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145話:メルヴィンの腕の中へ

 ユリディスが示す方へ目を向ける。

 ずっと高い位置は水面のようで、ユラユラと揺蕩う光の波が穏やかに揺らいでいる。


「アタシを呼ぶ…声?」


 キュッリッキの呟きに、ユリディスが深く頷く。


「耳を澄ませて。ずっと、ずっと、貴女を呼んでいる、あの声を聴いて」


 それは、小さな音のようにしか聴こえなかった。ガラスが振動によって、小刻みに震えるような。

 身を乗り出し、キュッリッキはもっとよく聴こうと目を閉じた。

 やがて小さな音は小さな声となり、ゆっくりと大きくなって、キュッリッキはハッとなって目を見開いた。


「メルヴィン!!」


 自分の名を必死に呼ぶ、低くてよく通る、聴き慣れたあの声。

 全身が一瞬にして、歓喜に包まれた。しかし、すぐに翳るように沈んでいく。


「だめ……」


 前歯で下唇を噛みながら、キュッリッキは俯いた。

 ベルトルドに犯されたこと、アルカネットの嘲笑う顔が、瞬時に頭を過ぎって、前に進もうとする心を挫く。

 ドレスを握り締める手が、ガタガタと震えた。

 たとえ嫌われても蔑まれても、助けると誓ったはずなのに、メルヴィンの前に出る勇気が出ない。

 こんなところで、もたもたしている場合ではないのに、心がすくんでしまう。


「キュッリッキ」


 ユリディスの小さな手が、震える手の甲にそっと触れる。


「さっきからね、あの男の人は、貴女をずっと呼んでいるのよ。そして、貴女を助けて欲しいと、私に懇願している」

「メルヴィンが……」


 助けに来てくれた。助けに来てくれたというのに、心は後ろめたさでいっぱいだ。


「とても必死な声だわ。貴女を深く愛しているのね、あの方は」


 ニッコリと微笑むユリディスの顔を見て、キュッリッキは思わず頬を紅く染めた。


「キュッリッキ、レディトゥス・システムに閉じ込められるということは、どういう経緯を経ているか。貴女の身に起こったことを、あの方は知っているわ。それでもああして、助けたいと必死に呼びかけ続けているの」


(アタシがベルトルドさんにされたことを、メルヴィンは知ってる!?)


 一瞬にして、キュッリッキの顔は青ざめた。


「やっぱり……ダメ、アタシ、こっから出たくない…」


 絶対に軽蔑される。絶対嫌われてしまう。


「キュッリッキ!」


 ユリディスの声が、励ますように叱咤した。

 怯えるように震えるキュッリッキの肩に、突然ポンッと叩く手があった。


「ボクはね、イーダと共にフリングホルニに呼び出されていたんだ。ユリディスが王城で悲惨な目に遭ってる頃、ボクとイーダもまた、悲惨な目に遭っていたよ」

「え…」


 肩に置かれた手をたどるように、キュッリッキは腰をかがめて立つヒューゴの顔を見た。


「ボクとイーダは、アピストリの中でも抜きん出て強かったから、ユリディスと離す必要が王の側にはあったんだね。ユリディスを弑する者がいると、そういうデマを吹き込まれたんだ。ボクとイーダは対策を講じるという名目で、ユリディスのそばを離れることになった。勿論ユリディスには、そのことは伏せていた」


 そしてフリングホルニに連行された。


「イーダはね、複数の男達に陵辱されたんだ、ボクの見ている目の前で。イーダも男を知らない生娘だったから、次第に精神に破綻をきたして壊れちゃった。そして、散々弄ばれたあと、サクッと殺されちゃったよ」


 ヒューゴは喉のあたりを、手刀で斬るフリをしてみせた。


「ボクは散々ボコられたあと、同じように喉を裂かれて殺された。でも、絶命する前に思念体をフリングホルニに遺していったんだ。――ホントはね、最初はね、クレメッティ王に復讐するつもりだった。まあフェンリルの暴走で復讐は出来なくなっちゃったけど」


 苦笑の中に悔しさを滲ませるヒューゴの顔を見て、キュッリッキもまた、悲しげに眉をひそめた。


「男っていう生き物は本当にバカでね、愛する人がどういう形であれ、ほかの男に寝取られたなんて知ったら相手の男にもだけど、愛する人にも怒りが沸いちゃうんだ。自分の不甲斐なさを棚に上げてさ、つまんない独占欲とかプライドみたいなものが邪魔をして。でも、イーダもユリディスもキュッリッキも、寝取られたなんてレベルじゃない。ムカつくし腹立つし自己嫌悪だけど、あそこまで酷いとね、愛する人が心配過ぎて不安なんだ。自殺するんじゃないか、壊れちゃうんじゃないか、そんなことになったらどうしようってね」

「メルヴィンも…その…、アタシのこと怒ってるの、かな」

「キミに怒りを向けるなんて見当違い、男があんなに必死な声を出すくらいだから、心配と不安しかナイって感じだね」

「……」


 本当に、怒ってないのだろうか?


「愛する人があんな酷い目に遭って、怒る方がおかしいと思わないかい? メルヴィンはそんなに白状な男なのかな?」

「メルヴィンそんなことないもん!! 世界一優しくて思いやりがあるんだからっ!」


 カッとなって身を乗り出すキュッリッキに、ヒューゴはクスッと笑いかけてウインクした。


「だったら、こんなところでウジウジしててもしょうがないじゃん。今すぐメルヴィンのところへ戻って、力いっぱい甘えればいいんだよ」

「うっ…」

「もう、ヒューゴったら」


 クスクス笑いながら、ユリディスはキュッリッキの両手を握る。


「外と道を開くわ。ヒューゴの言うとおり、メルヴィンにたくさん甘えなさい」

「ユリディスまで」

「こんな形でだけど、貴女と会えて本当に良かった。私は巫女として、職責を最後まで全うする事ができませんでした。けれど、こうして貴女と会えて、私の記憶を引き継がせる事ができたわ。やっと、全うする事ができた」

「ユリディス…」

「千年どころか、一万年もかかってしまったけれど」


 微笑むユリディスの顔を見て、キュッリッキは躊躇うように口を開いた。


「ユリディスもやっぱり……その…ヒューゴと同じ、なんだよね?」

「ええ。私の肉体はすでに消滅しています。私の精神は、レディトゥス・システムの一部となって取り込まれているの。貴女と接触するために、システムの力を借りて実体化しているけれど。――だから、ここでお別れね」



* * *



「ねぇ~え~、なんとかぁ、ならないわけぇ~?」

「なんとかなるなら、とっくにしていますよ」


 立体パネルを忙しく操作しながら、シ・アティウスは感情のこもらぬ声でマリオンに答えた。

 飽きもせず懲りもせず、レディトゥス・システムのガラスの柩を叩きながら、必死にユリディスとキュッリッキに叫び続けるメルヴィンを見て、マリオンは小さくため息をついた。

 レディトゥス・システムに捕らわれたキュッリッキを救う術を見つけ出すべく、シ・アティウスはずっと検索を続けている。しかし、元々システムから巫女を取り出す必要がなかったのか、システムヘルプにもないという。

 何もすることが出来ないマリオンたちは、メルヴィンとシ・アティウスを見つめながら、途方にくれていた。

 その時だった。


「うわっ?」


 突如レディトゥス・システムのガラスの柩の表面に、光の波紋が広がり始めた。両の拳を柩に叩きつけていたメルヴィンは、吃驚して思わず手を引っ込める。


「シ・アティウスさん?」

「私は何もしていませんよ」


 相変わらず感情のこもらぬ声で言われ、メルヴィンは困惑を深めたように首をかしげた。


 ――柩に手を突っ込んで、彼女の手を引っ張ってください。


 幼い響きを持つ女性の声が脳裏に響き渡り、メルヴィンはレディトゥス・システムに目を向ける。


「今の声は、まさか――」


 メルヴィンは声に言われるままに、すぐ柩に手を触れる。するといきなり手が柩の中に、ズルズルと吸い込まれていった。


「え!? えぇっ」

「ちょっとメルヴィン!」


 気づいたタルコットが、慌ててメルヴィンにしがみつく。物凄い力でメルヴィンが柩に吸い込まれていき、タルコットはその場に足を踏ん張った。


「てめーら、綱引きか!」


 寝転がっていたヴァルトは嬉しそうに声を上げると、勢いよくはね起きて台座の上に飛び乗った。そしてすかさずタルコットの身体にしがみつく。その頃メルヴィンの上半身は、ガラスの柩に吸い込まれていた。


「一体……」


 眼鏡を押し上げながら、シ・アティウスは興味深そうに事態を見つめていた。



* * *



 キュッリッキは躊躇いがちに、手をそっと上に伸ばしていた。

 フェンリルを助けて暴走が起きないようにする。そう決めたはずなのに、メルヴィンに会うのが怖い。

 ユリディスとヒューゴが、辛い過去を打ち明けてまで励ましてくれているというのに、こんなにも臆病になってしまう自分が情けなかった。

 ここにいつまでも留まっていれば、いずれフェンリルが暴走する危険が高まる。暴走に巻き込まれれば、メルヴィンもみんなも、無事でいられる保証はないのだ。

 ユリディスの見せてくれた過去のフェンリルの暴走の恐ろしさは、キュッリッキにも十分に理解できた。

 水面のような頭上を見つめ、揺れるように動く瞳は、今のキュッリッキの心を反映しているようだ。


「あ! リッキー!!」

「えっ」


 その時、頭上からメルヴィンの声がはっきりとして、キュッリッキは目を見張った。


「メルヴィン」


 メルヴィンと目が合い、キュッリッキは伸ばした手を、咄嗟に引っ込めようとした。


「こちらに手を伸ばしてリッキー!」


 叫ぶメルヴィンの顔を、キュッリッキは怯えたように見つめた。

 こんなにもメルヴィンが大好きなのに、愛しているのに、手を伸ばすことを躊躇ってしまう。

 ベルトルドに辱められたことを、メルヴィンは知っている。汚れた自分を、知られてしまっている。

 羞恥が心の中から湧き上がり、全身を包み込んで、キュッリッキは手を引っ込めてしまった。


「リッキー!」


(ダメ! ダメ……メルヴィンに助けてもらう資格なんてないの、アタシ)


 引っ込めた手を胸の前で組んで、顔を伏せて目を閉じた。目尻から溢れ出る涙が、とめどなく頬を伝っていく。


「キュッリッキ、彼を信じてあげて」


 ユリディスの手が、キュッリッキの右肩に優しく置かれる。


「キミが愛した人だろう、だから大丈夫さ」


 ヒューゴの手が、キュッリッキの左肩を励ますように叩いた。


「信じたいけど……愛しているけど……でも」

「愛する人を信じる勇気を。彼は何もかも承知で、それを受け入れたうえで、ああして助けに来ているのよ。だから、今度は貴女が彼を信じてあの手をとるの」

「でも…」

「さあ、勇気を出して。貴女の居るべきところへ、今すぐに戻るのよ」


 キュッリッキは伏せていた顔を上げて、メルヴィンを見つめた。


「メルヴィン……メルヴィン!」


 ユリディスとヒューゴにそっと背中を押され、両手をメルヴィンへと向けて伸ばした。


「リッキー!!」


 伸ばされたその小さな細い手を、メルヴィンの両手がしっかりと握った。




「タルコットさん、引っ張ってください!」

「うん、ヴァルト引っ張れ!」

「まーーかせろおおおおおおっ!!」


 メルヴィンを掴んでいるタルコットが引っ張り、そのタルコットを掴んでいるヴァルトが、渾身の力を込めて引っ張った。


「どりゃああっ!」


 ガラスの柩に上半身を埋めていたメルヴィンが引っ張り出され、メルヴィンの手に掴まれていたキュッリッキが、ようやく柩の外に引っ張り出された。


「キューリちゃん!」

「キューリさん!」


 マリオンとシビルが嬉しそうに声を上げた。


「いってぇ……」


 3人を引っ張り上げた拍子に、ヴァルトは盛大に後ろに倒れると台座から転げ落ちてしまった。ランドンがやれやれと頭を振って、ヴァルトのそばに膝をつく。

 ヴァルトは口を尖らせ台座を見上げると、メルヴィンの腕の中にキュッリッキがしっかりと抱かれているのを確認した。

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