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3.パウンドケーキに願いを込めて


 「軽い脱水症状ですね。お疲れも溜まっていたのでしょう」



 倒れたのがクリニックの近くだったことが幸いした。奥の小部屋で、春平はベッドに横たわっている。夕方診療の途中であったが、北白河が迅速に対応してくれたのだ。傍で、ナースが点滴を調整している。



 「パパ!」



 カゲに伴われ、冬子が部屋に飛び込んできた。



 カゲはあの後、どさくさに紛れてトイレへ急行。事なきを得たところで、鈴木さんから連絡を受けた冬子がクリニックへ戻ってきたのだ。



 「パパ、大丈夫? あまり無理をしないで」


 「ホッホ。すまんすまん」



 冬子が春平の手をとると、彼は目尻を下げた。孫のヒカリと同様、末っ子の冬子にも甘い。



 「先生、本当にありがとうございました」



 冬子は、診察室の方へ戻ろうとしていた北白河に頭を下げた。ヒカリも慌てて後へ続く。声が出ず、ピョコンと頭を下げただけだった。



 「点滴が終わる頃には落ち着かれると思いますので」



 北白河は微笑みながら出ていく。



 ヒカリは、春平のこんな姿を初めて見た。おじいちゃんが、おじいちゃんじゃないみたい。



 「申し訳ございません」



 鈴木さんが深々と頭を下げる。



 「私がついていながら……。冬子様にも、お嬢様にも大変なご心配を」


 「謝らないで、鈴木さん。むしろパパ一人だったらどうなってたか」


 「大袈裟じゃよ、大したことはない」



 春平と冬子が取りなす横で、ヒカリは硬直していた。鈴木さんが申し訳なさそうに目を伏せる。



 (なーんか、おかしいな)



 後方で、カゲは首を傾げた。ヒカリは、基本的にカゲ以外の使用人に優しい。また性格的にも、こんな時はいち早く口を開くタイプだ。



 それが突然、借りてきた猫のように──。



 だがヒカリは、性格が変わったわけでも鈴木さんに怒っているわけでもなかった。



 祖父が倒れたショックと心配。弱々しさとは無縁と思っていた人への戸惑い。それらに掻き回されて、何も考えられずにいるのだった。



 「ヒカリ。おいで」



 空いている方の手で、春平が手招きする。ヒカリは恐る恐るベッドに近づき、祖父の顔が見えるように膝をついた。



 「大丈夫じゃ。大丈夫じゃよ」


 「うん……」



 ゴツゴツした手がヒカリの頭を撫でると、涙が一雫、シーツに落ちた。



 ───



 「先生、受け取ってくれるかしら」


 「はい。きっと喜ばれますよ」



 胡桃沢家の大きなオーブンでパウンドケーキを焼いた。



 「お上手です、お嬢様」



 ヒカリのお菓子作りに付き合うのは鈴木さんだ。


 あれから。

 ヒカリは、気に病む鈴木さんに何も声をかけられなかったことを詫びた上で、祖父に付いていてくれたことへの感謝を伝えた。無論、鈴木さんは何も気にしていないと言ってくれた。



 それどころか、「先生にお礼がしたい」というヒカリの相談に快く応じてくれたのだった。



 横からにゅっと手が伸びてきた。気づけば、カットしたパウンドケーキが一つ無くなっている。



 「ああっ、キレイにできてたのに!」


 「泥棒さん! なんてバチ当たりなことをするんです!」


 「うん……味はフツーだな」


 「もうっ、カゲ!」



 泥棒なだけあって、横取りは得意である。カゲは、モグモグしながら飄々と去って行った。



 ラッピング用の袋にケーキを入れてリボンをかける。思い切って、ハート型のシールも貼った。



 「夕方の診療が始まる前に出られては? こちらは片付けておきますので」


 「そう? ありがと、鈴木さん。料理長さんも、どうもありがとう」


 「行ってらっしゃいませ、お嬢様。お気をつけて」



 エントランスの鏡で最終チェックをする。鼻についた小麦粉を払って、前髪を整えて。



 「よし、OK!」



 出かける前に離れを覗く。



 春平は、点滴を打った後はすっかり元気を取り戻していた。大事をとって、今日は自宅で過ごしている。春平は座椅子に腰を下ろして新聞を読んでいた。



 良かった、いつもと変わりない。ヒカリが知っているおじいちゃんだ。



 後で、おじいちゃんや他のみんなにも余ったケーキをあげよう。ヒカリは、そう決めて屋敷の外に出た。



 リムジンのボンネットにあぐらをかいて煙草をふかしていたカゲが、大義そうに腰を上げる。ヒカリの外出時には護衛が必要だと、一応は分かっているのである。




 「護衛中は禁煙だぞ」



 橋倉に声をかけられた。



 「フン。それより止めなくていいのか?」


 「何の話だ」


 「大事な“お嬢様”を、あのキザな医者に近づけていいのか?」



 ヒカリが教育実習に熱を上げた時は、当主・使用人が揃ってアワアワしていたが(前章参照)。



 「ああ。若先生なら心配ない」



 橋倉はそのまま背を向ける。



 (どういう意味だ……?)



 カゲは首を傾げつつ、ヒカリの後を追った。



 ───



 「すみませーん」


 「まあ、ヒカリちゃん」



 すっかり顔馴染みになった受付の女性がにこやかに迎えてくれた。



 「誠先生に昨日のお礼をしたくて。お忙しいようならこれ、渡していただけたら」


 「あら、大丈夫よ。診察始まるまで、まだ時間あるし」



 女性は気安く立ち上がる。間もなく戻ってくると、「どうぞ、入って」とヒカリにウインクを寄越した。



 こんなにあっさりOKが出ると緊張してしまう。勢い込んで来たはいいけれど……。ヒカリは、北白河に伝える言葉を頭の中で反芻した。



 「失礼します」と声をかけると、ドア越しに「どうぞー」と返ってくる。



 「やあ、ヒカリちゃん」



 恐る恐る引き戸を開けると、北白河が笑顔で迎えてくれた。



 「あ、あのっ。昨日は、祖父を助けていただいてありがとございます!」


 「いやいや。当然のことをしたまでだよ。あれから、おじいちゃんの具合はどう?」


 「はい。すっかり元気になって」


 「それは良かった。あ、どうぞ掛けて」



 北白河が患者用の椅子をすすめてくれる。



 「失礼します……。あの、これ。昨日のお礼ですっ」



 ヒカリは包みを差し出した。クリニックの外まで聞こえてるんじゃないかと思うくらい、心臓がバクバクしていた。



 「ありがとう! おっ、パウンドケーキ?」



 北白河は、分厚い本を押しやって何とかデスクに余白を作ると、早速ラッピングを解き始めた。



 「診察が続くと、おやつを食べたくなるんだよねー」



 頭を掻きながら笑う北白河には屈託がない。



 (誠先生、子どもみたい)



 ヒカリの口からも笑みが零れた。




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