何もできないまま時は過ぎた。教育実習の最終日は明日だ。奏人先生がいない教室を思い浮かべるだけで、ヒカリの胸は締めつけられる。姫華たちが邪魔するせいで、以前のように話もできない。
邪魔が入った方が盛り上がる?
いや。いくら妄想モードのヒカリでも、実習が終わって接点がなくなってしまえばどうしようもないことくらい分かる。
午後四時。もう迎えの車が来る時間だ。ヒカリは、わざとノロノロと荷物を片付けていた。他の生徒たちはとっくに教室を出ている。
こんなことしたって、時間が止まるワケじゃないのに。
「
心臓が跳ねた。奏人先生が手招きしている。
「は、はい」
「少し時間あるかな。あの、ピアノ……」
「えっ」
「ずっと気になってたんだ。昼休み、急に来なくなっちゃったから。良かったら、今からどうかな」
「本当に? いいの?」
ヒカリの顔が上気する。奏人先生は大きく頷いた。
「もちろんだよ。胡桃沢さんは、僕が変わるキッカケをくれた人だからね」
「おい、貴様」
鈴木さんがいつになく尖った目で凄んだ。彼は、奏人先生がヒカリをたぶらかしていると思い込んでいるのだ!
「まあ、いいじゃねえか。運転手には連絡しといてやるからよ」
カゲは今にも飛び出しそうな鈴木さんの肩を抑えつつ、「さっさと行け」とばかりに手を振った。空いた時間でトイレへ行こうというハラである。
「……ごめんなさい」
音楽室へ向かいながら、ヒカリはポツンと呟いた。
「いいんだよ。護衛さんは、お嬢様を守るのが使命だからね」
「いえ。それもあるんだけど、時間取らせてしまって」
こんなの、いつもの自分じゃない。奏人先生のピアノを聴きたいクセに姫華たちには混ざりたくなくて。いじけてずっと教室に残ってて。
(わざと気を引いたみたい。カッコ悪い)
どうしようもない生徒だと思われているかも。ヒカリは急に恥ずかしくなった。横目で、隣を歩く奏人先生を窺う。
「僕がしたくてするんだから。気にしないで」
先生は、また子犬のようにクシャッと笑った。
音楽室に、あの音色が響く。ほんの数日ぶり聴く“Part of Your World”は懐かしかった。先生の長い睫毛も、細い指も。
これが最後になる。
そう思ったら、ヒカリは鼻の奥がツンとした。
ちゃんと聴かなくちゃ。最後だから。でも、もう一人の自分が胸の隅で叫んでいる。先生のピアノが掻き消えてしまうくらい。
(明日なんか来ないで)
違う。
明日もその先も、ずっとこうしていてほしい。
本当に、これで終わりなの──?
───
2年A組。ほとんどのお嬢様が泣きじゃくっている。最後の時は特別なこと何もなく、普通にやってきた。
泣いていないのはヒカリだけ……とはいえ、よくよく見れば彼女の瞼もやや腫れている。昨夜、遅くまで枕を濡らしていたのだ。
「短い間だったけど、楽しかったです」
「たくさん声かけてくれてありがとう。音楽の楽しさを忘れないでね。僕も、君たちのことはずっと忘れないよ」
「先生!」
先生が挨拶を終えると、姫華が立ち上がった。つられるようにみんな立ち上がり、先生に走り寄る。周りには、あっという間に人垣ができた。
「イヤです、これで終わりなんて」
姫華が涙ながらに訴えると、奏人先生は困ったように彼女の肩に手を添える。ヒカリだけが輪の外にいた。
いつもだったら胸が焼けるようになるはず。先生が他の生徒に、しかも姫華に触れるなんて。
でも、ヒカリの頭の中は真っ白だった。目の前で起こっていることが幻みたいだ。
担任に促されて奏人先生が背を向ける直前。ほんの刹那、ヒカリと視線が交錯した。
(恋って、こんなに呆気ないものなの?)
先生が教室を出ていく。後ろ姿が消える。先生は、もう学校に来ない。音楽室でピアノも弾かない。
自分の意思と関係なく蘇った。先生と出会って、好きって思うまで。
(違う。私は、待ってただけで何もしていないんだわ!)
ヒカリは床を蹴った。先生を追って。
「お待ちなさい、ヒカリ! 抜け駆けなんて許さなくてよ!」
姫華がロングドレスの裾に足を引っ掛けてつまづいた。周囲に固まっていたお嬢様たちも巻き添えを食い、人の塊が崩れる。
姫華の怒号を背後に聞きながら、ヒカリは走った。飛ぶように階段を駆け降りる。奏人先生は、ちょうど外へ出ようとしているところだった。
「待って……。奏人先生!」