目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
15.奥さん


 ヒカリは驚いて立ち上がった。



 「あ……」



 パリッとしたストライプのロングブラウスに、レギンスを合わせた女性が立っている。



 ゆるく髪をまとめた、清潔感のあるひと。

 この女性ひとが、美亜ちゃんのママ──。



 「もうそんな時間? もっとお姉ちゃんと遊びたいよ」



 美亜ちゃんが眉をハの字に寄せる。



 「あ、もしかしてヒカリさん?」



 女性が目を見開いた。



 「は、はい」


 「娘と主人からよく聞いてます。いつもお世話になってありがとう」



 ヒカリがぎこちなく応じると、女性は顔をほころばせた。



 ──“主人”。



 この人は美亜ちゃんのママで、誠先生の奥さんなのだ。



 余裕のある、柔らかな笑顔。

 自分が急に子供に思えた。



 「いえ、こちらこそ。あの。美亜ちゃんのポケット、とっても素敵ですね。ママの手作りって」



 できる限り大人っぽく振る舞う。目の前の女性ひとに、子供だと思われたくなかった。ヒカリが褒めると、彼女は頬をやや赤らめた。



 「独学だから自信はないのだけど。でも、ありがとう」


 「独学で? すごいわ。私、お裁縫は苦手で……そうだ!」



 ヒカリが大きな声を出したので、彼女は目を丸くする。



 「あッ、不躾ですみません。良かったらお裁縫、教えていただけませんか」



 こんな大それたことを思いついた理由が分からなかった。しかも、実際に口に出してしまうなんて。彼女は目をパチクリさせていたが、やがて大きく頷いた。



 「ええ。私で良かったらいつでも」


 「わあ、ありがとうございます! 不躾続きなんですけど、お友達を一人呼んでもいいでしょうか……?」


 「もちろん。賑やかなのは大好きなの」



 予想に反して、彼女はウキウキした様子だ。



 「そうね。最初は巾着袋でも作ってみましょうか」




 (バカな奴だな、必死で笑いやがって)



 数歩離れたところで、カゲは二人の会話を聞いていた。彼には、ヒカリが作り笑いしているように見えるのだ。何故わざわざ苦しい道を選ぶのか。



 (ま、遺産のためだ。口うるさくすんのは止めとくか)





 「道具や布は家に揃ってるから。何なら100均にもかわいい布が、あ」



 女性が言葉を切る。



 「お嬢様に100均だなんて。私ったら」



 彼女は苦笑いで頬を覆った。ヒカリは、彼女のことを可愛い人だなと思った。



 “100均”の意味は分からなかったけれど。



 日時を打ち合わせて別れた。美亜ちゃんは、「お姉ちゃんが遊び来る」と嬉しそうだ。



 「さ、帰ろっか」



 ため息と共に言った。めちゃくちゃ疲れた。



 彼女がヒカリのお願いを断るような、嫌そうな顔をする人だったら。もっと軽い気持ちでいられたんだろうか。



 「……どーして何にも言ってくれないのよ」



 前を歩く背中に呟く。予想外に声が大きくなったのか、カゲが振り向いた。



 「おん? 何か言ったか?」


 「何でもない」



 俯いて長い影を見つめる。



 (そっか。私、カゲに軽蔑されてるんだっけ)



 でも、今さら引けない。姫華と手を組むって、自分で決めたのだから。



 ───



 「次の日曜日、十三時にクリニック近くの公園で待ち合わせよ」



 蓮乃宮女学院高等部。



 奥さんに会った。約束を取りつけたと話したら、姫華は一瞬、手負いの獣のような顔をした。



 「何よ、情報が欲しいんでしょう? だったら家に乗り込めば」


 「分かってるわよ」



 ヒカリを遮った姫華は、既にいつもの顔に戻っている。



 「あなたにしては早い仕事だと思って感心してあげてたの」



 姫華が横をすり抜けていった。心許ない隣を眺める。この頃のカゲは、護衛についてはくれるものの一定の距離があった。護衛とはそういうもので、鈴木さんもそんな感じだ。



 でもカゲは、いつもうるさいくらい近くにいてくれたのに。




 「そこの護衛。生徒用の席に座らないで!」



 教師から鋭い声が飛ぶ。この学院は、護衛がだらしないと怒られるのである! ここに通うお嬢様たちの座席は、特注の超高級ソファだ。カゲはここで寛ぎながら、ヒカリたちの話をしっかり聞いていたのであった。



 (やべーことになってる……)



 しかし。カゲは首を傾げた。



 (尿意が来ねえんだよな。本当に大丈夫なのかな?)



 ソファの上にあぐらをかく。



 「聞こえていないのですか!? 生徒用の席に座らない!」



 教師は相変わらずヒステリックな声を上げている。



 (ジジイどもも黙って見とけとか言うし……どうなってんだ?)



 尿意に悩まされないことに、解放感はあった。しかし、元々あったものがないと変な気分になってくる。



 「泥棒さん、降りて!」



 鈴木さんが呼びに来た。



 「泥っ? 何を言っているのです!?」


 「あ、申し訳ありません」



 とばっちりを食う鈴木さんである。



 「アータたちは胡桃沢さんの……? 名門の家の護衛がそんなでどうするのです!? 大体アータたちはいつもアータラコータラ」



 教師からの説教は続く。




 事は、動き始めてしまった。尿意が来ないまま。

 それでも時は経ち、週末はやってくるのであった──。





コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?