ぼんやりと開かれた目の先には、ユラユラとした柔らかな光が揺蕩っていた。
奥底から水面を見上げているような感覚だが、普通に息もできるし、ここは水の中ではないと判る。キュッリッキの身体はそんな空間にふわふわと浮いていて、辺りは深い碧や翠に彩られた、まるで深い水の底のような色合をしていた。
しかしキュッリッキにとって、今自分がいる場所など、どうでもよかった。
(死んじゃいたい……)
心の中で、何度も繰り返し呟く。虚ろに、感情の削げた響きをもって。
今まで苦しいことも悲しいことも、幸せなんかよりも倍多く経験してきた。それでも死にたいと思ったことは、一度もない。それに屈したら、負けだと判っていたから、生きようと必死に乗り越えてきたのだ。
まっすぐ前を向いて生きてきた、その信念さえも崩壊してしまうほど、今のキュッリッキの心は、自らの死を願う気持ちでいっぱいだった。
「そんな悲しいこと、願っては、だめ」
柔らかな温かい感触が身体に触れ、そして、唐突に幼い少女の声が耳に響く。
「辛くても、苦しくても、死ぬなんて思うのは、絶対に止めて」
「……誰?」
ぼうっとする目を前に向けると、いつの間にか見知らぬ少女が、寂しげな表情で微笑んでいた。
「私はユリディス。こうして直接会うのは、初めてね」
聞き覚えのある名前だった。
それにしても、一体どこから出てきたのだろうか?
「あなたの持っている、ヒューゴの魔法の欠片が、私を呼んだのよ」
キュッリッキの心の声が聞こえたかのように、少女は答えた。
「ヒューゴの…?」
エルアーラ遺跡で出会った、謎の幽霊ヒューゴ。ゲームマスターだとかいう自らの力を、小さな7つの玉に変えて、キュッリッキに託した。
普段は見えないように姿を消していて、今に至るまで何もしなかった、謎の玉のことらしい。
それが判ったところで、キュッリッキにはどうでもいいことだ。今はもう、ただただ死にたい、消えたいと思うだけだから。
メルヴィンに合わせる顔もない、ベルトルドに汚された自分など。
「ナルバ山の遺跡の中で、あなたを殺そうとしたのは、私なの」
少女は身を乗り出し、いきなりカミングアウトした。
茫洋とした視線を彷徨わせていたキュッリッキは、数秒の間を置き「は?」と小さく口を開けた。
「ごめんなさいね。正確には、アルケラの巫女に反応する結界にしてあったから、自動的に結界が作動して、あなたを襲ってしまったの」
「え……えっと……」
現状キュッリッキの心理状態を完全スルーしたうえで、頼みもしない告白と謝罪をする少女を、キュッリッキは憮然と見やる。
「アタシを殺そうとしておいて、死ぬなって、なんか、矛盾激しすぎる気がするんだけど…?」
突っ慳貪にそう言われて、一瞬きょとんとした表情をした少女は、みるみる顔を赤くして、両手を頬に添えた。
白い肌のキュッリッキとは対照的に、褐色の肌をしているが、はっきりと判るほど赤くなっていた。
「まあ、私ったら…ごめんなさい、本当に」
心底申し訳なさそうに少女は詫びると、誤魔化すような苦笑をキュッリッキに向けた。
少女の苦笑につられるようにして、キュッリッキはようやく小さな笑みを浮かべる。でもその笑みも、急速に萎れていく。
「色んなことが次々に起こって、アタシ、頭の中ぐちゃぐちゃ。でも、もういいの。そのうち死んじゃうんだから」
「何故、もういいの?」
不思議そうに問われて、キュッリッキはちょっと迷うような視線を少女に向けたが、小さくため息をつく。どうせ死ぬのだし、隠す必要もないかなと思う。
「……ずっと信じてた人に、裏切られちゃったの。……汚されちゃったの。汚れたアタシなんか、きっとメルヴィン、嫌いになっちゃう。だから、もういいの……」
メルヴィンの名を口に出しただけで、我慢していた涙が一気に溢れてきて、白い頬を伝ってこぼれていった。胸が苦しくて苦しくて、ベルトルドに犯されていた時のことがフラッシュバックし、たまらずキュッリッキは両手で顔を覆った。まだ記憶や身体に生々しく残る、忌まわしい出来事。
ユリディスはキュッリッキの傍らへ移動すると、震わせる細い肩を、小さな手でぎゅっと抱きしめた。
「あなたの辛い気持ち、私にも判るわ」
「判るはずない! あんなことされなきゃ判るわけ」
「私もあなたと同じことをされたもの。同じ目的で、同じことをされたの」
その言葉にハッとなり、キュッリッキは少しずつ思い出す。
1万年前の最後のアルケラの巫女が、同じように純潔を奪われ、レディトゥス・システムに閉じ込められたと。
その巫女の名前が、確か。
「あなた……」
ユリディスに顔を向けると、まだ幼い顔のユリディスは、どこまでも優しく微笑み返してくれた。
まだ自分よりも幼い容姿のユリディスに抱きしめられ、キュッリッキの心は少しずつ落ち着きを取り戻していた。何故だかとても、心休まるのだ。見た目より、お姉さんなのかなと感じるほどに。
キュッリッキの落ち着いた様子に、ユリディスは口を開く。
「神王国ソレル最後の王クレメッティは、貪欲の塊だった。長く続く戦争に、終止符を打ちたかったのも、単に、他種族を自らの支配に置きたかったから。民に施すこともせず、神を敬うこともしない。己の欲望にのみ動く王でした」
幼い響きを持つ声だが、悲しみに満ち、キュッリッキの心に沁みていくように広がる。
「神の力を欲し、フリングホルニを建造させ、レディトゥス・システムに私を閉じ込めることに、なんの躊躇いもなかった。人前で私を犯すことにも、喜々とし率先して遂げました。巫女の地位に就いて15年、その間ほんの数回ほどしか直接会っていません。神を敬わないのだから、当然私にも会いませんでしたし。――でも、王の野望は潰えました」
「フェンリルが暴走した…」
「はい。グレイプニルによって束縛されていたフェンリルの力が、暴走したのです。フェンリルの力は、惑星ヒイシだけにとどまらず、惑星タピオ、惑星ペッコにも及び、世界は半壊してしまいました」
キュッリッキは目を見張った。
「1万年前に何が起こったのか、あなたに見ていただきたいのです」
ユリディスは懇願するように、頭を下げた。すると、2人の足元に波紋が起こり、やがて新たな景色を映し出していった。
平凡で身体的特徴を持たないヴィプネン族、背に翼を持ち容姿の優れたアイオン族、動物と人とを混合したトゥーリ族を、神はそれぞれ生み出した。そして、各種族には惑星を与えて、そこを治めさせた。
ヴィプネン族は惑星ヒイシを与えられ、3種族の中では一番に種族統一国家が生まれた。それが、ソレル王国と呼ばれる、モナルダ大陸の海岸沿いを首都にした、ヴィプネン族の国だ。
アイオン族やトゥーリ族のように、身体的にはなんら特徴を持たないが、好奇心や探究心は旺盛で、良いものは積極的に取り入れ進化させる。発明においても研究においても、他種族と圧倒的な差を見せつけるほどに。
国はどんどん栄え、組織は拡大し、惑星ヒイシはほぼ完全に統一された。
ソレル王国の開祖ハンヌス・ヤルヴィレフトから、ソレル王国はヤルヴィレフト王家によって治められていくことになる。
暫くは聡明な王が排出され、国は安定と繁栄を続けていた。数千年という長い時を、緩やかに治めていた。しかし、長い時を刻むに連れ、愚王が出現し始める。
国は安定していたが、アイオン族とトゥーリ族との戦争が絶え間なく続き、戦局が拡大・悪化していくと、ヤルヴィレフト王家にも陰りが射し始めたのだ。
それを後押しするかのように、アルケラの巫女がここ何代か続けて、ヴィプネン族から排出された。そのことでヤルヴィレフト王家は驕り、国の名を”神王国ソレル”と称し、ヴィプネン族の優位性をアイオン族とトゥーリ族に見せつけたのだ。
戦争はどんどん泥沼と化し、クレメッティ王の誕生とともに、神王国ソレルは崩壊をはじめて行く。
大きなベッドに座り込むようにして、幼いユリディスは臥せっているヴェルナの看病をしていた。
ベッドサイドの椅子に座ると、まだ身体の小さなユリディスでは手が届かない。
「面倒だから、私の隣に座ってなさい」
焦れたヴェルナにそう言われて、それ以来ユリディスはヴェルナの傍らに座っている。
優しいのだが、どこか有無を言わせないキッパリとした性格をしているので、ユリディスはついビクついてしまうのだった。
「巫女になった時から千年、長生きしたわ」
他人事のように言って、ヴェルナは小さく首をすくめた。
「辛いことっていうより、めんどくさいこといっぱーいやってきた。さすがに千年も同じことやってると、飽きるを通り越しちゃうのよね。だから、死期が近づいて、神から次代の巫女を告げられると、やっとお役御免がきた! って、つい嬉しくなっちゃう」
どう反応していいか困り、ユリディスは口をつぐんでいた。「お前はもうすぐ死ぬんだぞ」と言われて、どうして嬉しくなってしまうのだろう。
1週間前にヴェルナは突然廊下で倒れた。お付の女官長が言うには、ついに召されるときが来たという。
寝室に運び込まれ、ベッドに寝かされると、ヴェルナはそれから一度もベッドを出ていない。食事も水も摂らず、動いているのは目と口だけだった。
明るい燃えるような赤い髪も、桃のような柔らかな肌にも、どこにも死を彷彿とさせるような陰りはない。それなのに、ヴェルナはもうじき死んでしまうという。
ユリディスはその事実が受け入れられず、看病すれば治ると信じて、ずっとヴェルナのそばにいた。
「千年ってね、言葉にしちゃうと短いけど、でも、とーっても長い長い時間なの。なんでそんなに巫女が長生きしなくちゃいけないのか、ほんとうんざりしちゃう。だからね、ついに死ねるって思うと、逆に嬉しくってしょうがないの。身体は動かないけど、心は踊りっぱなしよ」
ふふっと楽しそうに笑うヴェルナに対し、ユリディスは目に涙を浮かべてしゃくりあげていた。
「死んじゃ、やだ」
ドレスをギュッと掴んで、ヒッく、ヒッくとユリディスは泣き続けた。
「もう、ユリディスったら、泣き虫治らないわね」
くすっと誂うようにヴェルナに言われて、ユリディスは慌てて手の甲で涙を拭う。
「この1年近く、本当に楽しかった。ユリディスが神殿に来てくれて、私嬉しくて楽しくて、毎日がキラキラしてたのよ。――私が逝った瞬間、あなたが新しい巫女になるの。そして、千年の時を生きて、死期が近づくと神から啓示を受けるわ。次の新しい巫女の名前を教えてもらえるの。そうしたら私がしたように、今度はあなたが新しい巫女に仕事を引き継がせて、こうして見送られるのよ」
巫女が代替わりするときは、巫女が死ぬ1年前になると、神々から新しい巫女の名を告げられる。そして、新しく巫女になる少女を神殿で引き取り、現巫女が死ぬまでに仕事を引き継がせ、色々なことを教える。そして時期が来ると、巫女は死の国ヘルヘイムへ召される。
「わたし、まだ小さいから、じょうずにできない…」
「大丈夫よ、女官たちもついてるし。それに、あなた専用の
ヴェルナはそっと目を閉じた。
瞼がとても、重かったのだ。
「大好きよ、ユリディス。私ではヤルヴィレフト王家の愚行を、止めることが出来ない。もうそんな時間がないから…。あなたに丸なげしちゃうことになるけど、どうか、私の代わりに世界を守ってね、お願い」
予見した未来。近い将来に起こることを、ヴェルナは誰にも告げなかった。告げたところで、不安を与えるだけで、誰にも変えることは出来ないのだから。
「ああ……眠いわ。とっても、眠い……。おやすみなさい、ユリディス」
そう言って口を閉ざすと、ヴェルナはもう、口を開けることはなかった。
「ヴェルナさまあ……」
ぴくりとも動かないヴェルナの身体に突っ伏して、ユリディスは大声を張り上げ泣きじゃくった。
離れたところでヴェルナを看取った女官長は、袖で涙を拭うと、室外に向かって声高に叫んだ。
「新たなる巫女の誕生です!!」
次いで、轟音のような鐘の音が、首都に鳴り響き渡る。
ヴェルナの崩御を報せ、新たな巫女の誕生を告げる鐘だった。
「ヴェルナ様は全てを予見しておられました。神王国ソレルの崩壊も、私が王家に捕らえられることも、何もかも」
幼い自分の姿を見つめ、ユリディスは静かに言った。
「死の間際にあったヴェルナ様にも、幼い私にも、定まった未来を覆すことは無理でした。だから、ヴェルナ様は詳細をおっしゃらなかった…」
「で、でも、何か出来たかもしれないのに」
ユリディスとともに、彼女の過去を見ながら、キュッリッキは苛立ちを覚えていた。
先のことが判っていたなら、防げたはずだ。道を変えることが、できたかもしれなかったのに。
「そうですね…。でも、予見したからといって、犯してもいない罪で、人の命を殺めることはできません。予見の能力は巫女に与えられた特権の一つですが、予見によって、事が起こる前に命を奪ったらどうなるでしょう?」
問いかけられ、キュッリッキは暫し考え込んだ。
「怖い、って思っちゃうかも…」
「はい」
ユリディスはにっこりと微笑んだ。
「巫女にしか見えていないことです。巫女の言うことだからと、人々は信じるかもしれません。しかしそれと同時に、心に小さな恐怖を芽吹かせることにもなります。人心を恐怖で支配することだけは、絶対にしてはなりません。神の言葉を人々に伝える役割を担っている巫女だからこそ」
「そ、そうだけど…でも、でも」
判っていた悲しい未来を変えていれば、ユリディスは辛いめに遭うこともなければ、天寿を全う出来たかもしれない。そう考えると、正しい判断を貫くことが、果たして良いことなのか、疑問に思ってしまうのだ。
「ありがとう、キュッリッキ」
自分のために憤ってくれているキュッリッキに、ユリディスは優しく微笑んだ。
「でもね、それだけではないのよ。悲しい未来を変えるために、何か行動を起こせば、必ず別の悲しみが生まれる。多くの命を救うために、少ない命を犠牲にするという、天秤にかけるような真似をしてしまうことになるわ。それに悩み、新たな歪みが生まれ、そうして別の未来がどんな形になるのか、それを予見することはできないの」
「……」
全てがうまくいって、幸せな未来が作れるのなら、ユリディスは初めからそうしていただろう。
「定められた運命なんて変えてやる!」そう頼もしいことを言う人がいる。しかし、それによって影響される様々なことに、関わる何かを考えたことはあるのだろうか。自分が幸せになる代わりに、別の誰かが不幸になるかもしれない。それが個人ならまだしも、国家や世界といった、広範囲のことだったら。
踏み切る勇気を、キュッリッキは持てそうもなかった。
「
唇を尖らせるキュッリッキに、ユリディスは柔らかく微笑んだ。
「本当に。私もそう思います」
ベルトルドの手におちる未来を予見できていれば、キュッリッキは酷いめに遭わなかったかもしれない。しかし復讐を遂行するために、ベルトルドたちが諦めることはないだろう。きっと別の形で仲間たちの犠牲を伴い、実行されたかもしれない。
物思いにふけりだしたキュッリッキの手を、ユリディスはきゅっと握った。
「さあ、幼く巫女を継いだ私の末路を、一緒に見てね」