ヒカリは驚いて立ち上がった。
「あ……」
パリッとしたストライプのロングブラウスに、レギンスを合わせた女性が立っている。
ゆるく髪をまとめた、清潔感のあるひと。
この
「もうそんな時間? もっとお姉ちゃんと遊びたいよ」
美亜ちゃんが眉をハの字に寄せる。
「あ、もしかしてヒカリさん?」
女性が目を見開いた。
「は、はい」
「娘と主人からよく聞いてます。いつもお世話になってありがとう」
ヒカリがぎこちなく応じると、女性は顔をほころばせた。
──“主人”。
この人は美亜ちゃんのママで、誠先生の奥さんなのだ。
余裕のある、柔らかな笑顔。
自分が急に子供に思えた。
「いえ、こちらこそ。あの。美亜ちゃんのポケット、とっても素敵ですね。ママの手作りって」
できる限り大人っぽく振る舞う。目の前の
「独学だから自信はないのだけど。でも、ありがとう」
「独学で? すごいわ。私、お裁縫は苦手で……そうだ!」
ヒカリが大きな声を出したので、彼女は目を丸くする。
「あッ、不躾ですみません。良かったらお裁縫、教えていただけませんか」
こんな大それたことを思いついた理由が分からなかった。しかも、実際に口に出してしまうなんて。彼女は目をパチクリさせていたが、やがて大きく頷いた。
「ええ。私で良かったらいつでも」
「わあ、ありがとうございます! 不躾続きなんですけど、お友達を一人呼んでもいいでしょうか……?」
「もちろん。賑やかなのは大好きなの」
予想に反して、彼女はウキウキした様子だ。
「そうね。最初は巾着袋でも作ってみましょうか」
(バカな奴だな、必死で笑いやがって)
数歩離れたところで、カゲは二人の会話を聞いていた。彼には、ヒカリが作り笑いしているように見えるのだ。何故わざわざ苦しい道を選ぶのか。
(ま、遺産のためだ。口うるさくすんのは止めとくか)
「道具や布は家に揃ってるから。何なら100均にもかわいい布が、あ」
女性が言葉を切る。
「お嬢様に100均だなんて。私ったら」
彼女は苦笑いで頬を覆った。ヒカリは、彼女のことを可愛い人だなと思った。
“100均”の意味は分からなかったけれど。
日時を打ち合わせて別れた。美亜ちゃんは、「お姉ちゃんが遊び来る」と嬉しそうだ。
「さ、帰ろっか」
ため息と共に言った。めちゃくちゃ疲れた。
彼女がヒカリのお願いを断るような、嫌そうな顔をする人だったら。もっと軽い気持ちでいられたんだろうか。
「……どーして何にも言ってくれないのよ」
前を歩く背中に呟く。予想外に声が大きくなったのか、カゲが振り向いた。
「おん? 何か言ったか?」
「何でもない」
俯いて長い影を見つめる。
(そっか。私、カゲに軽蔑されてるんだっけ)
でも、今さら引けない。姫華と手を組むって、自分で決めたのだから。
───
「次の日曜日、十三時にクリニック近くの公園で待ち合わせよ」
蓮乃宮女学院高等部。
奥さんに会った。約束を取りつけたと話したら、姫華は一瞬、手負いの獣のような顔をした。
「何よ、情報が欲しいんでしょう? だったら家に乗り込めば」
「分かってるわよ」
ヒカリを遮った姫華は、既にいつもの顔に戻っている。
「あなたにしては早い仕事だと思って感心してあげてたの」
姫華が横をすり抜けていった。心許ない隣を眺める。この頃のカゲは、護衛についてはくれるものの一定の距離があった。護衛とはそういうもので、鈴木さんもそんな感じだ。
でもカゲは、いつもうるさいくらい近くにいてくれたのに。
「そこの護衛。生徒用の席に座らないで!」
教師から鋭い声が飛ぶ。この学院は、護衛がだらしないと怒られるのである! ここに通うお嬢様たちの座席は、特注の超高級ソファだ。カゲはここで寛ぎながら、ヒカリたちの話をしっかり聞いていたのであった。
(やべーことになってる……)
しかし。カゲは首を傾げた。
(尿意が来ねえんだよな。本当に大丈夫なのかな?)
ソファの上にあぐらをかく。
「聞こえていないのですか!? 生徒用の席に座らない!」
教師は相変わらずヒステリックな声を上げている。
(ジジイどもも黙って見とけとか言うし……どうなってんだ?)
尿意に悩まされないことに、解放感はあった。しかし、元々あったものがないと変な気分になってくる。
「泥棒さん、降りて!」
鈴木さんが呼びに来た。
「泥っ? 何を言っているのです!?」
「あ、申し訳ありません」
とばっちりを食う鈴木さんである。
「アータたちは胡桃沢さんの……? 名門の家の護衛がそんなでどうするのです!? 大体アータたちはいつもアータラコータラ」
教師からの説教は続く。
事は、動き始めてしまった。尿意が来ないまま。
それでも時は経ち、週末はやってくるのであった──。