深夜。
(まったく、人騒がせなガキだぜ)
だが、ちょうど良かった。
使用人たちは、看病のため令嬢に付きっきり。熱があるといっても小さな子供ではない。勝手に寝かせとけって感じだが、この家ではそうはいかないのだ。
だから、カゲは誰に邪魔をされる心配もなく
今夜は離れへやって来た。当主である春平は、就寝時には必ず母屋へ戻ることは分かっている。つまり今、離れにいるのは自分だけ──。
「くくく、バーカ」
苦虫を噛み潰したような執事の顔を脳裏に浮かべ、せせら笑う。今頃、ヒカリの看病で右往左往していることだろう。
そのヒカリといえば、もう医師の北白河に夢中である。弱ったところへ優しく声をかけられ、「すっかり綺麗なった」などとおだてられて舞い上がっている。
ピアノ王子もママン好きの教育実習生も、既に記憶から消えていることだろう。もう、膀胱を急き立てるようなクラシックのCDを聴かされずに済む。
(まあ、このままお宝が見つかればこんな家に用はねえ。どーでもいっか)
鼻歌でも歌いたい気分で、カゲは離れを物色する。と。
「うぎゅ!?」
突然、強烈な尿意が襲った。
瞬間的に床の間へ身を潜める。尿意イコール危機だ。誰かが離れへ来ようとしているのかもしれない。
急がなければ。
床の間に隠れたついでに、カゲは釈迦涅槃図が描かれた掛け軸をめくった
。
「ほう。ベタだな」
掛け軸の裏の壁がくり抜かれ、その空間に金庫が鎮座している。
カゲはほくそ笑んだ。鍵も厚い扉も、彼の前では何の意味もなさないのだ。金庫の扉にピタリと耳をくっつけ、慎重にダイヤルを回していく。尿意が気になるが、そこは何とか集中だ。
やがてカチリと手応えを感じると、カゲは一気に重い扉を引いた。これで、ワガママな令嬢や口うるさい執事ともおさらばだ──。
果たして。
ペンライトが照らす金庫の中は空っぽであった。いや、正確には半紙が一枚。手に取ってみれば。
──バーカ。
力強い毛筆の筆跡は春平の手によるものと思われるが、裏で執事・橋倉が動いていたであろうことは容易に想像できる。
「くっそ……万能か」
カゲは金庫の前で肩を落とした。静かに金庫を閉じ、すごすごと母屋へ戻る。トイレへ直行したことは言うまでもない。
この男は、今夜もまた盗み損ねた。よって、明日以降も護衛として胡桃沢家に仕えなければならない。
後日談だが。
R警備保障が起用したピアノ王子のCMは、撮影済みにも関わらず使えなかった。スキャンダル後のイメージが悪すぎたからだ。
代わりに、イヌ耳をつけて自ら『ペコム』のCMに出演した“春平じいちゃん”がトレンドに。『ペコム』とは、R警備保障と仲が悪すぎる春平が立ち上げた警備会社である(【2.胡桃沢家の朝】参照)。
ヒカリは当初、『ペコム』のCMはピアノ王子がイヌ耳をつける内容を希望していた。そこへ、あのスキャンダル──。
「おじいちゃんが出ればいいじゃん」
ヒカリの投げやりな一言が、春平のブレイクに繋がった。
そして。
カゲは今日以降、お医者さんに恋する令嬢に振り回されることとなる。どんな面倒に巻き込まれることか。その間抜けぶり、笑ってやりたいところだが。
それはまた、別の機会に。
◇ピアノ男子の章 おしまい◇
続きましては ~お医者さまの章~
お楽しみに!