そんな二人の重い空気を破ったのはヒカルだった。「早く散歩に行こう!」と言わんばかりに吠え始めたのだ。ステファンは右手首に付けている腕時計を見た。時計の針は16時を指そうとしていた。
「少々、立ち話し過ぎましたね。殿下たちも庭園に行くのならご一緒にどうですか?」
「誰のせいだか。私たちは温室に行く。」
「そうですか。では失礼します。」
ステファンたちは僕らに会釈をした。ハインツは早足で歩き始めた。去り際、ステファンが僕に手を振っているのが見えたが、それに応える術を僕は持っていなかったのでただ見つめることしか出来なかった。
「にゃー。」
「トモル…すまない、頭に血が上ってしまって勢いで温室に行くなんて言ってしまった。今からでも庭園に行こうか。」
ハインツは踵を返そうとするので、僕は首を振った。ハインツは「本当に大丈夫?」と聞いてきたが、正直な話をすると庭園が好きなのはヒカルなのでそれに付き合ってただけなのだ。庭園の散歩が絶対というわけではないので、散歩をするくらいなら温室で構わない。
「にゃー。」
「そうか。ありがとう。庭園ほど大きくはないが、温室もいいところだから気に入ると嬉しいよ。」
ハインツの機嫌も直ったようだった。僕はホッとしてハインツの腕に寄りかかった。彼の歩いて伝わる振動が心地よくて眠ってしまいそうだ。猫になってからすぐに眠くなっている。寝ることしかやることが無いので仕方のない事だが、これが癖になってしまったら大変だと思う。
アルバ視点
「結構、重症ですね。」
ステファンの言葉にアルバが気づく。
「…やっぱり殿下はトモルのことが本気で…」
アルバはステファンに恐る恐る聞こうとしたが、ステファンに口を塞がれてしまった。
「廊下ではその話は謹んでください。どこで誰が聞いているか分かりません。」
「…はい、分かりました。ですが…」
アルバは何を言おうとしたが口を噤んだ。ステファンがどうしたのかと聞いてもアルバは何でもないと言うばかりだった。
「言いたいときに言ってくれればいいですよ。」
「すみません。」
アルバは嫌な予感がしていた。ハインツと話をしているとき、いつもの彼ではないような気がしたからだ。いつもならあんな冗談は言わないし、ハインツを煽るようなことも言わないのにどうして今日はあんな様子だったのかが理解できなかった。
最近のステファンは思い詰めた顔をする時間が長かった。アルバはステファンに救われてからというものほとんどの時間を彼のために費やしてきた。彼の研究の手伝いはもちろん、彼の身の回りの整理も自ら進んで行ってきた。
だからステファンの異変にはいち早く気がつく。何を悩んでいるのかを考えていたとき、ステファンとトモルが話しているのを発見してアルバはその違和感の正体に気づいてしまった。しかし、ステファンの口から言われるまで自分が意見を言うことはしないと決めていた。
それでも、今の彼の顔はひどい。きっとアルバ以外が見ても異変に気づいてしまうだろう。アルバは何か声をかけたかったが、ヒカルもいるこの場は適切ではないと気持ちを抑えた。
「アルバ、始末書は薬が出来てからいいので早く二人を元に戻しましょう。」
「はい。すみません、僕のミスでこんなことに。」
「刺激的でいいじゃないですか。ですが、二人がこの姿のままではまずいかもしれません。」
「まずい?」
アルバはステファンの言っていることが理解できなかった。
「人間の姿に戻れなければ、元の世界に戻る方法が分かっても帰ることは出来ません。」
「そう…でしたね。」
アルバは抱えていたヒカルを見た。ヒカルもアルバに目を合わせていた。キラキラとした黒い瞳がアルバを見つめている。アルバはヒカルが元の世界に帰れない未来を想像して「そんな未来も悪くないかもしれない」と不覚にも思ってしまった。アルバは自分の思考に寒気がしたが、疲れているかだと自分を必死に納得させた。
灯視点
ハインツが案内した温室は十分に広かった。緑や黄緑、黄色の根や葉っぱが生い茂り、ぽつぽつと赤い花が咲いているのが見える。柱は白色でお金がかかっているのがうかがえる。
温室には庭園にはない植物がたくさん植えられていた。ここをヒカルが知ったら、アルバの仕事がまた増えてしまうなとつい考えてしまった。ハインツの腕から降りて、自分の足で歩く。温室の道はアーチスタイルでしっかり整備されていて、歩きやすかった。ハインツは目に入った植物について一つ一つ、丁寧に説明してくれた。
そう言えばストーリーでもヒカルと温室に来たときがあった。その時もヒカルの質問に丁寧に答え、二人は楽しそうだった。ゲームの表紙にもある王子とヒロインが笑い合っている描写が目を引いたことを覚えている。
それなのに今はどうだろうか。国の第一王子は猫と温室を散歩している。それも言語の通じるはずのない猫に植物を説明しているなんて、何も知らない人から見たらハインツは極度の猫好き王子にしか見えないだろう。
本当にハインツにこんな事をさせていいものかと不安になる一方、ハインツの植物の語りに拍車がかかっている。
僕が何も言わずに見つめているとハインツは我に返ったのかハッとして、顔を少し赤くした。
「すまない、久しぶりに温室に来たのものだから興奮してしまった。」
ハインツが植物に詳しいことはゲームのストーリー上知っていたが、ここまで好きだとは思わなかった。主人公の前では控えめに感情を出していたのだろうか。
「にゃー」
「そう、植物が好きなんだ。ただ、度を越えているから人前では控えた方がいいとセバスに言われてしまってな。それから温室にも庭園にも行かなくなったのだけど…」
僕が「植物が好きなのか」と聞くとハインツはすぐに返事をくれた。セバスに止められるほどの植物好きなんて意外だった。本当は植物に関わることをしたいのだろうか。それとも小さいころから植え付けられた第一王子という役以外の選択肢が頭に浮かばないのか。それは聞いていいものか今の僕には判断できなかった。
「トモルがいなかったらここに来ることはもう無かったのだろうな。」
ハインツは大きな葉っぱをひと撫でした。
「そろそろ部屋に戻ろうか。」
そう言って、ハインツは僕を抱きかかえて温室を後にした。
執務室に戻ると机に残った書類とセバスが待っていた。ハインツは急いで机に戻って仕事に取り掛かった。そうして時間が過ぎてゆき、夕食の時間になった。
ハインツは相変わらず、僕が話せないことなどお構いなしにしゃべり続けている。僕が相槌を打つように鳴くと彼はすごく喜んだ。それでもやっぱり彼とちゃんと話したかった。今夜、元の姿に戻ると分かっていても、心の中では焦っている僕がいる。
本当に明日になったらいつも通りになるのだろうか。目が覚めても猫のままだったら、薬が出来るまで元に戻れなかったら。そんな悪い考えが頭の中にグルグルと回ってしまうときがある。
「トモル?」
ハインツが僕を心配そうに見ている。僕は「なんでもない」というようにハインツの手の甲に顔を摺り寄せた。ハインツは僕の頭を撫でながら「大丈夫だよ」と繰り返した。彼の体温が暖かくて泣きそうになった。