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第2話

「ノエル?」


 ハインツの顔は少し疲れているように見える。ゲームではイラストで喜怒哀楽の感情が一枚一枚変わるだけだったが、実際の人間はそんな表情だけではない。今、目の前にいる彼の表情もしっかりと分かる。スマホの画面で見たハインツと姿形は一緒だ。黄金色で短くも長くもない髪の毛はしっかりと整えられていて、服も彼のために作られているようにぴったりだった。しかし、画面越しでは感じ取れない王子としての風格、圧力がひしひしと感じ、体がこわばる。ハインツの質問に対してどう答えるべきか悩みたいのに、緊張で頭も回らず、言葉が出てこない。


「すみません…」


 震える唇は謝ることしかできなかった。目には涙も滲んできて、今にも零れ落ちそうだった。そんな僕を見て、ハインツはぎょっとしていた。先ほどまで僕に対して疑いの目をしていた彼とは対照的に焦っているようだった。そうだ、最初こそ彼は王子という設定なだけあって俺様系のキャラクターだと思っていたが、ストーリーを進めていくうちに感情が分かりやすいキャラで、姉から犬系だとか言われていた。それを聞いたときは、意味が理解できなかったが、今なら分かる気がする。彼に本当のことを話すべきだろうか。


「すみません…。記憶喪失ではないんです。あの…僕…うぅ。」


 目から涙が零れる。涙を拭うために右手で目を擦る。それでも涙はなかなか止まらず、声も上手く出なかった。目を擦る手を左手に変えようとした瞬間、手首を彼に掴まれた。いつのまにか僕の目の前まで来ていた彼に僕は驚いた。彼は僕の左手首をしっかりと掴んで、どこから出したかハンカチを僕に差し出した。


「そんなに擦ってはダメだ、目が腫れてしまう。これを使ってくれ。ゆっくりでいい。落ち着いて話せるようになるまで待つから。」


 彼の優しさに心が痛かった。それによって涙を溢れるばかりだった。彼のくれたハンカチで涙を拭う。その間も彼は僕の傍にいてくれた。

 どれくらい時間が経ったのか。ようやく落ち着きを取り戻し、涙が止まり始めた。僕は彼に本当のことを打ち明けることを決めた。ゲームを完全攻略していても、知らない世界だ。僕の事情を知っている味方が一人でも欲しい。彼ならきっと僕の事情も理解し、助けてくれる。攻略対象の懐に入ることは僕には簡単なことだ。僕が全エンド回収のためにストーリーを何周したと思っている。完全攻略した僕にとって攻略対象達と仲良くなることは容易いが、問題は他の人達だ。メイド、執事、騎士団、他の王族たち。分からないことが多い。王子が味方になってくれたら心強いのだ。


「…陛下。僕はノエルじゃないんです。召喚された女の子とはまた違う世界だと…思うんですけど…。目が覚めたらあの部屋にいて、どうしてこんなことになったのか…僕にも分からないんです。…信じてください。あなたしか…頼れる人がいないんです。」


 泣きはらし赤く腫れた目で僕は彼に訴えかけた。人の目を見ることは苦手だ。それでも今は彼の目をしっかりと見て話すべきだと思った。僕の話に彼は驚いたような顔をしていた。それはそうだろう。昨日も異世界から人が召喚されたというのに、今まで自分の護衛をしていた人と同じ顔が異世界人だなんて信じ難いことだ。それでも彼は、僕の手を握って「信じるよ。」と言ってくれた。その一言が僕にとってはとても嬉しかった。


「信じるから、もう泣かないで。」


 そう言いながら、彼は僕の目じりに人差し指を添えて涙を掬い取った。彼の心配そうに下がった眉と瞳に見つめられ、心臓の心拍数が急激に上がった。彼の行動は恋愛などに触れてこなかった僕にとって、刺激が強すぎる。泣き顔も見られたことの恥ずかしさも思い出してきた。そのせいなのか、顔が熱く赤くなっている。


「ノエ…ではないのだったね。…大丈夫?顔が赤いようだけど。」


 そう言って、彼は僕の顔を覗き込んだ。僕はとっさに両手で顔を隠した。僕の行動に彼は、ひどく戸惑った。「どこか痛いのか」とか「酷いことを言ってしまったのか」などと慌てている。僕は、両手を少しだけ顔から離した。なるべく顔を見られないようにほんの少しだけ。


「違うんです…恥ずかしくて。すみません…。」



その瞬間、ハインツはいきなり心臓を掴まれる感覚を経験した。第一王子として、婚約者も仕事も決められた道を歩んできた彼にとって、心臓を掴まれるという感覚は初めてだった。心臓の鼓動が目の前の人物にまで聞こえているのではないかと心配になるほどうるさい。いつの日か図書館に忍び込んで読んだ、どこかの国のロマンス小説を思い出した。あの本に書かれていた「心臓の鼓動がうるさく響く」その一文は、今のようなことを言うのだろうか。これが恋というものなんだとハインツは理解した。


「かわいい…」

「え?」


 ハインツの言葉に僕は耳を疑った。何かの聞き間違えだと思いながらも、脳は理解が追いつかなかった。


「君の名前は?なんと呼んだらいい?」


 さっきの言葉には一切触れず、彼は僕の名前を聞いた。


「灯…です。」


 戸惑いながらも名前を答える。僕の名前を聞いて彼はにっこりと笑った。


「トモル…いい名前だ。灯、このことは君と私の二人だけの秘密にしよう。召喚ではなく、入れ替わりが起こったなんて研究者たちに知られたら実験材料になりかねない。もしかしたら酷いことをされるかもしれない。」


 彼の言葉に僕の顔から血の気が引いていく。ゲームの攻略対象には研究者のキャラクターもいるが、そのキャラクターは残忍な性格で攻略が大変だった。僕が完全攻略しているからと言って油断できない人物だった。彼にこの事が知られてら何をされるか分からない。


「僕がどうにかするから安心して。」


 彼は優しく微笑んでいた。先ほどまで心の中に不安が積もっていたのに、彼の言葉を聞いて安心してしまった。なにも根拠などないのに彼といれば大丈夫だと思ってしまった。彼が僕の頬に手を添える。それがより安心を増幅させ、無意識に彼の手に擦り寄っていた。僕の行動に彼が悶えていることに僕は気づかなかった。

 そのあとは彼が手を回してくれて、ノエルは廊下で転んだことによって記憶喪失なり療養のため休暇を貰っていることになった。本物のノエルにとっては不名誉なもので申し訳ない。それに加え、僕はハインツの部屋に匿ってもらっていた。


 しかし今、ハインツの部屋のすぐ近くの庭園で、危険と言われた攻略対象の研究者アルバの治療を受けている。茶髪で耳にかかるくらいの髪の長さをしていて、目が釣り目の猫っぽい印象を与えるキャラクターである。服装は研究者なのに黒い神父のような格好をしている。そんな彼に、僕は穴が開くほど見つめられている。

 僕が窓から落ちた花瓶を取ろうと窓の縁から身を出したところ、庭園の木の上に落ちてしまったのだ。幸運なことに怪我も擦り傷だけで、生きていたが庭園を歩いていたアルバに見つかってしまった。そして、擦り傷を治療すると言われ、強引にベンチに座らされたのだ。


「ねえあんた、ノエルじゃないだろ。姿は同じだけど、この世界の人間じゃない。異世界の人間だろ。でもあの女と同じで召喚されたわけではなさそうだし。第一王子がこの事を隠しているのも気になる。傷治してあげたし答えてくれるよね?」


 アルバは不敵な笑みを浮かべている。目が覚めたら乙女ゲームの世界で、接触を避けたい人物に遭遇するなんて本当に偶然なのだろうか。僕は静かに目を閉じた。この現実から目をそらすために。


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