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1.北白河クリニックに集う人々


 『すまない』



 華奢な指を、大きな手が包み込んだ。薬指にシルバーの結婚指輪が光っている。



 『私はいいの。早く奥さんのところへ行ってあげて』



 女が艶やかな黒髪を揺らして微笑む。しかし、その微笑は少し悲しげでもあった。



 『もっと早く君に出逢っていれば……ああ、どうして……』


 『それは言わない約束。私はじゅうぶん幸せよ』




 広い背中がネオンの奥に遠ざかる。

 取り残された女の頬を、雨粒が叩いた──。




 ───



 橋倉 いわおは、使用人専用の居室でむせび泣いていた。お昼のメロドラマにハマっているのである。



 使用人の部屋といえども、彼は胡桃沢くるみざわ家の中では最古参の万能執事だ。当主・胡桃沢春平しゅんぺいからの信頼も厚く、立派な部屋を与えられている。



 しかし、この部屋で椅子と呼べるものはダイニングチェアが一脚だけ。



 背もたれを使わず、「良い姿勢」のお手本のような座り方でドラマを鑑賞していた橋倉の衣服には一つのシワもなかった。もちろん、丁寧に撫で付けた髪にも乱れはない。



 「さてと」



 やや鼻声で、橋倉は立ち上がった。メロドラマを引きずったまま当主に仕えるなどとんでもない。万能執事に戻る前には、彼はいつも熱く濃い緑茶を淹れることに決めていた。




 「なんか、オトナね」




 「フボォッ! お嬢様、いつの間に!」



 橋倉は自分で淹れた茶を吹き出した。ラグの上で、胡桃沢家の令嬢・ヒカリが体育座りをしていたからだ。十七歳の高校二年生。大きな瞳を興味深げに輝かせている。



 「オトナの純愛って感じ」


 「不倫の話だろ」


 「泥棒までついて来たか。ほれ、シッ!」



 カカカッと下品に笑いながらラグに寝そべるのは、ヒカリの護衛・カゲである。彼の本職は泥棒なのだが、この屋敷に盗みに入ったところを見つかり、ヒカリが気まぐれで雇ってしまったのだ。



 だらしない風貌であったが、髪を切り揃えて護衛用の黒服を与え、体裁だけは整えた。シャープな輪郭に鋭い目が特徴だが、今は眠たげに緩んでいる。



 「フリンてなに?」


 「おまえ、そんなことも知んねえのか」


 「お嬢様におかしなことを吹き込むでない、この泥棒が」


 「自分がそんなドラマを観てたんだろうが、オッサンよぉ」



 万能執事とて、稀に自らの行いを棚に上げることもある。橋倉は、カゲの言葉など聞こえぬ振りでヒカリに温かな眼差しを向けた。



 「お嬢様。そろそろ通院のお時間でございます」




 ───



 北白河きたしらかわクリニックの待合室は、人でごった返していた。主に女性で。



 「クリニック」だからといって、街中の普通の病院を思い浮かべてもらっては困る。こちらはセレブ専用のクリニックだ。待合室はホテルのロビーのようで、巨大なフラワーベースにはピンク色の薔薇がたっぷりと活けられている。



 何故こんなに女性が集まっているのか。理由は、北白河の息子が跡を継いだからである。



 北白河 まこと



 彼はちょうど良い具合に彫りの深い、優しげかつ爽やかかつ大人な雰囲気のイケメンなのだ。おまけに親身になって話を聞いてくれるとあって、北白河の噂はまたたく間に広まった。それで、クリニックに女性が大挙しているというワケである。



 「けっ。医者のクセに気取りやがって」


 「何よ、カゲ。ひがんでるの?」



 護衛として、通院にも付き添っているカゲである。彼はトイレが心配なのだ。人混み、ザワザワとした喧騒、薔薇の香り、床の白さ。全てが膀胱を刺激する。



 「胡桃沢くるみざわ様~。中待合室にお入りくださいませ」



 ナースに呼ばれた。北白河クリニックのナースウェアは、ベージュ基調でサイドに赤いラインが入っている。スタイリッシュなパンツスタイルだが、柔らかな色調は来院者に安心感を与えていた。



 (カッコいいなぁ)



 同じナースウェアを身につけ、北白河と仕事をする自分の姿を思い浮かべる。毎日、憧れの先生の傍にいられたらどんなに素敵だろう。



 ナースになるためにはそれなりの勉強が必要だ。決して楽な道ではないのだが、そこまで想像が及ばない、箱入りなヒカリお嬢様である。



 ナースに軽く会釈をして中待合に入ると、聞き慣れた声に迎えられた。



 「はぁ? 何でヒカリがここにいるんですの?」


 「げっ、姫華ひめか



 中待合室のソファに腰掛けているのは、髪を巻いた見た目が派手な少女であった。



 冷泉れいぜい姫華。

 ヒカリが通う蓮乃宮女学院高等部の同級生であり、積年のライバルでもある。



 冷泉家が勝手に胡桃沢くるみざわに突っかかってくるのだ。祖父の代よりもっと前から続く因縁だ。



 「姫華。アンタ、どうして私の真似ばかりしてくるのよ」


 「失礼ね。真似しているのはそっちじゃなくて?」



 つい先日。ヒカリは、蓮乃宮女学院へ教育実習に来ていたピアノ男子のショッキングな秘密を知ってしまった。



 時を同じくして、大人気のイケメンピアニストの不貞その他も明るみに出た(【ピアノ男子の章】参照)。  



 両者に淡い気持ちを抱いていたヒカリはショックで寝込み、北白河の往診を受けた。ヒカリは彼に一目惚れ。ピアノ男子たちのことなどケロッと忘れてしまった。



 実は、まったく同じことが冷泉家でも起こっていたのだ。



 ピアノ男子の教育実習が終わってしまったため、姫華は裏から手を回して彼の家を調べた。その過程である秘密を知る。



 イケメンピアニストの不貞その他も重なって卒倒した姫華は、やはり北白河の往診を受けたのだった。そして、彼の魅力にすっかりやられてしまったというワケである。



 「ここは代々、胡桃沢のかかりつけなの」


 「冷泉はそっちより前の代からですわ」


 「嘘おっしゃい」



 風邪が長引いているから。ちょっと頭痛がするから──。何かと理由をつけては、競うように通院する二人。



 北白河の大人な魅力にすっかりハマった彼女たちは、仲が良いのか悪いのか。



 女子高生が病院に入り浸るなど年寄りくさいことこの上ないが、当人たちは必死である。と、診察室から声が漏れてきた。



 「はい。また来ます! ありがとうございましたぁ、まこと先生♡」



 前の患者が診察を終えたらしい。診察室の真っ白な引き戸が開いて、ご機嫌な様子の女性が出てきた。



 「あ、冬子ふゆこさん」


 「あ、ヒカリちゃんも来てたんだぁ」



 女性が親しげに笑った。






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