不倫男の妻がついに陥落。不倫(バ)カップルの障害はなくなったかに見えた。しかし。まさかの最終回で脚本がさらなる迷走。
何やかんやあって、結局二人は別れることになるのだった。青空をバックに『忘れない、あなたのこと』とヒロイン(?)の声が入り、不倫男は元サヤに。
包丁を手に目を血走らせていた鬼嫁は、突然性格が変わったかのように良き妻、良き母となり、慌ただしくも幸せな日々を送る。
ヒロイン(?)、そして同僚(チャラい)、御曹司など、それぞれの登場人物たちも前を向いて歩いていく──。
という、薄口すぎる群像劇もどきに仕上がった。
メロドラマじゃなかったのか……。一体何を見せられていたのか。多くの視聴者たちが置いてけぼりにされるドラマであった。
───
「……」
「……」
橋倉が無言でテレビを消した。さすがのカゲも言葉が出ないようである。ヒカリはいない。もうこのドラマを視聴する必要がなくなったのだ。
「じゃあ、オッサンたちは最初から分かってたのかよ?」
カゲが言った。ドラマの話ではない。ヒカリの、恋の騒動の話である。
「当たり前だ。お嬢様は、ご両親に恥じるようなことはなさらない」
橋倉は胸を張って答えた。
「ふうん」
“若先生なら心配ない”とは、そういう意味だったのか。
ドラマの影響を受けたり、思い詰めて姫華と協力関係になったり。ヒカリの言動にはカゲも振り回されたが、春平と橋倉は「黙って見ておれ」と言った。
万能か。と言おうとして口を噤む。この場合、万能とは言わないなと思った。
彼らはただ過保護で甘いだけではなく、胡桃沢ヒカリという一人の人物を心から信じているようである。
こればかりは、付き合いの浅いカゲにはできない芸当であった。
(ああ、それで尿意が来なかったのか)
最後には、ヒカリが自ら降りることになるから。実に確度の高い尿意であることよ。
「カゲー。ここ?」
軽いノックの後、ヒカリがひょっこり顔を出した。
「やっぱりここだった。ねえ、クリニック連れてって」
「んあ? 薬なら俺が貰ってくるぞ」
「ううん。喉の腫れが酷いから、一応もう一度診せてって先生に言われてるの」
ヒカリはちょっと億劫そう言った。
クリニックに到着すると、膀胱がワヤワヤと騒ぎだした。ただし、まだ余裕を持っていられるくらいのレベルである。
(いろいろあったから緊張してんのかな)
最近、胡桃沢邸や学校の方で急激な尿意が来ることはない(前もって頻回にトイレ行っとけば大丈夫)。基本、平和な日々が続いていた。
(念のため飲み物はやめとこ)
カゲたちが来院した時間帯はたまたま患者がおらず、ヒカリはすぐに診察室へ通されて行く。あることを思いついたカゲは、そろりと中待合室に近づいた。
「ありがとうございましたぁ」
「はい、お大事に」
ヒカリが診察室を出ると、北白河はパソコンに向かって処方内容を確認し始める。すると、
「よぉ」
「うわあっ!」
突然、降って湧いたように黒服の男が現れた。
「あ、あなたは胡桃沢様のところの。ビックリするなぁ、もう」
カゲである。
「うちのジジイ、じゃなくて
無論、そんな命は受けていない。口から出まかせである。
「し、しかし」
「個人情報のことなら大丈夫だ。俺は信頼されてるからな」
カゲがあまりにも自信満々なので、北白河は「そういうことなら」とパソコンに春平の検査結果を映し出した。
「ほう。この横についてる記号は何だ?」
「これは、──ということさ」
カゲの表情が曇る。何やらブツブツと呟き始めた。
「くっそ。あのジジイ、くたばりそうもねえな」
「え?」
「いや、何でもない。じゃ、問題ねえんだな?」
爽やかな作り笑顔でカゲが訊いた。
「ああ。若者に負けないくらい健康だよ」
北白河は少し考えてから、「ああ、でも」と頭を抱える。彼は、検査そのもののことじゃなくてねと前置きして、
「いささか説明不足だったかもしれない。実は、あの日は早く帰る約束をしていて……美亜に寂しい思いをさせていたから」
顔を上げてさらに続けた。
「記号のこと、胡桃沢様は気にされていなかったかい? 忙しすぎて用紙に凡例を載せるのも忘れてしまってね」
「ま、その辺は俺が上手く伝えといてやるさ」
カゲが親指を立てると、北白河は安心した顔で礼を述べた。
「その代わりと言っちゃなんだが」
揉み手で医者に擦り寄る。
「──」
「ああ、それくらいお安い御用だよ」
───
ヒカリたちがクリニックを出るのと入れ違いに、患者が増え始めた。
いつもの道を歩く。こんもり緑を背負った公園も通り過ぎる。ヒカリの顔は、いつになくスッキリしているように見えた。
ああ良かった、とカゲは思う。この尿意レベルなら、帰ってすぐトイレに行けば充分間に合う。ヒカリの通院はこれで一段落、当分クリニックに来ることはない。彼の膀胱もしばらくは平和だろうと思われた。しかし。
「おーい! この前のセレブの人ーっ!」
小型車の窓から、先日の業者が手を振っている。
「あら。彼は」
「ぐぎっ! 来ちゃったあぁ……」
強烈な尿意が来た。カゲが内股で電柱にもたれている間に、業者の彼が走り寄ってくる。
「先日は、ご迷惑をおかけして大変申し訳ありませんでしたぁっ!」
彼はキャップを取って深々と頭を下げた。
「いいんです。あの、顔を上げてくださ、い──」
ヒカリの動きが止まった。
キャップを取った業者の彼は、アイドルと見紛うほど整った顔面だったのである。
「良かった、お詫びができて」
爽やかな笑顔にキラキラが飛ぶ。
「お、お詫びだなんて、そんな」
「あ、これ」
彼は背中に隠していたものを手前に持ってくると、空いた手をツナギでゴシゴシと拭った。
「俺が初めてアレンジしたものなんだけど、良かったら受け取って」
「まあ、きれい」
ヒカリの顔がパッと輝いた。
彼がヒカリに手渡したのは、ミニサイズのブーケだ。赤いバラがラウンド状に配置され、オシャレな包装紙に包まれている。
「どうもありがとう! あなたは、お花屋さんなの?」
「これからなるんだ」
照れ臭そうな笑顔の破壊力たるや──。
「素敵。私、きっとお買い物に行くわ」
潤む瞳は、すっかり恋する乙女のそれである。
「ああ。待ってるよ。それじゃ!」
「がんばってねーっ!」
清涼感あふれる出会いのすぐ横で、カゲは内股でステップを踏み続けていた。