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6.絶対的事実


 今日は、春平が健康診断を受ける日である。ヒカリの提案を快く受けた形だ。



 自分の身体を気遣ってくれてのことだと分かると、春平は目を細めて喜んだ。



 今日の午後は休診で、健康診断だけが行われる。ヒカリたちがクリニックに着くと、同じく健康診断を受ける人たちがまばらにソファで待機していた。



 「どうも、胡桃沢様。ヒカリちゃんも来てくれたんだね」



 北白河が待合室の方に出てきた。



 「やあ、若先生。今日はよろしく頼みますぞ」


 「こ、こんにちは」


 「この前は、ご馳走さま」



 彼はヒカリに耳打ちすると、笑顔で診察室に戻っていく。



 全身が痺れたようになった。囁かれた左の耳に熱が集中しているのが分かる。



 健康診断が始まれば、北白河は問診などで出てこない。それでもよかった。ひと目会うだけのために、ここへ来たのだから。





 (はうぅ)



 一方のカゲである。尿意を回避したくて、今日は外で待機している。しかし、そんな小さな抵抗は何の意味もなさなかった。



 尿意は、容赦なく訪れたのである。



 (くっそ、なんて威力だ! どんな危険が潜んでやがる……)



 正面のガラス扉が開いた。



 「ねえ、カゲ。ヒマぁ」



 春平は検査中だし、北白河はいない。思った以上に暇を持て余すヒカリお嬢様である。



 「帰るか?」


 「ううん、おじいちゃん待っとく」


 「まあ、どっかで暇つぶすか」



 カゲとしては、尿意を呼ぶ危険地帯から離れられれば問題ない。二人は歩き出した。



 「あ! この前のお姉ちゃんたち!」



 道を挟んだ公園から元気な声がかかった。こんもりした緑を背負った公園だ。



 「美亜ちゃん! また会ったわね!」



 ヒカリが手を振り返す。



 「ぎぁっ……!」



 カゲがうめいた。




 細い道を挟んだ、あの公園。そこへ行ったら、俺の膀胱は確実にヤバい。いや、既にヤバい。まさか、原因は美亜ちゃんか? カゲの瞼の裏で、危険信号が高速で点滅する。



 「お姉ちゃんたちも一緒にあそぼ!」


 「うん! 今行く!」



 嗚呼。

 カゲ、さらなる危険地帯へ。



 公園には、美亜ちゃんの他にもたくさん子どもがいた。ヒカリは子どもと遊ぶのが嫌いではない。最高の暇つぶしだ。



 「ひゅぐっ!」



 カゲが素っ頓狂な声を上げて硬直すると、子どもたちはゲラゲラ笑った。カゲの事情知らないヒカリは、



 (ちゃんと子どもを喜ばせてる……意外と面倒見が良いのね。言動が気持ち悪いけど)



 と思っている。

 誰かが言った。



 「ドロケイやろうぜ!」



 お嬢様なヒカリはドロケイが何なのか分からなかったが、美亜ちゃんに教えてもらった。



 「よっしゃ、おまえら。俺様に追いつけるものなら追いついてみやがれ!」



 尿意を紛らすため、カゲは走った。まさにコソ泥の走りである。



 トイレを探して彷徨さまようことで、何度も警察から逃げ延びてきたのだ。誰にも追いつけるはずがなかった。





 「じゃあ、そろそろ時間だから。また遊びましょうね」



 三十分後、ヒカリとカゲは公園を後にした。



 ようやく危険な公園から離れられる。しかし、これから向かう場所も安全ではない。カゲは悲壮な思いを胸に、ヒカリに続いた。





 クリニックに入る直前、ヒカリは左の耳にそっと触れる。



 ──この前は、ご馳走さま。



 さっきの感触が、ずっと残っていた。耳をくすぐった空気の動きも、イントネーションも……。





 一方のカゲは、わざわざ壁と天井を伝ってトイレに向かう。戻ってきて早々にトイレに直行すると、「近い人」と思われて恥ずかしいからだ。




 「ふー……ぉ、ぉう」



 今日も何とか無事だった──。バレないようにトイレから出る。



 ずっと、ここにいましたけど? みたいな顔で太い柱の陰に身を潜める。そこでまた震えがきた。



 (あぅ……マジでどーなってんだ、この病院は!)



 その時。自動の内扉が開いて、トコトコと小さな影が入ってきた。



 「え? 美亜ちゃん?」



 ヒカリが目を見開く。カゲも驚いたが、柱の陰から様子を窺う。しかし。



 「あら、美亜ちゃん。久しぶりね」


 「待ちきれずにパパを迎えにきたの?」



 もっと意外だったのは、受付の女性やナースたちが、美亜ちゃんをごく自然に受け入れていることであった。




 「パ……パ?」




 ヒカリが小さく呟いた。



 「うんっ!」



 美亜ちゃんは無邪気にナースたちに答えると、ついと手を上げて一直線に駆け出した。



 「パパぁ!」



 美亜ちゃんを抱き上げたのは、白衣の腕。


 「ごめんごめん。少し遅くなったな」


 「ずっ待ってたんだよぉ」


 「もうすぐ終わるから」



 可愛くてたまらないという様子で美亜ちゃんの頭を撫でるのは、北白河であった。



 (そういうことかよ! 道理で……)



 カゲは、たまらず柱に手をついて内股になった。度重なる尿意は、これを伝えるためだったのだ。



 既婚者──。



 北白河医師は、子持ちの既婚者だったのである。




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