「えー……こ、このスケールはイ短調の……」
翌日。大型スクリーンを示しながら、教育実習生の
「えーっと、みんな聞こえ……てる、かなー……」
騒がしい教室に、奏人先生の蚊の鳴くような声は掻き消される。2年A組の生徒たちは初日こそ遠慮して欠伸を噛み殺していたが、今では堂々と雑談に興じていた。もう諦めているのか、担任は何も言わない。
昼休み。「
お嬢様に何かあってはと、心配顔で音楽室に張り付く鈴木さん。それを横目に、カゲはフラリと姿を消す。行き先は言うまでもない。
(最近、やけに”近い”な)
元々である。しかし。ポケットに手を突っ込んで歩く彼の背中は、珍しく苛々と横に揺れていた。
(あのガキ、予想以上にのめり込みやがって! どうなっても知らねえからな!)
───
やっぱり、いた。
ヒカリが音楽室に入っていくと、奏人先生は驚いたように振り向いた。
「く、
遠慮がちに名を呼ばれ、ヒカリは急に落ち着かなくなった。勢い込んで来たはいいが、何も考えていない。
「あの……昨日は、大丈夫だった……かな」
奏人先生が先に口を開いた。昨日ここで泣いてしまったことを心配してくれているのか。いつもオドオドしているが、生徒のことはきちんと気にかけているようだ。
「あの曲」
「うん」
ヒカリが言い淀むと、奏人先生はこちらを見て頷いた。その声音には、無理に先を促すような
「あの曲、もう一度聴かせてもらえませんか」
思い切って言ってみたら、顔が熱くなった。
奏人先生は驚いたように眉を上げたが、すぐに「分かったよ」と言って椅子を引いた。椅子に腰を下ろして鍵盤に指を置く。昨日と同じ、流れるように美しい所作で。先生の手元が見えるように、ヒカリがピアノへ歩み寄ったと同時に、音が鳴った。
これだ。
お腹に振動が伝わるような、胸が震えるような、生きてる音。先生が奏でる音は、まるで意思があるみたいにヒカリを包み込む。
鍵盤上の細くて長い指。間近で見る先生の指は舞っているようで、それでもしっかりと鍵盤を捉えていた。
(先生、近くで見ると睫毛長いんだなぁ)
音の中を浮遊しながら、ヒカリは奏人先生の横顔をぼーっと眺めていた。
音楽室の中に、最後の音が余韻をもって響いた。
「ありがとう」
「あ、ああ……いや……」
奏人先生は、またオドオドした感じに戻ってしまった。椅子に座ったまま頭を掻いている。
「何も聞かないんですね」
ヒカリは、後に続く言葉を飲み込んだ。私が、泣いた理由。
「心にしまっておきたいことも、あるのかなって」
意外にもしっかりとした先生の声に、ヒカリは顔を上げる。見事に言い当てられていた。両親のいない寂しさから解放してくれた世界のことは、誰にも語ったことはない。口に出したら消えてしまうような気がしていたからだ。
「あ……でももし相談したいことがあるなら……! ボクなんか……頼りないけど」
奏人先生が教育実習に入ってから、初めてまともに目が合う。先生は、ピアノの椅子に腰掛けた状態でヒカリを見上げる形になった。目が合うと、先生はまたオドオドと目を泳がせる。
「せ、先生が自分のことを頼りないなんて言うもんじゃないわ!」
顔に感じる熱に戸惑いながら、ヒカリは語気を強めた。持ち前の気の強さが出た。半分は。後の半分は照れ隠しだった。
「どうしていつも、そんなにオドオドしているの? ピアノを弾いてる時は堂々としてるのに」
ヒカリは踏ん反り返って腰に手を当てた。照れ隠しもあるが、これは実習が始まって以来ずっと抱えていた疑問だ。
「ごご、ごめんなさい……」
「私は質問してるの!」
「ごめ……あっ、えーっと……」
言ってるそばから謝る奏人先生である。
「ボク、気が小さくて……。この学園に通ってるのって、すごいお嬢様ばかりでしょ? 余計に緊張しちゃって……」
奏人先生は自信無さげに目を泳がせる。ヒカリは眉間に皺を寄せた。こういうのが、いちばん腹が立つのだ!
「ピアノに触れてる時は心が弾むんだ。結局、プロにはなれなかったけどね……ハハ……」
奏人先生は自嘲して俯いた。
「弾まない」
「へ?」
「ちっとも楽しくないわ、先生の授業! 舌を噛みそうな作曲家の名前とか、何とか短調とかそんなの!」
奏人先生が身体を縮こめた。本当に一回り小さくなったように見える。
「そ、そっか……」
さらにカチンときた。ヒカリは椅子の背もたれに片手を掛けると、座ったままの奏人先生に詰め寄った。
「あのねぇ! 生徒にこんなことを言われて悔しくないの!? 先生が楽しいと思う音楽を教えてくれたらいいじゃない!」
奏人先生が目を丸くしてヒカリを見上げる。
「うん……そうだね……!」
先生は、ヒカリの至近距離でクシャッと笑った。
(あっ──)
今の感じは何だろう。ヒカリはドギマギして椅子から手を離す。
奏人先生は、子犬みたいだと思った。