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第16話

 その場にいる全員が目を点にしていた。時が止まったのかと思った。実際はほんの一瞬。一秒もない沈黙だった。僕を可愛いと思っていたことの戸惑いとそれだけで僕が猫になったと信じたことの衝撃を整理するまで色々な考えが頭の中を通過していった。

 この沈黙を作り出したハインツは周りが黙っていることの理由が分かっていないようだった。その沈黙を破るようにステファンはハインツに話し出した。


「ここにいる人間がトモル君の事を知っているとはいえ、発言には気を付けた方がいいかと。」

「本当の事を言ったまでだ。」


 ハインツはステファンの言葉を跳ね除けた。そして、僕を抱きかかえたまま歩き出した。


「どこに行くのですか?」


 ステファンがハインツの腕を掴んで止める。


「私の執務室だ。この姿では本も読めないだろう。何もすることがないなら私のところにいたらいい。」


 ハインツの言葉にステファンは何も言い返せなかった。そのままハインツを見送った。ハインツの肩越しにステファンとアルバが話をしているのが見える。僕たちを元に戻す方法について話しているようだ。アルバの顔色は未だに悪い。それもそうだ。自分の実験で異世界から来た人間が動物になったなんて、大きなミスが簡単に許されるはずない。どうにか、元の姿に戻さないといけないと焦っているはずだ。

 ゲームの中でもアルバはいつもと違ってものすごく焦っていた。それはどのルートでも同じでことの重大さが感じられた。

 それでも僕がこんなに悠長にしている理由は、この先のストーリーを知っているからだ。この動物になってしまう薬を個体のまま直接、体に取り込んでいたら元には戻れなかった。しかし、体内に入れたのは薬の煙だったことでその効果が少し薄れたのだ。そのおかげで今夜には元の人間の姿に戻れるのだ。それを知っている僕は猫になったところで、イベントに巻き込まれたくらいにしか思わないのだ。

 それをアルバに教えることもこの口では今は出来ないし、言葉を話せたとしても教えることは出来ない。そんな情報を知っているなんてバレたら、面倒くさいことになるのが目に見えている。

僕は大人しくハインツに抱えられたまま執務室に向かった。


「とりあえず、メイドたちにトモル用のベッドと食事を用意させるよ。」


 ハインツはそう言って、猫になった僕に笑いかけた。僕には分からなかった。僕が猫になったことメイドに聞いたときは信じなかったのに、ステファンにも何も聞かず、ただの猫を見ただけで僕だと信じるなんてどうかしている。ハインツの頭の中がどうなっているのか、どんどん分からなくなる。彼が何を考えているのだろうか。ゲームで見ていた彼とは全くの別人だった。


「にゃー…」

「どうした?トモルも嬉しいのかい。」


 ハインツは笑っていた。向日葵が咲くように明るい笑顔が僕を見ている。僕が発した言葉は正しく伝わらないまま、彼の中で勝手に処理されてしまった。



 執務室に着いてすぐにハインツは僕を抱えたままソファに座った。そして、ポケットから一本のリボンを取り出した。まさかとは思ったが、ハインツはそれを僕の目前で左右に揺らし始めた。猫の本能に逆らえず、リボンの先を目で追いかけているうちに手が一歩、また一歩と出てしまう。もうここまで来たら身体を止めることは出来ない。僕はそれを一生懸命追いかけた。やっとの思いでリボンを捕まえて、我に返るとハインツの口角は上がり切っていた。そして、ハインツは「可愛い過ぎる…」と悶絶していた。

 何も知らない臣下たちが部屋に入ってきた。猫に悶えているハインツに「仕事をしてください!」と怒っていた。ハインツは執務室から出たくないと駄々をこねたが、最終的にはソファから引っ張り出された。執務室から出る際にハインツは僕に、この部屋から出ないようにと言った。

 執務室は再び静寂に包まれた。僕は手もとにあるリボンを見つめた。手が黒い毛で覆われていた。本当に猫になったのかと今さら実感する。どうにか全体を見たいが鏡のようなものは見当たらなかった。僕は諦めてソファの上に丸くなって眠ることにした。そのすぐ、後にハインツが部屋に飛び込んできて驚いて、ソファから落ちるなんて知りもしないで呑気に目を瞑った。



「トモル、おやつを食べるかい?」


 ハインツは猫用のおやつを僕の口元に寄せる。さかな型のクッキーのようなおやつだった。恐る恐る一口食べると、美味しくて彼の手の中にあるクッキーをすべて食べてしまった。ハインツはそれに満足したのか、仕事机に戻ってしまった。さっきまでリボンで僕を遊ばせていたのだ。そろそろ仕事に戻らないといけないことは分かっていた。分かっていても少しそれが僕には寂しかった。

 猫になってから、ステファンと図書館に行くこともなくなり暇で仕方ないのだ。部屋にいるのはハインツだけ。時々、リボンで遊んでは寝て、遊んでは寝ての繰り返し。今回はおやつがあったが、もう飽きてしまった。

 ハインツは真剣に仕事に取り組んでいる。先ほどまで緩んでいた顔とは思えないほど真剣そうだった。僕はソファを降りて、ハインツの足元へ歩く。ハインツの膝の上に行こうにも高くてジャンプでは届きそうにない。ハインツも仕事に夢中で僕が来たことに気づいていない。ものは試しだと思って、思い切り飛んでみるがやっぱり届かない。ハインツのすね辺りのズボンにしがみつくことしかできなかった。爪が引っかかったことでズボンから落ちずに済んだが、早く引き上げて欲しい。

 さすがにハインツも僕が足に飛びついたことに気づいて声を上げた。


「トモル!?何してるの!?」


 ハインツは必死に足にしがみついている僕に驚いていた。そして、すぐに抱き上げ膝に乗せた。僕はそのまま、ハインツの膝の上で丸くなる。すると、ハインツの手がわなわな震えていた。この状態のまま、資料に目を通そうにも僕が気になって集中できないのか、一分もしないで僕を撫でてはため息をついていた。

 僕が仕事の邪魔をしないように膝の上から机の上に移動してもそれは変わらなかった。それを見かねたハインツの専属執事であるセバスが僕を再びソファに移動させた。それでも誰かにかまってほしかった僕はセバスに擦り寄ってみた。セバスは鈴が付いた紐で僕と遊んでくれた。

 そんな時間もつかの間、今度はハインツがそれを羨ましがって仕事が進まなくなった。セバスも僕を構うことをやめてしまい、僕は大人しくソファで昼寝を再開した。


「トモル、散歩にでも行こうか。」


 ハインツが寝ていた僕に話しかけた。時計を見るともう夕方になりかけていた。


「暗くなる前に行こう。」


 そう言ってハインツは僕を抱えた。いつもならヒカルやアルバと散歩をしている時間だった。僕が「どうして散歩?」という意味を込めて一声鳴いてみる。


「ん?あぁ、どうして散歩なんかするのかって?確かに私はいつも散歩なんてしないのだが、トモルがアルバ達とこの時間は庭を散歩していると聞いてね。散歩に行きたいかと思ったんだ。」


 ハインツは僕の鳴き声の意味を完全に分かっているようだった。それにしても散歩をしていることが彼に知られていたことに驚いた。


「はは、驚いたかい?セバスやステファンにトモルとヒカルの行動は随時報告してもらっているんだ。一日どんな風に過ごしているのかとかね。」


 ハインツは僕の顎を撫でた。そして、すぐに僕に謝罪をしてきた。どうしてか分からず、彼の顔に少しでも近づこうと前足を立ててみる。


「仕方のない事とはいえ、監視されているなんていい気持ちではないだろう?だから謝罪を受け取ってほしい。」


 ハインツは僕が聞きたかった事を話してくれた。言葉を交えていないのに会話している感覚になる。


「にゃー。」

「ありがとう、トモルは優しいな。さあ、行こう。」


 僕が「いいよ」と鳴くとハインツは笑って、歩き出した。


 庭に行く道中でステファンに出会った。その後ろには子犬になったヒカルを抱えたアルバがいた。


「ステファンにアルバ、どこに行くんだ?」

「ヒカルさんが庭園に行きたがったので休憩がてら散歩に出かけるところです。殿下こそどこに行かれるのですか。」


 ステファンはアルバの肩をポンポンと叩いた。アルバは元に戻す薬を作るために働き詰めだったのか顔色が悪い。そんなアルバとは反対にヒカルは笑顔で尻尾を振っている。

アルバも大変だなと思っているとステファンがハインツの腕の中にいる僕を見て笑った。まるで「殿下に抱っこしてもらえてよかったですね」と言っているようだった。


「トモル君も小さくなりましたね。」


 そう言ってステファンが僕を撫でようとすると、ステファンの指を避けるようにハインツが一歩下がった。


「すみません、可愛かったものでつい。」


 ステファンは指を引っ込めて、体勢を戻した。


「ステファン、どういう真似だ?」

「私が猫好きなのはご存知でしょう?私は“猫”が可愛いという意味で言ったのですが、説明不足でしたか。」


 ステファンの言葉にハインツは何も言えなくなっていた。急にハインツ機嫌が悪くなったと思ったら、ステファンも火に油を注ぐように煽ってきた。こんなシーンはゲームのストーリーには無かったし、ハインツもステファンもこんなキャラじゃないので戸惑ってしまった。そんな僕よりも第一王子と自分の上司の険悪な雰囲気に胃を痛めているアルバが可哀そうだった。


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