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8.恋、だな。


 「恋、だな」


 「な、先生とはそんなんじゃないわ!」



 胡桃沢くるみざわ邸リビング。紅茶のカップが、ソーサーに当たってうるさい音を立てた。



 「ほぉ? よく分かったなぁ、主語なしで」


 「お嬢様! 相手が教師とはどういうことで!」



 無駄口を叩くのはカゲ、隣でムンクの『叫び』の如く蒼ざめるのは執事・橋倉である。



 「何でもないったら!」



 吹き抜けの天井に、ヒカリの声が響いた。カゲは、カカカと笑いながら逃げていく。トイレだろう。



 まだ涙目の橋倉に英語の宿題を託すと、ヒカリはフラリと外へ出た。



 あれから数日。奏人かなと先生の実習開始から一週間が経とうとしていた。



 ヒカリは、昼休みには相変わらず音楽室へ足を運んでいる。何を話すでもない。ただ先生のピアノを聴いている。あれは、お気に入りの曲だから。ただそれだけのことなのに、胸の中が落ち着かない。



 こんな時、ヒカリはいつも祖父・春平のところへ行く。両親を亡くしてからずっと、ヒカリにとっては大きな支えだ。



 「おじいちゃん。それ、アルバム?」



 ヒカリが部屋を覗くと、春平は座椅子に座って分厚いアルバムを開いていた。春平は離れにある和室を好み、ここで過ごすことが多い。



 「ヒカリか。こっちへおいで」



 春平は、目尻を下げてヒカリを招き入れた。アルバムには、ヒカリの両親に加えて祖母の姿もある。両親が事故死して数年後、その祖母も病で亡くなった。



 「ねえ。おじいちゃんは、どうしておばあちゃんと結婚したの?」



 ヒカリは、隣り合わせで座った春平の横顔を眺める。春平は柔らかな視線をアルバムに落とすと、幸せそうに微笑む祖母の顔に指を添えた。



 「フフ、見合いじゃよ。でも。今でも、あれは運命だったと思う。母親みたいにあったかい人じゃったなぁ」


 「母親? 奥さんなのに?」



 難しい顔でヒカリが首を傾げると、春平は白い歯を見せてフォッフォと笑った。



 「男っていうのはな。いつまでも甘えたがりなんじゃよ」



 ヒカリは、ますます分からなくなる。ヒカリがいつも憧れる王子様は、甘えたがりなんかじゃないから。




 (よく分かんねえけど、うるせえCD聴かずに済むのはラッキーだな)



 トイレを後にし、清々しい表情のカゲである。本人に自覚があるのか定かでないが、ヒカリはここ数日ピアノ王子のCDを聴いていない。カゲにとっては喜ばしいことであった。あの小難しい調べが耳に入ると、トイレの近さが倍になるのだ。



 さて。ヒカリがどうにもスッキリしない気持ちを持て余している頃。



 【R警備保障 新CMキャラクターにピアノ王子・奏斗かなとを起用。撮影は無事終了】



 このニュースがメディアを駆け巡ったのは、翌朝のことだった。



 ───



 蓮乃宮はすのみや女学院高等部──。



 「まあ! 誰かと思えば胡桃沢くるみざわヒカリさんじゃありませんこと?」



 ステンドグラスの大窓から柔らかな朝の光が差し込むエントランスに、いつもの甲高い声が響いた。ヒカリは、あっという間に冷泉姫華れいぜいひめかとその取り巻きに囲まれてしまう。どこで調達するのか、今日はロココ調の真っ赤なゴシックドレスだ。盛り過ぎなメイクも相変わらずである。



 「昨日は本当に素晴らしい日だったわね」



 取り巻きの一人が切り出すと、「ええ、本当に」、「素敵だったわぁ、奏斗かなと様」などと周りも囃し立てた。最後に、姫華が悠然と口を開く。



 「あなたもそう思ったでしょう、ヒカリさん? あっ、ごめんなさい! あなた、撮影の見学にはいらっしゃらなかったわね」



 取り巻きたちがクスクスと笑い出した。



 「ごめんなさい。私たちったら、つい」


 「昨日が撮影だったの。あなたもいらっしゃれば良かったのに」


 「本当に王子様のようだったわ。キラキラしてて」


 「悪いわよ、ヒカリさんの前でそんな話」



 青い顔で黙り込むヒカリを前に、姫華は勝ち誇ったように口の端を歪める。直後、ヒカリは何かに気づいたようにつと顔を上げた。



 「ん? あなたたち、いつからそこに?」


 「な……!」



 姫華は、グロスでテカる唇をわななかせた。



 「本当にごめんなさいね。私、今あなたたちとお喋りしている場合じゃないの。失礼」



 ヒカリは宥めるような表情を作ると、呆気に取られる姫華たちの横を通り過ぎて行った。残された姫華と取り巻きを、登校してきた生徒たちが不思議そうに眺めている。



 「ジロジロ見ないでいただきたいわね! ねえちょっと! 新入りの護衛さん」



 悔し紛れに、姫華はカゲを呼び止めた。



 「あんな変な子のところより、どう? そろそろ私の元へ来る気になりまして?」



 カゲを見上げる姫華の目は自信に満ちている。仕方なしにといった感じで立ち止まったカゲは顔をしかめた。



 「はぅっ……! 無理だ。た、頼むから視界に入らないでくれ」



 毒々しい色彩が目に入ると膀胱が無駄に暴れるのだ。もう既にヤバい。



 事情を知らない姫華の顔が、羞恥で真っ赤になる。



 「貴様! 姫華お嬢様に何という無礼を!」


 「ただでは済まんぞ!」



 冷泉家の護衛たちが飛び出してきた。



 「やめとけって」



 カゲがポケットに手を突っ込んだままヒラリと身をかわすと、冷泉の護衛たちは勢い余って正面衝突。床に伸びてしまった。



 トイレを我慢してクネったり、トイレを探して彷徨さまようことで危険を回避できる。これが彼の能力なのだ! ともあれ、トイレへまっしぐらのカゲである。



 「ぬぁにをやってるんですの、あなたたちはッ!」



 姫華の憤怒の叫びが、ステンドグラスの大窓を震わせた。






 (ああ、昨日は眠れなかったわ……)



 少し先を歩いているヒカリお嬢様である。睡眠不足のためか、今朝は自慢の黒髪に何度クシを通しても納得がいかなかった。



 奏斗様のCM撮影。姫華たちの話を聞くまで、すっかり忘れていた。



 (どうして忘れていたのかしら。私の王子様なのに)



 頭の中では、憧れの王子様とはかけ離れたものがグルグル回っている。



 ──男っていうのはな。いつまでも甘えたがりなんじゃよ。



 “Part of Your World“を奏でるピアノの響きと、祖父の声。あの人の、子犬みたいな目とクシャッとした笑顔。



 気がつくと、いつもそればかり。

 そして、カゲの声。



 ──恋、だな。





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