研究棟の廊下は相変わらず薄暗い。ステファンの執事と僕の足音だけが静かに響いている。扉が開くと目の前にステファンが立っていた。部屋の中に入るとステファンは僕に頭を下げて今朝のことを謝った。
「今朝はすみませんでした。お見苦しいところを見せてしまって。」
「いえ、大丈夫です。」
来客用の椅子に座るとステファンは紅茶を淹れてくれた。ハインツも同じだが、ステファンはお茶を自分で淹れる。こういう時はメイドが淹れるものだと思っていた。アニメや小説で得た知識だから、この世界では違うのかもしれない。しかし、アルバはステファンが自分で紅茶を淹れることを止めていた。やっぱり二人が変わっているのだろうか。
「トモル君?」
紅茶の入ったティーカップを眺めているとステファンが声をかけた。
「紅茶は苦手でしたか?」
「え、そういう訳では…」
ステファンは「今からでも違う飲み物を用意します」と言って立ち上がった。僕は慌てて、ステファンの腕を掴んで止めた。
「本当に違うんです!紅茶は好きなんですけど、ただ…」
「ただ、なんですか?」
僕は腕から手を離してソファに座った。ステファンも合わせて、向かいのソファに座った。
「ステファンもハインツも、自分で紅茶を淹れるからどうしてか気になってしまって。」
「あぁ、なるほど。そういう事ですか。」
ステファンは僕の言葉を理解したのか、ソファの背もたれに背中をつけた。
「確かに基本的に紅茶を淹れるのは使用人の仕事です。ハインツ殿下の理由は分かりませんが、私は紅茶を淹れるのが好きだから自分で淹れているだけです。」
「え、それだけですか?」
「それだけです。」
ステファンはそう言って、自分で淹れた紅茶を啜った。
「さすがに親しい人達だけにですが…メイド長とルイにも許可をもらっていますので。」
ルイとはステファンの執事をしている老人の名前だ。先ほども僕と一緒に廊下を歩いた。もう部屋から出ていったのか見当たらない。見た目はおじいさんなのに僕より動きが早くて、どこからそんな力がでているのか不思議で仕方ない。
「紅茶を淹れるのは好きなのですが…思うように上手く淹れることが出来ず、申し訳ないです。」
「じゅ、十分美味しいですよ!」
僕は精一杯フォローするが、ステファンは納得していない顔をしている。
「ハ、ハインツも紅茶が好きなんでしょうか。」
「さあ、紅茶が好きという話は聞いたことないですね。」
「そうですか。じゃあどうしてだろう。」
僕は紅茶を一口啜る。
「食事もハインツ殿下自身が作っていたことを考えると、それほど君の存在を隠したかったと考えるのが普通だと思いますが…彼のことを考えると他に理由がありそうですね。」
「え?何か心辺りがあるんですか?」
「…確信がないので何も言えません。」
ステファンはそう言って口を閉ざしたのでそれについて詳しく追及していいものか悩んでいるとステファンは話題を変えて、ノエルについて分かっている情報を話し始めた。
「ノエルさんについての情報を共有しておきたいのですが、話しても大丈夫ですか?」
「あ、はい。」
「ありがとうございます。ノエルさんについてハインツ殿下から何か聞いていますか?」
ステファンは立ち上がり、窓際にある机の方に歩いて行った。机の上から紙を一枚取って、再びソファに座った。
「ハインツからはノエル…さんとは子どもの頃からの友人だと聞いています。それ以外はなにも聞いてないです。」
「分かりました。簡単に説明するとノエルさんの家は代々王族の護衛をしています。ノエルさんも例外ではなく、殿下が6歳になるときに年が近かったノエルさんが陛下の騎士見習いとしてついています。」
「ノエルさんは何歳なんですか?」
「殿下の一個下なので17歳ですね。」
僕はノエルが同い年なことに驚き、ハインツと年が一個しか違わないことにも驚いた。歳の近い人がたくさんいるのが、次元の違いに胃が痛くなる。唐突に自分の無力さに苛まれて、頭を抱える。その様子を見たステファンが心配してくれたが、どうにも立ち直れそうにない。
年下のアルバはステファンの第一助手として成果を上げているし、ノエルもこれまでの活躍は知らないがゲームの中では王国の第一王子の専属騎士とかいう責任重大な役を全うしていた。ハインツに至っては一国の王子で、次期王様だ。僕と生きている世界が違い過ぎる。
そう思うとさっきハインツを無視したことの後悔が再び襲ってきた。僕なんかが関わってはいけない人のように感じてしまった。好きになること自体おこがましいのではないか、そんな風に思ってしまった。ハインツに謝りたいがこれ以上近づいていいのか分からなくなってしまったのだ。
「どうかしましたか?」
ステファンの顔はいつもと変わらないが、頭を抱える僕を心配しているようだった。
「…さっきハインツと目があったんですけど、無視してしまって。謝りたいんですけど、なんかいろいろ話を聞いていたらやっぱり僕なんかが好きになっちゃいけないんじゃないかって思えてきて…話しかけるのもよくないのかもって、すみません。」
話しているうちに目に涙が滲んでくる。口をへの字に曲げ、涙を堪えている顔はきっと不細工なんだろう。膝の上にある手を握りしめているとステファンが隣に座った。そして、僕の手を包み込むように握った。
「あまり強く握ると怪我をしますよ。」
ステファンは僕の手を優しく撫でた。その姿はまるで聖母のようだった。
「私が見る限り、ハインツ殿下は君を好意的に思っていると思いますよ。そうでなければ今頃、君は私のところで生活することになっているので。」
「そうなんですか?」
僕の目から涙が引っ込み、顔を上げるとステファンと目が合った。最初は怖かったあの眼付も、今はもう怖くない。
「私は研究者なので、未知なものは大体が私のところに来ます。ヒカルさんのようにね。」
僕は「なるほど」と相槌を打つ。その姿を見て、ステファンがクスっと笑った。ステファンが声を出して笑ったことに驚いているとステファンは誤魔化すように咳払いをした。
「…すみません。私の顔を怖がっていたのに、今はしっかり見れるのですね。」
「慣れました。」
僕がそういうとステファンはまた笑った。
「君は素直ですね。」
「そうですか?」
「ハインツ殿下にも同じように接すればいいのでは?」
ステファンは紅茶を引き寄せ、一口飲んだ。その間、僕はステファンの言葉を頭の中で繰り返した。ハインツにも素直に謝ることが出来るだろうか。ハインツを前にすると緊張して上手く話せないのだ。あの顔が近くにあると何も言えなくなってしまう。今もハインツのことを思い出しただけで胸が締め付けられる。ステファンは僕がハインツを好きなことを止めない。本当に好きなままでいいのだろうか。考え込んでいる僕を見てステファンは僕の考えを察したかのように話し出した。
「昨日も話したように好きになることは自分でも止めることは出来ません。好きになってはいけないと思った時点で好きだと思いますし。」
「はい…」
昨日、自分が言った言葉を出され少し恥ずかしくなった。ステファンは続けて話した。
「好きという気持ちに蓋をするかどうかはトモル君次第ですが、できることをしてみてはどうですか?」
ステファンはまた紅茶を啜った。その姿は聖母ではなかったけど、どこか安心できた。
「…そうですね。少し、頑張ってみます。」
僕が意気込むとステファンは微笑んだ。やっぱりステファンに相談してよかったと強く思った。
「ステファン、ありがとうございます。」
「…どういたしまして。」
ステファンの返事に少し間があったことなど気づかず、僕は紅茶を啜った。そして、再びノエルについて話始めた。