トモルがいるはずの部屋にトモルがいないことに気づいたとき、頭が真っ白になった。私のことが嫌になって出て行ってしまったのか、誰かにトモルの存在が気づかれ攫われてしまったのか。考えれば考えるほど冷や汗が止まらなかった。
ふと、部屋の窓が開いていることに気づいた。もしかして、窓から逃げたのかと慌てて窓の外を見渡した。すぐ下には部屋に置いてあったはずの花瓶が割れ、花が散らばっていた。その近くを異世界から召喚された少女のヒカルが走っているのが見える。一瞬でトモルはここから落ちて庭園で迷っているのだと考えた。執事に休憩すると伝えて、すぐに庭園に向かった。
予想通り、庭園の中でトモルを見つけた。トモルの奥には言い合いをしているヒカルとその監視係のアルバがいた。運悪くアルバに見つかったのだろう。でもヒカルと話しているせいで私の存在に気づいていなかった。今ならまだトモルを部屋に戻すことが出来る。
ゆっくり近づいてトモルの手を引こう。トモルも早く部屋に戻りたいと思っているに違いない。そう思っていたのに、トモルの顔はどこか寂しそうだった。私が近づいていることも気づいていない。何を考えているのか、私にはまったく想像できなかった。
まだ、ヒカルもトモルの存在に気づいていない。逃げるなら今なのにどうしてトモルは動かないのだろうか。やっぱり私から逃げたかったのか。そんなことを考えていたら、体が動かなくなっていた。
「うわっ!」
トモルの小さな声が聞こえ、体が触れた。私は咄嗟に「すまない!」と声が出てしまった。その瞬間、ヒカルが私がいることに気づき、アルバもこちらを振り返った。やってしまったとトモルの顔を見ると、トモルは笑っていた。小さな声で「よかった」と呟いているのが聞こえた。
そんな姿を見たら、それまで考えていた嫌なこともすべて忘れてしまっていた。笑っているトモルに私は眉をひそめた顔をすると、怒られると思ったのかシュン…としてしまった。どんな姿にも心が動かされる。アルバへの交渉もしないといけないのに気分は浮かれている。トモルが見せるこの表情は私だけのものにしたい。そう思ってしまう。
ヒカルは同じ異世界者が増え、喜んでいた。トモルを取られてしまったが、今は許そう。アルバには気持ちがバレてしまった。でもその方が好都合だ。私が好きな相手にちょっかいをかける命知らずはいないだろうから。トモルが私ではない誰かを選ぶなんて考えたくない。それでもトモルが私から離れる決断をしたら、私はそれを快く了承したいと思っている。トモルの幸せを願いながら、私以外との幸せを許せない。こんなひどい心を知ってもトモルは笑ってくれるだろうか。
昼食をステファンのところで食べると聞いて、また慌てて走った。部屋についてトモルを見たときは抱きしめたかった。なんとか理性を保ち、話をしていた。それなのに本当は二人きりで食べたいと言おうとした時にトモルが僕が待っていてくれたことが嬉しかったと言ってくれたのだ。
トモルは自分で言っておきながら恥ずかしそうに私から顔をそらした。トモルの赤くなった頬を見て、私の気持ちは大きく高鳴った。トモルは本当に私の心を動かすことが上手だ。
トモルの“嬉しい”を何度も聞きたくて、何回も問いかけると怒ってしまったのか頬っぺたを膨らませていた。食事中も食後のデザートを食べている姿もすべてを見ていて飽きない。どうしてこんなに可愛いのか。多分、トモルはどんな姿でも可愛いのだ。
イチゴのショートケーキが好きなのか、見たこともないような表情でケーキを食べている姿は絵画に残しておきたかった。トモルの姿をすべて記録出来れば最高なのにと肩を落とす。
ステファンと図書館に行くと聞いたときはもちろん反対した。それでも、まだ私にトモルの行動に口を出せる関係にないことは分かっているので仕方なく了承した。それでも図書館で二人が仲良く話している姿を見るのは心が苦しかった。何を話しているのかは聞こえなかったが、トモルが笑っている。それだけで私だけのものにしたいという欲が溢れてしまう。
「今日はいろいろあったね。トモルが部屋にいないって気づいたときは焦ったけど。」
「ごめんね。花瓶を取ろうと思ったら落ちちゃってて。」
トモルは笑っているが冷静に考えるとすごい話だ。結構高さがあるが庭園の草木がクッションになったのだろうか。それでも怪我をしないなんてことはないだろう。アルバに治療してもらったのか、トモルの体には怪我は見当たらない。
「怪我はアルバが治してくれたの?」
「うん、落ちてすぐにアルバ…君に見つかってさ。怪我治したんだから、僕のこと教えろって言われたんだ。そしたらヒカルが現れたんだ。ヒカルって元気だね。僕の方が年上なのに話をしてもらってばっかりで不甲斐なかったなあ。」
「…随分、二人と仲良くなったんだね。」
二人が羨ましかった。私が知らない間にトモルと話した。私の知らない話を二人にはしているなんて気が狂いそうだ。他人のすべてを100%知ることも理解することも出来ないと分かっていても、求めてしまう。
「ハインツ、どうしたの?」
「…なんでもないよ。トモルの味方が増えてよかったよ。」
「そう、だね…」
私とトモルの空間に沈黙が残る。この醜い気持ちをトモルに言うべきだろうか。恋人でもない奴が他の人と話しているのを見て嫉妬したなんて気持ち悪いと思われるだろうか。トモルが自分のベッドに行くのか私に背を向けた。その後ろ姿を見て、私は咄嗟にトモルの腕を掴んだ。
「ハインツ?」
「…アルバやヒカルと仲がいいことは嬉しい。けど…」
「けど?」
「私の方がトモルと話がしたいと思っている…」
トモルはポカンとしていた。
「…僕が二人に取られると思ったの?」
トモルが私の顔を覗きながら聞いた。
「…思った。」
顔を触らなくても熱くなっていることが分かる。きっと皮膚も赤くなっている。それをトモルに見られていると思うと恥ずかしくて、心臓の音が早くなっていることにも気づいてしまった。
「みっともない姿を見せてしまったね。」
「ううん。あのねハインツ、確かにヒカル達とは仲良くなったと思うけどね。僕が一番感謝を伝えたいのはハインツだよ。僕の味方第一号になってくれて嬉しかった。ありがとう!」
「トモル…!」
“一番”と言ったトモルのその言葉が頭の中にずっと響いて鳴りやまない。
「トモル、ありがとう。」
「それはこっちのセリフだってば。」
「ふふ、ねえトモル。今日、一緒に寝てみたいんだけど。」
「え!?」
トモルは驚いていた。
「ダメかな?」
「ぅぐっ。」
トモルの両手を握り、目を見つめるとトモルは変な声を出した。押したら願いを聞いてくれると思ったが、そんなことはなかった。
「きょ、今日は無理!」
トモルはそう言って走って自分のベッドに行ってしまった。私は残念に思いつつも、“今日は”という言葉に引っかかった。今日はだめなら明日はいいのかもしれない。そんな期待を抱いてベッドに潜り込んだ。高鳴っていた心臓は今もまだ大きく動いている。トモルがいれば他には何もいらないと思ってしまう程、トモルが好きだ。…それでもトモルに想いを伝えられないのは、第一王子という立場からどう退くかを考えているからだ。きっとトモルは私が王子ということを気にしてしまうだろう。まずはその壁を壊さないといけない。
そんなことを考えていたら、トモルが再び部屋にやってきた。