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18.予感


 (あの医者、まだ何かあんのかよ!?)



 尿意イコール危機。この場で急激に催すということは、まだ危険が潜んでいるということである。



 カゲは、内股でソファに寄りかかった。身体に水分を入れてしまったことを激しく後悔する。



 しかもコーヒーだ。

 コーヒーはヤバい。



 それにしても、一体何が危険なのか。カゲは、油断なく辺りに視線を走らせた。患者や業者が出入りしている。院内はいつもの風景そのものだ。医者の方にまだ秘密があったとしても、ヒカリの方はもう諦めている。ここで尿意が来る意味とは?



 「カゲ? 終わったよ。しんどいから今日は車回して」


 「お、おう」



 ああ、トイレに行くチャンスを失った──。



 (またやってる……。久々ね)



 カゲの事情を知らないヒカリは首を傾げた。彼は、身体をくねらせながら車の手配をしている。



 きちんと車を回してくれるならいいかと思い直し、ヒカリは再びソファに沈み込んだ。



 ───



 「お、おい。車が着いたぞ」



 カゲが知らせた。本当は、走って帰ってトイレに駆け込みたい。



 「うーん。ありがと」



 ヒカリがダルそうに立ち上がる。





 「お嬢様、迎えの車が。大丈夫ですか」



 姫華の方にも迎えが到着したようだ。



 双方、正面のガラス扉に向かって歩き出す。扉の前で、胡桃沢と冷泉が顔を合わせた。両家の意地がぶつかり合う。先に出るのはウチだとばかりに互いが進むものだから、入り口前は団子状態だ。



 両家、睨み合い。譲る姿勢を見せない。実にバカバカしい話だが、当人たちは必死である。



 (どうでもいいから早くしろよおおぉぉっ!!)



 トイレを我慢している彼は、互いの家の意地などどうでもいい。デザインなのか何なのか知らないが、ガラス面に対して入り口が狭すぎるのだ。カゲは、ガラスを叩き割ってやろうと拳に力を込めた。



 一秒でも早く。

 トイレのために──!



 そこへ業者の男性がやってきた。ダンボール箱を抱えているため前が見えていないようだ。そのまま直進してくる。



 「あッ」


 「うわ!」


 「きゃあぁっ!」



 大量の花束が、雪崩のように落ちてきた。待合室の巨大フラワーベースに飾る用なので、花の量がハンパないのだ。



 バラの他に、ガーベラやトルコキキョウ、ミニヒマワリ、カラーなど種類も豊富である。



 「ああっ、申し訳ありません!」



 キャップを被った業者の男性はあたふたと花束を拾い始めたが、



 「うわぁー、ど、どうしよう! 患者様の邪魔にならないようにって先輩から言われてるのに」



 大失敗で頭の中が真っ白らしく、作業はなかなか捗らない。



 「ああ、別に良くてよ」



 姫華は作業が終わるまでのんびり待つつもりらしく、もう一度ソファに腰掛けた。ヒカリは足元に落ちた花束を拾い上げている。



 (良くない!!)



 のんびりしている場合じゃないカゲである。尿意のレベルが急上昇しているのだ。



 コーヒーか?

 コーヒーの作用なのか?



 「ほらよ。ここに入れればいいか?」



 冷泉家の護衛も協力して花束を片付ける。ふと横を見て、彼は目を剥いた。胡桃沢の護衛が、軟体動物並みに身体を捻っているのだ。



 そして「コーヒーか、でもなんで、オカシイ」などと、聞き取れないくらいの声でブツブツ言っている。



 (マジで何なんだ、コイツ──)



 先日は麦茶ごときに至福の表情を浮かべ、今日は打って変わって絶望を体現。



 狂ってやがる……。



 一体どういう環境で仕事してるんだ。冷泉の護衛は屈強な身体を震わせた。




 「すみませんでした。お足元、お気をつけて!」



 飛び散った花びらや水分をタオルで拭き取ると、業者の男性は床に膝をついたまま頭を下げた。



 「構わなくてよ」


 「ご苦労さま」



 カゲが高速ステップで入り口を通過し、次に姫華とヒカリが悠々とクリニックを後にした。




 「セレブの人って風格が違うなあ」



 業者の男性が感心したように呟く。



 「おい、お前。まだこんなとこにいたのか」


 「す、すみません!!」



 同じ業者のツナギを着た男性が血相を変えて飛んでくると、彼はまた頭を下げた。花束をぶちまけてしまった彼は、どうやらまだ年若いアルバイトのようである。



 「シーッ。病院では静かにって言ったろ」


 「はい!!」


 「まったく……。さ、続きをやっちまおう」



 二人はせかせかと院内に戻ると、仕事に取り掛かるのだった。



 ───



 胡桃沢邸に辿り着いたカゲは、便器にまたがったまま絶望していた。また尿意に苦しむ日々が始まったと思うと泣けてくる。短い天国だった……。



 クリニックでのあれは、一体何の危機を示すものだったのか。考えていたら、またブルリと震えがきた。



 同時にトイレの電気が消える。滞在時間が長すぎて人感センサーが切れたのだ。



 「畜生!」



 無人だと見なされた。センサーにまでトイレの近さをバカにされている。



 彼は悔し涙を流しながら、前後左右に身体を揺らすのだった。




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