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157話:ロキ神降臨

 無数に出現した雷霆ケラウノスを見つめ、キュッリッキは絶望の眼差しを宙に彷徨わせた。


(どうしよう…どうしよう…、アタシだけじゃなく、みんなも巻き込まれて死んじゃう)


 自分を強く抱きしめるメルヴィンも、あの力の前では儚く散ってしまう。

 そうさせないために、今ここで、自分が踏ん張らなくてはならないのに。

 なのに、頭の中は大混乱で、考え一つ浮かばない。

 結局、ベルトルドを助けることもできず、みんなを死なせることにしかならないのだろうか。

 自分に出来ることは、本当にもうないのだろうか。

 涙で滲む目を見開いたその時、ひとりの男と目があった。


(あっ…)


 男は無邪気な笑みをその端整な表情に浮かべ、キュッリッキに強く頷いた。

 その瞬間、ドラゴンの周りに浮かんでいた雷霆ケラウノスが、全て光の粒子となって消えていった。

 キュッリッキは手を前に差し伸べる。その差し伸べられた手を、眩いばかりの黄金の光が包み込み、徐々に膨らんで人の形になった。


「ロキ様」


 ぽつりとキュッリッキは呟くと、光は弾け飛んで、男が現れた。




 身長は2メートルを超え、二十代後半に差し掛かったくらいの容貌の男である。ニコニコと笑顔が絶えず、近寄りがたいというより、人懐っこさのある美貌をしていた。


「久しぶりだね、キュッリッキ」

「ロキ様…」


 ロキと呼ばれた男は、掴んでいたキュッリッキの手を優しく引き寄せると、腰を落としてキュッリッキを抱きしめた。波打つ長い金色の髪から、絶えず光の粒子が雫のようにこぼれ落ちる。


「よく頑張ったね」


 幼子を優しくあやすような口調で言うと、労わるように頭をそっと撫でた。優しくキュッリッキを見つめる青い瞳には、慈悲の光が溢れんばかりだ。


「ロキさまぁ…」


 キュッリッキは大きくしゃくり上げると、ロキに縋って大きな泣き声をあげた。


「あやすのは、いつもティワズの役目なんだけど、今回は俺でゴメンな」


 にこにこと笑いながら、ロキはその細い背中を優しくポンポンっと叩いた。そして、呆気にとられているメルヴィンに、ロキは小さくウィンクした。


「初めまして、キミがキュッリッキの恋人だね。彼女をよろしく頼むよ」

「え、あ、はい」


 メルヴィンは困惑したように返事をすると、思わず頭を下げた。


「あはははは、真面目な性格だねえ」


 泣き続けるキュッリッキの顔を上向かせて優しく微笑むと、そっとメルヴィンのほうへと追いやった。


「さてさて、この状況をどうにかしないと、これじゃキュッリッキでもお手上げだ」


 ロキは両手を腰にあてると、ヤレヤレといった口調でため息をこぼす。


「スコル、ハティ、お前たちの手にも余りまくっただろうね」


 先程から身を伏せて怯えているスコルとハティは、更に怯えの色を深めて目を閉じていた。


「そして、久しぶりだねえ、このバカ息子たち」


 フェンリルとフローズヴィトニルに、ジロリとした視線を投げかけると、ロキは指をパチリと鳴らした。すると、フェンリルとフローズヴィトニルの巨体が、一瞬にして仔犬の姿になって床に転がった。


「いつまでも親の前で、親よりデカイ図体でボケッとするんじゃないよ」


 冷ややかな口調で言われ、2匹は気まずそうな表情を隠そうともせず、ぺたりと座り込んだ。


「そして…、アレが例のドラゴンか。ユリディスの力は絶対だからねえ。それに、ふむふむ、懐かしいなあ、アウリスの血筋の者なんだね」


 動きを完全に止めてしまっているドラゴンを見やり、ロキはウンウンと嬉しそうに何度も頷いていた。


「バカ息子たちと、息子の子孫に一度に会えるなんてねえ。感動の嵐でも吹き荒れるところだが、今回は説教だよ、フローズヴィトニル」

「ひいっ」


 フローズヴィトニルは毛を逆立てて跳ね上がると、すぐさまフェンリルの後ろに逃げ込んだ。


「お前は、キュッリッキのお陰でエーリューズニルから抜け出すことができたんだよ。ヘルの元で改心したかと思えば、恩人であるキュッリッキへの暴言の数々。数万年も幽閉されていながら、全く変わらないとか、父として泣けてくるよ」


 少しも泣けそうもない素っ気ない表情で、声音は相変わらず冷たいままに言い捨てる。


「おまけに巫女の命令を完全無視、半身のフェンリルの言うこともスルー、やはりお前のような悪い子は、エーリューズニルで永久に幽閉しているのがいいかもしれないな」

「それだけは、嫌だよー!!」


 陰気で暗い館、美味しくもない屍人の肉、退屈極まりない過酷な環境。もう二度と、戻りたくなかった。

 フローズヴィトニルは力いっぱいロキを睨みつける。相手が父親であろうと、もうエーリューズニルに戻されるのは絶対に嫌だった。


「いいかい、キュッリッキにはこの人間世界で、アルケラに住む者たちに対し、絶対の命令権を持つ。下位のものから最高位の我々神々に対してもだ。命令違反は処罰の対象となる。それをしないで放置してくれているのは、キュッリッキが優しい子だからだ。それをいいことに、お前は好き勝手し放題、暴言も吐き放題、反省の色なし。救いようがないねえ」


 ロキはフローズヴィトニルの前にしゃがみこみ、顔を前に突き出して、冷ややかな青い瞳を向ける。

 けっして声を荒らげてはいないし、とても静かに言っている。それなのに、辺はひんやりと冷たい空気に支配され、フローズヴィトニルはガタガタと身体を震わせた。


「遠い遠い昔、一つだったお前たちを二つの分けたのは、フェンリルには巫女の守護という大切な役割が与えられていたからだ。悪い部分のフローズヴィトニルを残したままでは、巫女にどんな恐怖を抱かせるか判らないからねえ。だから二つに分けて、悪い意思のお前をヘルのもとへ預けて幽閉した。本当だったら消し去っても良かったのに、それをしなかったのは何故だか知っているかい? フェンリルとヘルから、消さないでくれと嘆願されたからだよ。いつか改心するだろうと言ってね」


 死の国ヘルヘイムの女王である妹のヘルと一緒に、父神ロキに嘆願しに行ったことをフェンリルは思い出していた。

 ロキは気に入った者にはどこまでも優しいが、気に入らないと徹底的に冷徹になれる側面を持っている。それが血を分けた息子であろうと関係ない。

 今回のことは、完全にフローズヴィトニルはやり過ぎた。キュッリッキが被った不遇な状況と合わせ、ロキが許すはずはない。

 アルケラの者たちは、キュッリッキが大好きなのだ。それはロキとて例外ではない。

 キュッリッキの召喚の力を強引に利用し、こうして降臨してきた。

 エーリューズニルに幽閉されるだけならまだいいが、おそらく消されるだろう。

 悪い意思の固まりであるフローズヴィトニル、それでも元は自分自身の一部だ。


(キュッリッキ……頼む、助けてくれ、我が半身を)




 しゃがみこんでいたロキは身体を起こすと、冷ややかな青い瞳をフローズヴィトニルに注ぎながら、緩慢な動作で右手をあげる。そして掌をフローズヴィトニルに向けてかざした。


「フェンリルは”フェンリル”としての人格を安定させている。今更悪い部分のお前等いたところで、もう取り込むことはできない。周りにとっても害悪になるだけだ。――全く、俺の悪いところを引き継ぐなんてなあ…」


 脂汗をかきながら、フローズヴィトニルはジリ、ジリ、と後退する。

 父神の、あの大きな掌に、強い消滅の力が広がっていく。自分を完全に消滅させるための力。フローズヴィトニルは初めて心からの”恐怖”を全身に染み渡らせた。


(やだ……もうやだ……ボクはもっとこっちの世界にいたい)


 あの力を喰らえば、もう二度と、どの世界にも帰れない。この存在自体、なくなってしまうのだから。

 小さな四肢が、ガクガクと震えて止まらなかった。


「ん…」


 ロキはぴくりと眉を動かすと、フローズヴィトニルの前に庇うように立ちはだかった白い仔犬を睨めつけた。


「なんの真似だい? そこをどきなさい、フェンリル」

「……」


 まっすぐ叩きつけられる父神の怒気に怯えながらも、フェンリルはその場に踏ん張った。

 殺させるわけにはいかない。たとえどうしようもなく愚かでも、元は自分の一部であり、今は弟なのだ。


(ああ……そうなのだな)


 そう思った瞬間、フェンリルはあの男の心情が、ほんの少し判った気がしていた。

 アルカネットを失った悲しみで、ユリディスの力に取り込まれドラゴンに変じてしまった、あのベルトルドの心情が。

 フローズヴィトニルを失ったら、自分もあんなふうに悲しみに心を支配され、いつかキュッリッキのもとを去ってしまうのだろうか。それとも、牙をむくようなことがあるのだろうか。

 そんなことを考えてしまう己に、フェンリルは小さく自嘲した。

 消滅させるための力を躊躇うことなく放とうとしたその時、そっと袖を引っ張る感触がして、ロキは斜め後ろに顔を向けた。


「キュッリッキ」


 悲しそうに見上げてくるキュッリッキに、ロキは窘めるような色を浮かべた目を向ける。その目を臆することなくじっと見返し、キュッリッキはゆるゆると、首を横に振った。


「ロキ様はフローズヴィトニルのお父さんでしょ。そんなことしないで」

「あの子は悪い子だ。反省しようともしないんだよ、これ以上もう放っとけない」

「悪い子に生まれてきたのは、フローズヴィトニルのせいなの? フローズヴィトニルがそう望んで生まれてきたの? ――アタシが片方の翼が悪く生まれてきたのは、アタシのせいなの……?」


 ロキは悲しげに眉を寄せた。

 そう、フローズヴィトニルが悪の塊なのは、フローズヴィトニルのせいではない。フェンリルの中に持っていた悪の部分を切り離しただけだ。”フローズヴィトニル”という人格は、その後に生まれたのだ。そして、キュッリッキが片翼で生まれてきたのは、彼女を人間たちの手から守るために、神々が施した”守り”である。しかしそのせいで、キュッリッキは両親から捨てられ、同族からも忌み嫌われ、人並みの幸せも愛情も得られず生きる羽目になったのだ。


 果たしてあれが、キュッリッキの守りになったのか。召喚〈才能〉スキルを持っていると興味を抱かせないために、片方の翼をもいだ事が。神々の思惑とは裏腹に、キュッリッキの心には深い傷がつき、結局はユリディスの二の舞になりかけた。

 キュッリッキもフローズヴィトニルも、けっして自分がそう望んで生まれてきたわけではない。それぞれの周りの思惑の元、そういう定めを背負わされてきただけなのだ。

 フローズヴィトニルの言動の数々は、確かにキュッリッキの心を傷つけるものだった。しかし、制限を解かれるまでは、素直で甘えん坊で、食い意地が張っているだけの悪ガキのような子だった。

 言うことをきかせられなかったのは、自分のせいだ。心が乱れすぎて、毅然とした態度がとれなかったから。


「アタシ、親が子を殺すところなんて、見たくない。アタシの前で、そんなことをしないで。アタシの見ていないところでも、しないでお願い」


 ロキの袖を両手でギュッと握り締め、キュッリッキは懇願するように頭を下げた。

 辛かった自分の生い立ちを思い出し、フローズヴィトニルの生い立ちと重ね合わせ胸を痛めた。ただの同情とは違う、色々なものが似ているから、だから放ってはおけない。それに今は、大事な相棒なのだから。


「……やれやれ、俺はキュッリッキには、トコトン甘いんだ」


 上げていた手を下ろすと、ロキはふうっと息を吐き出した。


「今回の件は、キュッリッキに免じて不問に付す。が、フローズヴィトニルの制限を解くことは、一切禁ずる。いいね? キュッリッキ」

「はい」


 キュッリッキは心底嬉しそうに微笑むと、床に座り込む2匹の前に駆け寄って、ぺたりと座り込んだ。


「心配ばっかりかけて、もう」


 そう言ってフェンリルとフローズヴィトニルを両腕に抱き上げ、頬ずりしながらキュッリッキは涙を零した。


「すまぬ、キュッリッキ」


 フェンリルは目を細め、感謝を込めて小さくペロリとキュッリッキの頬を舐めた。


「つーん」


 フローズヴィトニルは気まずそうに、ぶすっとした表情のまま、明後日の方向へ視線を向けていた。


「あと、アタシに暴言吐いた罰で、当分おやつ禁止!」

「えええええええええええええっ」




 やれやれ、といったようにキュッリッキと2匹の息子たちを見ていたロキは、その向こうに動きを止めているドラゴンに視線を向ける。

 ロキの力でドラゴンは動きを封じられていた。

 ジッとドラゴンを見据え、ロキはフワリと宙に浮くと、そのままドラゴンの面前まで移動した。


「キュッリッキの望みは、キミを人間に戻すことだ。ここまでドラゴンの魂と融合していると、キュッリッキの力で戻すのは難しい。な・の・で、俺が元に戻してやる。感謝しろよ? アウリスの子孫」


 ロキはドラゴンの鼻面に掌を押し付け、ニヤリと口元を歪めた。




 虹色の膜を何枚もめくった先には、幼い少年が2人、ボードゲームに熱中していた。

 勝ち誇った余裕の表情を浮かべるベルトルドと、眉を寄せて腕を組んで唸るアルカネット。明るい部屋の中で、2人はボードゲームをしていた。


「幼い頃の記憶かな…?」


 ロキの意識は今、ドラゴンに変じたベルトルドの意識にリンクしている。

 ベルトルドの魂には、ユリディスの力によって召喚された、アルケラのドラゴンの魂が憑依し、かなり深く重なり合っている。そのため、ベルトルドの自我には重い蓋が置かれて抑え込まれていた。

 時間が経つにつれて、段々と引き剥がしにくくなってくる。

 呼びかけてどうにかなる段階は、すでに終わっている。こうなると、もう人間の手にはおえないのだ。


「あの、紫色の髪の子を、失ってしまったんだね」


 ベルトルドの意識の中には、アルカネットと過ごした様々な思い出が、たくさん溢れかえっていた。

 楽しかったことも、悲しかったことも、喧嘩したことも。子供のときや、大人になってからの記憶が、怒涛のようにロキの意識に流れ込んできた。そしてその奥に、大切にしまわれていた、キュッリッキへの想い。


「そうか…。キュッリッキのことが、大好きだったんだね。とても大切に想ってくれていたんだな」


 切ないほど伝わってくる愛情と、そして、裏切ったことへの慙愧の念。愛と同じくらい重く、深く、強く伝わってきた。


「まさに板挟みだねえ…。さぞ、壊れてしまいたかったろう。だが、キミは壊れるわけにはいかなかった。その、さらに奥深く隠された、大事な想いのために」


 記憶の更に更に奥深く、ロキは見つけてしまった。

 誰に伝えることもなく、31年もの間、心の奥深くに秘めていた想い。


「俺はそれを見てしまったけど、俺の口からは誰にも言わないよ。人の姿に戻って、自分の口から伝えなさい」


 少し意地の悪い笑みを浮かべ、そしてロキは再び優しく微笑んだ。


「目を覚ましたら、まず、キュッリッキに謝りなさい。あの子は必死に、キミを許そうとしている。自分の中でうまく解決できていないけれど、それでも許そうと思っているから。だから、ちゃんと謝っておあげ」


 ロキは両腕を広げる。すると、全身から眩いばかりの金色の光が放たれ、網の目のようにしてベルトルドの魂に絡みつくドラゴンの魂を、ゆっくりと剥がしていった。

 更に強く光ると、ドラゴンの魂が消滅し、ベルトルドの意識が震え、ゆっくりと目を覚ました。




「さあ、俺の役目は終わったよ」


 キュッリッキの前に降り立ったロキは、人懐っこい笑みを満面に浮かべていた。


「ありがとうございました、ロキ様」


 フェンリルとフローズヴィトニルを腕に抱えたまま、キュッリッキはロキを見上げて微笑んだ。


「腕が痺れるほど重いだろう。当分、ダイエットに専念させなさい。――太りすぎだ、フローズヴィトニル」


 父神の冷ややかな視線を受けて、フローズヴィトニルは首をすくめた。


「頑張って体重減らさせるね」


 キュッリッキは苦笑った。


「俺にはたくさん子供がいるが、アウリスはとても思い出深いんだ。半神だったあの子にも、我々と同じく寿命がない。それなのに、あの子は人間とあろうとしていた。最後に愛した女と、生涯をともに閉じることを選んでね」


 ロキの表情に、悲しみの笑みが小さく広がる。


「その女との間に出来た子供の血を、あのベルトルドという男が受け継いだんだね。随分と俺の遺伝子も覚醒したりして、実に優秀だ」


 キュッリッキは相槌をうたず、苦笑で答えるのみにした。


「では、俺は帰るよ。またアルケラに遊びにおいで、みんなキュッリッキがくるのを待ちわびているから」

「はい、必ず行きます」

「よし、約束だぞ」


 そう言ってロキはキュッリッキの頭をそっと撫で、空気に溶けるようにしてその場から消えた。

 ロキを見送り、そして目をその向こうへと向ける。

 急に静まり返った室内の奥に横たわる、ベルトルドへと。

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