目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
13.じいちゃんの乱心


 カゲは、ポカンと口を開けた。



 「今なんつった?」


 「旦那様っ!」


 「ヒカリをくれてやると言っとるのだ」



 橋倉の制止を遮って、春平は続けた。



 「本当にワシが死んだらな。孫は冥土に連れて行けんし」


 「ほーぉ」



 この俺が、あのガキと。

 新しい視点だな。



 カゲは、考えるように顎をさすった。



 「それはその、この家の財産も一緒にってことか?」


 「ふん。金は冥土に持って行けんからの」


 「ほほう! そりゃそうだ!」



 カゲが身を乗り出すと、橋倉が割って入ってくる。



 「旦那様、しっかりなさいませ! 貴様はテーブルに乗るな!」


 「……だってぇ」



 橋倉が必死で宥めるも、グスンと鼻を啜る春平である。孫のことになると“財界の鉄人”も形無しだ。



 だからって、よりによって何で泥棒なんかにお嬢様を託そうということになるのか。ヤケクソが過ぎる。泥棒はテーブルの上であぐらかいてるし。橋倉は頭を抱えたくなった。



 「おい、貴様も真に受けるなよ。旦那様は今、正気ではないのだ。テーブルから降りろ」



 しかし。



 (何で今まで気づかなかったんだろうな。これで全財産ゲットじゃねえか! 相手が青臭いガキってところがキツいけどなー)



 真に受けてた。



 (でも面倒な護衛の仕事からは解放されるし。どーせ紙切れ一枚のことだしな!)



 結婚は紙切れ一枚提出したかどうか。例のドラマで、不倫男の同僚(チャラい)が言ってたやつである。彼もしっかりドラマの影響を受けていた。



 「で、正気じゃねえとはどういうこった?」



 突然の質問。橋倉は内心ヒヤリとした。



 「泥棒には関係ない! テーブルから降りろ」



 この男は、とぼけているようで妙に鋭い時がある。泥棒だからなのか。



 「ジジイもそろそろ身体にガタが来た。ってところかな」


 「まだ分からん。テーブルから降りろ」



 橋倉は、苦虫を噛み潰したような顔で答えた。そして最後に付け加える。



 「他言無用だぞ」



 “財界の鉄人”の健康不安説。そんなものが巷に出回ったら、社会は大混乱だ。



 「でもよぉ、健康診断は問題ないって話じゃなかったのか?」



 と、カゲ。



 「うむ、しかし」


 「ん? 待て。なぜ泥棒がそのことを知っている?」



 橋倉が不審そうに言った。



 「あ」


 「あ、とは何だ」



 あの時、カゲは応接室の飾り棚に張り付いて話を聞いていたのだった。護衛ではなく、の方で。



 「いやぁ、俺は何でも知ってるのさ」


 「この馬鹿者が!」



 理由を察した橋倉が雷を落とす。



 「テーブルから降りろ! っていうかね!!」


 「へいへい」



 カゲは滑るように床に着地した。



 「さっさと病院行けよー」



 食堂を出る直前、そう言い残していった。



 「……それもそうよな。早めにクリニック行くわ、ワシ」



 泥棒に言われてその気になる春平である。複雑だが、ひとまずは胸を撫で下ろす橋倉であった。再び食堂のドアが開く。



 「派手にやってたね」


 「おお、冬子。大学院の方はいいのか」



 末娘の姿を認めると、春平は目尻を下げた。



 「今日は午前中でキリがついたの」



 冬子が席につくと、橋倉は慌ててテーブルを磨き始める。その位置で、さっきまで泥棒があぐらをかいていたのだ。



 「私もお茶、いただこうかな」


 「かしこまりました」



 橋倉は改めて準備にかかる。



 「ほーんと、面白い護衛くん」



 冬子が愉快そうに話し始めた。



 「ねえ、パパ。あの護衛くんとヒカリちゃんの取り合わせ。私、アリだと思うんだよね」


 「何じゃと」


 「冬子様までそのようなお戯れを」



 玉露が注がれると、やがてふくよかな香りが辺りに立ちのぼる。



 「ヒカリちゃんは真っ直ぐ過ぎるから、人より傷つく。苦しむと思う、これからも」



 冬子は、湯呑みを両手で包み込んだ。



 「……お兄ちゃんにそっくり」





 春平はゆっくりと玉露を口に含み、遠くを偲ぶように虚空を見つめた。



 「本当に、歳を追うごとに……」



 橋倉も感慨深げに言葉を切る。食堂に再び静けさが訪れた。冬子が言う「お兄ちゃん」とは、胡桃沢家の長男でありヒカリの亡き父だ。



 「でもね。これは私の直感なんだけど、彼がいればヒカリちゃんは大丈夫な気がするの」


 「フォ。そうか」



 末娘にも甘い春平は、彼女の話を真っ向から否定することはない。



 「でも、すごいヘンな奴じゃぞ」



 先ほどよりは冷静に見える主を横目に、橋倉は少し安堵した。さっきの発言は、きっと乱心してしまっただけなのだ。もう忘れているだろう。



 そうでなければ困る。何しろ、奴は泥棒なのだから。



 「冬子様。今日はお夕飯もご一緒に?」



 橋倉は、気を取り直して執事の顔に戻った。



 「うん」


 「それがいい。ゆっくりしていきなさい。ヒカリも喜ぶぞ」




 ───



 「棚ボタ万歳!」



 カゲは、真に受けたままだった。ウキウキと自室へ向かう。



 夜ごと屋敷内を物色せずとも、ジジイが死ねば莫大な遺産が転がり込んでくる。



 「天下の胡桃沢だ。すげー額になるだろうな」



 ただ待っていればいいのだ。護衛の仕事もそれまでの我慢。このカビ臭い部屋とも、もうすぐおさらばである。カゲは、埃っぽいソファにゴロリと横になった。



 (あれ?)



 しかし、すぐに違和感を覚える。何かが足りないような──。



 「うおっ!? 全然トイレに行きたくねえぞ!」



 彼は飛び起きた。



 「そうか……。そういうことか!」



 尿意が来ない。即ち危険が遠いということ。つまり、始めからこうしておけば良かったのだ。彼はそう解釈した。



 ヒカリと形だけの結婚をして、胡桃沢の財産を相続する。



 そうすれば尿意に悩まされることはない。もう、治ったも同然なのだと──!





コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?