目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
3.浮気される妻


 鏡にうつる自分の顔。


 しみ……

 しわ……

 くすみ……


「老けた?」


 結婚して専業主婦となり、自分でお金を稼いでいないことで自分のためにお金を使う事に躊躇い、高い化粧品をやめ、プチプラコスメに変えて数年経つ。

 切り替えた当初は安くても全然大丈夫だと思ってた。


 だけど30歳代後半。アラフォー。もうすぐ40歳。……やっぱり年齢にあった化粧品を使うべきなのだろうか?


 しかも秋の乾燥をみくびっていた報いだとあざ笑うようにカサついている。


 それに、ファンデーションがのらない、といえばいいのか。皺に邪魔され浮き上がって見えてしまう。むしろファンデーションなんて塗らない方がまだマシに見えるくらい。


 年齢の出る目元や額の皺も増え、ほうれい線も消えなく始めている。


 高い美容液とか使ったら効果あるのかな?


 そう考えながらドラッグストアで見てみるものの、たくさんの商品が並び過ぎてどれがいいのか分からないし、今使っているプチプラ化粧水の値段よりずっとずっと高くて手が出なかった。


 健太もこんなおばさんより、そりゃ若い女の方に惹かれるよね。

 ――モモヨさんって若いのかな? お肌だってぴちぴちしてるのかな? 私より賢くて、何でも出来て姉ちゃんみたいに頼り甲斐のある人かもしれない……。浮気されたって仕方ないのかもしれない、ともう一度自分のくたびれた顔を見る。

 若々しさも透明感もない。何か見えないものに負けてる気がしてきた。


「ママ〜」

「なに美琴?」

「かみ、むすんで〜」

「いいよ、二つ? みつ編み?」

「みつあみ〜」


 鏡の前で立つ場所を代わる。鏡の前に立つ美琴の顔が鏡面の下にちょこっと出ている。

 美琴のつるつる、ぷるぷる、ぷにぷにの肌。羨ましいな、なんて思いながら触るともちもちの弾力に指が弾き返された。


「ママくすぐったいよ〜」

「ごめんごめん、みつ編みしようね」

「み、つ、あ、み、み、つ、あ、み」


 楽しいのか、嬉しいのか、美琴の身体が左右に揺れる。


「ちょっと美琴じっとして、結べないって」

「はーい」


 さらさらの細い髪を梳かして左右二つにわけ、それぞれ耳の下で編む。ピンクのゴムで結わえたら、


「はい、出来上がり!」

「やったー! ママありがと!! ねえママ?」

「なに?」

「ママのおかおにはいっぱいせんがあるね?」

「えっ!?」


 それって皺の事!?

 無邪気な子どもの笑顔で吐く言葉のなんと残酷なことか……。


「ええと、美琴……。うんそうだね」


 苦笑いで答えながらも頬が引きつる。その頬のほうれい線も鏡にしっかり写っている。


「よし、そろそろ幼稚園行こうか」

「はーい」

「香苗も行くよー」

「はーい」


 美琴の後ろでこっそりとため息を吐き、二人を幼稚園に連れて行った。




「やっほー真樹」

「姉ちゃん! 来る前に連絡くらいしてよ……」

「あー! それ、この間お母さんにも言われた」

「そりゃ言うでしょ。主婦だからって暇じゃないの!」


 美琴と香苗を幼稚園に連れて行き、食材と日用品の買い物をして帰ってくるなり待っていたかのように姉ちゃんが来た。


「ごめんって。ほんとちょっと時間潰したいだけなんだよね」


 少しも悪びれず笑顔で、ごめん、と言う姉ちゃんの、


 ……顔?


 姉妹なのに全然違う、キレイな肌が目の前にある。


「姉ちゃんってさ、肌の事で悩んだりする?」

「当たり前じゃん! 何言ってんの! こっちは40だよ? 部署の女性はみんな20代! それにさ、取引先に行くたびに鏡見て化粧直してさぁ、大変だよ」

「やっぱり化粧品はさ、こだわってるの?」

「そりゃあねえ……、なに? どうしたの?」

「うん……、なんか皺とかシミとか、あと乾燥してカサカサで……」

「あーー、……ほんとだね……」


 少し寄ってまじまじと見られた。コンプレックスの塊を、羨望の塊である姉ちゃんに。


「とりあえず化粧水だね」

「化粧水……」

「やっぱり肌に一番最初に行くものって大事! ってしおりが言ってた」

「栞って、姉ちゃんの友達の小松さん?」

「そうそう小松栞こまつしおり美成堂びせいどうで働いてて、いま菱越ひしこし百貨店勤務だよ。今度行ってみる? 美容部員プロに相談するのが一番よ?」


 美成堂――女性なら誰もが知ってる老舗の化粧品ブランドだ。


 え?


 ちょっ、待っ、


 そんなお高い化粧品をっ!?


「ちっ、ちなみに姉ちゃんが使ってるのも美成堂?」

「化粧水と乳液と、メイク落としはね。……別に気に入らなかったら買わなくてもいいんだよ? とりあえずタッチアップしてもらって、あとはサンプルもらえるか聞いてみてあげるし。行ってみる?」

「タッチアップ?」

「うん。ぜ〜んぶしてくれるよ。……うん、行ってみよう! 次の日曜はどう?」


 行く、とか言ってないのに、勝手に日取りが決まっていく。


「ねえ、姉ちゃん」

「待って待って、栞のシフトも聞いておかないとね! あっ、そろそろ時間だ! ごめん真樹、また連絡するわ! じゃあね〜お邪魔しました〜」


 バタバタ、ガチャン、……玄関扉が閉まると途端にしんと静かになる。まるで何もなかったかのように。慌ただしい夢でも見ていたように颯爽と出て行った姉ちゃんが見えなくなっても、まだ口を開けぼうっとしていた。


 えっと……、

 次の日曜?


 何も予定はなかったよね?


 今度は慌ててカレンダーを確認しにいく。予定が入っていたら早くダメって言わなきゃ。

 だけど、カレンダーの次の日曜は見事に空白だった。あとは、子供を連れて行くか、健太に見ていてもらうか。休日なのに健太にお願いしてもいいかな?


 とりあえず帰ってきたら聞いてみよう。そうしよう。


「はあ〜疲れた」


 何もしてないのに疲れた。なんなら今から掃除が待っている。

 あ、あと……シルヴァ王子も待っている。


「ふ……」


 シルヴァ王子を思い出してニヤ〜と頬が緩んでいく。


「頑張ろ」


 そう言って口元を引き締めた。


 食卓に夕食を並べながら帰宅した健太に話し掛ける。


「今日ね、午前中姉ちゃんが来たんだよね」

「そう」

「それでね、次の日曜日に姉ちゃんと買い物に行く事になったんだけど、子どもたちも連れて行くか……、その……」


 はっきりと、子どもたちを見ていて欲しいと言えずいい淀み、ちらりと健太を見ると、気配を察して視線を上げた健太と目が合う。


「俺?」

「やっぱりダメだよね。疲れてるもんね、日曜くらい休みたいよね……」

「1時間くらいならいいけど」


 菱越百貨店まで電車で30分弱掛かるから、1時間なんて往復するだけで終わってしまう。


「え……っと、1時間じゃ帰って来れないと思うから、連れて行くね」

「そう」

「うん。……だから日曜日は出掛けてくるね」

「俺の昼めしは?」

「用意しとく」

「そう」


 はあ〜。大きなため息をつきたいけど、健太の前で吐くのは堪えて胸の内で大きく吐き出す。


 期待、……してはいなかったけど三人とももう手の掛かる赤ちゃんじゃないんだけどな……。

 でも文句言うのは違うよね。私は働きもせず家にいて、日曜のお出かけも自分のものを買いに行きたいだけ。健太が汗水垂らし一生懸命働いて稼いでくれたお金を使わせてもらうのだから文句なんて言えるはずもない。


 まあ、三人とも駄々をこねる歳でもないし、大人しくしてくれるだろうと、そう思うことにした。






 そしてその日曜日。

 姉ちゃんとは菱越百貨店で11時に待ち合わせ。


 家を出る前に、健太のお昼ご飯を用意して出かける。


「ママ電車乗るの?」

「そうだよ」


 陽太と美琴と香苗と久しぶりに電車に乗るが乗客が多く座れそうもない。


「香苗大丈夫?」

「わあっ」


 電車の揺れに合わせて子ども三人が揺れるのを吊り革を持っていない方の手で支える。


「ママ抱っこして?」

「え!? 香苗もうちょっと頑張れない?」


 香苗を、抱っこ?

 無理だ。電車じゃなければまだいけるけど、女の子とはいえわりと肉付きのいい香苗なんて抱っこしたら私が転倒してしまうかもしれない。そうなれば私じゃなく、香苗が危ない。


「ママ、ぼくは一人で大丈夫だから、ミコトとカナエと手つないであげて?」

「陽太大丈夫?」

「うん、お兄ちゃんだから」

「ありがとう。あと、美琴はママの足掴んでてね」

「うん、おにいちゃんガンバってるからミコトもガンバる」

「ありがとね美琴」


 軽く触れていた陽太から完全に手を離し、美琴を引き寄せ、香苗を自分の真下に立たせ、私はその手を香苗の脇の下へ入れぎゅっと掴んだ。




 電車を降りる頃には私はぐったりしていたけど、それでもそんな電車に乗れて楽しかったのか陽太も美琴も香苗も元気だった。右手に美琴、左手に香苗、その香苗と陽太が手を繋ぎ繁華街を歩く。

 日曜の昼間、人の多い中を子供たちがぶつからないよう歩かせる。


「ちゃんと前向いて歩いてね」


 すれ違う中で見掛けたのは仲の良さそうなある家族。お父さんが香苗くらいの子どもを抱っこして、お母さんは陽太くらいの子どもと手を繋ぎ、みんなが楽しそうに笑っていた。


 他と比べてしまいそうになる。

 よそはよそ。うちはうち。だけど、いいなぁ……。


 私だって幸せなはず、だと思っていたのは幻想だったのだろうか。




 早めに着くようにと出て菱越百貨店に着いたのは10時50分。待ち合わせ場所で姉ちゃんを探すがまだ来ていない。

 多分姉ちゃんはぎりぎりの時間に来る。仕事じゃどうか知らないけど、プライベートではわりとルーズになる姉ちゃんが五分前に来たら空から槍が降ってくるかもしれない。

 それくらい時間を守らない。というか時間に対してもおおらかなのだろう。姉ちゃんのプライベート辞書に「五分前行動」は存在しない。

 こんな所も姉妹で正反対だ。

 私なんて五分前でも少し焦るというのに。


「ママ、つかれた〜のどかわいた〜」

「水筒のお茶は?」

「ジュースがいい」


 くたびれた香苗がそう言って前方を指差すと、その先に自動販売機があった。


「んー……、ママのご用事が終わるまでは水筒のお茶にしない? 終わったら買ってあげるから」

「え〜〜〜」


 お茶があるんだけどな。でもここでぐずられると後が困るのも確か。


「ぼくもジュースがいいな」


 いつもは何かと我慢する陽太さえも目の前の欲望に負けたらしい。


「えー、じゃあミコトもジュース」

「ママ、ジュース」

「分かった。でも小さいペットボトルのジュースにしようね」

「はーい! どれにしよ?」

「ミコトはね〜」

「カナエも〜」


 そう言いながら小走りに駆けて行く三人の後を追っていると、入口のドアの向こうにいる姉ちゃんを見つけた。

 姉ちゃんもこっちが分かったのか手をあげる。


「陽太、美琴、香苗、ねえねが来たよ!」

「ねえね? どこ?」

「あっち、あっち」

「あ! ねえねだ!」

「ねえね〜」

「やっほー陽太、美琴、香苗! 待った?」

「まったよ〜、おそいよ〜、いまからねジュースかうの〜」

「そっかそっか、じゃあねえねが買ってあげようね!」

「姉ちゃんいいよ」

「いいって、いいって。さ、どれにする?」

「あのね、ママがねちっさいジュースにしようねって」

「そうなの? 大きいの買ってあげるよ?」

「姉ちゃんやめて。たくさん飲んだらトイレ行きたくなるでしょ?」

「そしたら行かせたらいいじゃん?」


 それはそうなんだけど、そうじゃない。三人とも同じタイミングでトイレに行かないから何度も何度もトイレを探すはめになるって言うのが姉ちゃんには分からないんだろうな。


「それに、お茶も持ってきてるからジュースは小さいサイズにして?」

「はいはい。……じゃ、小さいジュースね。よしよし、どれにする?」


 小銭を投入してくれる姉ちゃんを見ながら思う。――大人の手が増えるのは正直ありがたい。


 少しだけ肩の荷が降りた気がして、張っていた気を、ふぅ、と吐き出す息とともに少しだけ緩めた。



 姉ちゃんに買ってもらったジュースを持ってご機嫌な三人を連れ美成堂へ行くと、背筋をピンとのばした栞さんが両手をお腹の前に当てて微笑んでいた。


「栞〜」

「来た来た〜、きゃっ可愛い! こんにちは」

「こんにちは栞さん。すみません子どもたちまで一緒で」

「大丈夫ですよ。さ、こちらにどうぞ」


 中に促され赤いスツールに座らせてもらう。

目の前の輝くような白い台の上にある鏡にうつる、真っ赤なルージュの栞さんと、……そしてあっという間に現実に戻されるような顔をした老けたおばさん。


「お子さんたちはこっちに座ってていいよ」

「ほんと! わあすごい!」


 おませな美琴が興味津々に商品を見ながら椅子に座る。その横に陽太と香苗もジュースを握ったまま座った。


「真樹、子どもたちは私が見ておくから、ね、気になること全部栞に聞いたらいいよ」

「うん、ありがとう姉ちゃん。……栞さん、お願いします」

「はい。よろしくお願いします。ふふ、緊張してます?」

「あ、ちょっと。いや、結構? 初めてなんです」

「そうなんですね、じゃあお悩みを聞きましょうか?」

「はい、あの一番気になるのは皺で、それからシミも出てるし、肌のトーンが落ちてくすんで見えるし、乾燥してカサカサしてるし……」

「ほんと、この辺カサカサですね」

「そうなんです」

「化粧水はいつも何をつけてます?」


 その質問に、やっぱり大事なのは化粧水なんだと思った。


「ドラッグストアで買ってる安い化粧水を」

「大丈夫ですよ、安い化粧水でも自分のお肌に合っていれば」

「いや、合ってるかわからなくて……」

「ん〜そうですね、じゃあこの化粧水を試してみましょう。皺と乾燥に効いて、もちもちのお肌になりますよ。手を出してもらえますか?」

「はい」


 栞さんはテスターの化粧水をコットンにたっぷり出し、差し出した私の右手の甲にコットンを置いた。


「ゆっくりなじませたら、コットンを外して浸透していくように反対の手の平で押さえます」


 言われるままに従う。右手の上に左手を重ね、ひたひたと乗っている化粧水を押さえた。始めひんやりしていた化粧水も手の熱でだんだん温かくなっていく。


「どうですか? 右手と左手の甲を見比べてみてください」

「はい」


 ゆっくりと左手を離し横に並べると、明らかに右手の方が明るく透明感が増している。


「わっ、すごい」

「もちもちしてませんか?」


 指でつんつんとつつくと、少しだけ指に引っ付いて皮膚が持ち上がる。


「どうです?」

「すごい、全然違う」


 私は化粧水を甘く見ていた。こんなに感動するなんて思いもしなかった。だがその感動も始まりにすぎない。


「それじゃあお顔にも試してみていいです?」

「はい!」

「それではメイクを軽く落としますね」


 私はまるで人形にでもなったかのように、されるがままとなる。


 コットンに含ませたクレンジングでメイクオフされ、先程の化粧水をたっぷりと浸透されていく。美成堂というブランド効果なのか、とても贅沢な気分だ。


「次に乳液です」


 とろりとした乳液が肌の上に広がりなじんでいく。


「はい、どうですか?」

「なんていうか、……ツヤがある?」


 百貨店の明るい電灯が魅せるマジックかもしれない。でもそれだけではない何かを感じた。


「今日、これだけで実感してもらうのは難しいと思うんですけど、化粧水一本使い終わるまでにはきっと実感出来るはずですよ。それに真樹ちゃんの肌キメが細かくて綺麗だからお手入れしてあげればすぐに美しい肌に戻ります」

「キメ、……細かいんですか?」

「そうですよ。直子もキメ細かいから似てますね!」


 似てるのかな?

 プロが言うのだからそうなのだろう。


 似ていないと思ったけど、やっぱり同じ親から産まれているだけあるんだな、と思った。


「じゃあ次にファンデーションはリキッドで」


 そう言って栞さんはほんの少量だけを出し私の肌の上にのばしていく。


「あの、そんな少しの量でいいんですか?」

「そうなの。たくさん塗ってしまいがちだけど、真樹さんは塗らなくてもいいくらいだから額と鼻筋に薄くのばして、残ったものを薄く薄く他の場所へ広げていきましょう。額は気になる皺と同じ方向にゆっくり丁寧にのばしてね」

「はい」


 額の皺の溝の中に薄くのばしたファンデーションが入っていく。


「キレイなおでこ」

「ね! つるりと玉子みたい! それじゃあ今度はメイクね。まずは眉からいきましょう。眉もね、二種類くらい使いたいんだけど、今日はとりあえずこの一本でいきましょうか」

「はい」


 そうか。たかが眉毛なんて思わず、眉毛を書くのも丁寧にしなきゃいけない。


「毛の流れに沿って、一本一本書き足すイメージでね」


 右の眉、それから左の眉と書かれていく。


「次はアイシャドウ。今日はブラウン系でしたよね? いつもブラウン?」

「はい。子どももいるし、自然な感じにしたくて」

「そうね。だけど、今日はゴールドをアイホールに足してみましょうか」

「ゴ……」


 ゴールドなんて、と気が引けながらも、今日は栞さんに、プロに任せようと思った。

 目をとじると栞さんが何色のシャドウを入れているか見えなくなる。

 瞼全体に塗られたと思ったら瞼の際に線を引かれるような感覚を瞼の上下に感じる。


「はい、いいですよ」


 ゆっくりと目を開けると思っていたより落ち着いた目元の私が鏡の中にいた。


「思ってたより」

「そうなんです、そんなに派手じゃなく目元を華やかにしてくれますよね。このゴールドは濃いゴールドじゃなくて薄いゴールドなので普段使いにもいいですよ!」

「なるほど」

「それじゃあ次はチークと口紅だけど、真樹さんは――」


「あの栞さん!!」

「はい?」

「私に似合う色を教えてください。私全然分からないままチークはピンクで、口紅はベージュ寄りのピンクを選んでたんですけど、ほんとは何色が自分に合うのか全然分からなくて自信なくて……」

「大丈夫ですよ。見てみましょうね。まずはこのカメラでお肌を撮影します」


 そう言って栞さんは台の端に置いていたiPadから何やら操作してカメラを私の頬の下あたりに向ける。


 カシャ、と音がすると栞さんは「少し待ってくださいね」と言ってまた操作し始めた。


「はい出ました。真樹ちゃんのお肌は平均、ですかね?」

「平均?」

「そうなんです、これ日本人の肌に合わせたトーン表なんですけどね、この肌トーンにあった色味を自動で検出してくれるんですよ!」


 栞さんはその画面を見せてくれる。画面は一面が肌色に染まっていて、暗い肌色から明るい肌色、茶色っぽい肌色から黄色っぽい肌色と上下左右に広がっている。その上に十字のマークがあり、そこが平均点で、その近くに赤丸の印がついている。


「で、この赤丸が真樹ちゃんの肌色になります」

「へえ〜、最近の技術はすごいですね」

「ね〜、すごいですよね。さ、ここから似合う色を検出してくれますよ。どれどれ、真樹ちゃんに合うチークは、……そうですね、ピンクとかオレンジ系もオッケーですよ」


 栞さんはiPadをこちらに向けて画面を見せてくれる。そこには美成堂のチーク商品の中から私に合う商品が表示されていた。


「どれか試してみたいお色はありますか?」


 言いながらも栞さんの手は動き、テキパキと表示された商品を台の上に並べていく。


「えっと、どうしよ? むしろあり過ぎて分からないです」


 台の上に並べられたチークは6種類。それぞれ微妙に色が違う。


「ですよね。私の手に塗りますので、どれか気になれば教えてください」


 栞さんは右端のチークから手の甲に塗っていく。ピンクからだんだん色が変わりオレンジになっていく、その中間の色が気になった。


「これを、試してもいいですか」

「はい、とりあえず片方だけに付けてみましょうか」


 そう言って栞さんは私の右頬にそのチークを付けてくれた。


「あ、可愛いかも! 薄めにのせたんですけどね、もう少し濃く付けてもいいかもしれないです」

「そうなんですね。……あの、じゃあこっちの色を反対の頬に付けてもらってもいいです?」

「いいですよ! 待ってくださいね!」


 私がお願いしたのは今付けたものより、一つオレンジ側のもの。


「これもいいですね。どっちか、なんて選べないですね」

「そうですね、真樹ちゃんの好みもありますが、ほんとどちらも似合ってるから悩んじゃいますね!」

「はい」


 話しながらも私は右、左と見比べてどちらが似合うか真剣に鏡を見つめていた。

 どちらも甲乙つけがたい。だが、好きなのは最初に付けた方かもしれない。だけど、後から付けた方も捨てがたい、そう思っていると美琴が私の頬を指差した。


「ミコトはこっちのほっぺがすき〜」


 それは最初に付けた方。


「ほんと?」

「あ、私も同じー」

「姉ちゃんもそう思う?」

「うんうん、いいよ、その色」

「ありがとう。私も好きなのはやっぱりこっちだったから、良かった」

「では反対の頬を直しましょうね!」

「お願いします」

「お任せくださいね」


 栞さんが付け直す様子をみんなが黙って見ていた。


 チークと同じ要領で口紅の色も見てもらう。いつもベージュ寄りのピンク系だった私にぴったり来たのは青みがかったビビットピンクで驚く。


「まさか、なんですけど。絶対ないと思ってました」

「それでは試して良かったですね! とてもお似合いですよ」

「商品の色と、塗った時の色って違いますね」

「そうなんですよ、この商品実際より薄い色に仕上がるので、お試しされた方も驚く人多いんですよ。あと、乾燥が気になるって言ってたから保湿成分も入っているので普段使いしても乾燥をカバーしてくれますよ!」


 いつも使っている口紅は塗ると唇の乾燥が目立っていたけど、これは本当に気にならなくなる。


 欲しいな……、そう思った私に気付いたのか姉ちゃんが寄ってきてこっそり耳打ちする。


「それ、……高いよ? なんなら最初の化粧水より高いよ?」

「え!? まじで!?」

「うん。今日の予算は?」

「ええと、諭吉が一人?」


 ほんとは樋口一葉が一人って言いたいけど、それだと化粧水だけで終わってしまうだろう。


「じゃあ今日は化粧水と乳液だけね。口紅はまた次の機会にしたら?」

「うん、そうする。栞さん、ありがとうございます。こんなにたくさんメイクしてもらったんですけど、今日は化粧水と乳液だけもらえますか?」


 それだけしか買わないの?――とか思われたらどうしようと思いながらもお願いすると栞さんは微笑んでくれる。


「はい。もちろんですよ。少し待っててくださいね。ご用意します」


 良かった、と胸を撫でおろしながらもう一度鏡の中の自分を見る。

 そこには、いつもと違うメイクで輝く女性がいた。今なら姉ちゃんの横に並んでも恥ずかしくないかもしれない。


 そんな鏡を見る私に、近くの席にいたご婦人が話し掛けてくる。


「綺麗になるのって楽しいわよね」

「えっ」


 急に話し掛けられたことで驚く私をよそに、ご婦人はにこにこして、むしろ私より嬉しそうで楽しそうな表情をしていた。


「女はいくつになっても女でしょ?」

「はあ」

「死ぬまで美しくいたいじゃない? 自分を労れない人は他人も労れないのよ。心に余裕が出来れば自然と笑顔になる。笑顔になれば周りも嬉しい。優しい気持ちになる。お母さんが笑えば子どもは幸せ。ねえ?」

「うん! ママがわらったらミコトうれしい!」

「ハルタも!」

「ほら〜。ねえ、小さなお嬢ちゃんもママがにこにこしてたらうれしいよね〜」

「うん!」

「香苗……」

「ほらぁ、見て、みんな笑顔ね!」


 陽太も、美琴も、香苗も、それから姉ちゃんも笑顔。

 何者なのだろう、このマダムは……。


「お待たせしました――って、櫻井さくらい様、どうかされました?」

「違うのよぉ、栞ちゃん。女はいつまでも綺麗でいたいわよね、って話してただけなの」

「そうでしたか。私の目標は櫻井様ですからね、いつまでも綺麗でいてくださいね」

「ふふふ、目標なんて嬉しいわね」


 上品に笑うマダムにもくっきりとほうれい線が出ているけど、でもそれでも綺麗な肌だと思った。ウチのお母さんより歳上だろうに皺も少なくてシミはない。


――まじで肌キレイ


「あら、嬉しいわねぇ」


 私は咄嗟に手で口を押さえた。心の中で言ったつもりの声が出ていたのだ。


 美しくて、上品で、こんな風に年を取りたいと思うような女性。栞さんがこのマダムを目標にしているというのも納得できる。


「こんなおばあちゃんとお話してくれてありがとうね。楽しかったわ」


 そう言うとマダムは席を立つ。


「こちらこそお話してくださってありがとうございました」


 立ち姿まで美しいマダムに見惚れながらお別れの挨拶すると、栞さんが口を開く。


「櫻井様はね、美成堂ここのOGなの。結婚もせずずっと働いて、退職してからもああやって遊びに来てくださるの。お家で一人なのが寂しいんですって」

「そうなんだ」

「だからここに来て笑顔をもらって帰るんだって、前に言ってらしたわ。ここは女性を笑顔にする所だって」

「笑顔……」

「そう。いくら顔を綺麗にしたって心から笑ってなきゃ美しくない、って言うのが櫻井様の持論らしいわよ」

「そうなんですね」


 私はもう一度マダムが去って行った方向を見たがもうマダムのすっと伸びた背中は見えなかった。


「はい、真樹ちゃん。こちらが化粧水と、乳液です。あと、乾燥が気になるとの事だったので、サンプルにクレンジングジェルを付けておきますね」

「クレンジング、ジェル? オイルじゃなくて?」

「乾燥肌の方がオイルを使うと余計に乾燥してしまうんです。なので、使うならジェルやクリームをオススメしますよ。良かったら使ってみてください」

「私も使ってるよジェル」

「これを?」

「そうそう、このクレンジングジェル使うと乾燥が気にならなくなったんだよね」

「へえ〜、そうなんだ。クレンジングなんて気にしたことなかったな。化粧が落ちればいい、くらいにしか考えてなかったよ」


 姉ちゃんが使って「良い」と言うくらいだからいいものなんだろうな。多分それと比例して値段も「良い」んだろうけど。


 そんな事を考えながら会計をし、諭吉が一人飛んで行った。これはウチの家計には痛い出費だ。諭吉一人分で何日の食費になるだろう。もしくは子どもたちに新しい服でも買ってあげれたのに、と考えてしまう。


 それを首を振って遠ざける。


 ダメダメ。このままじゃおばさん街道まっしぐらで、健太が余計に不倫や浮気に走ってしまう。


 これはそれを防ぐためなのだから仕方ない。この出費は他で節約しカバーしようじゃないか。






 栞さんに何度もお礼を言って美成堂を出る。


「お腹すいたママ〜」

「そうだね、早くお家に帰ろうか」


 お昼代だって馬鹿にならない。ここは家に帰っておウチご飯を食べさせるのが一番だとそう思ったのに……。


「え!? もう帰るの? 近くにキッズスペースのあるお店があってさ、そこに一緒に行こうと思ってたのにー」

「いや、ごめん」

「ママお腹すいた〜」


 香苗が足に絡みついてくる。その横で「ミコトも」「ぼくも」と声が揃う。


「ほら行こうよ! 香苗なんて家まで保たないんじゃないの? ほらほら、さっ、行こう!!」

「えっ、ちょっと姉ちゃん!?」

「ねえね、どこ行くの〜?」

「ん? 美味しいとこだよ!」

「いくいく、おいしいいく〜」

「よし、出発〜」

「しゅっぱ〜つ」


 歩き出す姉ちゃんの後ろで私は大きく息を吐き出した。


――ほんっと人の話し聞かないんだからっ


 でもそこに悪意はなくて、むしろ子どもたちは笑顔になり足取り軽く姉ちゃんの横を着いて歩く。


 美成堂にいる間だって子どもたちの面倒を上手く見ていた姉ちゃん。私なんかよりよっぽど母親らしくも見えた。




 姉ちゃんが連れて来てくれたのはイタリアンカフェ。イタリアンというよりはどこか落ち着いたファミレスのような雰囲気で、奥の一角は広々としたキッズスペースになっている。


「ママあそびたい」

「ごはん来るまでだよ?」

「はーい!」

「陽太もお子様セットでいい?」

「うん、いいよ。ぼくも行ってくる!」


 早々にキッズスペースに行った子どもたちの様子を見ながら料理を注文し、お冷を飲んで、ふー、と息を吐き出す。


「どうだった美成堂?」

「うん、行って良かった。姉ちゃんありがとう」

「でもいい値段がするんだよね」

「だね〜。だけど今の自分には必要なのかなって思うよ。だからちょっと頑張ってみる」

「そっか。……ねえ、真樹は働かないの? パートでもすれば自分で好きに使える分が増えるじゃん?」

「そうだね、仕事も考えたことあるんだけどね、健太に相談したら子どもが幼稚園に通う間は何があるか分からないし家にいたら、って言われちゃったんだよね」

「そうだったんだね」

「……姉ちゃんが羨ましいな」

「なんで? 私なんて真樹が羨ましいけど?」

「嘘だー。姉ちゃんに羨ましがられる所なんて何もないよ」

「そんな事ないけどな……」


 きっと慰めくらいの気持ちで姉ちゃんは「羨ましい」なんて言ってるんだろうけど、そんな事言われたら余計に惨めになる。


 綺麗に整えられた爪。艶やかな髪。どれも私とは正反対。自分だけのために時間もお金も費やせる姉ちゃんが本当に羨ましい。


「今日は健太さん休み?」

「うんお休み。家にいるよ」

「じゃあ迎えに来てくれるの?」

「迎え? ないない。電車で帰るよ」

「健太さん家にいるんでしょ? 迎えに来てーって言えばいいじゃん?」

「姉ちゃんは言えるかもしれないけど……」

「なに? 夫婦でしょ? 甘えればいいじゃん?」

「無理」

「なんで?」

「なんでも!!」


 迎えになんて来てくれるような人じゃないんだもん健太は。


「真樹はほんと、何て言うか真面目だよね」

「姉ちゃんと違ってね」

「そうなんだよね、だから結婚出来ないのかな?」

「私が出来たくらいだから姉ちゃんこそすぐ結婚出来るでしょ。私は姉ちゃんが羨ましいよ。恋愛してみたかったな。私は健太が何もかも初めての人だから恋愛経験値なんてないようなもんだし」

「真樹……。だけどさ今の私の話し聞いたら笑うよ? 聞く? ……いまさ焦って結婚相談所とか行ってるんだよね〜」

「姉ちゃんが?」

「40も過ぎて出会いなんてないの。この間もお母さんにお見合い相手探してあげるって言われて、困るよもう。40、50代でいい人なんてもう家庭があるでしょ? だから何か問題があるから結婚出来ないって目で見られる。辛辣だよ。お前も同じだろーって内心では吠えてるけどね」

「そっか」

「フリーだから恋人が出来るわけじゃない、結婚したくても子ども産みたくてもパートナーがいないとね……。私なんてさ一人で生きていけるだろ、って言われるんだよ。一人でどうやって子ども産めって言うんだろうね……」

「姉ちゃん……」


 弱った姉ちゃんの顔なんて初めて見る。吐露する胸の内にはまだまだ吐き出されていないものが存在するように見えた。

 姉なのに、どこか幼い少女のような表情。ぎゅうと抱き締めてあげたい、なんて思っていると料理が運ばれてきた。


「あぁ、お腹いっぱい」

「ごちそーさまー、ママまた遊んでいい?」

「うん、いいよ」


 食後のコーヒーを飲むくらいの時間、子どもたちはまだ遊べるだろうと椅子からおろす。


「元気だよね」

「無尽蔵だよ、あの子たちのパワー」

「見てるだけでこっちが元気もらえる」

「私は疲れるな〜、でも寝顔は天使だよね」

「絶対癒やされるやつじゃん。あー、癒やしで思い出した」

「なにを?」

「うちのアパートの前にマンションあるじゃん」

「あー、あのベランダから手を伸ばしたら窓に届きそうな?」

「そう! いや、届かないけどね。そのマンション、ペット可みたいでさ、そこの窓際にネコちゃんが座ってんの。もう、めちゃくちゃ可愛いくてさ、私の最近の癒やしはもっぱらそれよ」

「姉ちゃんネコ好きだもんね」

「そうそう、うちのアパートは飼えないけどねぇ」

「引越せば?」

「そんな簡単に言わないでよ。それに今の所も案外気にいってんだから」


 ふ〜ん、と相槌をうっているその時、私のスマホがブルブルと震え出す。


「あれ、健太からだ。ちょっと電話出るね」

「いいよいいよ、どうぞ」


 姉ちゃんに、ごめん、と言いながら画面をタップして通話にする。


「もしもし?」

『……あの、さ、……まだ外?』


 歯切れ悪く言う、健太の低い声が耳に届く。


「うん、まだ。あ、ごめんね、そろそろ帰るよ」

『それなら、その、迎えに行こうか?』

「え?」

『嫌なら……』

「嫌じゃないよ! ほんとに? ありがとうお願いします。今から家出る?」

『あ、家じゃなくて会社なんだ。ちょっと呼び出されて会社来てて』

「そうなんだ、じゃあ近くにいるんだね。もう仕事の方は終わったの?」

『ああ』

「それじゃあお願いします。場所はね――」


 今いるだいたいの場所を伝えると健太は、分かった、と言って電話を切った。


「健太さん迎えに来てくれるの?」

「そう。珍しい。って言うか最近なんか優しいんだよね」


 優しくて、怖いくらい。


「健太さんが優しいのなんて初めからでしょ?」

「え? ……そう、だよね。いや、でもなんていうかいつもと違うって言うか」


 不倫してるかも――なんて不確定すぎて言えない。


「姉ちゃん、今日はありがとうね」

「お安い御用ですよ」

「さてと、陽太ー、美琴、香苗、トイレ行こう。パパが迎えに来てくれるって」

「パパくるの?」

「そうだよ、だから帰る準備しよっか」

「はーい。トイレいってくる」

「カナエもおしっこいく」

「はいはい、みんなで行こうね」


 三人をトイレに連れて行き席に戻ると荷物をまとめてお財布を出す。


 だけど、さっきまで横にあった伝票がない。


「姉ちゃん伝票持ってる?」

「うん。もう払っといたから」

「え、ちょっと駄目だよ、えっといくらだったっけ」


 お子様セットと自分が頼んだメニューがいくらだったか頭の中で計算しようとすると、


「いいから、いいから。今日はね私のおごり! あ、今度また時間潰しに寄らせてね!」

「え、それくらい全然いいけど。ほんとにいいの?」

「いいの、いいの。みんなと外で食事なんてなかなか出来なかったし」

「姉ちゃん、ありがとう」

「いいえ」 


 にこり、と笑う姉ちゃんの笑顔はとても輝いて見えた。



 姉ちゃんと別れ、迎えに来てくれた健太の車に乗る。


「ありがとう、助かります」

「いや、べつに」


 子どもを後部座席に乗せ、私は助手席。乗った瞬間すぐに違和感を感じた。

 ――匂いが変。


 残り香というのかほんのりとフローラルな匂いが漂っている。それは女性ものの香水を想起させるようで、不倫相手がこの助手席に乗っていたのではないかと嫌な想像に胸が苦しくなる。


 でも会社に行ったって言ってたし、ここに来る前に社内の人を駅まで送った可能性だってあるんだから、悪い方にばかり考えてはいけないと前向きに考えた。


 そうだ、いっそのこと健太に聞いてみようか?

 疑心暗鬼のまま家に帰るのなんて嫌だもん。


「ねえ健太。迎えに来てくれる前に誰か乗った?」

「え? ああ乗った」


 誰が乗ったかは言ってくれないの?


「誰?」

「誰って、そりゃ、……会社の人」

「そっか」


 そうだよね、と納得する一方で、堂々と不倫相手です、なんて言うわけないか、とも思う。だけど私はこれ以上聞けなかった。


 『誰?』と聞くだけでも心臓がバクバクしてるのに。


 このまま何も分からないふりして、波風立てずに暮らしていく方が幸せなのだろうか?


 窓に自分の顔がうつる。

 プロの手で綺麗に化粧までしてもらったけど、「綺麗だね」と一番言って欲しい相手は無関心。


 結局この日、健太から綺麗だねの一言ももらえなければ、何を買ったのかも聞かれることはなかった。




コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?