「どうした? ジジイたちが嘆いてるぞ」
「ああ、カゲなの」
ヒカリが気の抜けた返事をする。無断で入室したことを咎める様子もない。余程の放心状態とみえる。カゲは、バルコニーへ出ると柵に背を預けて腕組みした。
ヒカリが帰宅するなり部屋に閉じこもってしまったので、祖父及び使用人たちも意気消沈している。
「お前、あの坊やみたいな先生と何かあっただろ?」
「な、何も!」
カゲが揶揄うような笑みを浮かべた。ヒカリは、ますますムキになる。
「先生がピアノ弾いてるの見てただけよ! 知ってる曲だったし」
「ほぉ。ピアノをねぇ」
カゲは薄笑いを崩さない。なんか腹立つ顔である。
(不覚にも泣いちゃったことは、誰も知らないはず)
あの後、すぐに始業のチャイムが鳴って。
奏人先生が弾いていた曲、“Part of Your World ”。
本能みたいに、ヒカリの耳に残っているメロディーだった。
あの頃は、物語の意味なんて分かっていなかった。ただ、キラキラした水中の世界と、王子様に憧れた。唐突に両親を喪った現実から逃れるように。
“Part of Your World”は、そんな現実の傍に、ごく自然に在った。その曲を、奏人先生が──。
「なにボケッとしてんだよ?」
カゲの声で現実に立ち戻る。彼はバルコニーの柵に肘をつき、ヒカリを覗き込んでいた。
「……っ」
カゲがこんなに近いのは出会った夜以来だ。男の顔をここまで至近距離で見たことはない。祖父や使用人を除いては。一見細面なのに、明るい場所で見るカゲは男の骨格だった。
「惚れたのか?」
何を言われているのか分からなかった。ただ頬が熱くなっていく。
「ピアノが弾ける坊ちゃん先生に」
──バリッ。
「痛えな! 何しやがる!」
カゲが、顔を押さえて怒号を上げる。ヒカリが、カゲの顔に爪を立てたのだ。
「ヘンなこと言わないでよ!」
ヒカリは憤慨して踵を返す。
「橋倉ぁー」
ヒカリは、部屋を出ると執事を呼んだ。ほどなくして、祖父と万能執事が満面の笑みで駆けてくる。令嬢が部屋から出てきてくれたのが嬉しいのだ。
「宿題やってー。今日数学なの」
「かしこまりました。私がいたしましょう」
「ヒカリ。獅子屋の羊羹があるぞ」
「やったー!」
カゲを引っ掻いて、ヒカリはすっかり己を取り戻した。
どうして忘れてたんだろう。
(私、どうして先生のことなんか……)
今日はまだ、奏斗様の写真集を拝んでいなかったことを思い出す。羊羹の後にしよう。ヒカリは大きく頷くと、祖父と並んで歩き始める。
バルコニーに残ったカゲは、一人不貞腐れて大きな庭を見下ろしていた。