婚願望とかあるんですか?」

「僕なら、じゃなくて『僕なら』ですか?」


 寂しげに表情の翳る星野さん。だけどぼそりと呟いた言葉はあまり聞き取れなかった。



 表情を翳らせた星野さんは、その顔の上に微笑みを貼り付ける。


「さあ行きましょうか」


 先程よりワントーン落ちた声で私の前を歩き出す。

 私の発言の中に星野さんが気を落とすような言葉があったのだろうか?

 何気なく言った言葉なだけに、言葉を選ばなかった事を後悔した。


「ここ、入ってもいいですか?」


 そこは調理器具を中心とした雑貨屋だった。


「どうぞ、どうぞ」


 星野さんはお店の右側へ行く。あまり着いて回っても嫌かなと思って私は左側に足を向ける。

 何か要るものあったかな、なんて考えながらぶらぶら歩くが、星野さんが気になって仕方なくそわそわしてしまう。そして結局星野さんを探して後ろ姿を見つけた。


 ゆっくり近付くと、その手にしゃもじやお玉、フライ返しを持っているのが見えた。

 私のうるさい気配でも感じ取ったのか星野さんが振り返って笑う。今度は貼り付けた微笑みじゃない。


「久保田さん、これどっちが良いと思います?」


 いつもの星野さんの穏やかな空気に、ほっと安心しながら隣に並ぶ。

 どうやらお玉で迷っているらしい。


「こっちは混ぜるのと掬えるのが出来るんですよ。でも浅くて掬い難いかなとも思うんですよ。どう思います?」


 それはお玉というより大きなスプーンに近かった。シリコン製で『人気商品』とポップが出ている。

 しかもこの商品、


「私も同じの持ってる」

「そうなんですか! 使い勝手良いですか?」

「お鍋の底に残るものは綺麗に掬えるんだけどね、カレーとかに使ったら臭いが付いちゃうんだよね、これ」

「なるほど」

「でも炒めて煮込んで混ぜて掬って、ってこれ一本で出来るから、私は気に入ってますよ」

「じゃあ久保田さんオススメって事でこれにします」


 そう微笑んで会計に向かう星野さん。私の意見なんかで良かったのだろうかと心配になるが、まあ『人気商品』だし大丈夫かと思いながら店の外に出て待つ事にした。




 その後も何店舗か一緒に回る。

 晩御飯はお互いシチューが残っているしと、最低限必要な食糧だけ買ってショッピングモールを出る。


 出た所で、そういえば昨晩の絡み酒のお詫びをまだしていない事に気付いた。だけど荷物を持っている星野さんをこれ以上連れ回すのも忍びなくまた後日にしようと思いながら駅に向かうと横から声を掛けられた。

 その声は星野さんの方からではなく反対側からで、しかもぞわりと鳥肌が立つ。見なくても分かるその声の主は、もう一生会いたくない人――





「ダサイさん!?」

「やっぱりNaoさんだ。こんな所で会えるなんてこれは運命ですね」


 気色悪い笑みを浮かべるダサイさんを見て、ぞわぞわが止まらない私の前に星野さんが立つ。


「どちら様でしょうか?」

「君こそ誰です? ああNaoさんの弟か! 私はNaoさんの婚約者だよ」

「はあっ、婚約っ!?」


 駅前に私の叫びが広がる。


「くぼ……、な、ナオさん?」


 星野さんが私の下の名前を呼ぶ。多分本名がバレないようにと気をきかせてくれたのだろう。


――グッジョブ星野さん! いや、いおりん!!


 そして私は星野さんに視線で訴える。婚約者な訳が絶対にないと。


「あなたと婚約? 間違いでしょう。何を思い違いされているか知りませんが一度食事したくらいで婚約者だなどと名乗らないでいただけますか?」


 普段の星野さんからは聞いた事のない低い低い声は少し怒りを含んでいるようにも聞こえる。


「一度とか二度とか回数は関係ないだろう。ようは心の問題だ。私たちは深く通じ合っているのだから弟くんは黙っていてくれないか。これは私とNaoさんの結婚なのだから」

「弟ではありません」

「じゃあ何だ? 従兄弟か? 甥っ子か?」


 甥っ子はこんなに大きくないと心の中で突っ込む。本当にデリカシーがなさ過ぎるし、『深く通じ』合ってないし、これ以上話しもしたくなければ、この不快な声も聞きたくない。

 放っておいて帰ろうよ――と星野さんに言おうとした時、


「僕は、僕はナオさんの彼氏です。これ以上彼女にしつこくするようでしたら警察を呼びます」

「星――」


 ――野さん、という驚きの声は何かに吸い込まれた。それが星野さんの胸だと気付くのに時間が掛かる。

 ダサイさんの前で星野さんに大人しく抱き締められている私を見て、ダサイさんは私への暴言を吐いているようだったけど、そんな声も耳に入らないくらい自分の心臓と星野さんの心臓の音が大きくドキドキしていた。


「行きましょう」


 という星野さんの後ろでダサイさんがなおも「だから結婚出来ないんだ」とくどくど文句をたれている。


 駅へ入りすぐに改札をくぐる。ホームに向かうと電車が行ったばかりだった。


「大丈夫ですか?」


 少しばかり放心していた私の前に星野さんの心配そうな顔がある。


「うん、ごめんね」

「強烈な人でしたね。警察に行った方が良ければ着いて行きますよ?」

「そこまで星野さんに迷惑掛けれないから、大丈夫ですよ。……っていうかたっくさん迷惑掛けましたよね」

「無理しないでください。手、震えてますよ?」


 星野さんの温かな手が触れて初めて自分の手が震えている事に気付いた。


「昨日の昼間に会ったマッチングアプリの人ですよね? 住所とか教えたりしました? 偶然っぽい言い方してましたけど」

「言ってない……。教えてないです。住所も本名も職業も、電話番号だってメールアドレスだって教えてない。……偶然? 本当に偶然だったのかな?」


 大きなショッピングモールがある所だからダサイさんだって買い物に来てたのかもしれないし、ダサイさんの家がこの辺りなのかもしれない。

 それでたまたま私の家が隣駅なだけで……。


 でも本当に偶然だったのだろうか? ダサイさんなら私の個人情報を調べたりしていそうで怖い。


 それこそ、『婚約者の情報を何ひとつ知らないなんておかしいでしょう?』と真顔で言い出し兼ねない。


 今もどこからか私を見ているのではないだろうか?


「久保田さん?」

「あ、あの……」

「大丈夫ですよ。今日は僕がいます」


 おでこがぶつかる。

 目の前が暗い。


 温かい。


 星野さんの腕の中で安心した私は必死に涙をこらえた。



 隣駅で降りて、駅の外に出ると星野さんが妙に周りを気にしているのに気付く。


「星野さん?」

「あの……」

「?」


 首を傾げる私に星野さんは後ろを向かないでと言った。


「着いて来てる? いや違うのか。だけどな」


 一人でぶつぶつと真剣にこぼす星野さんが今度は私に話し掛ける。


「久保田さんすみませんが今から僕のマンションに行きましょう」

「え?」


 いつも穏やかな星野さんからは考えられないほど、ただならぬ何かを感じて私は否とは言えず、そのまま従うことにした。


 星野さんのマンションはうちのアパートとは違ってセキュリティがしっかりしている。エントランスを入ってすぐにオートロックの扉があり、入るとすぐに管理人室があって窓越しに会釈している。


「管理人さんいつもいるの?」

「ええ。ここに住んでいらっしゃいます」

「そうなんだ」

「多分ここまでは入って来れないでしょう」


 それはきっとダサイさんの事。たまたま同じ駅だったのか、追って来ているのかは分からないけどセキュリティがぱっぱらぱあな自分のアパートに戻るより安心出来そうだ。

 星野さんには申し訳ないくらい迷惑を掛けている自覚はあるけど、今は一人で家に帰るのが怖かった。


 エレベーターホールからエレベーターに乗り3階へ。星野さんは角部屋の310号室だった。


「お邪魔します」

「何もないですが、どうぞ座ってください」


 廊下を通ってリビングに案内されるとそう言われた。


「引越したばかりですよね? 荷物はもう片付いたの?」

「元々荷物が少なくて。あと家電とかは叔母が置いていたので荷解きもすぐに終わったんです」

「じゃああれも叔母さんの?」


 チェストの上に置かれているクマとウサギのぬいぐるみを指差す。男の子の部屋、というには似つかわしくないと思ったのだ。


「あれは僕のなんです。女の子みたいですよね」

「えっ、そうなの?」


 照れたように恥ずかしそうに笑いながら星野さんがそのぬいぐるみを手に取ると、私の隣に座って二人を見せてくれる。

 くたびれてはいるけど、ずっと大切にしていたのが分かるそれは愛らしい顔のクマとウサギのぬいぐるみ。


「紹介します。僕の友達のクマすけと、ウチャピです」

「クマすけとウチャピ?」

「はい」

「あっ! もしかして!」


 私はその二人を知っている。

 何度も見ていたから分かった。


「パッケージのデザインに描いてる子じゃない?」

「そうなんです! よく分かりましたね!」

「だって好きだから、星野さんのデザインが」

「あ、ありがとうございます」

「私一番好きだよ」


 私がそう言うと星野さんは照れて耳を赤く染めていた。



 時計は19時を過ぎる。


「そろそろ帰っても大丈夫だよね?」


 窓の外はもうすっかり暗い。


「あの人しつこそうでしたけど、外にまだいませんかね?」

「ほんと、しつこいよね。まだ外にいるのかな?」


 考えただけで鳥肌が立ちぞわぞわが全身に広がる。だけどこれ以上星野さん家に厄介にはなれない。


「多分、大丈夫でしょ。こんな時間までありがとうございました。とりあえず外に出てみますね」

「じゃあ送ります」

「でもそこだし」


 と言って出窓の外に見える我が家のベランダを指す。なんならここからジャンプすればすぐに帰れる距離なのだが、ジャンプするのは危険だとちゃんと分かっているので玄関から出てマンションを大きく回り、アパートへと戻るつもりだ。


「送ります」


 否を言わせない星野さんの強い口調に若干ひるむ。


「送りますから。お願いですから一人で帰らないでください」

「う、うん。はい、お願いします」


 お邪魔しました、と玄関を出て1階に降りる。管理人さんはまだそこにいて会釈をしてくれた。


「久保田さん、ここで少し待ってください。外の様子を見て来ます」


 私はエントランスの内側に残され、星野さんだけマンションの外に出て行く。

 星野さんの気遣いに申し訳ない気持ちが募る。だけどその反面、気遣いが嬉しくて胸の辺りがくすぐったい。


 2〜3分待って星野さんは戻ってきた。


「大丈夫みたいです」

「ありがとう、ごめんね」

「久保田さんが謝ることなんてないですよ。悪いのはアイツですから」

「うん」

「行きましょう」


 管理人さんにもう一度会釈して外に出る。マンションの周りは明るかったけど、ひとつ通りを中に入れば外灯はぽつりと佇むだけで酷く心もとないほど暗かった。

 だけど安心してそこを歩けるのは星野さんがいるお蔭だということはよく分かる。


 明日の夜――仕事帰りは私一人。そう考えるとちょっと怖い。後ろから「Naoさん」なんて呼ばれたらどうしよう。40歳にもなって今更だけど防犯ブザーでも買った方がいいだろうか――そう考えているうちにアパートに着いた。

 アパートにも怪しい影はなさそうで、ほっとする。

 エレベーターのないアパートを、階段で3階まで上がる。


「……ありがとう。星野さん」

「いつでも呼んでください。ほんと、仕事中でも真夜中でも、……いつでも」


 その言葉が胸の奥底を安堵させる。


「ありがとう。本当にありがとう。今日はいっぱい迷惑掛けちゃいましたね。『彼氏』とか、嘘までついてくださってありがとうございました」

「それ……。嘘じゃなくていいです」

「え?」


 どういうこと?


「マッチングアプリとか、婚活パーティとかも辞めてください。それからちゃんと戸締まりしてくださいね。じゃあおやすみなさい」

「え? ちょっ――」


 待って、と伸ばした手は星野さんの背中には届かず、階段を降りる音が聞こえるだけだった。



「どういうこと?」


 電話して聞いてみる?

 ベランダに出て窓越しに聞いてみる?


「『彼氏』って嘘ついてくれたけど、嘘じゃなくていいって……」


 それに、


「マッチングアプリも婚活パーティも辞めてって……」


 だからこれって、


「どういうこと?」


 考え続けていないと、嬉しい方に捉えてしまいそうになる。それはないだろう。私は10歳も歳上のおばさんだ。


「たからこれは星野さんなりの気遣い、気遣い。そう、気遣い!」


 そうだ。こうやって星野さんのことを考えているお蔭でダサイさんのことなんて頭から抜けていたし。ダサイさんに怯えることなく、今日はこのまま星野さんの発言について考えながらゆっくり眠ればいい。


「そうだよね、ご飯食べてお風呂入ろ〜っと」


 残り物のシチューを食べて、湯船に浸かって、ぐっすり眠ろう――そう思いながら並び立てたタスクをこなしていくが、どうしても時々ふとベランダの向こう側が気になってしまう。


 星野さんは今頃何をしてるだろう?


 片目で覗けるよう、ほんの少しだけカーテンをつまむ。


「こそこそして覗きみたい」


 通報されてもおかしくないが、どうしても気になった。ベッドに入る前に一度確認してからじゃないと眠れそうにない。


 片目で覗くベランダの向こう。星野さんの部屋、カーテンのない窓。部屋の明かりはついている。


 だけど星野さんは見えない。他にも部屋があったからそこにいるのかもしれないし、お風呂かもしれないし、トイレかもしれない。


 これ以上は失礼だと顔を引っ込めてカーテンの隙間を戻す。


「いなかったな星野さん」


 向こうを覗けば会えるなんて思ったのは星野さんが『いつでも呼んでください。ほんと、仕事中でも真夜中でも、……いつでも』なんて言ってくれたからかもしれない。


「いつでも呼んでいいと、いつでも会えるは同義じゃないもんね。そりゃそうか」


 はあ、と息を吐きながらベッドに仰向けになる。


「星野さんが、彼氏……」


 抱き締められた感触が蘇る。細く見えるけど意外に逞しかった胸板。


「って違う! 彼氏じゃないし」


 私がせめてあと5〜6歳若かったら良かったのに……、なんて考えてしまうが、考えても年の差は埋まらない。


「惜しいな、優良物件なのに……。でも優良物件に欠陥住宅わたしじゃいくらなんでも可哀想だよね」





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