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2.危機


 彼女は胡桃沢冬子くるみざわふゆこという。ヒカリの叔母に当たる人物で、不慮の事故で亡くなった父親の妹だ。



 叔母といっても、彼女はまだ二十代半ばの大学院生。金髪のボブヘアにギャル系の服装で、ヒカリの姉といっても良いくらいである。



 黒髪ロングのヒカリとは随分見た目が違うが、勝ち気に光る大きな瞳は間違いなく胡桃沢の系統であった。



 現在は、春平が所有する高級マンションで一人暮らしだ(護衛付き)。



 「私って頭痛持ちじゃん? 通院がホント面倒だったんだけどぉ、代替わりしたのが超嬉しくてー」


 「誠先生、カッコいいもんね」


 「ね!」



 盛り上がる叔母と姪である。ひとしきり喋った後、冬子はヒカリの背後に目を遣った。



 「それにしても相変わらず面白いねー。ヒカリちゃんの護衛」



 切れ長の目は死んだ魚のよう、口角は地面に落ちる勢い。カゲは、不機嫌を全面に押し出して妙なステップを踏んでいた。



 (クソが! 女はうるせぇし床も壁も白すぎる!)



 膀胱が暴れる。

 解放されたいのだと叫ぶ。



 奇妙なステップは、尿意を紛らすための生命線だ。ステップを止めたとき、彼は終わりを迎える。



 とにかくトイレが近すぎるのだ。この状態では盗みをはたらく気力も湧かない。



 クリニックにトイレはある。行けばいいのに、彼は行かない。



 トイレに関して異常ともいえるコンプレックスを持つために、人目のある場所でトイレに入りたくないのだ。



 (行ったら多分止まらない! 何度も出入りしたら変だと思われるし……!)



 病院の中待合でステップを踏んでいる方がよほど変である。それはさておき。



 「それじゃ。私も外に護衛くん待たせてるから。また屋敷の方にも寄るわ」



 冬子はヒカリと手を振り合い、「では失礼」と姫華にも軽く挨拶した。姫華はスンとして目礼だけ返す。胡桃沢の関係者と打ち解けてたまるかといった様子だ。冬子は肩をすくめて出ていった。



 「お待たせ致しました、冷泉れいぜい様」



 扉が細く開き、ナースが呼びにくる。



 「はいッ。お願いしまぁす♡」



 姫華は、ヒカリが聞いたことのないような声を上げて診察室に吸い込まれていった。



 ───



 「誠先生、今日も素敵だったな」



 ヒカリは、余韻をかみしめるように暮れかかった空を仰いだ。屋敷までそう遠くないので、いつも徒歩通院である。



 診察時間は短いものだが、北白河の優しさに触れると明日への力が湧いてくる。しつこかった喉の痛みも引いてきた。



 (先生が処方してくれる薬なんだから効いて当たり前だけど、通院する理由がなくなっちゃうわね)



 複雑なヒカリお嬢様である。



 「なあ」



 カゲは、歩きながらポケットに手を突っ込んだ。



 「あの医者、やべぇ奴かもしんねえぞ」


 「もう。いつまで僻んでるのよ」


 「いや、ちょっと胸騒ぎがな」



 騒ぐのは、胸ではなく膀胱である。彼の尿意は危険を知らせるセンサーでもあるのだ。これほどの尿意が通院の度に、というのはいささか不可解であった。



 以前、ヒカリが教育実習のピアノ男子に夢中になった時。あの時も、カゲは強烈な尿意に襲われた。



 その後、ピアノ男子のショッキングな秘密が明らかとなり、ヒカリは寝込んでしまった──。



 その方式でいくと、北白河医師にも同等の危険が潜んでいると考えられる。



 「のめり込むと痛い目見るぜー」



 カゲの事情を知らないヒカリは、この忠告を華麗にスルー。カゲったら、カッコいい誠先生をねたんでいるんだわ、と思った。



 細い道を挟んで、こんもりと緑に囲まれた公園がある。子供たちが自転車にまたがって帰っていく。まだ幼そうな女の子はとても不機嫌そうだ。遊び足りないのかもしれない。



 カゲと並んで何気なく見ていると、



 「おーい、ヒカリ」


 「あ、おじいちゃん!」



 ジャージ姿の当主・胡桃沢春平が軽快に駆けてきた。傍には護衛の鈴木さんが控えている。



 「ジョギングのついでに迎えにきたぞ」



 七十を手前にしてなお『財界の鉄人』と称される活力は、日々の健康づくりの賜物である。しかし。



 春平が突然、苦しげに地面に膝をついた。



 「旦那様!」


 「おじいちゃん!?」




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