――ああ、疲れた。
元々寡黙な俺は人前で喋るのが苦手だ。だからと言ってそれが通じるほど社会は甘くない。むしろこんな人間には厳しく出来ている。
俺もそれに甘んじることなく努力しているつもりだ。ぼそぼそ喋るなと怒られ、背筋を正して人前に立て、仏頂面をやめて微笑を浮かべろ――それ以外にも色々言われてきた俺がどうしてか新規プロジェクトのサブリーダーに抜擢されたらしい。
「はあ」
更に気が重たい。だが、選ばれたのだから頑張るしかないだろう。家に帰れば妻と小さな子どもが三人待っている。家族のためにも大黒柱たる俺がしっかり働かなければならない。
一番上は小学校に入学したし、一番下は幼稚園に入園したし、この春は学用品等の出費がかさんで
「ただいま」
子どもは寝ている時間の帰宅。静かに玄関を開けると夕食の匂いが漂っていた。――腹減った。
「はあ」
家の空気が一番落ち着く。
「おかえりなさい」
キッチンに立つ真樹が味噌汁を椀に注いでいる。
「ただいま」
会社で張り詰めていた気が全部緩んでいく。顔に貼り付けていた微笑なんて欠片もない。
洗面所で手を洗い、疲弊した顔を見る。会社でこんな顔を晒していたらすぐにサブリーダーから外されるかもしれないな――と、そう思いながら夕食の準備が出来た食卓につく。
ごはん、味噌汁、こふきいも、焼き魚、それから人参とツナを和えたようなやつ。魚はこれはなんだろう?
まあいいか。胃に入れば一緒だ。
「いただきます」
味噌汁に口をつける。ああ、うまい。疲れた身体に心地よい。玉ねぎ、人参、キャベツ、あとワカメ。具沢山だな。
人参とツナを和えたようなやつも、見た目はちょっとあれだが、食べると結構いける。
「はあ」
そのため息は俺じゃなくて真樹だった。
こいつも疲れてるんだろうな。手は二本しかないのに、その細腕で三人を育てている姿には尊敬さえする。甘えたがりの香苗はずっとべったりくっついてるし、よく「パパよりママがすき」と言っているから俺は香苗との距離の取り方、扱いに困惑することが多々ある。
疲れた身体を湯船に沈め、そしてベットに入る。真樹も寝る支度をしていたし、すぐに隣にくるだろう。そう思っていたが、俺は真樹が来るより前に睡魔に誘われていた。
プロジェクトリーダーは横浜支店で営業成績5年連続一位の男。名前は
そしてこのプロジェクトの元々の企画も百代さんのものだと言う。力也という強そうな名前から俺の中で仕事の出来るガタイのいい男像が出来ていた。
「っはよーざいまーす」
「おはよう」
大きなあくびを隠しもせずに岡山が出社してきた。若く見えるがこれでもう38歳。真樹と同い年。いつまで20代気分でいるつもりだろうかと少々心配してしまう。
「あっ、今日からっすよね百代さんこっちに来るの」
「そうみたいだな」
俺と岡山とは少し離れた場所にデスクが新設されている。そこが百代さんの席だ。
いつ来るのか知らないが、来たら紹介されるだろう。それまでに雑務を終わらせておくべきだな。
*
「横浜支店の百代力也です。よろしくお願いします」
その男は想像よりも線が細く、どこかモデルのようにも見えた。声も『力也』なんて名前から想像できないくらい繊細に聞こえてしまう。
紺地のシングルスーツには青のストライプが入り、濃緑のネクタイを締め背筋がピンと伸びている。
だがその背に長い髪がのびていて、一つに纏められている。男が長髪だからと言って偏見はないが、身近な人間にはいなかったので少々驚いてしまった。
部長にちょいちょいと手招きされ、百代さんの前に出る。
「北島です。よろしくお願いします」
「あなたがサブリーダーの北島くんね。よろしくお願いします」
目の前に差し出された白い手を取ると、ぶんぶんと振られ、咄嗟に困惑の眼差しを百代さんに送ってしまった。
「あら、いいじゃない。仲良くしましょう?」
感じる違和感――喋り方の問題なのか?
だがそれはその日の仕事終わりに明らかとなった。
プロジェクトチームの懇親会だと言われ、定時を過ぎると百代さんに引っ張られて会社を出る。途中までしか出来てない仕事も「明日やりなさい」と百代さんに言われ、プロジェクトメンバーの7割ほどが懇親会に参加させられた。
百代さんが予約したというバーに着くと奥のボックス席に通される。
「いらっしゃい〜、モモちゃんおひさね〜」
店の人が百代さんに手を振りながら喋るそれはどう見てもオカマにしか見えない。だからと言ってこの店がオカマバーかと言えばそうでもなさそうで困惑する。他の店員はまともな
「モモちゃん着替えないの?」
「ほんとは着替えたいの。でもみんなびっくりするでしょ?」
「もう遅いんじゃなぁい? み〜んな唖然としてるわよ〜」
「それもそうね〜。バレるのも時間の問題だしね! それじゃ着替えてくるわ〜」
そう言ってどこかへ消えて行く百代さんをメンバー全員の目が追っていた。
「あら〜、み〜んなモモちゃんに釘付け?」
「あの、オカマなんですか?」
みんなが聞けない事を岡山が率先して手を挙げながら聞いている。それをドスの聞いた低い声音でオカマが返してきた。
「ああん? オカマじゃのおて、オネエじゃ!
「オネエ、……なんですね……」
「そ〜う〜よ〜。びっくりして地声出ちゃったじゃないのよ〜。もう〜ヤダ〜」
そのオネエは頭こそショートカットだが、真っ赤な口紅に真紅のドレスという出で立ち。他の男性店員は白シャツに黒ズボンなので、どうしてもこのオネエが異様に見えてしまう。
「さあさ、みんな何飲む〜」
真っ赤なオネエがメニューを広げるのでみんなで肩を寄せ合うようにしてメニューを覗き込んだ。
おのおの注文した飲み物が目の前に置かれたタイミングで百代さんは戻ってきた。
ひとつに結んでいた髪はおろされ、なんというのだろう、パーマというのか、毛先がくるくるして肩の上で弾んでいる。
洗練されたスーツはどこにもなく、その身に纏っていたのは長いスカート。いやこれは上下繋がったワンピースという服かもしれない。革靴も踵の高い武器のような靴になっている。
「お待たせしました〜、ごめんなさいね〜」
「百代さんもオネエっすか?」
「岡山くん、正解!!」
「イエーイ」
なぜか岡山一人が百代さんのテンションに付いていけている。皆はまだ唖然と口を半開きにしているのにだ。
「なになに、難しい顔して。って北島くんはそれが普通の顔なのかな?」
そう言いながら俺の横に座る百代さん。座った瞬間香水臭いのが鼻について顔を顰める。
――なんだこのクサイのは。
俺は香水は苦手だ。だから真樹みたいに何もつけない女性はいい。真樹の風呂上がりの匂いが一番いいな――って俺は何を考えているのか……。
「ねえ、何をそんな難しい顔してるわけ? 教えなさいよ〜」
「いえ、別に」
「懇親会の意味ないでしょ。教えなさいってば〜」
「元々こんな顔で、……特に何も考えてな――」
「嘘ね。もっと喋んなさいよ。つまらない男なんだから」
「はあ」
怒ったのだろうか、俺の頼んだビールを手にした百代さんがそれに口を付けて勢いよく傾けると男性店員を手招きする。
「マティーニと、北島くんは?」
「ビールで」
「同じものばかり飲んでないで違うものも飲んでみなさいよ。ほんとつまらない男ね」
そう言いながらも俺のビールは注文してくれる。いい人なのか、ウザい人なのか、よく分からない。
「家でもそんななの? 結婚してるんでしょ」
と、俺の左手にある指輪を指した。俺もそれを見下ろす。
「ああ、はい」
「はあ〜。奥さんにもつまらない男って言われたことない?」
「いえ」
「寛大な奥さんなのね。大事にしなさいよ」
「はい」
俺の首肯に百代さんはギロリと睨む。
「岡山くーん」
「なんすか? なんすか?」
後輩と喋っていた岡山がこちらに来る。顔が赤い所を見ると、すでに酔っているのかもしれない。
「北島くんの奥さんって聖人君子?」
「セージンくん? あっ奥さんはちゃんと女性っすよ! おっぱいもデカイっす! 羨ましいっすよね〜」
「なるほど〜、君はムッツリか!」
「別に普通です」
帰りたい。家に帰らせてくれ。
なんなんだ、ここは。地獄か?
「いや、男はみーんなムッツリっす!」
「だよね〜岡山〜」
「ですよね〜リーダー〜」
駄目だこの二人。肩を組んで左右に揺れ始めた。
「あ、このカプレーゼ美味しい〜」
そしていい意味で自由。
全く羨ましくはないが。
「マジ、美味いっす」
「ほら、北島くんも食べてー」
タッグを組んだ二人が箸でつまんだトマトを俺の顔の前に出す。なぜ男からの「あーん」を受け入れなければならないのか。屈辱だ。
しかし受け入れなければ永遠に追い掛けてくるような気がして背中がぞわりとした。
「食べればいいんでしょ」
悪態をついて口を開けると、勢いよく箸が口の中に突っ込まれる。箸が喉に刺さったらどうするんだ。
「どう?」
「はい」
「『はい』って何? 感想は?」
「トマトです」
俺の感想を聞いて二人の時間が一瞬止まった、かのように見えた。
「もうヤダヤダ。それわざと?」
百代さんが何に怒っているのか全く分からない。そんな俺の表情を見て百代さんは大袈裟にため息を吐き出した。
「君の辞書に『美味しい』とか『不味い』とかあるの?」
「多分あると思いますが」
「じゃあ奥さんの料理を食べて美味しいって奥さんに伝えたのは、最近ではいつ? 今朝? 昨日?」
真樹の料理を食べて「美味しい」なんて最近言っただろうか?
「…………」
「…………」
「大変だわ。こいつ圧倒的にコミュニケーション能力が欠如してるわ。これでよくサブリーダーに抜擢されたわね?」
「北島さん仕事は出来るっす!」
「仕事が出来る人間なんてね、いくらでもいるのよ。今度のプロジェクトにはコミュニケーションはもちろん、思いやり、も大事にしたいの。悪いけどサブリーダーには他の人から選び直すわ」
「待ってください。そんな一方的に外されるのは――」
「いいわ。チャンスをあげる」
「チャンス?」
「奥さんの料理を褒めるのよ!! 家族への思いやりが欠如してるやつはこのプロジェクトにいらないわ!!」
こんな酔っ払いの戯言を真に受けなければ良かったのか。それとも真に受けたからこそ良かったのかはもうよく分からない。
だが俺が家で「美味しい」と言い出したのは、実はこの一言が契機だったのだ。
そしてこれが百代さんに振り回される序章だなどと知りもせず――
けれど、最後の最後に俺は確かに百代さんに感謝した。