(あの医者、まだ何かあんのかよ!?)
尿意イコール危機。この場で急激に催すということは、まだ危険が潜んでいるということである。
カゲは、内股でソファに寄りかかった。身体に水分を入れてしまったことを激しく後悔する。
しかもコーヒーだ。
コーヒーはヤバい。
それにしても、一体何が危険なのか。カゲは、油断なく辺りに視線を走らせた。患者や業者が出入りしている。院内はいつもの風景そのものだ。医者の方にまだ秘密があったとしても、ヒカリの方はもう諦めている。ここで尿意が来る意味とは?
「カゲ? 終わったよ。しんどいから今日は車回して」
「お、おう」
ああ、トイレに行くチャンスを失った──。
(またやってる……。久々ね)
カゲの事情を知らないヒカリは首を傾げた。彼は、身体をくねらせながら車の手配をしている。
きちんと車を回してくれるならいいかと思い直し、ヒカリは再びソファに沈み込んだ。
───
「お、おい。車が着いたぞ」
カゲが知らせた。本当は、走って帰ってトイレに駆け込みたい。
「うーん。ありがと」
ヒカリがダルそうに立ち上がる。
「お嬢様、迎えの車が。大丈夫ですか」
姫華の方にも迎えが到着したようだ。
双方、正面のガラス扉に向かって歩き出す。扉の前で、胡桃沢と冷泉が顔を合わせた。両家の意地がぶつかり合う。先に出るのはウチだとばかりに互いが進むものだから、入り口前は団子状態だ。
両家、睨み合い。譲る姿勢を見せない。実にバカバカしい話だが、当人たちは必死である。
(どうでもいいから早くしろよおおぉぉっ!!)
トイレを我慢している彼は、互いの家の意地などどうでもいい。デザインなのか何なのか知らないが、ガラス面に対して入り口が狭すぎるのだ。カゲは、ガラスを叩き割ってやろうと拳に力を込めた。
一秒でも早く。
トイレのために──!
そこへ業者の男性がやってきた。ダンボール箱を抱えているため前が見えていないようだ。そのまま直進してくる。
「あッ」
「うわ!」
「きゃあぁっ!」
大量の花束が、雪崩のように落ちてきた。待合室の巨大フラワーベースに飾る用なので、花の量がハンパないのだ。
バラの他に、ガーベラやトルコキキョウ、ミニヒマワリ、カラーなど種類も豊富である。
「ああっ、申し訳ありません!」
キャップを被った業者の男性はあたふたと花束を拾い始めたが、
「うわぁー、ど、どうしよう! 患者様の邪魔にならないようにって先輩から言われてるのに」
大失敗で頭の中が真っ白らしく、作業はなかなか捗らない。
「ああ、別に良くてよ」
姫華は作業が終わるまでのんびり待つつもりらしく、もう一度ソファに腰掛けた。ヒカリは足元に落ちた花束を拾い上げている。
(良くない!!)
のんびりしている場合じゃないカゲである。尿意のレベルが急上昇しているのだ。
コーヒーか?
コーヒーの作用なのか?
「ほらよ。ここに入れればいいか?」
冷泉家の護衛も協力して花束を片付ける。ふと横を見て、彼は目を剥いた。胡桃沢の護衛が、軟体動物並みに身体を捻っているのだ。
そして「コーヒーか、でもなんで、オカシイ」などと、聞き取れないくらいの声でブツブツ言っている。
(マジで何なんだ、コイツ──)
先日は麦茶ごときに至福の表情を浮かべ、今日は打って変わって絶望を体現。
狂ってやがる……。
一体どういう環境で仕事してるんだ。冷泉の護衛は屈強な身体を震わせた。
「すみませんでした。お足元、お気をつけて!」
飛び散った花びらや水分をタオルで拭き取ると、業者の男性は床に膝をついたまま頭を下げた。
「構わなくてよ」
「ご苦労さま」
カゲが高速ステップで入り口を通過し、次に姫華とヒカリが悠々とクリニックを後にした。
「セレブの人って風格が違うなあ」
業者の男性が感心したように呟く。
「おい、お前。まだこんなとこにいたのか」
「す、すみません!!」
同じ業者のツナギを着た男性が血相を変えて飛んでくると、彼はまた頭を下げた。花束をぶちまけてしまった彼は、どうやらまだ年若いアルバイトのようである。
「シーッ。病院では静かにって言ったろ」
「はい!!」
「まったく……。さ、続きをやっちまおう」
二人はせかせかと院内に戻ると、仕事に取り掛かるのだった。
───
胡桃沢邸に辿り着いたカゲは、便器にまたがったまま絶望していた。また尿意に苦しむ日々が始まったと思うと泣けてくる。短い天国だった……。
クリニックでのあれは、一体何の危機を示すものだったのか。考えていたら、またブルリと震えがきた。
同時にトイレの電気が消える。滞在時間が長すぎて人感センサーが切れたのだ。
「畜生!」
無人だと見なされた。センサーにまでトイレの近さをバカにされている。
彼は悔し涙を流しながら、前後左右に身体を揺らすのだった。