防音ガラス張りの音楽室。
敷き詰められた毛足の長いガーネットカラーの絨毯と、真っ白なグランドピアノ。扇形の部屋の形に沿ってシングルソファがいくつか配置されている。
姫華はドレスの裾を大きく広げて後ろのソファを陣取り、取り巻きたちがそれに倣った。ヒカリは、やや心配そうに奏人先生の方を窺いながら最前列のソファに腰を下ろす。先生は、ちょっと困ったような顔をしていた。
移動させられた不満と物珍しさで、お嬢様たちはまたザワザワとし始める。奏人先生は大きく息を吸い込むと、ピアノの椅子に腰掛けた。ヒカリが初めて目を奪われたあの時のように。
やがて、生徒たちの間を切ないような高音の旋律が駆け巡る。お喋りが止んだ。みんな驚いたような表情で奏人先生に注目している。
「これは、この間説明したイ短調の曲です」
奏人先生は、ちょっとぎこちない調子で言った。
「何て曲ですか?」
ヒカリの斜め後ろから声がかかる。姫華たちのグループとはつるんでいない、真面目そうな子だ。予定と違う授業に初めは戸惑ったようだが、今は完全に奏人先生のピアノに引き込まれている。
「ああ……今のは適当に弾いただけだよ」
えーっ! と、かしましい声が防音仕様の窓をビリビリと振動させた。
「……え?」
奏人先生は、わけが分からないような顔をしている。潮目が完全に変わった。グランドピアノの周りに生徒がワッと殺到する。
あれを弾いて、これを弾いて。
奏人先生はあっという間に囲まれて、次々とリクエストを受ける。
みんな澄ましていてもまだ高校生。箱入り娘な分、素直でもあるのだ。
(みんな今頃気づくなんて遅いわ。凄いんだから。私の奏人先生は)
ヒカリは、誇らしい気分で胸を張る。自分だけは、もっと前から知っていた。先生のピアノを。そのことが嬉しくてたまらない。
人だかりの間から、奏人先生がヒカリを見ている。目が合うと、先生は微笑んだ。ヒカリは頬に熱を感じて、それから胸がトクンと跳ねた。
「少しは授業っぽいこともしないとね」
あれもこれも弾いてほしいとねだる生徒たちに奏人先生が提案したのは、前日までの授業で習った『短調』の曲をリクエストすること。
少し変わった授業に、生徒たちは熱中した。歌謡曲でもCMソングでも、奏人先生は何でもピアノで弾いてしまう。
「これは知ってる?」
合間に、奏人先生からも問題が出る。誰もが聞いたことがあるようなピアノ曲。先生は、弾きながら作曲者や時代背景などを簡単に説明してくれる。
ヒカリにも馴染みのある曲ばかりで理解しやすかった。それはピアノ王子・
今、奏人先生が弾いているのは『月光』の一節。
「月光っていうのはね。ベートーヴェンの死後につけられた名前なんだよ」
生徒たちは、驚いたように顔を見合わせる。先生は、鍵盤に指を走らせながら続けた。
「正式名称は『ピアノソナタ第14番嬰ハ短調 作品27-2 幻想曲風ソナタ』……」
そこで手を止めた先生がさらに説明してくれる。
『月光』の愛称がついたのはベートーヴェンの死から五年後。ドイツの詩人ルートヴィヒ・レルシュタープが、「スイスのルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」と表現したのが由来だ。
「これが『月光』だと知ったら、ベートーヴェンは驚くだろうね」
奏人先生の言葉に、みんなが笑った。ここで、授業終了の鐘が鳴る。
(素敵……)
ヒカリの目が潤む。奏人先生以外、何も見えない。
「今日の授業はここまで。聞いてくれてありがとう」
先生と目が合ってときめいた瞬間。一気に現実に引き戻された。
「やだーっ!」
「まだ聞きたい!」
生徒たちが不満の声を上げたのだ。始まる前のことを思い返せば、何ともゲンキンなお嬢様たちである。ヒカリは自分のことのように嬉しくなった。
人波の向こうで、奏人先生は困ったように笑ってる。子犬みたいに。
「じゃあ少しだけ。最後は明るい曲にしようね」
先生が鍵盤に指を落とす。初めのワンフレーズだけで、生徒の間からため息が漏れた。気づけば、姫華までもが前に出てきて目の色を変えている。
(この曲……)
ほろ苦さが喉にせり上がってくる。説明のつかない何かが、ヒカリの胸を圧迫した。
この旋律。大好きな曲。
いつも、お昼休みにここで聴かせてくれた。
“Part of Your World“
奏人先生が、ヒカリだけの先生でなくなった瞬間だった。