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1.出来の悪い妹


「急にごめんね、真樹まき

「いや。いいけど、姉ちゃん仕事は?」


 平日の午前中。玄関のインターホンが軽快に響くのとは反対に、私の眉間はくっきりと皺を寄せて「誰だよ?」と毒付いて突然の来訪者を招き入れた。


「取引先がこの近くでね、次の予定までちょっと時間があったから久しぶりに真樹の顔見に来たの!」


 爽やかな笑みを浮かべてそう言う直子ねえちゃんは私と違ってキラキラ輝いている。


「コーヒーでも飲む?」

「コーヒーはさっきいただいたんだよね。だからお構いなく〜」

「って言われてもね……」

「じゃあお茶でいいよ」

「冷たいの? 温かいの?」

「あったかいので」

「はいはーい」


 ソファに腰を下ろす直子ねえちゃんの豊かな髪がふわりと揺れる。

 ハリとコシのある艶やかな髪の毛に、まつ毛は長くくるりと上向き、ぽってりとした唇は血色も良く赤いルージュが美しさを際立たせている。


 それなのに同じ母親から産まれたはずの私は、肌はボロボロ、しみもそばかすも増えていく一方で唇だってケアしてもすぐに乾燥して皮むける。髪もパサパサで枝毛もあちこちにある。


 私たち姉妹は何もかも正反対。


 私にないものを姉ちゃんは全部持っている気さえする。


 姉ちゃんが羨ましいと思ったのはいつからだったかもう思い出せない。


 鈍臭い私が唯一姉ちゃんにまさったのは先に結婚して子どもを産んだことくらいだろうか。


 でも結婚にしたって見兼ねた両親が私のために縁談を持って来てくれたから叶ったことなのだ。縁談さえもなければ私は今も姉ちゃんと同じ独身だったかもしれない。


 もしそうだったとしたら、姉ちゃんはバリバリ働けるのに対して私は実家で親のスネをかじって生きていただろう。


 こんな私は劣等感だらけの出来損ないなのだ。


 両親は昔から私たち姉妹を比較していた。

『直子は全く心配することはないのに、真樹は本当に誰に似たのかしらね?』『こんな初級レベルもわからないの?』『簡単でしょ、直子は初見で出来たわよ。真樹はどうして出来ないの?』


――ごめんなさい、ごめんなさい。出来なくてごめんなさい。


 何度、泣きながら謝っただろう。


 姉ちゃんは、褒められて、抱き締めてもらえるのに、私にあったのは両親の重いため息だけ。


 私は親の愛が欲しかった。



――愛されたかった。



 私が望んだのは、ただそれだけ。



 そして今もまた私、北島真樹きたじままきはそれを欲している。



 姉ちゃんはお茶を飲み干すと来た時と同じように颯爽と帰って行った。いや、働きに出て行った。

 出た瞬間、姉の顔から働く女性の顔になったのをカッコいいとさえ感じながら玄関を閉める。


 部屋にほんのり残されたフローラルの香りは姉ちゃんの使う柔軟剤か香水か何かなのだろう。

 それをなかったことにでもするように、消臭&芳香スプレーをシュッシュッと吹いて、我が家の匂いに戻すと、途端に安堵のため息が出た。


「はあー」


 直子ねえちゃんのことは好き。だけど、どうしたって比べてしまう。比較しても無意味だと分かっているけど、幼い頃から両親に比較されてきた癖が身についているのか、なかなかにそれを止めることなど出来ないでいた。


 そうして比較して、落ち込む事が分かっているというのに。






 年少の香苗かなえと、年長の美琴みことと、小学1年生の陽太はるたを寝かし付け時計を見ると21時半を過ぎていた。

 スマホに届いていたメッセージを確認すると、夫の健太けんたから「帰る」と二文字だけの飾り気もない端的でかつ明確なメッセージが入っている。


 結婚当初はそれに可愛いスタンプで「お疲れ様」と返信していたのに、今は「お」と入力するだけで「お疲れ様でした」と変換されてしまうから、私は可愛げなくそのまま送信するのだった。


 健太とのメッセージの履歴は「帰る」と「お疲れ様でした」の応酬ばかり。


 絵文字さえ一つもない。


 それは夫婦関係そのものを表現しているようでもあった。


「いけない、もうすぐ帰って来るって。ごはん温めなきゃ」


 健太が「帰る」と送った時間は15分前のもの。あと10分ほどで帰って来るだろう。「帰る」と送られてきたからには、帰って来た時には温かいごはんを準備していないといけない。


 おかずをそれぞれレンジに入れて温め直し、お味噌汁の鍋に火を入れる。ケトルでお湯を沸かして緑茶を淹れ、テーブルは軽く拭き直して箸を配膳する。


 レンジがピーと音を立てるのと、玄関の鍵が解錠したのは同時だった。


「おかえりなさい」

「ただいま」


 聞こえるか聞こえないかの声量で健太は言うと、そのまま洗面所に手を洗いに行く。その横顔をこっそり見ながら、とくに機嫌が悪そうではないことに安堵した。


 元々、寡黙な健太だが、機嫌が悪いと顔つきも雰囲気も悪くなる。だから次第に私は健太の顔つきを確認するようになった。


「はい、どうぞ」

「いただきます」

「ビールいる?」

「いい」

「あっ、今日ね急に姉ちゃんが来たんだよ」

「そう」

「連絡もなしに来られると困っちゃうよね」

「ん」

「…………」


 健太の反応が薄いのなんて今に始まった事ではない。


「そのお味噌汁ね、今日は昆布と鰹節からお出汁取ってみたんだ」

「そう」

「おひたしは? どう?」

「ん」

「…………」


 感想なんて、……求めてないけど、でもなんだか胸の中がムズムズする。返す言葉にくらい心を込めて欲しい。せめて隠し味に入れるほんの少しの調味料くらいの真心が。


「そうだ、陽太はるたね、学校のテストで100点取ったんだよ!」

「ふうん」

美琴みことはね、幼稚園のお弁当残さず食べたんだって……」

「そう」

香苗かなえは、……」

「うん」


 聞いてる? 聞いてない?


「…………」

「…………」


 健太の反応が薄いのは……、分かってる……。


 でもでも、反応が薄いのなんて今に始まった事ではないと、理解していても、どうしたって反応を求めたくなるのはどうしたらいい?



――私は貴方と話したいよ? 貴方は?



 私は健太にとって妻などではなく、同居人もしくは家政婦程度の認識ではないだろうかと疑問を抱くようになっていた。


――私たちの間に愛はありますか?


 香苗を妊娠してから夫婦の営みもない。

 私はそんな疑問を抱いたまま、貴方の妻として一生を捧げることが出来るだろうか。健太の隣で私はどんな顔をしていればいい? 妻の顔をするのはおこがましいって思う?


 私の人間としての性能が良くないことは重々承知している。私がポンコツだからと諦めるべきだろうか。


 分からない。


 私はどうしたらいいか分からなかった。




 その翌日の夜、どうしたことか健太の口から「美味しい」という言葉が漏れ、私は仰天してしまう。


「え? 何て?」

「美味しいって、言ったけど……」

「あ、ありがとう……」


 でもどうして、と聞いて嬉しいはずの言葉に疑問ばかり出てくる。


 健太が口にしたのは鯖の塩焼き。

 美味しいと口から飛び出てしまうほど美味しかったとか?


 だけど健太は魚より肉派。あーー、だけど年を重ねて魚が好きになったのかもしれない。


「脂が乗ってて美味しかった?」

「脂?」

「鯖」

「ああ鯖? ちょっと乗りすぎじゃない?」

「え、そうだった? ごめんね……」

「あ、えっと、あの」


 珍しく健太が言い淀む。


 やっぱりなんかおかしいでしょ?



 だけど健太がおかしいのはその日だけに留まらず、それから数日続くこととなる。



 次の日は白米を食べて美味しいなんて言うし、その次の日は朝からお茶を飲んで美味しいと言う。


「体調悪い?」

「いや」

「無理してない?」

「っ!!」


 私の質問に驚いたのか健太の瞳孔が開く。


「そっ、……さ、あ。……この、……ユデタマゴもオイシイな……」


 なぜ棒読み?


 不信感あらわな私の表情を見て健太は茹で玉子に塩をふりまくり、パクリと飲み込むように口に入れる。


 今日の茹で玉子だって健太の好きな黄身が半熟ではなく、固茹で玉子になってるし。もっと言えば玉子なんて特価品チラシのひとパック88円の安い玉子だよ?


「行って来る」

「行ってらっしゃい」

「パパ行ってらっしゃいー」

「ああ、行ってきます」


 出て行く時にはいつも通りに戻っている健太を見送って、それから小学生の陽太を送り出す。


 食卓を見ると、まだ朝食をゆっくり食べていた美琴がちょうど茹で玉子を口に入れていた。少食の香苗はすでに歯磨きをしている。


「美琴、玉子美味しい?」

「うん、ふつう」

「普通か。そうだよね」

「なんで?」

「ううん、何でもないよ。牛乳おかわりいる?」

「もういらない〜。ごちそうさまでした〜」

「はーい。歯磨きしてね!」

「うん」


 食卓に残っている茹で玉子を手に取る。いつもは匂いなんて嗅がないのに今日は何となく鼻を近付けてみた。


 特に何もない。いつもの匂い。


 塩もマヨネーズも付けずに一口齧るけど、それでもやっぱり普通の茹で玉子。

 健太は本当に美味しいと思って「美味しい」と言ったのだろうか?

 それとも何かを誤魔化すかのように咄嗟に「美味しい」と言ったのだろうか?


 私はそんな健太の言動に違和感を覚えてしまった。



 自転車で10分ほどの距離にある幼稚園に美琴と香苗を連れて行くと、ママ友の千春ちはるさんと出会った。


「おはようミコトちゃん、カナエちゃん」

「おはようアオイちゃん」

「おはよー」

「おはよう千春さん」

「おはよう真樹さん」


 千春さんの娘、アオイちゃんと美琴は大の仲良し。幼稚園のクラスでもいつも一緒にいますと担任の先生がよく言っている。


 私自身も、穏やかな千春さんとは一緒にいても楽しいと思えていた。おしゃべり好きなママたちから一歩引いていた私たちは陽太が幼稚園に入った頃からのママ友だ。千春さんにも陽太と同い年になる息子、ヒカルくんがいる。陽太とヒカルくんも仲は良く同じ小学校に通っている。


「それじゃあね美琴、香苗」

「ママ、バイバイ! いってきまーす」

「ばいばーい、ママ」

「お預かりします」

「お願いします」


 それぞれの担任の先生に美琴と香苗を預け、先に前を歩く千春さんの隣に並んだ。


「千春さん?」


 どうしてか千春さんの横顔が重苦しく感じて、私は話し掛けようとした内容がすっぽりと抜けてしまう。


「どうした?」

「ああ。真樹さん……」


 ともすれば泣いてしまいそうな顔の千春さん。


 こんな時、どう声を掛けてあげたらいいだろうか。こんな時、姉ちゃんならどう声を掛けるんだろうか。


 掛ける言葉を見つけられないまま、もう一度千春さんの顔を見ると瞳が濡れ始めていることに気付く。


 ここはまだ幼稚園の敷地内。子どもを連れて来る親子とすれ違い、追い越され、その中で千春さんだけが異質な気を纏っている、……ような気がする。


「真樹さん……」

「え? なに? 千春さん?」

「あのね……」


 何か話したい事があるんだと思う。だけど言い淀む千春さん。こんな所では話せない事なのかもしれない。


「千春さん、良かったらウチに来る? まだ片付いてないから家の中グチャグチャだけど、それでも良かったら……」

「ありがとう。いいの? 行っても大丈夫?」

「うん。いいよ、ホント家の中はグチャグチャだけどね。気にしないでくれる?」

「気にしない。ありがとう。お言葉に甘えさせてもらうね」


 そう言って少しだけ笑う千春さんに、私の方がなぜか苦しくなる。

 そんな顔しないでいいよ、って言いたいけど余計な一言になって更に落ち込ませてしまってはいけないと、私はポンコツな口をつぐんだまま、千春さんを家へと招いた。



「どうぞ」


 ソファに座る千春さんの前に紅茶を置くと小さく、ありがとう、と返ってくる。


 静かに千春さんの横に腰を下ろすと、ギイときしむソファの音がやけに耳に響いた。


「いただきます」


 添えていたスティックシュガーの端を切り取り、さらさらと音を立てて紅い液体の中へ沈んで行く音を聞き、それからティースプーンが空気を読まずキャラキャラと声を立てて笑うのを私は重苦しく感じながら静かに聞いていた。


 音がやむ。


 静かに紅茶を口にふくんだ千春さんの華奢な喉が小さく動く。


 細い指がカップの把手にくるりと絡み、反対の手は底に添えたまま千春さんの腿の上に下りた。


「あのね」

「うん」


 カップから顔を上げた千春さんが横を向き、私と目が合う。


「不倫してるかもしれなくて……」

「フリン? え? 不倫?」


 千春さんはまるでアイスやプリンのようなおやつの話しでもするみたいにそれを言う。まさか、千春さんの口から「不倫」なんて言葉が出て来るなんて思いもしなかった。千春さんには似つかわしくない言葉の上位に「不倫」が入るだろう。


「待って、待って、不倫って誰の話し? ドラマ?」


 ドラマの話しじゃないよね、そう思ったけど、私はそれを聞いていた。そしてそれに千春さんは首を横に振る。


「旦那」

「旦那さん?」

「うん。なんかね急に優しくなって、ご機嫌取りみたいに色々買ってきたりするの」

「…………」


 私は相槌も打てず、ごくりと生唾を飲み込んだ。


「それでね、あまりに気味悪くて『どうしたの?』って聞いてみたのね。誕生日でもないのにケーキ買って来たり、記念日でもないのにお花買って来たり、雑誌見てて『可愛いな』って言っただけのアクセサリーを買って来たりして……。

 今までね、そんな事なかったの。何でもない日に何か買って来る人じゃなかったのよ」

「…………」

「それに、料理もやたら褒めてくる」

「えっ!?」


 思わず声を上げた私に、千春さんが驚く。


「真樹さん?」

「あ、ごめんね。料理、その、……褒めてくれるの?」

「うん。『美味しいね』って。何食べても『美味しいね』って言うからね、私ついに意地悪してあの人の嫌いなものばっかり作ってみたのよ。そしたら」

「そしたら?」


 何か他人事じゃない話しに身体が前のめりになる。


「そしたらね、我慢して食べながら、それでも『美味しいね』って言うのよ。おかしいでしょ?」

「うん、そうだね」

「だからね、私聞いたの。『何かやましいことがあるの?』って」

「え、聞いたの?」

「聞いちゃった。……聞かなきゃ良かったのかな?」

「待って、待って。その、旦那さん何て答えたの?」

「…………」


 遠くへ視線をはせていた千春さんが眉を寄せ、ゆっくりとこちらを向き、そしてもう一度目が合う。


「『やましいことがあるの?』って聞いたらね、誰が見ても分かるくらいに狼狽えて『やっ、やましいことなんてある訳ないだろっ』って否定してたけど、それがかえってますますあやしく見えて……。でもそれが決定的だったのは旦那のライン」

「ライン?」

「そう。ラインの通知音って分かるでしょ? 私のじゃないな、と思った瞬間ね、旦那がスマホ持って廊下に出たのよ」

「でもそれ仕事だったとかじゃないの?」

「仕事でラインなんて来たことない。いつも電話だし、電話も会社専用のガラケーがあって仕事の電話はいつもそっち。個人のスマホにラインが来て妻の前から逃げるっておかしいでしょ?」

「でもそれだけで不倫って……」

「違うの。まだあるの。私もそれだけじゃ分からなかったから、また旦那に聞いたの。『可愛い子?』って」

「それ聞いたの?」

「そうよ。『女?』って聞いたらはぐらかされると思ったからそう聞いたのね。そしたら何て答えたと思う?」

「なんて?」

「『可愛くは……』って否定した」

「ん?」

「可愛いことを否定したって言う事は、同時にそこに誰か存在してるのよ。別にやましくない間柄だったら『可愛い子?』っていう質問に返すべき答えは『どういうこと?』とか『男だよ』とか『仕事だけど』とかであるべきだと思わない?」

「はっ!! そうか!! そうだね!!」

「可愛くはないけど、でもやましい間柄の女の子がそこにいる。だから家に帰って来たら私に優しくして自分のやましい気持ちを隠してたのよ」


 やましい気持ちを隠す。千春さんが言うその言葉がなんとなく健太にもぴったり合うような気がしてしまう。


 急に「美味しい」と言い始めたこと。特段美味しいと思わないものにも「美味しい」という健太と、千春さんの旦那さんが重なっていく。


 まさか健太に限って……。それが幻想だと言うのは、まさか千春さんに限って、と思っていたことで打ち消された。


 まさか、なんて自分の思い込み。


 まさか、は夢の中の幻想。


 まさか、まさか、まさか……


 まさかは巡り、巡り巡って現実として還って来る。


 幻想ではなく現実を見よう。健太だって男だ。

 私みたいなポンコツ女より可愛くて、若くて、頭の良い子というのは世の中にたくさん溢れている。条件のいい子に靡かない訳がないじゃないか。


 そうだ。健太だって不倫の一つや二つ、私なんかに隠して上手くやっている可能性は充分にあるのだ。



 千春さんは胸の中のものを私に吐き出して少しすっきりしたのか、


「忙しい朝からお邪魔してごめんね」


 そう言って帰って行った。


 千春さんの話しを聞くだけ聞いて何も解決してはいないし、これからどうするかも何も話してないけど、今日の所はこれで良かったのだろう。


 千春さんは誰かに聞いてもらうことで、自分の中にある思いを整理しているのかもしれない。


 それに千春さんに、「これからどうしよう?」と聞かれても私には何と答えていいか分からなかった。聞かれなかった事に安堵すると同時に、今度は自分がどうすればいいのか分からなくなる。


 健太に聞く?


 どうやって?

 何て言う?


 どんなタイミングで?


 分からない。私はどうすればいいのだろう。


 千春さんのように上手く旦那さんをつつけたらいいのに。


 悩むまま家事の手は止まり、いつの間にか幼稚園のお迎えの時間になっている。幼稚園に行くとちょうど千春さんも来ていて「朝はありがとう。ごめんね」と内緒話のように言われたから、私も頷くくらいしか出来なかった。


 千春さんはこれからどうするの?

 私はこれからどうしたらいいかな?


 純粋な眼差しの子どもたちの前では到底出来ない話しに、聞きたいことを聞けないまま、美琴と香苗はアオイちゃんに手を振って別れた。



 健太が帰宅した。


 千春さんの言葉を思い出した私は、夕食に健太の嫌いなピーマンをごま油で炒め塩昆布であえたものと、茄子の煮浸しに、骨が多くて好きじゃないと言ったことのある鰈の煮付け、それから玉ねぎばかりの味噌汁しかも敢えて出汁を入れてないを用意した。全体的に薄目の味付けにしてあるから濃い味の好きな健太には少し物足りないくらいだろう。


 どうだ、と言った気持ちで配膳していると、健太の目が嫌いなピーマンをとらえ、小さくため息を吐いたのを私は見逃さなかった。


「いただきます」


 健太の箸はまず鰈をつつくが食べないまま味噌汁へと行った。ずずっと汁を吸う健太の眉がぴくりと動く。


 どうだ。今日の料理で「美味しい」は言えないだろう。私は健太が言うはずないと思っていた。なのに健太はあっさりと言ってしまう。


「美味しいよ」

「何が?」


 だから私は咄嗟に聞き返していた。美味しいって、出汁の入ってない味噌汁なのに、美味しくないでしょ?


「味噌?」

「味噌?」

「玉ねぎも美味しいよ」

「玉ねぎ好き?」

「ああ、まあ、別に」


 それはどっち? そう思いはしたが聞くのは抑えた。


「陽太はピーマン美味しいって食べてくれたんだけど美琴と香苗は食べなかったんだよね」

「そう……」


 健太の視線がピーマンに向かう。仕方ないとばかりにピーマンへと箸が伸び、一つだけつまんで口の中へ素早く放り込まれた。その一瞬ぴくりと眉が寄る。


 咀嚼も早々に嚥下したのだろう。すぐにお茶が流し込まれた。


 やっぱり嫌いだよね、ごめんね、という気持ちと、無理して食べてくれてありがとう、という気持ちがわき上がったその時だった。


「美味しいよ」

「え? なんで?」

「…………」

「…………」


 なんで?

 なんで?

 なんで無理して美味しいなんて言うの?


「健太、どうしたの?」

「はぁ」


 今度はため息。そしてガチャと音を立てて箸が置かれた。


「風呂入る」

「え?」


 何も言えないままの私の横を通って健太が風呂場へと消えていった。


 もしかして今日の料理はやり過ぎだったとか?

 でもそれでも「美味しい」って言ったよね?


 分からない。こんな時、千春さんならどうするだろう。お母さんだったらお父さんに何て言うかな? 姉ちゃんだったら――


 何でこんな時まで姉ちゃんが出て来るんだろう。私は自分じゃ何も考えられない。



 自分で自分が嫌になる。仕事から疲れて帰って来た健太に嫌いな料理に不味い料理の数々を食卓に並べて何してるんだろう……。


 せっかく美味しいと言ってくれるのだから、それなら美味しいもの作ってあげれば良かった。


 ため息をつかせたい訳じゃない。嫌がらせをしたい訳じゃない。ダメだな、私……。こんな事をしていたらその内、愛想尽かされて浮気や不倫されても仕方ないんじゃないだろうか。


 気持ちが下に傾いていく。


『真樹は本当に何も出来ないんだから』


 聞き慣れた母の言葉が呪いのように私の頭の中に響き続けていた。



 翌朝は早起きしてコンソメの野菜スープとオムレツを作る。健太は玉子料理の中でオムレツが一番好き。


「おはよう」

「おはよう」


 起きて来た健太に笑い掛けると、健太はフライパンにある出来たばかりのオムレツを見つけた。


「オムレツ……」

「ケチャップかけていい?」

「ああ。顔洗ってくる」

「うん」


 よし。準備しよっ!


 綺麗な黄色がつるりと滑らかなオムレツを白いお皿に盛り付ける。ケチャップでハートはもう書けないけど毎日の感謝をこめて「ありがとう」と書いてみた。


 出来上がったそれは直視するには少し恥ずかしい。だから食卓に運んだら私はすぐにキッチンに引っ込む。それと同時に健太が洗面所から出て来て食卓につく。


 ちらりと見た健太の顔はちょっと嬉しそうに見えたり見えなかったり……。そう見えたのは私の願望が見せた顔なのかもしれない。


 健太はすぐにケチャップを左右に伸ばして「ありがとう」を消していた。だけどひとくち食べた時の健太は優しい顔をしていたと思う。


 やっぱり美味しいもの、好きなものを食べてもらうのが一番だな! そう思いながら会社に行く健太を玄関で見送った。




「おはようミコトちゃん、カナエちゃん」

「おはようアオイちゃん」

「おはよー」

「おはよう千春さん」

「おはよう真樹さん」


 昨日より幾分顔色の良い千春さんとアオイちゃんに挨拶をして一緒に園舎に入る。


「ではお預かりしますね」

「お願いします。じゃあね美琴」

「うん、いってきまーす!」

「じゃあね香苗」

「ばいばーい、ママ」


 美琴と香苗を幼稚園に預け、千春さんと並ぶ。


「昨日はごめんね真樹さん」

「いいの、いいの。私こそ話し聞くくらいしかできなくて……」

「ううん。真樹さんが聞いてくれてなかったら私頭の中グチャグチャなままで帰ってきた旦那の顔も見れなかった」

「…………」

「私ね、証拠を掴もうと思うんだ」

「え?」

「だって否定するんだもん。証拠があれば認めるでしょ?」

「…………」


 不倫の証拠を掴んで、認めさせて、それで千春さんはどうするんだろう?


「……私もどうしたいか分からないんだ。でも別れたいとも思えないんだよね。子どもたちのためっていうのもあるけど……。どうなるんだろうね……。ってなんだか他人事みたいだけど、どうしよ? 暴かないままの方が幸せかな? って真樹さんに聞いてもしょうがないよね、ごめんね」

「そんなことないよ。辛いよね、うん辛い……」

「真樹さんありがとう」

「ううん、なんか千春さんて見掛けによらず強いよね」

「え? 私強い?」

「うん。私はどんどん沈んじゃいそうだな……」


 赤信号で足を止める。

 青に変わった瞬間、すぐに足を踏み出せる千春さんと、すぐに足を踏み出せない私の違いは多分色々ある。


「あ、そうだ」


 青信号になって横断歩道を自転車を押しながら渡りきると千春さんの足が止まり私を見る。


「ん?」

「あのね、主婦にもトキメキは必要よ」

「トキメキ?」


 いきなり何の話しだろう? それにそんなもの38歳の私にはもう必要ないんじゃないだろうか。


「真樹さんキュンってしてる?」

「えーと、陽太や美琴や香苗に――」

「そういうのじゃなくて、男性!」

「へえっ!? 待って待ってないないない!!」

「ちょっと落ち着いて真樹さん。そうじゃなくて、言い方が悪かったわ。例えばドラマとか、それかマンガとか」

「あ〜、マンガねぇ〜。最近読んでないな」

「それじゃあアプリは?」

「アプリ?」

「そう。私今すっごくハマってて、乙女ゲームなんだけどね、色んなイケメン王子が出て来て甘い言葉を囁いてくれるの。しかもボイス付きでね、ほんと癒やしなのよ。真樹さんもやってみない?」

「え、私はそういうのは……」

「私も最初は敬遠してたのよ。だけど旦那に対して溜まってたイライラをね王子様が解消してくれるの。ってただの現実逃避なんだけどね……。でもね本当にいいのよ」


 それから熱くなった千春さんは、どんな王子様が出てくるか教えるだけ教え、すっきりした顔をして私たちは別れた。


 ええと、なんだっけ?

 俺様王子に、ドS王子?

 年下系王子に、ミステリアス王子?

 愚直王子に、狡猾王子?

 それから、他にもまだ何とか王子がいたよね、……何だっけ?


 そんなのは若い娘向けのものだと思っていたけど、千春さんがハマるほどのものっていうのがちょっとだけ気になる。


 私は家に帰ると早速アプリストアで検索していた。


 愚直王子……

 なんとなく健太に似てる?


 ただそれだけで愚直王子を選んでいた。名前はシルヴァ。年齢23若いっ


 まあいつでもアンインストール出来るか、と気楽な感じで始めてみるものの、イラストの美麗さには惹かれるものがある。

 真面目で堅物そうな表情のシルヴァ王子が『真樹さん』と言って照れたように微笑む顔にドキリとした。もちろん本当に言ったのではない。画面下部に表示されただけ。……だけなのに、なんだろうこの威力。千春さんが虜になるのも分かる気がするな……。


 そしてまたシルヴァ王子と健太の共通点を見つけた。

 お見合い当初、恥ずかしそうに「真樹さん」と呼んでいた健太と、出会ったばかりのシルヴァ王子が重なる。健太はもう「真樹」とも呼んでくれないけど、シルヴァ王子があの時の健太みたいに「真樹さん」と呼んでくれるのがちょっと嬉しかった。


「やばいな、ハマっちゃうじゃん。よし、とりあえずここまでにして。さ、掃除しなきゃ」


 スマホを置いてまだ済ませていない家事に取り掛かった。そして家事が一段落して何気なくスマホを開いて驚く。


 ポップアップ通知にシルヴァ王子から一言届いていたのだ。


【真樹さん、まだですか? 待ってます】


「やだ、ちょっと、寂しいってこと? ちょっと待ってくださいね」


 術中にはまるとはこういう事なんだろうな、と思いながら私はシルヴァ王子に会いに行っていた。



 陽太と美琴と香苗を寝かしつけるが健太からはまだ帰ると連絡はない。それならと帰ってくるまでの間また【待ってる】と通知をくれたシルヴァ王子に会いに行く。少しだけ胸が弾んでいるのを実感してしまう。


 だけどアプリを開いた途端、健太からメッセージが届いた。


「あ、帰ってくる。残念」


 きっと健太が帰ってきたら恥ずかしくて開けられないだろう。年甲斐もなく王子様なんて、笑われるに決まってる。いや、笑われるどころか冷めた眼差しが降りてきそうだ。


 そう思いながら帰ってくる健太のために健太の好きなおかずを温め直して食卓に並べて帰るのを待った。






「ただいま」

「おかえりなさい」


 帰ってきた健太が食卓を見て、ほ、と小さく安堵するのが分かる。それはそうだ。昨日の夕食に関しては反省しなければいけない。


「昨日はごめんね」


 手を洗い食卓に着いた健太に謝る。


「いや……。いただきます」


 今日はエビフライとコロッケ。それがあっという間に健太の胃袋におさまる。でも美味しいとは言ってくれなかった。別に美味しいと言ってくれるのを求めてる訳じゃないけど、言って欲しい時に言ってくれないのはちょっと悲しい。


 と、その時。健太のスマホが鳴ると、慌てて箸を置き確認する。そして画面を隠すようにして健太は廊下に出ると電話に出たようだった。


 いつもは電話が鳴っても、場所なんて気にせず電話に出る健太が私を気にして廊下に出た?


 恥ずかしいから?

 それともやましい気持ちがあるから?


 千春さんの声が頭に響いた気がした。『不倫よ、不倫してる』


 美味しいなんて急に言い出したのも健太にやましい気持ちがあるから?

 かかってきた電話の相手は誰?

 不倫相手なの?

 真樹は馬鹿だからバレないよ、なんて思ってる?


 そっと廊下に近寄る。静かな夜、耳を済ませば健太の低い声は所々聞こえてくる。


「……よ。困るよ、モモヨさん……………だよ」



――モモヨさんって誰!?



 若くて可愛い女の子が頭に浮かんだ。下の名前で呼ぶほどの親しい関係……。


 その場を離れて椅子に座る。健太に聞いてみようか? 今の電話誰って。でも私今までそんな詮索なんてしたことない。

 どうしよう。聞いてもいい? 聞いちゃダメ?


 答えが出ないまま電話を終えた健太が戻ってくる。


「食事の途中でごめん。会社の電話。大事な話だったから」

「そう、なんだ……」


 聞いてもないのに誤魔化すように教えてくれる健太に不信感を抱かずにはいられない。食事を終えて私が食器を洗っている間も健太は私に見えない角度でずっとスマホを触り、時折ラインの通知が鳴る。


 きっとモモヨさんとメッセージのやり取りをしているんだ。だけど私が「誰?」と聞いたら健太は「会社の人」と答えるんだろう。それくらいは分かるけど、その後どう質問していいか私には分からなかった。


 だからと言って真っ直ぐに「不倫相手なの?」と聞くほどの勇気もない。聞いてもし家庭が壊れたら、と思うと怖かった。




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