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169話:永遠の翼

 闇の中に、聴き慣れた声がする。

 温かさを含んだその声は、自分を優しく呼んでいた。


 ――さあリッキー、目を覚ましてごらん。


 心にそっと染み入るその声に、キュッリッキはゆっくりと目を開いた。



* * *



 寝返りをうったところで、メルヴィンは目を覚ました。

 暫く薄ぼんやりとした目で天井を見上げていたが、隣に寝ているはずのキュッリッキがいないことにようやく気づいた。


「リッキー?」


 身体を起こして、蚊帳越しに室内を見回す。

 窓から白い光が柔らかく射し込んでいて室内を薄く照らしているが、キュッリッキはいなかった。

 メルヴィンはベッドから降りると、ズボンを履いてシャツを羽織り、ボタンもかけず部屋を飛び出した。

 階下へ降りてリビングを見てもいない。お風呂好きなのを思い出して、風呂場へ行くがそこにもいない。


「どこへ…」


 クルーザーを操作しないと島の外には出られない。しかし何か召喚して外に出たのかと思うと、気が急いて慌てた。

 夜が明けてきて、外は穏やかな明るさに満ちようとしていた。

 適当にあちこちを歩き回り、ビーチにたどり着いたとき、ようやくキュッリッキを見つけた。そして声をかけようとして、メルヴィンは動きを止める。

 キュッリッキは海の方を向いていて、じっと佇んでいる。細い足首が、波の中に沈んでいた。

 こちらに背を向けているが、その後ろ姿にメルヴィンは心底驚いた。

 大きく開かれた、純白の翼。陽の光に照らされて、不可思議な輝きを放つ虹色の光彩。

 右に開いた大きな翼。そして、左に開かれた小さな翼。

 やがて、何かの気配を感じたのか、キュッリッキはゆっくりと振り向いた。


「メルヴィン…」


 キュッリッキは戸惑うような笑みを、メルヴィンに向けた。


「あ、あのね…、急に背中がムズムズして痒くなってきて、目が覚めちゃったの。それでね、どんどんムズムズするから、外に出てきてね、それで、それで…」

「リッキー」


 メルヴィンはキュッリッキに駆け寄ると、ギュッと抱きしめた。


「あのね、翼がね、あのね、あのね」

「生えてます。白くて、小さくて可愛らしい翼が」

「うん…」


 感極まって、メルヴィンは全身が震えた。

 キュッリッキはまだどことなく呆けたように、自分の身に起こったことを理解できずにいるようだった。

 以前見たときは、羽をむしり取られ残骸のような形をしていた左側の翼。しかし目に映る左側の翼は、小さくて子供が生やすような大きさだが、紛れもなく美しい白い翼なのだ。


「どうやら、無事生えたようね」


 ハッとして2人は声の方を向く。笑顔のリュリュが立っていた。


「無事生えたって、どういうことですか?」

「小娘の、その左に生えた翼のことヨ」


 キュッリッキは不安そうにリュリュを見つめた。


「以前、ナルバ山の遺跡で大怪我をしたでしょ」

「うん」

「怪我も治ってきて、一度ハーメンリンナの病院に、検査入院をしたことがあったわね。その時に、ヴィヒトリがちょちょいと治しちゃったの」

「……治し…た?」

「そうよん。治してくれたのよ」

「誰にも、治せないんじゃないの…?」


 怪訝そうに言うキュッリッキに、リュリュは微笑みながら首を横に振る。


「ちゃんと治してもらってるじゃない」

「だ…だって…」


 それなら、自分はどうして捨てられたのだろうか?


「あーたの両親が、医者にも見せなかったってことネ。もし見せていれば、もっともっと早い段階で、治っていたかもしれないっていうのに」


 ますます複雑な表情を浮かべ、キュッリッキは足元に視線を落とした。

 片方の翼の原因を調べようともしなかった両親。そして同族たち。

 医者に診せていれば、医者が気付いていれば――。

 脳裏によみがえる過去の数々の悲しい思い。あれは一体なんだったのだろう。


「ベルがね、言ったのよ。”リッキーが本当に幸せになるためには、どうしても片方の翼を治してやらないといけない。リッキーの不幸の原因を取り除いてやらないと、あの子には一生、本当の意味での幸せは訪れないんだ”ってね」

「ベルトルドさんが…」

「ナルバ山での怪我の治療をさせる一方で、左側の翼の原因をヴィヒトリに調べさせて、それで検査入院の時に、傷痕の治療をしながら背中もちょろっといじったのよ」


 リュリュはくねっと腰を曲げて、そばの木の幹にもたれかかる。


「いつ結果が反映されるか、ヴィヒトリも判らないって言ってたわ。1年先か2年先か。でもどっこい、案外早かったわね」


 くすくすっとリュリュは笑った。


「ベルはいつもあーたのことを一番に考えてたわ。その翼はベルからの贈り物よ。おめでとう小娘、良かったわね。もう片翼じゃない、両翼になったのよ」

「おめでとう、リッキー」


 大きく見開いた目から、大粒の涙が沢山沢山、波の上に落ちた。「信じられない」といった表情かおで、メルヴィンに縋るように見上げる。


「アタシ、空を飛べるようになるの?」


 ぽつり、と呟きが漏れた。

 憧れた、あの、高くて青い青い空。風を受け、鳥のように羽ばたきたいあの大空へ。


「ええ」

「本当に?」

「はい」


 メルヴィンは嬉しそうに、自分の身に起こったことのように返した。

 涙目でメルヴィンを見上げながら、キュッリッキの脳裏には、幼い頃の日々が蘇っていた。

 片方の翼がないことで、同族から心無い仕打ちを受け続け、虐められてきた。

 守ってくれる大人もいない、蔑みと冷たい目が常に向けられていた。鏡に映る自分を見つめ、いつか右側と同じような翼が生えてくると信じていた。でもそれもいつか諦めとなり、翼のことを隠して孤独に生きてきたのだ。

 翼は嫌な思いしかもたらさない。全ての不幸の象徴だった。

 そんなみっともないと言われ続けた片翼の自分を受け入れて、愛してくれた最初の人はベルトルドだった。

 いつも度を超すほどの愛情で、優しく包み込んでくれた。

 今はメルヴィンと結ばれて、身も心も幸せだ。不幸な事なんて、もう何一つないと思っていた。――その筈だったのに。

 片翼であることは心の奥底でずっと錘となって、常に苛まれていた。これまでの不幸な生い立ちの、最大の原因だからだ。メルヴィンと幸せになったとは言え、まだこんなに大きくて忘れることもできない傷として、心に巣食っているのだから。

 ベルトルドには、そのことまでもお見通しだったのだ。


「ベルトルドさん…」


 キュッリッキはメルヴィンのシャツをぎゅっと握り締め、もっと涙をあふれさせる。


「ベルトルドさん、ベルトルドさん」


 ありがとう、ありがとう、ありがとう。

 心の中で何度も何度も、繰り返し「ありがとう」を言った。感謝と恋しさと、会えない寂しさで、心の奥底から感情が奔流のように溢れ出して止まらない。

 異性としての愛情はもてなかったが、今でもこんなに大好きでたまらないと痛感する。優しくて父親のようで、そして大きな愛をくれた人。

 あとはもうメルヴィンの胸に顔をうずめて、ひたすら泣きじゃくった。


「リッキー…」


 メルヴィンはキュッリッキを強く抱きしめ、頭をそっと撫でてやった。


(まだまだベルトルド様にはかなわないな…)


 そうメルヴィンは思って自嘲する。

 キュッリッキと出会ってからの時間はベルトルドと同じだ。恋をして、愛を深める期間はメルヴィンのほうが若干遅い。しかし、今は愛する深さと重みは負けないつもりだ。

 心の奥深くでキュッリッキを苦しめる元凶に、気づいてやれなかったことを、悔しく思うし自分が情けない。たとえ超能力サイがあったとしても、果たして自分は気づいてあげられたのだろうか。

 まだまだ自分は人間として、男として、キュッリッキの恋人として、未熟なのだと改めて思い知らされた。

 最後の最後まで、ベルトルドに完敗したような気分にさせられてしまう。でも、これまでのキュッリッキを救ったのはベルトルドでも、これからのキュッリッキを愛し、守り続けていくのは自分だけなのだ。


(オレはオレのやり方で、オレにしかできない愛し方で、この先ずっとリッキーと添い遂げる。絶対に)


 そう決意を新たにし、メルヴィンは誓うように天を仰いだ。

 リュリュは新たな門出に立つ2人に優しく微笑み、そして澄んだ空を見上げる。


「よくやったわ、ベル。あーたの想い、ちゃんと花開いたわよ。これであーたの罪が許されるわけじゃないけど、下がった好感度は戻してあげてもよくってよ」 

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