「ねえ、聞こえてる?」
アルバが僕の顔を覗き見ている。現実を見ないように目を瞑っている僕にアルバは少し苛立っているようだった。それでも僕にはどう答えるべきか分からなかった。
僕が部屋にいないことに気づいたハインツが探しに来てくれるまで、口を開くことはいけない気がした。
「ふーん、だんまり?じゃあ話したくなるまで待つしかないね。ここだとハインツ殿下に見つかるから、場所を移して…」
アルバが僕の腕を掴んで強引に連れて行こうとした時、どこからか「アルバ!」と呼ぶ声が聞こえた。アルバはその声を聞いた途端、眉をひそめて「うわ、見つかった」と呟いた。最初はハインツかと思ったが、その声は高く女の子のような声をしていた。
「アルバ!やっと見つけた。置いて行っちゃうから迷子になったじゃない!」
怒りながら木の陰から姿を現したのは、この乙女ゲームの主人公である女の子だった。名前は自分の好きに変えられたが、今はゲーム設定での名前なのだろうか。確か名前は…。
「ヒカル、よく僕の場所が分かったね。」
そうヒカルだ。立花ヒカル、それが初期設定での主人公の名前だった。ヒカルという名前は妹と同じで、妹が気まずそうな顔をしていたのを思い出す。それに加えて、この光景はゲームで見たことがある。アルバのルートを進むと出てくる会話だ。アルバは主人公を研究材料としか見ていなかったが、主人公の身の回りの手助け係に任命された事に納得できず意地悪をするもそれに負けずに自分に構う主人公に惹かれていくというストーリーだった。
このシーンは散歩に行きたがった主人公を庭園に置いてきぼりにして迷子にするも、すぐに自分を見つける主人公に呆れるといったシーンだ。そこに僕は居合わせてしまったのか。
「勘だよ!どうしてだろうね。アルバの場所がなんとなく分かるの。」
僕のすぐ後ろからヒカルの声が近づく。ヒカルは僕の目の前で立ち止まり、両手を腰に当て、アルバに「どうだ!すごいでしょ」と言わんばかりの態度を取った。そんなヒカルの姿にアルバがため息を一回つくとヒカルは怒涛の勢いで話し始めた。
「アルバ!私を迷子にしようとわざといなくなったでしょう。どうして意地悪ばかりするの?あ!それとこの庭園は何種類の植物があるの?」
「本当にうるさいなぁ。怒るのか質問するのかどっちかにしてよ。あー植物の数は、そうだな…自分で数えたら分かるんじゃない?」
まだ、ストーリーが序盤だからだろうか。アルバはヒカルに対して冷たい態度を取っている。それでもヒカルはアルバとの会話を諦めていない。ヒカルの背中越しにアルバの呆れたような表情が見える。アルバはヒカルとの話に頭がいっぱいで僕のことを忘れているようだった。
僕はその隙にこの場所から逃げようと静かに膝を曲げてその場にしゃがみ込んだ。少しずつ後ろに下がり、横にずれる。すぐに気づかれると思ったが、アルバはヒカルの突飛な会話に翻弄されていた。
「それで何種類の花があるの?」
「だから自分で数えろって言ってるだろ!しつこいよ!」
「アルバは何でも知ってるんじゃないの?」
「はあ?知っててもあんたに教える義理はないね。」
アルバはヒカルを鼻で笑っている。それでもヒカルの口は止まらない。「どうして教えてくれないの?」とヒカルはアルバに迫っている。アルバはヒカルの顔が近づいても動揺していない。アルバと僕の場所が入れ替わったら、僕はあんなに冷静ではいられないだろう。
時間をかけてアルバの死角になるところまで移動することに成功した。静かに曲げていた膝を伸ばしゆっくり立つ。その時、初めて主人公であるヒカルの顔を見た。
ゲーム内では主人公の顔は全く映ることはなかった。ストーリーでもいつも主人公視点になっていて、挿絵として表示されるイラストでも顔までは描かれていなかった。映し出されるのは、さらさらとなびく茶色のロングヘアと白いブラウスに赤いスカートだ。姉達にストーリーの達成だけを任された僕にとって、主人公の顔を想像するなんて考えもなかった。
その初めて見た主人公ヒカルの顔に僕はなぜか、妹の顔と重ねてしまった。僕と似ていないまん丸の目のせいか。または妹と同じ名前だからだろうか。顔のパーツが妹と似ているからか。そんなことを考えても理由なんて分からなかった。ただ妹の顔が脳の隅っこに現れたのだ。姉二人でもない、妹の顔が浮かんだ。
ヒカルの話にアルバは怪訝そうな顔をしながらも耳を傾けている。ヒカルは順調にアルバルートを攻略しているらしい。アルバは上司であるもう一人の攻略キャラクター以外には無愛想だ。アルバルートを進まない限り、アルバとの会話はほぼないと言ってもいい。アルバは上司であるステファン・リーデルを師として崇め立てていた。ステファンへの尊敬の念が重く、彼のためなら手段を選ばない。ステファンルートではアルバは二人の仲を裂こうとする悪役として登場する。その悪役のアルバも攻略対象としてストーリーが展開されているので、優しい乙女ゲームだと思う。悪役にも救いの物語があることは僕が読んでいた漫画の中では珍しくて、初めての乙女ゲームだったが少し新鮮だったのを覚えている。
そのゲームの中の存在でしかないアルバが目の前にいて、主人公と言い合いをしている。この景色もゲームと同じなのに主人公視点ではない、第三者視点なことも未だに信じられない。本当に夢ではないのか。頬に触れる風も聞こえる二人の声も名前も知らない花の香りも、ハインツの部屋に匿ってもらった記憶すら夢に思えてきた。もう一度、窓から落ちたらこの夢から覚めることが出来るのだろうか。そんな馬鹿なことを考えてしまうくらい、現実味がありすぎる現実があった。
アルバはすっかり僕のことを忘れているようだった。今のうちに庭園を出ようと振り返るとすぐ後ろに人が立っていたのに気づかず、ぶつかってしまった。「すまない!」と聞こえてきた声の主はハインツだった。ハインツが来たことに僕は安堵した。しかし、部屋にいるように言っていたのにどうして庭園にいるのかと疑問をぶつけるような顔をしている彼に、僕の上がっていた口角が下がり、焦っている表情にすり替わった。僕が言い訳を考えていると、ハインツの存在にヒカルが気づいた。
「あ!ハインツだ!」
「…タイミングがいいね。ヒカル、流石に殿下を呼び捨ては良くないよ。」
「ハインツがいいって言ったのよ。」
「…はあ?ハインツ殿下といつ話したんだよ」
アルバが話しているにも関わらず、ヒカルは僕とハインツの方へ走ってしまった。ヒカルを追いかけるアルバを見て、僕は「まずい」と思った。まだハインツに僕が転移者だとバレたことを言っていない。
「ハインツ!と誰?!」
「ヒカル?なんでここに…うわっアルバもいるの?!」
乙女ゲームの主人公に攻略対象キャラが二人…そして隠れキャラに転移した僕というなんともカオスな状況だ。ハインツは僕に状況の説明を求め僕の右腕を掴んでいる。ヒカルも状況を分かっていないようでアルバに「どういう状況?」と繰り返している。アルバはヒカルに口を閉じることを強要しながら僕を逃がさないぞと鋭い目で睨んでいる。花瓶を落としただけでどうしてこんな事になっているのだろう。説明してほしいのは僕の方だと声を上げてしまいたい。