真樹の家で時間を潰し、次の日曜は菱越百貨店にある美成堂へ行く事が決まった。美成堂の美容部員である小松栞にメッセージを送り、取引先を一つ回って帰社する。
「久保田課長、確認お願いします」
「はーい。あ、そうだ。ねえ
「商品置いてもらえそうです。担当さんが気にいってくれたみたいで自分の子に欲しいって言ってくださって、好感触です!」
「おー! 良かった良かった!」
明るい笑顔を浮かべる好青年を見て、そういえばこの川辺と同じ年頃なんじゃないかと星野さんのことが頭に浮かんだ。
「川辺ってさ、いま
「俺ですか? 今年29歳っす」
「若いな。ってことはさ、
「星野さんは俺より年上だったと思いますよ? ……あ、なあなあ」
その時、横を通る女性に川辺が声を掛ける。この娘は営業事務で川辺の同期。
「なに?」
「
「星野さん?」
「ほら、パッケージをデザインしてくれる、デザイナーの」
「ああ! 寡黙でちょっと抜けてる星野さん!」
「そうそう、その星野さん! 星野さんて俺らより年上だったよな?」
「そうだよ。一つ上だったかな?」
それじゃあ彼は私と10歳違うんだ。――ってだから何よ?
ああ、そうだ。家にあのビニル傘があるからだ。星野さんが雨の中コンビニまで走って買ってくれたあの傘が自宅の玄関の片隅で異様な存在感を放ち、私にアピールしてくるからどうしても星野さんのことを思い浮かべてしまうだけ。
「久保田課長なんか疲れてます?」
こっそりと吐いたつもりのため息を月見里に見られていた。
「まさか、そんな疲れてないって!」
そうは言うもののここ最近の私は結婚相談所に登録したり、半信半疑でダウンロードしたマッチングアプリから届くオススメの男性一覧を上から下までつぶさに見て回るのに若干疲れていたのは確かだった。
「さ、仕事仕事!」
手を軽く打ち鳴らして切り替えると、川辺と月見里は「ほーい」とか「はーい」とか言いながら自席に戻っていった。
と、その時ちょうど小松栞からメッセージの返信が届く。
『11時に来てくれたら妹ちゃんのメイク出来るよ』
簡潔なメッセージに『OK』『よろしく』と立て続けにスタンプを送るとすぐに既読が付く。
そして真樹にも、日曜の11時で、という旨のメッセージを送り、私は仕事に戻った。
*
日曜。イタリアンカフェを後にして……
なんだ、健太さん迎えに来てくれんじゃん。
『ないない』『無理』とか言っておいてやっぱり優しいし、……何よりも"家族"というものを見せつけられた気がして羨ましかった。
「はあ」
この後どうしよう、と考えながら腕時計を見ると14時30分を過ぎたばかり。家に帰るかそれともぶらぶらするか……。
家に帰ってもやる事はない。いや、やる事はあるにはある。ただ少し億劫なだけ。
登録したマッチングアプリから通知が来るのだけど、いちいちいちいち確認して、相手のプロフィールを見て、返信してもいいと思える男性を選別する。
選別……なんて嫌な言い方だ。私の方こそ選別対象だろうに。この男性たちは何を思って40歳の女にアプローチしようと思うのだろう。
中には20代の若い女の子だって登録しているみたいだし、必然的に需要はそちらに傾くはずだ。なのに、私に届く通知は毎日20〜30件は軽く越えてくる。
世の中、スマホの中にしか出会いはないのだろうか?
「悲しい……」
知らずのうちにため息と肩が落ちる。
「こんな気分の時はあそこが一番! よし!」
落ちた気持ちを立て直すように前を向くと私は菱越百貨店へと足を戻した。
菱越百貨店、7階。
そこは玩具売場のあるフロア。
日曜の昼間だからだろう。親子連れで売場は賑わっていた。
初めは仕事のアンテナを立てるために何件ものおもちゃ屋さんに足を運んでいたけど、今では癒やしを求めにおもちゃ屋さんに向かうようになっていた。
そう。ここは私にとってオアシスなのだ!!
子どもたちの笑顔や真剣に選ぶ顔もそうだけど、『私を選んで!』とアピールする玩具を見ているのも普通に楽しい。
これを言うと社内でも引かれるので、私にこんな趣味があるなんて知っている人は少ない。
ぱっ、と目に入って来た商品に『そうそうアナタみたいな子が好きなのよね』なんて思いながら近付くと、まさかの自社製品だったりした日にはおもちゃ屋さんで一人くすくす笑うはめになる。
独身40歳女が一人笑い――犯罪くさいフレーズが浮かんでとっさに頬を引き締めて、もう一度自社製品を見る。
1〜2歳児向けの木製玩具。パッケージは赤ちゃんを包むような優しいパステルカラーで森と小動物の絵が描かれている。
「そういえばこのパッケージデザインも星野さんだったよね」
「はい、そうです」
「え"っ、え"っっ!!」
振り向くとそこには星野さん本人がいた。
「お疲れ様です」
「えっ、星野さん。びっくりした〜」
「奇遇です。日曜なのに久保田さんもお仕事なんて大変ですね」
「いや、私は……。星野さんはお仕事でここに?」
「はい。実際におもちゃ屋で並んでいる商品を見て、ひと目で惹かれるパッケージの勉強をと思いまして」
「そうだったんですね。ほんと勉強熱心で尊敬します」
「私なんてまだまだですから……ははは。上司にもっと勉強しろと怒られてしまったんですよ。ってこれ久保田さんに言う事ではないですね、すみません。今言ったこと忘れてください」
力の抜けたように、へにゃりと笑う星野さんに私は、はい、と首肯する。
「あ、そうだ。ハンカチお返ししないと……」
そう言って星野さんは腰元で右手を動かすのだが空をかいて、あれ? と止まる。
「鞄……。そうだ今日は財布だけ持って出て来たんでした。すみません」
「いえ、いつでもいいですから。っていつも鞄に入れて持ち歩いてくださってるんですか?」
「はい。いつでもお返し出来るようにと思って。……ちゃんと洗濯してアイロンかけたんですよ。だから次回の打ち合わせの時には必ずお返ししますね」
「ありがとうございます。それではお仕事の邪魔をしてはいけないので私はここで――」
「もう帰るんですか?」
「え? ええ」
私の曖昧な相槌に星野さんは、そっか、とつぶやいた。首を傾げる私の横で星野さんは何か言いたそうにしてはいるが、なかなか言葉が出て来ない。
「星野さん?」
「帰るんですか?」
えっと、その質問さっきもされて私返したよね?
「はい帰ります」
「そうですか」
子犬のようにしゅんと項垂れる星野さんを見て、私は返す言葉を間違ったかと焦る。
「あの、えっと」
「すみません、何でもないです。引き止めてしまってすみませんでした」
「いえ、そんな事はないですけど――」
何か用がありますか――そう聞こうとした時だった。
「ママー」
私の足へ突進してきた小さな男の子に驚く。
「えっ?」
「久保田さんのお子さんですか?」
「えっ!?」
「ママー」
「違います! えっと迷子かな? よく見て〜ママじゃないよ〜」
子どもの目線に合わせてしゃがむと、私の顔を認識した男の子がびっくりしたのか泣き出してしまった。
香苗より小さいだろうか。2歳か3歳くらい。
「大丈夫だよ〜、一緒にママを探そうか!」
これでも甥っ子と姪っ子がいる身。子どもの扱いなら任せろという気持ちで男の子を抱っこしてあげようとしたのだが、
「いやーーーー、やーーーー、おばちゃん、やーーーー!!!」
火が付いたように泣き出す男の子に、差し出した手を後ろへ思い切り引く。それにしても『おばちゃん』なんて……。いつもは『ねえね』呼びだから意識しなかったけど、子どもから見たら私は十分におばちゃんなのだろうと軽くショックを受ける。
「ママーーー、どこーーー」
「ママどこかな? あっちにいるかも? 行ってみようか?」
星野さんが男の子に優しく話し掛けると、男の子はひっくひっくと言わせながら星野さんの言葉を聞いてくれた。
「おにいちゃん、ママどこ?」
そして星野さんは『お兄ちゃん』か……。これが若さの違いというやつなのだろう。
「よし、一緒に探そう。それじゃあ手を繋ごうか?」
「うん」
小さな手と星野さんの手がしっかりと繋がれる。私はその後ろを静かに着いて歩いた。
こうしてると私たちも親子連れ、家族に見えるのかな? ――なんて馬鹿なことを考えながら玩具売場を歩いていると、どこかで名前を呼ぶ女性の声がしている。
「あっちの方かな?」
「そうですね」
「ママーーー」
と、その時。陳列棚の間の通路の奥で声を発している女性がこちらに気付いた。
男の子もお母さんが分かったのか星野さんの手を離して駆け出す。その後ろを私たちも早歩きで追い掛ける。
「ゆうくん、良かった」
「ママーーー」
抱き合う親子を見て笑みがこぼれる。
「良かった、良かった。ママに会えて良かったね!」
「すみません、ご迷惑をお掛けしました。どうもありがとうございます」
「いえいえ良かったです」
「本当にありがとうございました」
「じゃあね、バイバイ」
「ばいばい」
二人で男の子に手を振ると踵を返して歩き出す。
「良かったですね。ママに会えて。それにしても星野さん子どもの扱い慣れてますね」
「子ども好きなんです。実は保育士を目指そうかと本気で悩んだ時期もあったくらいで。でもやっぱり絵を描く方が好きで今に至りますが」
「保育士ですか? イメージになかったですけど」
「ですよね」
「でも、今の見て保育士の星野さんも素敵だと思いましたよ」
「そうですか? ありがとうございます」
「でも私はやっぱり星野さんの描く絵が好きですけどね」
「あ、あ、ありがとう、ございます……」
星野さんは少し照れたのか口ごもる。
困らせてしまったか?
余計なひと言だったか?
そう思いながら足だけは前に進み、いつの間にか玩具売場を出てエレベーターの前にいた。
「すみません、ここまで付き合わせてしまって。それでは私はこれで失礼します」
「あの、……あの、その」
「?」
「あっ、ハンカチ、次の打ち合わせの時に」
「はい。分かりました」
「必ずお返ししますので。それでは失礼します」
お互いに軽く頭を下げ、到着したエレベーターに一人乗り込む。1階のボタンを押し、扉が閉まるまで星野さんはこちらをずっと見ていた。
家に帰り着く頃には空は穏やかなオレンジ色をしていた。
「ただいまー」
誰もいない静かな部屋に自分の声が虚しく響く。今日はちびっこたちと一緒にお出掛けしたから賑やかな声が恋しくなる。
もう少しだけ星野さんと一緒に玩具売場をめぐれば良かっただろうか?
――いやいや、ダメダメ。星野さんのクリエイティブな時間を邪魔しちゃダメダメ!!
「とりあえず洗濯取り込むか」
取り込むかというほど洗濯はないのだが。ベランダに出ると、向かいのマンションの窓に毛並みの艶やかな白い猫がいるのが見える。
「あら、ネコちゃん。ほんとアナタを見てると癒やされるわ」
思わず緩んだ頬を見て何を思ったのか猫はツンとそっぽを向く。
「もう。つれないんだから」
後にこの日のことを思い返せば、私が猫にこんなセリフを言ったから嫌われてしまったのだろうかと思う。そうだと言わんばかりに猫と猫の飼い主は翌週には引越してしまったのだ。
なんてことだ。私の唯一の癒やし猫がいないなんて……
上階を見上げても窓際に猫のいる部屋はない。
はあ、と幸せなんて全部逃げてしまいそうなため息を大きく吐きながらスマホを開く。
通知は、マッチングアプリからの新着通知ばかり。テーブルにスマホを置いて、左手で頬杖を付きながら右手で乱暴にタップし、13件ある新着アプローチを全て開いてみる。
ちなみにアプローチとは相手のプロフィールを見ていいなと思った人に送るハートマークだ。
「20代、男性、フリーター。うん、20代はない。次」
次も20代。もしかして20代っていうのは全部サクラじゃないかと疑心に満ちた心で流し見し、13件目の40代の男性で指が止まる。
「公務員なんだ。……公務員なんて引く手あまたじゃないの? もしかして仕事に生きてきた私と一緒? 気付いたら40歳過ぎてましたってパターンか……。なるほど、そっかあ」
誰もそんな事言ってないのに妙な親近感が湧いてしまう。
登録されている写真を見ると、証明写真かと思うような真正面を向いて真面目な顔した眼鏡の男性と目が合った……ような気がした。
「真面目かっ」
でも、チャラチャラしてなさそう。
しかもマッチングアプリで出会いを探しているようにも見えない写真からのイメージが妙なギャップを生み出している。
「面白いなこの人」
登録名は【ダサイ】
「ぷっ、ダサイって、なんだよ名前ダサイって。それこそダサイじゃん! まじで面白いわ、この人!!」
ダサイさんも、私なんかにディスられてるとも知らずに可哀想、なんて思いながらもしばらく笑いがおさまらなかった。
というか、久々に笑いのつぼに入った。
どうするか悩みながらもアプリ内のメッセージ機能を使って公務員のダサイさんに「Naoです。アプローチありがとうございます」と可もなく不可もない文面を送ってみた。
ちなみに言わないでも分かる通り、【Nao】というのが私の登録名。――私の名前は直子だからねぇ。
メッセージ後半に入力していた『公務員なんですね、どこにお勤めですか?』という質問は削除して。これはきっと会話が弾んでからするべき質問だろう。
スマホはテーブルに置いて腰を上げると、冷蔵庫を開ける。
「あっ、ビールなかったんだった。あれ、そういえばご飯あったっけ?」
今度は冷凍庫。多めに炊き小分けにして冷凍してあるご飯の残数もゼロ。
「あちゃー。何食べよ?」
家事はやる気になればある程度出来るけど、自分のためにする家事は正直面倒くさい。
「真樹は今頃美味しいご飯作って子どもと旦那に食べてもらってるんだろうな〜。いいな〜、また実家帰ろうかな? お母さんのご飯ってなんであんなに美味しいんだろ? 私もお母さんになったらびっくりするくらい美味しい料理作れるかな?」
脳内で「作れねーよ」と誰かが突っ込む。
「だよねー」
戸棚を漁ると乾麺の蕎麦があるのを見つけ、茹でるための湯を鍋に沸かした。
沸かしている間にスマホから短い通知音がする。お湯が沸くまでまだ掛かりそうだし、とスマホに手を伸ばした。
通知はマッチングアプリからの新着メッセージ。
「もしかしてダサイさん?」
返信早いな〜、なんて考えながら表示すると
『はじめまして。Naoさんこんにちは。もう夜ですね、こんばんは』
挨拶だけなのに、やっぱりどこか変なメッセージに笑ってしまう。
「こんにちはとこんばんはを一度に見たのは初めてだわ。さすがダサイさん」
何かメッセージを返そうかと悩むがどんな話題がいいか分からず悩んでしまう。真っ白な返信画面を睨んでいるうちに鍋のお湯も沸いてしまったので、メッセージは後にして蕎麦を茹でた。
蕎麦を茹で、湯を切り、氷水でしめる。そろそろ冷たい蕎麦も終わりだろうか。次に蕎麦を食べる時は温かい蕎麦でもいいかもしれない。
冷たくなった蕎麦を器に盛って出汁を用意する。開封して半分くらい残っている湿気たもみのりと、チューブのわさびを出したら完了。
「いただきまーす。ずるっ、……うーん、美味しい」
我ながら良い茹で加減だったと自賛しながら完食し、ダサイさんのことはすっかり忘れていた。
翌日、仕事が終わって帰宅し、買ったばかりの缶ビールのプルタブを開けて喉に流す。
「んー、はぁー」
そして仕事中に思い出し、気になりながらも開かなかったマッチングアプリのメッセージを表示する。
「あ、ダサイさんから届いてる。えーっと――『今日は天気がいいですね』」
まあ確かに天気は良かったけど……。
なんだか返すメッセージが困るのは私だけだろうか……。
それとも私がダサイさんのテンションにイマイチ乗り切れてないからだろうか……。
とりあえず差し障りなく『お天気良かったですね。今日もお仕事ですか?』と返し、他の新着アプローチを見るが、なかなかこの人と話してみたいという人が現れない。
スマホを横に置き、ビールでごくりと喉を鳴らすと、つまみのさきいかを口に加えてベランダに寄った。
「あ、そうだ。引越したんだった。ああ癒やしのネコちゃん……」
カーテンもなく暗い室内がぼんやり見える。
次の入居者も猫を飼わないかな、なんて思いながら他力本願な自分の考えに苦笑する。
「やだやだ。もうお風呂入ってゆっくりしよ〜」
何も考えずぼおっと湯船につかり、ゆっくりと温まって風呂を出た。頭の濡れたままスマホを確認するとダサイさんから返信が来ている。
『仕事です』
「……あー、なんだろ会話が途切れるっていうか……、返信困るなぁー」
会話が膨らまないのは一度も顔を合わせたことがない人とメッセージしているからだろうか。はたしてこのままマッチングが成立するのか甚だ疑わしくなってくる。
「しかも、いちいちメッセージに気を遣うんだよなー」
この段階で趣味とか聞くべき?
興味津々とか思われるかな?
それともグイグイ来て怖いとか思う?
「私には合ってないのかな。それより顔合わせて話しが出来るお見合いパーティの方がいいんじゃない? あー面倒くさい」
うわぁ、ダメだ私。
面倒くさいとか思うからそもそも結婚出来ないんだろうな……。
チラッとスマホを見るがダサイさんへの返信が思いつかない。
そして私はうだうだと悩みながら、結局何もメッセージが返せないまま布団に沈んでいく。
夢にいざなわれる私の横でスマホが1件のメールを受信したのだった。