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8.蓮の庭


 「……このドラマ、本当に人気あんのか?」


 「……途中で投げ出すのは性に合わん。最後まで見届ける」



 橋倉、謎の意地っ張り発言である。ここは彼の部屋だ。こちらでも例のドラマは視聴されていた。



 「ところで泥棒。何故ここで寛いでいる?」


 「女どもがうるせぇんだよ。自分の部屋はカビくせぇしな」



 カゲに割り当てられた部屋は、古本だらけの書庫なのだ。利点といえば、トイレへのアクセスの良さくらいである。



 「お嬢様方のことをそのように言うでない。ほれ、シッシ」



 ドラマの内容に衝撃を受けているのか、橋倉にいつもの覇気はない。本格的な雷が落ちる前に、カゲは執事の部屋から退散した。




 「護衛くん」



 廊下で声をかけられた。

 冬子である。



 「今日は踊らないんだね」


 「フン」



 カゲとて、そういつも尿意と闘っているわけではない。



 「何の用だ」


 「ヒカリちゃんのこと、よろしく。相当ショック受けてるようだから」


 「何で俺に言うんだよ」


 「キミがいれば、ヒカリちゃんは大丈夫な気がするんだよね」



 冬子は小首を傾げ、考えるように顎に指を当てた。



 「パパたちはヒカリちゃんを溺愛してるけど、どっか抜けてる。その点、キミは冷静でしょ」


 「フン。どーだかな」



 何かあるだろうってことは分かってた。膀胱が騒いでたからな。と言いそうになって、カゲは口を噤んだ。



 冬子からの「冷静」という評価には実感が湧かない。荒ぶる膀胱と闘っているときの自分が「冷静」であるとは、とても思えないのだ。



 ただ、当主と使用人たちが、ヒカリに変な虫が付かないようにと右往左往する姿は茶番だと思っている。



 (じゃあ、あれは何だったんだろうな?)



 カゲはふと思い出した。「若先生なら大丈夫だ」という、橋倉の一言である。あれはどういう意味だったんだろう。考えていたらトイレに行きたくなってきた。一定時間トイレに行っていないためだと思われる。



 「じゃ、頼んだわよ」



 冬子がカゲの肩をポンと叩いて去って行った。カゲは、そのままトイレに向かう。



 何気なく振り向いた冬子は、その姿を見て驚愕した。



 (器用ね……内股で走るなんて)




 ───



 「今日、姫華さんはお一人になりたいそうよ」


 「ご気分がすぐれないみたい」



 翌日の、蓮乃宮女学院高等部。金魚のフンたちの声を小耳に挟んだヒカリは、中庭に移動した。




 「その様子だと、アンタも知ってしまったようね」



 水面いっぱいに蓮が広がる池を囲むテラス。



 ヒカリが声をかけると、立ち尽くしていた冷泉姫華がハッと顔を上げた。通常より薄いメイクの下には隈が浮き、毛先は僅かにカールしたのみ。いつもの気合いの入った縦ロールとは程遠い。インディゴブルーのワンピースは気分の現れか。



 一限と二限の間の短い休み時間に、テラスへ出てくる生徒はほとんどいない。今、テラスにいるのは二人だけであった。



 「そう。ヒカリも知ってたの」



 姫華が口角を歪める。ヒカリもそれに倣った。驚くべきことに、ライバル関係にある二人が苦笑し合ったのだった。姫華が訊いた。



 「あなたも調査を頼んだの?」


 「いえ、私は子供の相手をね」


 「は?」



 ヒカリが答えると、姫華は訳が分からないといった顔をした。



 「クリニックの近くに公園があるじゃない? 暇つぶしに、そこにいた子たちと遊んだの」


 「……」


 「その中の一人が誠先生の娘さんだった。知ったのはホント偶然よ」



 語尾は深いため息のようになった。



 今思えば、美亜ちゃんはずっと待っていたのだ。クリニックが見える、こんもり緑を背負った公園で。忙しいパパが帰ってくるのを──。あの事実を知った瞬間の胸の痛みが蘇る。



 あんぐり口を開けて話を聞いていた姫華が吹き出した。



 「おっかしい! あなたのことだから、子供と一緒に猿みたいに駆け回ったんでしょうね」


 「笑いごとじゃないわ」



 ヒカリがむくれると、姫華はフッと笑いを消した。




 「じゃあ、奥さんのことは……知ってる?」


 「……ええ。でも遠目に見ただけ。美亜ちゃんを迎えに来てた」



 反応が遅れた。新たなショックに打ちひしがれたからだ。美亜ちゃんを遠くから呼んでいた女性。あの時は、「美亜ちゃんのママなんだな」としか思わなかった。



 しかし。



 当たり前の話だが、「美亜ちゃんの母親」ということは、つまり彼女は「誠先生の奥さん」なのだ。



 (誠先生には……)



 奥さんがいる。



 ヒカリの中で、初めて「妻」という存在が明確になった。



 ──ズキン。



 心臓が大きく揺れる。



 メロドラマの中の「妻」は、鬼だった。愛に走った二人の、分かりやすい敵だった。でも。




 ──美亜ちゃーん。




 あの日、美亜ちゃんを迎えに来た女性は鬼じゃなかった。作られた役とは全然違う。生身の人間なのだ。




 「私と手を組まない?」



 押し殺したような声で、姫華が言った。



 「え?」


 「一時休戦よ。先生の家庭を壊すまで」


 「壊すって! アンタ、何するつもりなの?」


 「何でも」



 ヒカリは狼狽えた。たった今、「妻」という存在が明確になったばかりなのだ。姫華の迷いのない視線を受け止めるだけで精一杯だった。



 「欲しいものを手に入れるのに、何を躊躇ためらう必要があって? あなた、そのつもりで私に声をかけたのじゃないの?」



 言葉に詰まる。自分は、どんなつもりでライバルなんかにをかけたのだろう。



 「それじゃ。いいお返事を待ってるわ」



 姫華がヒカリの脇をすり抜けていく。二限が始まるのだ。





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