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2.出来の良い姉



「お待たせ」

「久しぶりだね直子、元気?」


 日曜の昼間、カフェで待ち合わせをしていた同い年の理恵りえの向かいに腰を下ろす。


「元気だよ。理恵は?」

「うん、ちょっとね……」


 途端に顔の曇る理恵を見て、今日の呼び出しはかと見当を付ける。


 私と理恵は同期だった。部署こそ違えど、同期は少なく仕事についてお互いに励まし合う内に仲良くなるのに時間は掛からなかった。


 それから仕事に慣れた頃、理恵は総務部の先輩と付き合う事になり、恋の相談も幾度となく受けてきた。そして2年後、理恵は寿退社したのだ。


「あー、先に何か頼もうか! ええと、ジュースの種類はあんまりないみたいだけど、理恵は何飲む?」


 ドリンクメニューを開き理恵に見せるが、理恵はチラッと視線をやっただけで、もう決まった、と言う。


「コーヒーで」

「え? カフェインは控えてるんじゃないの?」

「やめたの」

「やめた?」

「そう」


 理恵は窓の外へ視線を傾けると灰色に染まる曇天を見上げ、はあ、とため息を吐く。


「理恵?」

「妊活。……やめたの。もう精神的に参っちゃって」

「そ、……んな……」


 子どもは三人くらい欲しいな、と無邪気に笑っていた新婚当初の理恵の声が蘇り、切なくなると、鼻の奥がつんと痛み出す。


「でもね、聞いて聞いて、70歳で子ども産んだ人もいるんだよ。すごくない?」

「え、70歳!? 私たちまだ40歳じゃない、まだまだ頑張れば行け――」

「頑張れない。私はもう頑張れない。だけど直子はまだ頑張れるんだよ」

「私?」

「直子、私が言うのも何だけど、少しでも産みたい気持ちがあるなら直子には母になる偉大さを経験してもらいたいな」

「理恵……」

「ごめん。私が妊娠出来ないからって直子に押し付けてる訳じゃないんだよ」

「うん、分かってるよ。それに私も35歳を過ぎた時は高齢出産か〜ってちょっと諦めたけど、40歳過ぎると本当に産みたくなった時に産めなくなる、って焦ったんだよね」

「じゃあ」

「うん、だけど相手がいないことにはな〜」

「いないの?」

「いないよ。前の彼氏は『直子は一人で生きていけそう、俺なんていらないよね?』って言われてそれから音信不通だし」

「直子?」

「なに?」

「とりあえず出会いを求めようか?」

「40歳で合コン? イタくない?」

「おばさんたちの合コン? 相手はおじさん?」

「絵面的にキツイね……」

「マッチングアプリは?」

「出会い系?」

「言い方古いよ。それとも結婚相談所?」

「あー、なるほどね。……ん? っていうかさ、私が結婚するって想像出来ないわ」

「直子が結婚……。あ〜〜、直子が男だったら私が結婚してあげるよ?」

「え? 私の立ち位置、夫なの? それだとさ奥さん見つけなきゃ、ってことになるよね?」

「そうだね」

「理恵」

「ごめん」

「とりあえず、何か注文しよ?」





 近況報告に終始し、気付けば理恵は帰る時間。


「もうこんな時間だ。今日はありがとう。また近いうちに会えるといいけど」

「そうだね。これからはゆっくりと趣味でもしながら過ごしなよ?」

「ありがとう。直子もいい出会いがあったら教えてね! じゃあね」

「じゃあね」


 カフェを出て理恵と別れる。空を見ると灰空は黒く染まり始めていた。そろそろひと雨くるだろうか。空を見上げたまま一歩踏み出したその時、前から来た人と肩をぶつけてしまった。


「すみません」

「すみません」


 咄嗟にお互いが謝る。謝りもせず通り過ぎて行く人の多い中、きちんとした人だなと思っていると、その人が「あ」と声を出す。怪訝に思いながら見上げるとそこには見知った顔があった。


「ムクモクの久保田さんでしたか、すみません。大丈夫ですか?」

「ああ、ご心配なく。私は大丈夫です。星野ほしのさんこそ大丈夫でしたか?」

「はい。何か外でお会いするのって変な感じがしますね、いつもオフィスですから」

「そうですね」


 少し困ったように微笑む彼は星野伊織ほしのいおりくん。私よりずっと年下。30歳前か30歳ちょうどかそんな所。木製玩具のパッケージデザインを依頼している会社――a&Eあんどいーデザインのデザイナーさんだ。


「星野さんは今日はお仕事? ……じゃないですよね。これからデートですか?」

「デートなんてそんなまさか!? いやいや僕なんて……。きょ、今日はちょっとデザインに煮詰まって外に出ただけでして……」

「そうだったんですね。私、星野さんのデザイン優しくて温かみがあって好きです」

「あっ、りがとうございます」


 星野さんは照れたのか鼻の頭を人差し指で撫でる。と、その時大きくお腹の鳴る音が響き雑踏に溶けた。

 奏でたのは私じゃない。


「すみません、……恥ずかしいな……」

「お腹すいてるんですか?」

「そういえば今日はまだ何も食べてなかったかなぁ?」

「え? ちょっともう夕方ですよ?」

「大丈夫です。いつもこんな感じなので……」

「大丈夫じゃないです! 倒れたらどうするんですか?」

「はい」

「はいじゃないですよ! 星野さんが倒れたら誰がウチのパッケージデザインしてくれるんですか?」

「いや、そこですか? 大丈夫ですよ、ウチにも優秀なデザイナーはまだいますから」

「とにかく何か食べましょう」

「へ?」

「何がいいです? 和食? 洋食? 中華? イタリアン? それとも――」

「そこの」


 強めにそう言いながら星野さんは近くの定食屋を指差す。


「そこに行きたいです」

「はい。じゃあそこに行きましょう」


 私はにっこり笑った。


 だけどさ、別に私が一緒に着いて定食屋に行かなくても良かったわけで……。

 まあでも小腹もすいていたからいいか、と思うけど、星野さんにとってはクライアントのおばさんなんかと一緒にごはんを食べたくはなかったかもしれない。


「えっと私……別の席に移りましょうか?」

「どうしてですか?」

「どうしてって……、星野さんは嫌じゃないですか?」

「……?」


 きょとんとする顔が少し幼くてちょっと可愛い。陽太や美琴や香苗も、私の言動に理解出来ない時よくこんな顔をする。


「僕は酢豚定食にしますけど久保田さんは?」


 そう言ってお品書きをこちらに向けてくれるから、私は星野さんと同席してもいいのだろう。


「んー、どうしようかな……。じゃあ、これにしようかな。豚と野菜の黒酢あん定食」

「はい。すみませーん」


 店員を呼んで私の分も注文してくれる星野さん。いつもは資料を見ながら打ち合わせするからこんなにまじまじと正面から顔を見る事などなくて、改めてその整った顔面を不躾なくらい眺めていた。


「あの? 何か顔に付いてますか?」

「う〜ん……、ねえ星野さんモテるでしょ?」

「ええっ!? いや、何の話しですか?」

「あっ、ごめんなさい。モラハラになっちゃいますよね」

「そんな事は……ないです、けど……」


 俯いてしまった星野さんを見て私は反省する。ほんとどうしてこうすぐに口に出してしまうかな……。口は災いのもと、と言うくらいだから私は余計な事を勝手に口走らないよう努める。


 だが、沈黙は苦しい……。


 何か話そうか?

 話題は何がいいか?

 さて、どうしよう?


 そう悩む間に星野さんの顔が上がる。


「あの、僕も聞いていいですか?」

「は、はい。どうぞ。何でも聞いてください」

「休日に僕なんかと食事して、……その、……彼氏さんは怒らないですか?」

「大丈夫、大丈夫! 心配御無用! 彼氏なんていませんから!」


 ははっ、と乾いた笑いが漏れる私とは反対に、何故か星野さんの顔色が悪くなる。


「すみません、聞いてはいけない質問でしたよね……、すみません」


 早口に謝って項垂れる星野さんを見て今度は私が申し訳なくなる。


「いやいやいや、いいんですいいんです!!」


 顔の前で両手を振ってみるけど、気まずい空気は漂ったまま。もう、やだやだ。どうしたらいいのよこの空気……。


 と、そこへタイミング良く注文した定食が運ばれてきた。


「お待たせしました酢豚定食です」

「こちらへ」


 振っていた両手のうち片方だけを星野くんの方へと手の平を上に向ける。


「豚と野菜の黒酢あん定食です」

「はい、ありがとう」


 定食様々。感謝する。


「じゃ、食べましょっか。いただきます」

「いただきます」


 いい匂い。食欲をそそられる甘辛い香りが鼻腔をくすぐった。



 定食を食べ終え箸を置く。星野さんは私より先に食べ終えていた。お冷やを空にすると、お互いに店を出ましょうかという雰囲気になっていた。


 だが店を出るとしとしとと雨が降り始めている。


「傘ありますか?」

「いえ、持ってきてなくて」

「ちょっと待っていてください」


 店前の軒下でそう言い置くと星野さんは雨の中へ飛び出していた。


「えっ?」


 視線だけでその背中を追う。雑踏を行き交う人々の間に紛れ込み見失い掛けたが、微かに背の高い頭が走って向こう側のコンビニへ入ったのが見えた。


「もしかして傘買いに?」


 それなら一緒にコンビニまで走ったのに。40歳のおばさんは雨の中走れないと思われているのだろうか。


 いや……ちょっと厳しいかな? スニーカーならまだしもヒールの高い靴では彼と並んで走るのは無理だろう。今日は理恵に会うからと張り切ってオシャレをしていた。

 きっとのろのろと走る私に付き合って、二人でずぶ濡れになるのがオチだ。


「若いっていいなあ。私もいつの間に歳を取ったんだろ?」


 その『いつの間に』という間に私は結婚もせず出産もせず、仕事に生きてきた。

 独りで生きていけると思っていたけど、やっぱり今日みたいに誰かと一緒に食べるご飯は美味しいし、理恵と話したみたいに気兼ねなく自分の情けない話しが出来る相手も欲しい。

 こんな事を思う時ばかりは妹の真樹が羨ましくなる。優しい旦那さんに可愛い子ども。男の子と女の子がいるなんて私には完璧に見えてしまう。

 そう思いはするけどたとえどんな子であったとしても子どもは元気に育ってくれれるのが一番――そう思いながらお腹の下辺りに手を当ててみる。やっぱり子宮を使わずに死ぬのは嫌だなぁ〜。


「それにはやっぱり婚活するのが一番かな?」


 視線の先、傘をさす星野さんが見えた。


「よし、登録しよう!」


 まずはマッチングアプリ?

 いや、それとも結婚相談所?

 お見合いパーティーという手もあるな……


 そんな決意をしているなんて知らない星野さんが戻って来る。


「お待たせしました。この傘使ってください」


 そう言って星野さんはさしている傘を私へ持たせようとするけど、その傘を私がもらったら星野さんの手には傘がなくなってしまう。


「でも、星野さんの傘は?」

「すみません、最後の一本だったみたいで。僕は大丈夫です。久保田さんが使ってください」

「いやいや、そんな訳にいきませんよ。私、そこの駅までだから大丈夫です」

「それじゃあ駅までご一緒させてください」


 星野さんは私に渡そうとした傘を私には渡さず、二人の頭上に掲げた。


「行きましょうか」

「ありがとうございます」

「いえ。……濡れますからちゃんと入ってくださいね」


 言われるまま、二人の間にある隙間をなくす。


 密着。

 腕が当たる。

 ……なんだか恥ずかしいのはどうして?


 ちらっと星野さんを見るが、あまりに近過ぎてすぐに目線を前に戻した。これじゃまるで中学生の乙女みたいじゃない。違う違う! 私はもうおばさん、私はもうおばさん、と唱えた。



 駅に着く。すぐに傘から出て頭を下げた。


「ありがとうございました」


 頭を上げて見た星野さんの右肩だけが濡れていて私はすぐにハンカチを出す。


「ごめんなさい、濡れてしまいましたよね」


 ハンカチ越しに濡れた肩は冷たいように感じる。


「いいです、久保田さんのハンカチが濡れてしまいますよ。僕なら大丈夫です、気にしないでください」

「ハンカチは濡れたものを拭くためにあるんですよ。だから使ってもらえないとハンカチが悲しみます。ね? 遠慮せず使ってください。むしろ星野さんに風邪をひかれてはいけません」

「これくらいで風邪ひいたりしないですから……。でもハンカチありがとうございます。洗濯してお返ししますね」

「いいですよ、このままで」


 星野さんの肩に置いたハンカチを引っ込めようとすると、ハンカチを持つ私の手ごと星野さんの大きな手に掴まれた。


「ハンカチは洗濯します」

「は、い……」


 重なる手に少しだけ驚いている私の手からあっさりとハンカチが抜き取られていく。


「それじゃあこの傘は久保田さんが使ってください。どうぞ」

「いや、でも……」

「電車降りても家に着くまでに濡れますよ? 僕は駅から近いのでそんなに濡れないですから」

「ほんとにいいんですか?」

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます。……あの、傘おいくらでした?」


 コンビニの傘って500円くらいだったよね? そう考えながら鞄からお財布を出そうとしたけど、ぐっと止められる。


「いりません」

「でも」

「いくらだったか忘れました。レシートももらってません。だから……」

「……本当に?」

「はい。ご飯に付き合ってくださったお礼とでも思っていただければ」

「そう? ……それじゃあ傘使わせていただきます」

「今日はありがとうございました」

「私こそありがとう」

「ハンカチまた次の打ち合わせの時にお返ししますね」

「うん、いつでもいいですよ」

「はい。それでは失礼します」

「失礼します」


 お互い軽く頭を下げて背中を向け合う。足を一歩前に進めて私はゆっくり後ろを向いた。


 星野さんもゆっくり振り返ると、二人の視線が重なった。軽く微笑む星野さんがハンカチを持ったままの手を顔の横まで持って会釈するので、私は鞄を持ってない手で軽く振り返す。


 そして今度こそお互いの背を向けて歩き出した。

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