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お医者さまの章 エピローグ


 「泥棒! おい、泥棒!」



 春平と橋倉が、背中に引っ付かんばかりの勢いでついて来るのは分かっていたが、カゲはトイレへ直行した。もう余裕がなかったのだ。



 「トイレなどどうでもいいだろう!」



 ドアをバンバンされる。



 「ちょっとくらい待っとけや、せっかちジジイどもが!」



 カゲは激昂した。春平たちが、トイレの苦労をまるで分かっていない発言をしたからだ。



 「来い!」



 トイレから出ると、橋倉に首根っこを掴まれて書庫へ連れて行かれた。カビ臭い、カゲの部屋である。



 「今度の相手は何者だ」



 春平が押し殺した声で問う。ヒカリがブーケを抱えてルンルンで帰ってきたので、次なる敵が現れたと察知したのだ。



 「花屋だ」


 「くっ」



 橋倉が書棚に拳を打ちつけた。



 「自らの得意分野でお嬢様をたぶらかすとは、卑怯な……!」


 「これって卑怯っていうのか?」



 カゲはダルそうに壁にもたれた。春平がキッと顔を上げる。



 「そもそも貴様は何をしていた? ヒカリが危ない目に遭っていたというのに」



 内股でステップを踏んでいた。

 危なかったのは膀胱だ。



 「そんな下心のある奴に見えなかったぜ?」



 しかし本当のことは言えないので、とりあえずそう答えておく。



 「甘い! 貴様は分かっとらん!」


 「おっしゃる通り」



 橋倉が目を光らせた。



 「見たところ、あのブーケには赤いバラが六本」


 「何で、んなもん見てんだよ?」


 「赤いバラの花言葉は“あなたを愛している”。本数によっても様々な意味があるが、六本は……」



 橋倉が言葉を切る。春平がゴクリと唾を飲んだ。



 「六本は、“あなたに夢中”──」




 「ぬうぅ」



 春平が難しい顔で腕を組む。



 「気持ちわりーな」



 カゲは眉をしかめた。オッサンが「愛」だの「夢中」だの言うからである。



 「何でそんなこと知ってんだ」


 「万能なのだ。橋倉は」


 「そこまで博識そうな男に見えなかったけどな。テキトーに作っただけじゃねえか?」


 「とにかく! このことはお嬢様にはご内密に……」


 「うむ、そうじゃな。花言葉など知ったらヒカリがおかしくなってしまう」



 おかしいのはお前たちだろうと、カゲは思った。茶番の予感しかしない。



 「泥棒、聞いておるのか?」


 「心してお嬢様をお守りせよ」



 カゲは面倒くさそうに欠伸をした。



 「頭悪いな、てめーら。花屋とガキがどうなろうと、認めなきゃいいだけの話だろうが」



 彼は胸を張り、親指を自分に向かって突き立てる。



 「ガキの相手は俺様。財産を受け継ぐのはこの俺様なんだからよ!」



 彼は、まだあの話を真に受けているのだ。



 約十秒後、書庫内は窓ガラスが割れるかというほどの怒号に包まれた。



 「この……大馬鹿者が!! ワシがそんなこと認めるワケがなかろう!!」


 「料理長! 塩を持って来い!!」



 カゲは、二人の勢いで入り口まで追い詰められた。



 「てめーが言ったんだろうが! 財産と一緒にくれてやるってよ!」


 「愚か者めが!! あれだけ真に受けるなと言っただろう!」



 橋倉は、料理長に持って来させた塩をカゲの口に塗りたくる。



 「穢らわしい……!」



 カゲは何とか橋倉の手から逃れると、口元を拭った。



 めちゃめちゃしょっぱい。

 トイレに行きたい。



 「あーあー、そうかよ! 俺だって願い下げだ、あんなガキ!」



 遺産の話があって以来、ヒカリには気を遣ってきたつもりだった。彼なりに。口うるさいことは言わず、北白河のことを諦めるまで見守ってきたのだ。しかし、それはすべて無駄だった──。



 「やめたやめた! ジジイがくたばるまで時間もかかりそうだしな!」



 カゲが投げやりな様子で髪を掻きむしると、春平がピクリと眉を動かした。



 「何のことじゃ?」


 「医者によると、オメーは超健康なんだとさ」



 ここで、春平や北白河医師が気にしていた“記号”の話である。



 この記号とは健康診断の各検査結果につけるアルファベットのことで、



 A 良好

 B 概ね良好

 C 経過観察

 D 危険

 E 今すぐ病院へ!



 という具合にレベル分けされている。春平はほとんどAとBで、肝臓の項目で一つCが付いていた。



 彼の年齢を考えればBやCが付くのは珍しいことではなく、同年代と比較しても超健康ということになるのだが。



 業界のトップを走り続けてきた彼は、オール“A”でないことを気に病んでしまったのである。



 しかも、北白河が忙しすぎてA~Eの凡例を載せ忘れたことも話をややこしくした。



 ……ちょっと人騒がせなところもある春平じいちゃんである。



 「勝手に話を聞き出すとは何事だ! しかもなぜ黙っておった?」



 橋倉がカゲの首根っこを掴む。



 「フン。ダメージ食らったままの方が、くたばるのも早えと思ったんだよ」


 「こやつ!」



 春平がゲンコツを落とした。



 「何しやがる、健康バカ! 元気ジジイ!」





 「……カゲ」


 戸口にヒカリが現れた。鬼の形相である。途中から話を聞いていたのだ。




 ──スパパパパパァーーーンッ!!




 ヒカリの往復ビンタが炸裂した。




 「アンタなんかこっちが願い下げなのよ! 気持ち悪いわね!」




 カゲは知った気がした。ドラマのセリフに出てきた『紙一枚』の重さというものを──。



 ───



 「何も……ない?」


 「ああ。まったく問題ない。健康体だね」



 未だに腫れが治まらないカゲの頬を気にしながら、北白河が言った。



 数日前、極秘でカゲの健康診断が行われたのだ。無論、「近いから」と言うのは恥ずかしいので、自分も内緒で健康診断をしてほしいとだけ伝えた。



 絶対にどこか引っかかると踏んでいたのだが……。何も問題がないのでは治療することもできない。



 「何か、心配事でもあるのかい?」



 北白河がカゲと対面になるように身体の向きを変えた。しっかり話を聞き取ろうとするところは医者の鑑と言っていい。そしてイケメンだ。



 「い、いや。何でもねえ」



 頻尿だから、などと言えるワケがなかった。




 西の空に白い月を見ながら歩く。空の色は、彼の心持ちを現すかのように不穏であった。



 (結局、俺は死ぬまで激チカなのか)



 ならば、この身体の特性を活かして泥棒稼業に邁進してやるか。居候先での遺産相続が不可能となった今、せめて他のお宝はゲットしなければ。



 彼は悲壮な覚悟をもって、明日からも胡桃沢家に仕えるのである──。そしてまた、めくるめく騒動に身を投じる羽目になるのだが。



 その話はまた、別の機会に。




 ◇お医者さまの章 おしまい◇


 続きましては ~お花屋さんの章~

 お楽しみに!




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